映画と夜と音楽と…[425]ゴールはスタートでしかない
── 十河 進 ──

投稿:  著者:



●世の中でのしあがっていくために東大をめざすのか

男は貧しい家に生まれた。だが、学校では優秀な成績を通し、世の中でのしあがっていくために東大医学部をめざす。そして、彼は見事に東大医学部に合格する。だが、親からの仕送りなんてものはない。しかし、東大医学部の学生というだけで、家庭教師の口はいくらでもあった。男は、その謝礼だけで学費も生活費もまかなって東大を卒業する。

彼が家庭教師をやった生徒はみんな金持ちの子弟で、親は子供のためならいくらでも金を出した。東大合格者の親の年収は高い。それは、新聞などでも報道されているが、高収入=高学歴なのである。高収入の親は子供の教育費を惜しまず、金持ちの家に生まれた子どもたちは、生まれたときから恵まれている。貧乏人の子は、最初からハンデを負っているのである。

ある時、男は気付く。金持ちの子どもたちの家庭教師をして東大に送り込むということは、貧しい子どもたちのチャンスを潰しているのではないかと…。自分が高額な報酬を得て受験の技術を教えている金持ちの息子が東大に入ることによって、もっと厳しい環境で努力しながら東大をめざしている貧しい少年少女たちの夢をつぶしているのではないか。

だから、男は小汚い木造アパートの一室で仲間たちと塾を始めた。そこで彼が教えたのは、私立高校になんかとてもいけないけれど優秀な少年であり、貧しい家に育った少女だった。男は社会に対して異議申し立てをしたかったのだ。金持ちで恵まれた環境に育った子どもたちばかりが、東大という日本のエスタブリッシュメントの予備軍に入り、やがて日本のエリートとして育っていくことを…。



塾を始めて二年。男の塾から四人の子どもたちが東大に合格する。マスコミがそれをとりあげ、男は注目される。大手の進学塾が男をスカウトにくる。男は天狗になり、その後の十年間を「受験の神様」と呼ばれながら生きてきた。その十年で「宇宙旅行ができるくらい金を稼いだ」のだ。年収の多さが彼の生きてきた証しだった。

だが、男は治療不能のガンにかかった。「いくら金がかかってもいい。直してくれ」と、彼は東大医学部の優秀だった同級生のガン専門医師の前に札束を積み上げる。だが、肺に転移しているガンは「一年半後には死ぬ」ことが確実だった。医者は「安らかに死ぬ準備を…」と緩和ケアをすすめる。

東大合格率九割を誇る進学塾は高い授業料を取るにもかかわらず、入学者は増え続けている。男は、そんな塾の在り方に今さらながら違和感を感じ、かつて志を抱いてスタートした木造アパートの部屋を訪れる。彼は初心を甦らせたのだ。彼は感傷に浸る。高級車の中には一千万円の札束が手提げ袋に無造作に入っている。だが、自分の命は一年半で終わってしまう。俺の人生は何だったんだ、と彼は思った。

木造アパートを出て高級車を運転しているとき、突然、少女が車の前に飛び出してくる。慌ててブレーキを踏むが車は少女と接触し、少女が倒れる。男は飛び出し少女を抱き上げる。それは、数日前、彼がコンビニで一万円札をレジに投げ「釣りはいらん」と言ったのに、車まで釣りを持って追いかけてきたうえ「小父さんの方が貧しいよ。あんなお札の投げ方して、いつか罰が当たるよ」と言った少女だった。

少女に何があったのか? 立ち上がった少女は「あたし、当たり屋なの。お金ちょうだい」と言う。男は紙袋に入れていた札束を与える。「ホントに持ってるんだね」と少女は言い、涙を流す。その涙を見た男は、少女の悲しみに共触れしたに違いない。

●夢の実現に向かって走る若者と自分の人生に賭ける中年男

受験のシンデレラ デラックス版 [DVD]「受験のシンデレラ」(2007年)という映画を見て、僕は豊原功補という俳優に改めて好感を持った。元々、好きな役者だったけれど、こんなにうまい人だとは思わなかった。ぶっきらぼうだが優しい男…。つまり、ハードボイルドな役である。「受験の神様」と呼ばれ、年収1億を稼ぐ男だ。人を人とも思っていなかった。しかし、自分の死を宣告され、彼は本来持っていた優しさを甦らせる。

彼が進学塾を始めたのは、金持ちの恵まれた子弟ばかりが東大に合格することへの異議申し立てだった。自分のように貧しい人間でも東大に入れることを証明したかったのだ。彼は損得抜きで子どもたちを鍛え、東大に合格させる。だが、いつの間にか初心を忘れ、金儲けだけを考えるようになってしまった。今、余命を認識したとき、彼は最後にもう一度、初心に戻ろうとした。彼は貧しい少女に言う。

──おまえはせっかく消費税で一円浮かせる計数感覚をもってるのに、よりよく生きる方法を知らない。人生は変えられるんだ。おまえにその方法を教えてやる。東大、いかないか。東京大学だ。当たり屋やってるよりましだと思うぜ。もう一度言ってやる。人生は変えられる。途は自分で拓いていけるんだ。気付くのに遅すぎるってことはない。

少女は、流行らない洋品店を開いてはいるが遊び歩いてばかりいる母親と暮らしている。妻に愛想を尽かし二年前に家を出た父親には、新しい若い妊娠した妻がいる。少女はどこにも救いを求められない。高校は一ヶ月だけ通って中退した。しかし、コンビニで買い物して一円足りなかったとき、一品ずつ支払いをして消費税を一円少なくするような知恵は持っている。

少女は「十万円貯まったら結婚してやる」と言ったボーイフレンドの言葉を信じ、町工場で働いて金を貯めている。十万円貯まったとき、そのボーイフレンドに会いにいくが「おまえが貧乏だから貯まらないと思って言ったんだ。だいたい、そんなダサイ恰好の女、連れて歩けるかよ」と言われ、深く傷つく。だから、男の申し出に応える。彼女は、何かを為さない限り自分の人生を立て直せない。

ふたりの挑戦が始まる。まるで丹下段平と矢吹丈みたいだ。いや、パート・ヤングが演じたトレーナーとロッキーのようでもある。赤ひげと保本登とも言えるだろう。導く者と導かれ努力する者。夢を与えられ、その実現に向かって一心に走り続ける若者。その若者に自分の人生の何かを賭ける中年男。互いに補完し合う関係が成立する。

僕は、何かに向かって努力する人間、夢を諦めない人間、走り続ける人間が好きだ。ストレートに好きだ。理屈抜きに好きだ。もちろん困難はある。辞めたくなるときもある。こんなこといくらやっても無駄だ、と思うこともある。おまけに、少女には「あんたには無理よ。東大は金持ちじゃなきゃ合格しないのよ」と、悪魔のように耳元で囁き続ける母親がいる。そんな中でモチベーションを維持し続けることの困難さが、僕に涙させる。

●「受験の神様」は東大そのものに価値を見出していない

少女の学力は小学生並みだった。数学ではなく、小学四年生並みの算数のレベルである。分数計算さえできない。しかし、知識はないが、クレバーだ。理解力は持っている。男は苛立つこともなく、図解して分数計算を教える。そのわかりやすさ。最近では大学生でさえ分数計算ができないという。この映画を見ろ、と僕は思った。

監督は受験指導のエキスパートとしても有名らしい精神科医の和田秀樹という人である。まさか、そんな人が監督しているとは知らずに見たが、デビュー作とは思えないほどの出来だった。よほど映画が好きなのではないか。受験に対してのテクニックや考え方はまさにプロで、そのくせ現在の受験体制について批判的な視点をなくしていない。

そう言えば、僕が大学受験をする頃には「受験地獄」という言葉が生まれていた。人数の多い団塊世代が高校生の頃に高石友也の「受験生ブルース」がヒットし、受験勉強のきびしさが喧伝された。その頃にマスコミが使い始めた言葉だ。まだ学歴社会が信じられていた。その世界では将来の安定を求めると、いい大学に入らなければならなかったのだ。

だが、今、「いい大学、いい会社」というラインが成立するのだろうか。そんなものが幻想だったことは、とっくに知れ渡っている。しかし、未だに東大の文I(法学部)を出て国家公務員(キャリア官僚)になるルートはしっかりと残っている。最近流行の警察小説を読むと、組織内の敵役としてそんな連中がいっぱい出てくる。

そうでなくても、弁護士、医者といった社会的エリートは、東大出身者が多いのは事実らしい。しかし、僕の少ない経験の中での判断だが、裁判官、弁護士、官僚、政治家、医学部の教授など、どの人もまるで世間知らずのワガママな子供のようだった。少なくとも、この人は人間的に尊敬できるという人には会えなかった。

ある全国紙の新聞記者は、僕と話をしている間中ベルトのバックルをしきりに触った。僕は何もわからなかったのだが、一緒にいた人に後で「あのバックル、気付いて欲しかったんですよ。イチョウのバックルだったでしょ。東大卒業を見せびらかしていたんです」と言われた。そんなことはまったく知らなかったが、イギリスでは出身大学をあらわすレジメンタルタイがある。それと同じようなものか。

豊原功補が演じた東大医学部出身の「受験の神様」は、東大そのものには何の価値も見出していないように見える。東大に入れば人生を変えられるとは思っていないのだ。それは、キッカケにしかすぎない。高校に一ヶ月しかいかずに中退した少女が東大に入ることで、何かをめざして努力することを彼は教えたかったに違いない。

だから、少女が彼の病床に報告にきたとき、彼は「合格がゴールではない。ゴールはスタートでしかない」というメッセージを彼女に遺す。東大に入れたという自信が、彼女を大きくさせる。そこから、さらに彼女は自分の人生を選択し拓いていかなればならない。東大を出たからといって、ろくでなしはろくでなしだ。嫌な奴は嫌な奴だ。成績はいいかもしれないが、バカはバカだ。

──おまえと出逢って思い出した。
  諦める人生なんて誰にもありはしないって誓ったことを…

男は、貧しい少女にそう告白する。ハードボイルドなスタイルを貫こうとしていた男のストレートな心情吐露だ。熱い、優しい心を持った男の真実の気持ちが伝わってくる。金のためではなく、自分の生きてきた証として、誰かのために懸命に生きた最期の二年間が、男にとっては死を忘れるための充実した時間になった。

転校生 さよなら あなた 特別版 [DVD]少女を演じた寺島咲がいい。今どき珍しく、純朴な貧しい少女そのままのたたずまいだった。素直で、心優しく、傷つきやすい少女…。そんなイメージを体現している。得難い若手女優だ。「理由」(2004年)や「転校生 さよならあなた」(2007年)など大林宣彦監督作品は見ているが、彼女が出ているのには気付かなかった。何だか、申し訳ない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
賞金1000万の江戸川乱歩賞の選考結果が「小説現代7月号」に載っている。僕は二度目の挑戦で、また二次選考どまりだった。21編の中に残ったと喜ぶべきか、最終選考の5編に入れなかったと嘆くべきか。大沢在昌さんは今回で選考委員を降りた。結局、二度とも読んではもらえなかったなあ。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
>
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
>
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
>

photo
映画がなければ生きていけない 1999‐2002
十河 進
水曜社 2006-12-23
おすすめ平均 star
star特に40歳以上の酸いも甘いも経験した映画ファンには是非!
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。

映画がなければ生きていけない 2003‐2006 重犯罪特捜班 / ザ・セブン・アップス [DVD] 仁義 [DVD] ハリーとトント [DVD] 狼は天使の匂い [DVD]

by G-Tools , 2009/07/10