映画と夜と音楽と…[424]夫婦はふたつの形に分類できる?
── 十河 進 ──

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●「風の歌を聴け」の「僕」はペキンパー好き

1Q84 BOOK 1村上春樹さんの新作「1Q84」を読んだ。「アフターダーク」から5年弱、「海辺のカフカ」からだと7年ぶりの新作になる。日本の作家で、そんなに悠々としたペースの書き下ろし作品だけでやっていける人は他にはいない。マーケットの広い欧米のベストセラー作家並みだ。世界中で翻訳が出ている人だから可能なのだろう。

「海辺のカフカ」は主人公の少年のいきつく先が香川県で、高松駅前で讃岐うどんを食べる場面があった。その後、海辺の図書館が舞台になるのだけれど、僕は松原で有名な津田の海岸あたりをイメージしながら読んだ。おだやかな瀬戸内の砂浜に松林が続く美しい風景を思い出した。

「1Q84」は、ジョージ・オーウェルの「1984年」からインスパイアされた部分もあるし、「エホバの証人」や「オウム真理教」など宗教の問題、ドメスティック・ヴァイオレンスもテーマとして取り込まれている。「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「アフターダーク」と、次第に色濃く村上ワールドを覆い始めている「根源的な悪」「絶対悪」の存在も顕わになってきた。

「1Q84」については、事前に内容的な情報を一切流さないことにしたそうなので僕も物語については書かないが、村上さんの個人的嗜好があまり変わっていないので何だかホッとした部分もあった。ハードボイルドミステリが好きなのはチャンドラーの翻訳で一般的に知られたけれど、スティーブン・キングなんかも愛読(かつてキング論を文芸誌に発表した)したはずだ。そんな要素もうかがえる。



ヤナーチェク:シンフォニエッタ今回、主要なモチーフとして使われている曲は「シンフォニエッタ」だった。爆発的に売れている本に比例して、レコード会社に問い合わせが増えているらしい。ヤナーチェックが作曲したクラシックである。その他に古いジャズ・レコードも登場し、かなりマニアックな描写がある。その辺は村上さんの趣味だと思う。

村上さんは早稲田の学生だった頃、演劇博物館に入り浸り、所蔵しているシナリオを片っ端から読んだという話だ。卒業論文も映画をテーマしたと聞いている。映画好きなのは本人もエッセイで書いているが、そのせいか、自作の映画化には厳しいのかもしれない。ベトナム人監督よる「ノルウェイの森」の映画化が進んでいるらしいが、非常に珍しいことだ。

「1Q84」の中には、比喩としていくつかの映画が使われている。まず、スタンリー・キューブリックの「突撃」(1957年)。第一次大戦の最前線の塹壕が舞台だが、最初の方に将軍が塹壕を視察するシーンがあり、狭い塹壕の中をカメラが移動撮影する。後の「シャイニング」(1980年)では、キューブリックはまだ珍しかったスティディカムを使った移動撮影で観客を驚かせたが、この塹壕の移動撮影も凄い。どうやって撮ったのだろう。

スティング 【プレミアム・ベスト・コレクション\1800】 [DVD]その他、「スティング」(1973年)も出てくる。村上さんはスティーブ・マックィーンが好きだったのか、「『華麗なる賭け』に出てくるフェイ・ダナウェイのような…」という文章も出てくる。「華麗なる賭け」は1968年、マックィーン全盛期の映画だ。主題歌にも言及されていて、主人公とタクシーの運転手との会話で「ミッシェル・ルグラン」の名前が出てくる。名曲「風のささやき」である。

マックィーンの映画では、もう一本「ゲッタウェイ」(1972年)が登場する。こんな具合だ。

──「ベッドのマットレスのあいだに現ナマを隠しておいて、やばくなるとそれをひっつかんで窓から逃げる」
「そう、それそれ」とあゆみは言って、指をぱちんと鳴らした。「なんだかススティーブ・マックイーンの『ゲッタウェイ』みたい。札束とショットガン。そういうのって好きだな」

村上さんはデビュー作「風の歌を聴け」で、サム・ペキンパーについて記述している。「僕と妻はサム・ペキンパーの映画が来るたびに映画館へ行き、帰りには日比谷公園でビールを二本ずつ飲み、鳩にポップコーンをまいてやる」のである。おそらく、村上さん自身がサム・ペキンパーの映画が好きなのだろうと、昔から僕は思っている。

●「ゲッタウェイ」は1973年3月に公開された

ゲッタウェイ [Blu-ray]サム・ペキンパーの「ゲッタウェイ」…、そのタイトルを聞くと僕の心は騒ぎ出す。公開されたのは1973年の3月である。その前からスティーブ・マックィーンが派手にショットガンをぶっ放すシーンを中心にテレビスポットが流れ、様々な映画紹介番組で銃撃戦が放映されていた。ペキンパー流のハイスピード撮影。撃たれた人物はスローモーションでゆっくりと倒れていく。

風の歌を聴け [DVD]ペキンパー・ファンの僕は、「風の歌を聴け」の「僕」のように結婚前のカミサンと二人で封切りを待ちかねて見にいった。僕はまだ大学二年生で、進級試験がレポート提出だけですむのをいいことに、春休み前からアルバイトに精を出していた。カミサンは数寄屋橋にあるデパートでマネキン(出張販売員)をしていた頃である。いや、体を壊しデパート勤めを辞めた頃だった。

その頃、僕は、トラックの荷台に載せる保冷庫を作る自動車工場にアルバイトに通っていた。近くに環七と中山道が交わる交差点があり、東上線の常盤台という駅が近かった。そこで、僕は鉄骨を箱形に組み、外側に波板のジュラルミン板を張り鋲打ちをした。外側が完成すると、それをトラックの後部に載せ、空気を送るホースが付いた潜水服のようなものを着て、大きな箱の内側にウレタンを吹き付けていく。

吹き付けたウレタンが凸凹のままで垂れ下がると、箱の中はまるで鍾乳洞のようだった。次にワインダーでウレタンを削ってゆく。内側に一定の厚さでウレタンの壁ができると、その上にベニヤ板を張る。その頃になると、社員の人たちが運転席と保冷庫の間に冷凍装置を設置する。内側が完成し冷凍装置が動き出すと、保冷車の完成だった。今でも僕は、高速道路を生鮮食品を積んで走る保冷車を見ると、あの頃を思い出す。

そのアルバイトはペイもよかったけれど、何日も会社の宿泊所に泊まり込んで働くような忙しさで金だけは貯まった。学生アルバイトは数人いたが、結局、僕が最も長く働くことになった。僕をそのアルバイトに誘ったのは高校から一緒だったTなのだが、彼は僕と違って残業は断って帰ったし、僕より一学年上だったので「就職活動もあるから」と3月末で辞めてしまった。そんな頃、僕は久し振りに休みを取って「ゲッタウェイ」を見にいった。

●妻の裏切りから再生する夫婦と怨みを募らせる夫婦

ドク・マッコイは銀行強盗をして逮捕され、刑務所で単調な作業に従事している。仮釈放を申請して却下され、面会にきた妻のキャロル(アリ・マッグロー)に「実力者のベニヨン(ベン・ジョンソン)に助力を頼め」と指示をする。ベニヨンに何かを頼めば、見返りを要求されるのを覚悟した上でのことだった。

ベニヨンの力で仮釈放になったドクが迎えにきたキャロルと公園にいき、戯れるシーンが記憶に残っている。解放感と久しぶりに抱き合う妻への愛情が感じられる爽やかな映像だった。着衣のまま川に飛び込み、濡れた姿で部屋に戻り、ベッドに腰掛けたドクが「ウィスキー、ウィスキー、ウィスキー」と待ちかねたように言う。

ベニヨンがドクに依頼したのは、銀行強盗だった。その銀行の金をベニヨンは使い込んでいた。使途不明金を誤魔化し、さらに大金を得るためにドクに仲間を集めさせて銀行を襲わせる。この辺は犯罪映画の王道の面白さがある。金を奪い、自分を殺そうとした仲間のルディを撃ち殺し、ドクはベニヨンのところに分け前を持っていく。

そのとき、キャロルが銃を構えてドクの背後に立つ。勝ち誇った笑いを浮かべるベニヨン。だが、キャロルが撃ち殺したのはベニヨンだった。その瞬間までキャロルは迷っていたのかもしれない。キャロルはベニヨンに夫の仮釈放を頼みにいき、犯され、ベニヨンに夫を裏切れと命令されていたのだ。

茫然とするドク。だが、ドクは奪った金とキャロルを連れて逃亡する。ベニヨンの部下たちが二人を追う。さらに、防弾チョッキのおかげで死ななかったルディが甦り、ドクを執念で追いかける。

ドクとキャロルのゲッタウェイが始まる。しかし、ドクは妻の裏切りが許せない。妻を問い詰め、何度も頬を張る。「ベニヨンじゃなく、あなたを選んだのよ」とキャロルは言う。彼らは逃避行の途中で「別れよう」と別行動をとったりするが、結局は元の鞘に収まる。「一緒にいこう」と提案するドクに「ベニヨンとのことは二度と口にしない?」とキャロルは言う。ドクは約束する。

ショットガンが炸裂しパトカーが炎上し…といった派手なアクションシーンが続くが、「ゲッタウェイ」は強盗夫婦の再生物語が核になっているのである。裏切った妻、その妻を許せない夫。だが、ふたりでゲッタウェイ(逃亡)を続けるうちに(夫婦で力を合わせることで)関係は再生するのだ。ふたりは、再び愛し合う夫婦になる。

公開当時、スティーブ・マックイーンとアリ・マッグローは実生活でも夫婦だった。僕は、妻を問い詰めながら何度も平手で頬を打つシーンで妙なリアリティを感じたものだ。1994年にアレック・ボールドウィンとキム・ベイシンガーがリメイクしたが、彼らも実生活でカップルだった。カップルを使うのは「ゲッタウェイ」が夫婦の再生をテーマにしているからだと思う。

「ゲッタウェイ」には、もうひと組の夫婦が登場する。ドクに撃たれたルディは追跡の途中で「獣医」の看板を見付ける。獣医を銃で脅して手当をさせ、ドクに追いつくために獣医夫婦を連れて追跡を始める。頭の弱そうな獣医の妻は、ルディに色目を使う。三人でモーテルに泊まったとき、ルディは妻を抱く。妻は椅子に縛り付けられた夫に見せつけるように腰を振り、声を挙げる。

妻は夫に不満があったのかもしれない。刺激のあるセックスに飢えていたのかもしれない。面白みのないテキサスの田舎町の獣医の妻の生活に倦んでいたのかもしれない。しかし、それほどの残酷な仕打ちを夫に行えるものか? 悲しい目で夫はふたりが獣のように交わるのを見つめる。翌朝、彼はモーテルのトイレで首を吊っている。

ルディと妻は獣医の死体を捨て置いて、ドクを追う。メキシコ国境に近い安ホテルでドクに追いついたルディは、ドクとキャロルを襲う。そこへベニヨンの手下たちもやってきて、一大銃撃戦が始まる。その中を「ルディはどこ?」と叫び声をあげながら走り回る、太股を顕わにした短いスカートの獣医の妻は滑稽でしかないが、そんな女と結婚していた獣医の悲劇が記憶に残る。

黙って見つめる獣医の恨めしそうな目と、大金を抱えてメキシコへ向かうドクとキャロルの笑顔が今も僕の記憶に刻まれている。ずっとずっと後になって、世の中の夫婦は多かれ少なかれ、その二組の夫婦の形に分類できるのではないかと僕は思った。妻に裏切られながら互いに許し合い、さらに理解を深め合えた夫婦と、互いに怨みのようなものを募らせ、何かをきっかけに決定的に修復不能な関係になってしまう夫婦…

1971年、村上春樹さんは学生結婚をした。若くして結婚したことや、その頃の貧しい生活について、村上さんは昔のエッセイでよく書いていた。1973年、村上さんが結婚したのと同じ年頃になった僕がアルバイトに精を出していたのも、デパート勤めを辞めたカミサン(まだそうではなかったけれど)の生活費を稼ぐためでもあった。

彼女は東京へ出た僕の一年後に上京し服飾デザインを学んだ後、洋装店に勤めたが、その後、知り合いに紹介されて数寄屋橋のデパートの派遣販売員をやっていた。しかし、その頃は体を壊し狭く壁の薄いアパートに籠もる日々だった。そのアパートから近いバイト先に僕は勤め、4月に学校が始まっても仕事を続けた。稼いだ金で、彼女をもっといいアパートに移した。

しかし、ある時期から彼女は沈み込むようになり、その年の暮れには荷物をまとめて東京を引き上げた。僕には理由がわからなかった。その頃、彼女に何があったのか、何を思っていたのか、彼女の気持ちが想像できたのは10年近くも後になってからだ。僕は彼女の気持ちを理解しないまま、故郷に帰っていた彼女と2年後に結婚し、34年も結婚生活を続けてきたというわけだ。

「ゲッタウェイ」をふたりで見にいった頃、僕は派手な銃撃戦に心を奪われるだけだった。しかし、今、「ゲッタウェイ」を思い出すと二組の夫婦の姿を甦らせる自分に、僕自身が生きてきた長い時間を生々しく感じないではいられない。ドクを演じたスティーブ・マックイーンも遠い昔に死んでしまった。ベン・ジョンソンも今はいない。21歳だった僕も、遙かな昔に死んでしまったのだ。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
417回で書いた「ほっこまい 高松純情シネマ」DVD化記念再上映会があり、見てきました。僕のコラムを読んだどなたかが、ミクシィつながりで監督に知らせてくれたようです。監督自らメールをいただきました。上映後、いろいろと不思議な接点のある方々にお会いでき、貴重な一夜でした。ただ、土曜日の夕方の新宿には出かけるものではないと痛感。なんであんなに人が集まってくるのでしょうね。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12-23
おすすめ平均 star
star特に40歳以上の酸いも甘いも経験した映画ファンには是非!
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。

映画がなければ生きていけない 2003‐2006 重犯罪特捜班 / ザ・セブン・アップス [DVD] 仁義 [DVD] ハリーとトント [DVD] Under Orders

by G-Tools , 2009/07/03