映画と夜と音楽と…[417]「ほっこまい」だったと思う若い日々/十河 進

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●「ほっこまい 高松純情シネマ」という映画のポスター

4月9日のことだった。昼食に入った店に「ほっこまい 高松純情シネマ」という映画のポスターが貼ってあった。えっ、と僕はそのポスターを注視した。数人の若い男女が三脚に据えたムービーキャメラの周りでにこやかに笑いあっている。彼らは橋の欄干にもたれていて、遠くに城の石垣らしきものが見える。橋の下を流れる水は背景の海につながっているようだ。

──こりゃあ、玉藻城じゃないか?

玉藻城は海城である。石垣を囲む堀には海水を導いていた。今は石垣と海の間には広い道路があり、船着き場ができているが、350年ほど前、水戸黄門が讃岐にやってきた時には海からそのまま城につながっていたのではないだろうか。徳川幕府になって讃岐は松平家の支配するところとなり、水戸黄門の息子が藩主の養子でやってきた。

昔、東映で月形龍之介が演じた水戸黄門は、中村錦之介と東千代之介が演じた助さん格さんを従えて讃岐藩のお家騒動を解決した。あれは「水戸黄門 天下の副将軍」(1959年)だったかな。月形龍之介の「水戸黄門」シリーズはいろいろあって、どれがどれかは区別がつかない。毎回、偽の水戸黄門(進藤英太郎などが演じた)が出てくるエピソードがあったような気がする。



さて、ポスターをじっくり検証した僕は、その場所が城内中学側から玉藻城に渡る堀にかかる橋だと推察した。昔、何度も渡ったことがある。玉藻城は入場料をとられるけれど、中学生や高校生のデートスポットでもあったのだ。高松のもうひとつのデートスポットは栗林公園だった。別に高松の若者が公園好きというわけではなく、昔は他にいくところがなかったのである。

しかし、「ほっこまい 高松純情シネマ」という映画はまったく知らなかった。監督も出演者たちも知らない名前ばかりだ。唯一知っていたのは高畑淳子。NHK大河ドラマ「篤姫」の姑である。彼女は友情出演となっていた。原作は高松のFM放送で映画番組のパーソナリティをしている人の回顧エッセイらしい。1970年頃に高松高校にいた映画好き高校生を主人公にした青春映画とうたっている。

ちなみに「ほっこまい」とは「バカ」のことである。通常「ほっこ」と略す。「この、ほっこ!」と罵倒するのだ。強調するときは「くそ」をつける。その場合は「ほっこ」は「ぼっこ」と濁音に変化し、相手を憤怒の形相で睨み付けながら「くそぼっこ!」と怒鳴ると、間違いなくケンカになる。もっとも、40年前の話だ。今はわからない。

その夜、自宅に帰ってネットの検索サイトで「ほっこまい 高松純情シネマ」と打ち込むと、いろいろヒットした。何と3月26日から新宿文化ビルの上にある小さな映画館で上映されていたのだ。しかし、4月3日で終わっていた。一週間前のことだった。「残念」と僕はほぞをかんだ(こんな言い回しは初めて使うけど)。

ネットで調べてみると、「さぬき映画祭2007優秀企画」になり、翌年に制作された映画であることがわかった。上映時間は60分。原作を書いた帰来雅基という人は高松在住の勤め人だが大変な映画好きで、そこを買われてFM番組のパーソナリティになり、自身の映画少年時代の話をエッセイにして出版したという。

それを映画化した高嶋弘という人は原作者の高校時代の同級生で、フリーの映像ディレクターだという。高畑淳子が出ているのは、彼女も同級生だからであるとか。そうすると、その3人は後輩か? と僕は思った。高松高校いわゆる高高を僕は1970年3月に卒業した。彼らは、その年の4月に入学してきたらしいのである。

ネット検索の繋がりで「高畑淳子」が出てきたのでクリックしたら、現れたのは何と高高の東京の同窓会サイトだった。同窓会の名前は「東京玉翠会」という。その中の「高高卒業生を応援するサイト」に高畑淳子のページがあった。さらにウィキペディアに飛ぶと、篤姫の姑は僕の中学の後輩でもあるらしい。やれやれ、という気分になった。

●同窓会には一度も出たことのない僕だったが

同窓会と名がつくものには一度も出たことのない僕だが、さすがに懐かしくなってサイトの中をいろいろと見てまわった。「高高卒業生を応援するサイト」には、俳優や作家、音楽家、画家など有名になった人たちが載っていた。電通にいたアートディレクターの鈴木八朗さんが先輩なのだと初めて知った。昔、編集者時代には何度かお会いした。今は芸大の特別講師をしているという。

それぞれに卒業年度が書かれている。僕の卒業年度の人はひとりもいない。2年後の世代にジャズベーシスト藤原清登がいた。僕は10年前、この人と鈴木良雄のデュオアルバム「ベース&ベース」というCDを買ってよく聴いていたのだが、あるとき、高校時代の友人に会ったら「あれ、軽音にいた藤原だよ」と言われ驚いたことがある。

なぜ音楽的センスがまったくない(はっきり言うと音痴の)僕が軽音楽同好会にいたかという顛末については以前に書いたことがあるが、そう言えば僕らが3年生の時に入ってきた1年生たちは音楽的才能にあふれていて、僕などあんぐりと口を開けて彼らの演奏を聴いていた記憶がある。やはりプロになる人は違う。栴檀は双葉より何とか…である。

1年先輩に「テレビディレクター・安藤隆章(安藤カーキー)」の名があった。「今村昌平の映画学校に学び、現在はフリーのディレクターとして、『農業』『アジア』『元気』をテーマに幅広い映像活動を展開。監督作は、『にっぽんの夫婦』『農家の嫁と呼ばないで』『月曜女のサスペンス』『天竜川殺人事件』など多数。著書に『楊貴妃に恋した男たち』がある」と紹介されていた。

「そうだ、安藤さんだった…」と僕は奇妙な暗合に驚いた。「ほっこまい 高松純情シネマ」の監督の経歴が「早大法学部を出て日本映画学校(横浜放送映画専門学校)を卒業し、現在はフリー演出家」と紹介されているのを見ながら、「あの人も映像業界で仕事しているかな」と久しぶりに僕はその人のことを思い出していた。だが、名前がどうしても出てこなかったのだ。

最後に安藤さんの名前を聞いたのは、15年前のことである。友人の加藤孝カメラマンの写真展をプロデュースし、連夜、加藤クンの写真展を訪れる彼の友人たちと呑んでいたのだが、その中に横浜の映画学校を出て演出の仕事をしている人がいた。僕が「安藤さん、ご存知ですか?」と聞くと、「安藤? 元気でいろいろやってますよ」と相手は答えた。

そのときにも、「安藤さん、よかったですね」と心の中で言葉にし、その後また「あのときは、すいませんでした」と秘かに詫びた。僕は大学を出て出版社に入り編集者を足かけ30年やってきたのだが、校正ミスの怖ろしさを常に感じてきた。それは、僕が初めて編集責任者をつとめた出版物で、とんでもない校正ミスを犯したからだった。

●手探りで背表紙が数センチもある文集を完成させた

高校2年の晩秋、僕は友人のIに誘われて広報担当として生徒会のスタッフに加わった。Iが生徒会長に立候補して当選したからである。僕は新聞部が出す高高新聞とは別に生徒会が発行するガリ版刷りの広報紙を創刊した。それを頻繁に出していたのだが、3学期になって「玉翠」という分厚い卒業記念誌を担当することになった。

「玉翠」は伝統のある卒業文集で、立派な活版印刷である。僕は「男はつらいよ」に出てくるタコ社長の会社のような印刷所に出向き、タコ社長のようなオヤジさんと進行の打ち合わせをした。小さな町の印刷所だったが、ひっきりなしに印刷機が動きカシャカシャと印刷物を吐き出していた。「玉翠」はスタートが遅れたので、原稿集めから入稿、校正、印刷を2ヶ月足らずでやらなければならなくなった。

僕は過去の「玉翠」を調べた。すると、昔の「玉翠」には「十国修」という詩人が巻頭詩を載せていた。それが、なぜかここ数年のものからは消えている。「十国修」が思潮社の「現代詩年鑑」の詩人リストにも名が掲載されている詩人で、漢文のY先生の筆名なのだと教えてくれたのは、物知りの元新聞部のTだったと思う。

僕は、Y先生を廊下で呼び止め、原稿依頼をした。「いつまでですか?」とY先生は静かに問う。「来週末では、いかがでしょうか」と僕が言うと、感情的にならないことで有名なY先生が「それは無理です!」と即座に口にした。その瞬間、詩はそんなに簡単に書けないのですよ、と諭された気がした。自分が甘かったことを実感し、恥じ入った。

その10日ほど後のこと。生徒会室の入り口にひとりの3年生が立ち、「玉翠」担当者に面会を乞うた。僕が応対すると、彼は分厚い原稿用紙の束を差し出し「これを掲載してほしい」と言う。「玉翠」の原稿の採用基準は特になかったし、教師の検閲も入らない。基本的には編集責任者の僕にすべての決定権があった。僕は、その原稿を受け取った。その3年生が帰った後、生徒会室にいたMさんが「剣道部の安藤さんよ」と言った。

初めての活版印刷、初めての数百ページに及ぶ文集。僕は、その2ヶ月足らずを夢中で過ごした。だが、時間に追われた。夜遅くまで印刷会社で校正し、自転車を飛ばして帰宅した。手伝ってくれたのはMさんだけだった。しかし、彼女も特に原稿整理や印刷や校正に詳しいわけではない。それでも、僕らは何とか手探りで背表紙が数センチもある文集を完成させたのだった。

「玉翠」が全校生徒に配られたのか、卒業生だけに配布されたのかは記憶にない。配布された後に読み直していて、僕は真っ青になった。安藤さんの原稿はページ数にして2、30ページあったと思う。ドストエフスキーの「地下生活者の手記」のような独白体だった。観念的で、物語の流れのようなものはない。哲学的考察に近かったかもしれない。

その安藤さんの原稿が、どう読んでもつながらないのだ。2章と3章が入れ違っていることに僕は気付いた。章で分けられていた原稿を逆に入稿してしまったのかもしれない。それを校正で気付かなかったのだ。僕は安藤さんが怒鳴り込んでくることを覚悟した。しかし、安藤さんは現れなかった。

安藤さんと再会したのは、それから10年も経った頃だ。僕は、もう会社員になっていた。高校の後輩で大学で同級になったTと一緒に池袋の文芸坐でオールナイト上映を見て出た早朝、Tが後から出てきた長髪の人に「安藤さんじゃないですか」と声をかけた。Tは高校時代に剣道部にいた。Tが1年のときに3年生の怖い部長が安藤さんだったのだ。

僕はすぐに「安藤隆章」という「玉翠」のページに載った字面を甦らせた。しかし、安藤さんは僕のことなど憶えてはいなかった。Tが「ソゴーですよ。高高で僕の1年上、安藤さんの1年下でした」と紹介してくれた後、僕は「すいません。『玉翠』の編集責任者だったソゴーです」と告白した。自首をしたような気分だった。

「ああ、あのときの…」と安藤さんはうなずいた。その後「原稿、入れ違ってたぜ」と続けた。やっぱり、安藤さんは憶えていたのだ、そりゃあ、そうだろう、彼にとって、おそらく最初に活字になった原稿だ、忘れるわけがない、と僕は思った。その早朝、僕はただただ恐縮するだけだった。時効になりそうだったのに、突然、逮捕された気分になった。

そのとき、安藤さんが今村昌平監督が横浜に作った映画学校にいっていることを聞いた。そこは、僕にとっても憧れの学校だった。そこにいけば、好きな映画の世界に近づけるような気がした。だが、1975年、開校の年に僕は大学を出て社会人になった。もう手遅れだと思った。僕には守るべき人がいたし、自分の夢は諦めなければならないのだと言い聞かせた。

あの日、今村昌平校長が企画し、浦山桐郎講師が監督するテレビシリーズ「飢餓海峡」をスタッフとして手伝うのだと、安藤さんが語った記憶が僕にはある。そうすると、1977年か78年頃のことだ。僕より1歳上の20代半ばを過ぎた安藤さんが夢を棄てず、映像を作る仕事に携わっている歓びを楽しそうにTに話している姿が僕の胸を刺した。

結局、安藤さんの生き方が僕には羨ましかったのだ。僕は「小型映画」という月刊誌の別冊編集部にいて、たまに取材で会える映画監督や撮影監督に胸を躍らせる程度で、「映画」という自分の夢の周辺にいる気になっていた。中途半端に映像の世界と縁がある仕事をしていることで、満足している自分が情けなくなった。「自己欺瞞」という言葉が浮かんだ。

だから、僕は安藤さんがいずれ映画監督として素敵な映画を作ってくれることを願った。そのことを僕は安藤さんに伝えたかったが、あの早朝の池袋で僕は何も話せず、10年も前の校正ミスを詫びるだけで別れてしまった。しかし、安藤さんの記憶は、30年以上経っても僕の中から消えてはいなかったのだ。その安藤さんが志を貫いていることが僕には嬉しかった。

しかし、30年前とは違って今の僕には安藤さんに対する羨望はない。30年という信じられないほどの長い時間が過ぎていったのだ。その間に僕は後悔もしたし、慚愧の念に責められたこともある。自信をなくして自暴自棄になったこともあるし、死んじまおうかと口にしたこともある。しかし、僕も己の人生を生き抜いてきたのだ。

若い頃の夢とは縁のない人生だったかもしれない。意に染まない生き方だったかもしれない。しかし、とにかく僕は生きてきた。生き抜いてきた。カミサンと子供をふたり抱えて生きてきたのだ。それって、けっこう大変なことじゃないか? 今となっては、そんな自分を肯定してやる以外に、どんなことができる? そうは思わないか。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
さよなら、愛しい人村上春樹さんのチャンドラーの新訳「さよなら、愛しい人」を買いました。今までずっと「さらば愛しき人よ」というタイトルできたので、何だか調子が狂います。「フェアウェル・マイ・ラブリィ」と原語の発音で言うことが多かったから、そのまま通せばいいのだけど…。しかし、「大鹿マロイ」はどう訳しているのかな。「ムース・マロイ」かも。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html >
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm >
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html >

映画がなければ生きていけない 1999‐2002