武&山根の展覧会レビュー シラフで再考「ベーシックインカム」/武 盾一郎

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前回、「ベーシック・インカム」について、酔っぱらいながらチャット対談をしましたが、
< http://bn.dgcr.com/archives/20090520140300.html >
酔狂な夢物語りではなく、ちょっとシラフで再考してみます。とはいうものの、僕は学者でも政治家でもなく、ただ絵を描いている人間なので、なるべく直感的(笑)に書いてみようと思います。

●江戸時代はベーシックインカムだった?

僕の江戸時代の情報源は、ほとんどが5代目古今亭志ん生の古典落語からです。落語の舞台は貧乏長屋だったりします。例えば18年家賃(たなちん)を払ってなかったりします、一度も払ってない人もいます(笑)。3年仕事してないという話もあります。古典落語の多くは、一文なしが繰り広げる話ですよね。そんな人たちがいきいきと暮らしてる。

江戸って、貧乏でも死なないライフラインが整備されていた、かなり完成度の高い都市だったんじゃないかと想像してしまうんですね。水は井戸があるので水道代はない、ガス代電気代はない、長屋に暮らす人たちの糞尿が「肥やし」として大家さんの財になったので、家賃払わなくても追い出されなかったようだし、餓死したという話は出てこないところをみると、食べ物は何らかの形でシェアしていたか、自生の植物、小動物、魚などを食えただろうし、衣服はどこにでも生えている麻(葦)があったかも知れない。

つまり、ベーシックインカムが金ではない形で保障されていたということです。江戸時代って、お金(おあし)は生命と直結していないんです。いや、ひょっとしたら昭和30年代くらいまでそうだったのかもしれませんね。「かつては金と生命が切り離されていた」のです。

いま、生命に直結するものも「金」で買うしかないんです。「水」「電気」「ガス」「食べ物」「暮らす場所」、そのうち「空気」も追加されるんじゃなかろうか。こうなると、生命の保障は金でするしかなくなります。ここにベーシックインカム導入の、第一基礎があるような気がするんです。



●働くとはどういうことか

「働かざるもの食うべからず」という言葉があります。レーニンが言ったとか、元を辿ると新約聖書だとかいわれてるようです。そこで「働か(働け)ない者だって食ってもいいじゃん」というアプローチではなく、働く、仕事をする、労働する、とはどういうことなのかを考えてみます。

まず「働く=賃労働」と思い込んでいないでしょうか? 人間には賃金になっていない素晴らしい営み、働き、仕事、労働が沢山あるんです。これは前回のチャットでもちょっと触れましたが、家事、育児、芸術の一部、そしてデジクリ(笑)もそうです。

去年、渋谷の246高架下に通称「コック長」と呼ばれるホームレスのオジサンが暮らしていました。「コック長」は毎日何時間も都内を歩き回って、服や靴をいくつも拾ってきては、近所のホームレスの人たちに配るんですね。コック長曰く「ああ、この靴はAさんに似合うなあ、このトレーナーはBさんにピッタリだと思ってね」みたいに、一人一人に合う物を考えて持ってくると話してくれました。そして食材を集めてこれたら、「コック長」は料理を作るんです。作った料理は近所のロケット(段ボールハウスのこと。原宿渋谷界隈ではこう呼ぶらしい)に暮らす人たちとシェアします。

さて、このホームレスのオジサン「コック長」は「働かざるもの」でしょうか?服や食べ物をもらう人は「働かざるもの」でしょうか、「働かざるもの」なら食べ物をシェアしないで、コック長だけが食べるべきなのでしょうか? コック長はきっと、服を着る人がいる、食べてくれる人がいる、という事柄があるから自ら物を集めたり料理をしたりするんじゃないかなあと思ったんです。「コック長」のこの営みに「働くこと」の根源があるような気がしました。

つまりですね、「誰もがみな働いている」ということになるんです。働いてないように見えても、意味不明な働きだとしても、なんらかしら相互関係があって、これらはみな働いているんだ、と。この考えは、恐らく手塚治虫『火の鳥』のような「生きとし生けるもの全ての命は同じ」的な世界観を基にしてると思うんです。非一神教的というか、アニミズム的というか。

「近所に暮らす人たちに服や食べ物を配るコック長」も「ふたりの赤ん坊の育児に追われる専業主婦の妹」も「売り上げのない絵を描いてロハでデジクリ原稿を書く武盾一郎」も「12年の歴史あるデジクリの編集長をなさっている柴田さん」も「無職」とカテゴライズされてしまいそうですが、果たして本当に働いてないのでしょうか? また、フリーのデザイナやライターさんなどは、どこまでが仕事の領域でどこまでが非労働の領域なのでしょうか? 一個人の領域でも、社会の領域でも、「労働」と「非労働」が曖昧になってきているんじゃあないでしょうか。

無駄なことに税金が使われて、それで賃金を得ている人は働いてることになり、一銭にもならない尊い活動をしてる人が働いてないことになる、という「働くことについて」の矛盾がどんどん表面化してます。ここに、ベーシックインカムが現実味を帯びる理由がありそうだと思うんです。

●ベーシックインカム反対の理由を考えてみる

ベーシックインカムとやらを聞いたときに、眉をひそめてしまう反応ってあると思うんです。ベーシックインカム反対の理由を想像すると、「ベーシックインカムになったら、怠けモンが増長するに決まってるんじゃ、ムカつくんじゃ!苦労してこの地位を獲得した俺様の努力は何だったんじゃ!」なんだと思うんです。

なんやかんや、論理的整合性を持たせた反対意見を述べたとしても、性根そうだと思うんです。つまり、「努力人」ほどベーシックインカムを毛嫌いしちゃうってことなんです。では「努力人」とはどんな人なんでしょうか。
[1]「努力する才能」がある人
[2]努力が報われた人
だと思うのです。では順を追って考えてみましょう。

[1]「努力する才能」がある人について

ではその逆の「努力する才能のない人」はどんな人でしょう。このタイプは二通りいます。努力を努力と思わない人と、怠け者です。どちらもベーシックインカムを歓迎すると思うんです。まあ、前者は天才ですね。天才なんて人類のイレギュラーなので、ここでは触れずにいきます(笑)。

「怠け者」はベーシックインカム大歓迎だと思うんですね。これに異論はないと思うんです。怠け者こそ、ベーシックインカム実現化の最大の理解者になることでしょう。が、いかんせん怠け者なんでそういう運動に手を貸すこともないでしょう。

それから「怠け者」って実はものすごく少数なんですね。人間「何か」をしてないと生きていけないのです。七日に一回日曜日がありますが、もし「毎日が日曜日」になったらどうでしょう? かえっていきいきと時間を使えなくなり、精気を失ってしまうのが大多数の人間だと思うんです。退職後に必死に趣味を探して廻る、おとーさんおかーさんたちを見てごらんなさい、金なんか貰わなくても、むしろ金払ってでもやる事を探す。「やる事がない」のに耐えられないからだと思うんです。

また、怠け者の代名詞に「ニート」ってのがありそうですが、ニート連中の自責の念は想像を絶するものがあると思うんですね。「何もできない」ってのは本当に辛いんです。ニート=怠け者ではないんです。人間って適材適所が見つかれば一所懸命になるように出来てるんです。それでもなおかつ怠け者というのは一つの才能だと思うんですが、やはり少数だと思うんです。

つまり、大多数が「努力する才能」がある人だと僕は考えるワケです。この文章につき合って下さってるあなたも、「努力する才能」がある人と言うワケです。[1]に該当する多くの人は、ベーシックインカムに反対者の前提条件を備えています。そして[2]に進みます。

[2]努力が報われた人について

[2]にベーシックインカムの、ひとつのポイントがあると思うんです。ここにはワーキングプア、ニート、派遣、ロスジェネ、ハウジングプアといった膨大な貧困問題層が横たわっています。

「私の努力は報われていません」この言葉に共感する人は手を挙げて下さい、となるとほとんどの人が手をあげてしまいそうですね。実際、努力と金銭が比例した時代はもう終わったと思うんです。この打撃をモロに食らっているのが、ロスジェネと呼ばれる若者たちだという物言いがあるワケですが、ある部分僕もそう思います。若年層の人たちは「もうベーシックインカムになってもらわないと生きていけないよ」っていうトコあると思います。

一方で、権威を志向し努力しそれを獲得した人、つまり、そこそこの年齢でそこそこの地位を獲得した人たちが、ベーシックインカムを嫌うと思うんです。心情的に。苦労したオジサンオバサンたちが「ベーシックインカムになったら、若者がますます働かなくなるから国が滅びる!」と言う姿は容易に想像できます。が、その心は「ベーシックインカムなんかになったら俺が威張れない!」「立身出世の努力こそ素晴らしいというアイデンティティが崩壊する!」「稼ぎのない人間、地位のない人間を私は軽蔑し続けていたい、なぜなら私は努力をしたから」なんだと思うんです。

「努力が報われた人」は恐らく少数派です。ほとんどの人は報われない努力の中でもがき苦しんでいたり、または努力を諦めた自分を自己正当化しようと心の内で必死になって生きていたり、夢を軌道修正してなんとなく自分に納得させたフリをしていたり、しまいには「生きていれば幸福」という悟りに達した風なことを考えたりしながら生きてるんだと思うんです。

猛烈にベーシックインカムを嫌悪する類いは、「努力が報われた」エリートに多く含まれてそうだと僕は思うんです。それから「働かざるもの食うべからず」ですから、マルクス主義者もベーシックインカムに反対するでしょう。そうすると、この文章を読んで下さっているあなたは、ベーシックインカム賛成派になるでしょ(笑)。

●ベーシックインカムと芸術

ベーシックインカムでは、お金が個人に渡されるのでそれをどうするか判断するのは個人です。ですから、自分が何をするか突きつけられてしまうと思うんですね。もう有無をもいわせず「おもちゃ紙幣(日本銀行券)」が親(国)から配られて「リアル人生ゲーム」に参加させられてしまうのです。

「ベーシックインカムになったら」で最初に想像したことは、「若者の自殺が増える」でした。貧困自殺は減るでしょう。そのかわり、「自分って何だ」と真剣に思い悩む若者が増えると思うんです。青年期「自己」に悩むのはどの時代でもそうだったようです。しかし、悩むより前に金を得なければならない現実があれば『若きウェルテルの悩み』どころではなくなるでしょう。『若きウェルテルの悩み』は贅沢なのです。

ベーシックインカムになると、「金を得なければならない現実」は回避されるので、みな「ゲーテ」状態になれる機会を得ることになります(笑)。自殺するほど自己の悩みに没頭出来てしまうエネルギッシュな青年期に、そのチャンスを与えることになると思うのです。誰もが死ぬほど悩む才能があるワケではないでしょうが、「就職ライセンスのためにだけ大学に入る」バッタのような脳みその青年が多くなってしまう現在よりも、深く思考する若者が増えるとは思うんです。

これは「芸術のため」を考えると良いことだと思います。アーティストが必死になって『芸術起業論』なんて読まなくてもよくなるでしょう。「おのれとはなんなんだ?」、20代『火の鳥』に出てくる青年のような深い悩みと向き合いながら作品を作るけど、バイトしてるうちにくたびれてしまい、30歳も過ぎたのにうだつも上がらず、「結局、すべてが金なんだ!」と擦り切れながらアーティスト活動をやめてしまう人も減るでしょう(笑)。

芸術の評価も指向も変わるでしょう。現代美術も「ビクトリーを目指す帝国アート」や「地域に寄生する街中(がいちゅう)アート」や「金のためならエンヤコラワークショップ」を無理からやらなくてもよくなります。

ベーシックインカムになったら僕はどうしたいか、自分の絵画世界観をとことん追求したいし、売買出来ない人類最古の絵画形式である壁画をガッツリ描きたいし、無形性の強い消滅するストリートアートをどんどんやりたい。って考えたけど、ベーシックインカムになってなくてもやってるんだなあ。これを、「あと50年続ける」ためにベーシックインカムが実現して欲しいと思うのであります。

【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/百歳生きる】
take.junichiro@gmail.com
※今回は山根康弘がヨーロッパ旅行のため、武盾一郎ピン原稿でお送りいたしました。

▼もう5回目(のはず)好評、宮下公園のナイキ化反対デモ
日時:6月13日(土)14時〜プラカード・楽器づくり/16時〜集会/17時〜デモ出発(18時到着予定)
場所:宮下公園(中央階段上)
< http://kaigi246.exblog.jp/9840265/ >

▼ある意味での豪華イベント!「住む」を考える
日時:6月27日(土)19時〜
場所:自由と生存の家(仮)にて
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Take Junichiro Art works
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246表現者会議
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