[2693] 山城新伍のまっとうな批判精神

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《言おうとしてたことを全部先に言われちゃったよ》

■映画と夜と音楽と…[430]
 山城新伍のまっとうな批判精神
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![101]
 拡散から消滅へ? オタクのこれまでとこれから(前編)
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■映画と夜と音楽と…[430]
山城新伍のまっとうな批判精神

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20090828140200.html
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●半世紀近く前の映画的記憶が甦った

少年剣士は周囲を炎に取り囲まれ、絶体絶命の危機に陥る。彼は「白鳥玉」と呼ばれる水晶玉を懐から取り出して高く掲げ、「風の神〜」と叫んで地に倒れる。周囲に円形陣を作って炎が燃えさかる。そこに「to be continued」と出たら「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985年)だが、半世紀前の日本映画に出るはずはない。「風小僧の運命や如何に」という文字がスクリーンに躍り、「次週、当劇場にて公開」と出たと思う。

それは、僕が憶えているかなり古い映画のワンシーンだ。最初の映画的記憶とは言わないが、それに近いものだと思う。映画の公開は1960年5月だった。僕は8歳である。調べてみると17日に「風小僧 風流河童剣」が公開され、24日に「風小僧 流星剣の舞」が公開になっている。「風小僧」のテレビ版は前年に放映されていたが、映画版の公開は60年安保の反対デモが盛り上がりを見せ始めた頃だったのだ。

それにしても、僕は主人公の少年剣士が炎に取り巻かれて倒れるシーンを鮮明に憶えている。よほど主人公のことが気になり、心配だったのだろう。スクリーンに幕がかかり、場内の明かりが点いてもまだ僕は映画の中から戻れなかった。しかし、無情にも映画館は明るくなり、「おせんにキャラメル」売りのおばさんが掃除を始めた。僕はスクリーンに心を残しながら、父にロビーに連れ出された記憶がある。

あの頃、東映映画は高松市の常磐街というアーケード街の真ん中にあった常磐館(常磐座だったかもしれないけど)という映画館で見た。隣が第二常磐館といっただろうか。そちらは日活映画の封切館だった。その映画館の斜め向かいに常磐食堂というのがあり、大阪の喰いだおれ横丁の人形を模した等身大の人形が店の前に立っていて、いつも電動で太鼓を叩いていた。

映画を見終わると、その常磐食堂に寄るのが我が家のいつものコースだった。大した食堂ではない。何でも揃っている大衆食堂だ。もっとも、当時のデパートの食堂も似たようなものだったから、それなりのレストランだったのかもしれない。僕は、いつも、そこで中華そばを食べた気がする。2歳年上だった兄は、よくお子さまランチを頼んでいた。

常磐食堂を出て自宅に帰る途中、母親が瓦町という琴平電鉄の駅前に出ていた屋台で大判焼きを買った。太鼓型をした鯛焼きのようなものである。その屋台の大判焼きは、アンコがたっぷりと詰まっていたのだ。だから、子供の頃の僕の映画的記憶は、中華そばと大判焼きに彩られている。

●十三人目の刺客になった山城新伍さんだったが…

山城新伍さんが70歳で亡くなって、テレビや新聞・ネットのニュースで取り上げられていたが、どれも「『白馬童子』で人気が出た」と書いてあった。しかし、僕は「風小僧」の方が好きだった。テレビ版「風小僧」で顔を知られた山城さんは、続けて主演した「白馬童子」で全国的な人気を得た。当時、我が家にはテレビがなく、僕は「白馬童子」も映画版で見た記憶がある。

山城さんの著書「現代・河原乞食考」によると、「白馬童子」に主演している頃、実家にはテレビがなかったという。山城さんの実家は、京都の医院である。そんな家にもテレビはまだなかったのだ。貧しい時代だった。結局、「白馬童子」の提供スポンサーだったサンヨーが山城さんにテレビをプレゼントし、実家の両親も息子の晴れ姿を見ることができたのである。

さて、山城さんは子どもたちのヒーローになったが、東映では二線級のスターに甘んじなければならなかった。その頃、東映の時代劇俳優には片岡千恵蔵と市川歌右衛門という二大スターがいて、近衛十四郎や大友柳太郎という中堅がいて、中村錦之助や大川橋蔵の若手がいた。東千代之助、里見浩太郎といったところも主演作があったが、まだまだ駆け出し扱いだった。

テレビでスターになった山城さんが映画に主演できるようになったのは、映画が斜陽産業になったからである。観客を集めるためにテレビではできないことをしなければならなくなった映画界は、当然のことのようにセックスとヴァイオレンスに走った。エロ・グロ、および暴力シーンのエスカレーションが始まり、そんな映画で山城さんに主演がまわってきた。

8年前、僕は資料のつもりで東映の撮影所所長から社長、さらに会長になった岡田茂の自伝を買った。現在の東映社長は息子の岡田祐介になっているが、彼は「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1970年)の主演俳優だった。岡田茂会長の自伝は要するに功成り名遂げた年寄りの自慢話だが、巻末に東映の年表と戦後の公開作品リストが掲載されていた。

そのリストを年代順に見ていくと、時代劇から任侠映画、さらに実録路線といった映画の傾向がどの辺から変わり始めたのかがわかり、なかなか面白い。全盛期の昭和30年代は京都撮影所制作の時代劇が売り物だった東映だが、早い時期から東京の大泉撮影所では警視庁ものが作られている。後年、テレビシリーズ「特別機動捜査隊」などを作れる下地があったわけだ。

昭和30年代に人気を集めた時代劇も明朗で脳天気な作品が飽きられ始め、シリアスな集団時代劇へと変わっていく。その嚆矢ともいうべき作品は「十三人の刺客」(1963年)だと思っていたが、「十七人の忍者」(1963年)の方が5ヶ月早く公開されている。その主演は里見浩太郎。山城さんの一年先輩で、同じ大部屋で俳優のスタートを切った二枚目だ。一年先輩だが、部屋の掃除を命じられた山城さんの代わりに、よく掃除をしていたそうである。

現在、三池崇史監督がリメイク中の「十三人の刺客」を僕は黒澤明の「七人の侍」より上位(人数も6人勝っている)に置くのだが、そこまでは評価しない人も映画史に残る名作時代劇であることは認めるはずだ。その「十三人の刺客」で、庄屋の娘(藤純子)と一緒になりたいという個人的な動機から13人目の刺客になるのが山城さんだ。13人の中では比較的目立つ役だったが、それが当時の山城さんの俳優としてのポジションだった。

山城新伍という名前が一番最初にクレジットされる(主演扱いになる)のは70年代に入ってからだ。前述のようにエロを売り物にしたナンセンス映画である。「喜劇ギャンブル必勝法」(1970年)は千葉真一の「やくざ刑事」の併映だが、タイトルロールは一番目だった。当時、山城さんは梅宮辰夫アニイと組んで「不良番長」シリーズや「帝王」シリーズに毎月のように出ていた。

●映画俳優、テレビタレント、映画評論家、映画監督の顔を持つ

悲しいことに僕の少年時代のヒーローだった山城さんの主演作は「喜劇 トルコ風呂王将戦」(1971年)「喜劇 セックス攻防戦」(1972年)「ポルノギャンブル喜劇 大穴中穴へその穴」(1972年)と、書き写すのも忍びないタイトルの映画ばかりだった。日活ロマンポルノに対抗する意味もあったのか、その頃の東映作品は「徳川セックス禁止令 色情大名」(懐かしのサンドラ・ジュリアン)や「エロ将軍二十一人の愛妾」(懐かしの池玲子と杉本美樹)と露骨なタイトルである。

山城さんの逝去のニュースでよく取り上げられたのは、「仁義なき戦い」(1973年)シリーズへの出演である。しかし、映画を見た人はわかるだろうが、あのシリーズで山城さんが演じた江田省一という役は、出番はそれなりにあるものの目立つ役ではなかったし、重要な人物でもなかった。抗争を続けるやくざの幹部たちとしては、成田三樹夫や田中邦衛(卑劣で臆病な槇原!)の方がずっと重要で印象的な個性だった。

しかし、80年代になってテレビのバラエティ番組に出るようになり、山城さんは一般的な人気を再び獲得する。東映の大部屋俳優たちで作ったピラニア軍団から人気者になった川谷拓三と組んだ「どん兵衛」のCMを憶えている人も多いだろう。その頃から、山城さんは映画俳優、テレビタレント、映画評論家、そして映画監督の顔を持つようになる。初めての監督作品は「ミスターどん兵衛」(1980年)だった。

あれは、東京ディズニーランドがオープンした年のことだった。僕はカメラ雑誌の取材で映画のスチルカメラマンに一日だけ入門し、日活撮影所に赴いた。そのとき、あるスタジオの扉に「山城組『女猫』同時録音撮影中。静かに!」と張り紙がしてあった。松竹映画「愛と誠」のヒロイン募集で選ばれ、役と同じ名前を芸名にした女優の初めてのロマンポルノ作品だった。早乙女愛がロマンポルノに…。それは、まだ客を呼べるセールスポイントだったのである。

その少し前のこと、僕は山城さん本人を見かけたことがある。山城さんは、もうテレビの映画番組の前説の仕事を始めていたのだろうか。映画評論家としても確かな目を持っていることが認められ始めていた頃だと思う。僕は、銀座で行われた柳町光男監督の「さらば愛しき大地」(1982年)の試写会場で山城さんとすれ違ったのだ。

独立プロで制作した「さらば愛しき大地」は公開が決まらず、試写もどこかの映画会社の試写室を借りて一日だけの上映だったと思う。僕は柳町監督を応援するために雑誌に紹介記事を書こうと決めて、その試写に出向いた。そこの廊下で山城さんとすれ違ったのだ。そのときの印象は、映画俳優だから当たり前かもしれないが「意外に、大きな人なんだなあ」だった。

●敬愛する父と同じように糖尿病を患い肺炎で亡くなった

山城さんの唯一の著作かどうかはわからないが、僕は「現代・河原乞食考」という本を持っている。解放出版社から出ていることに山城さんの意志を感じ、根は硬派な理論家だったのだと改めて思う。「毒舌タレント」などと言われ、テレビ局から干されたこともあったが、クレバーな批評精神があったから「毒舌」と言われたのだ。「テレビタレントなんてバカだ」と思われている世界で、山城さんはまっとうなことを主張しただけだった。

その著書の中では、京都の医者の家に生まれ、赤ひげのような父親と働き者の看護婦長の母親を誇りに思いながら映画三昧で育った話、亡くなった大物俳優たちとの交友などを語っているが、この本で山城さんが声高に糾弾しているのは「差別」である。山城さんは子供の頃から周囲にいた被差別の人たちに強い共感を抱き、そのことを繰り返し語っている。

生まれた家の周辺には、在日の人も多かったという。子供の頃からそういう友だちがいた。山城さんはそんな人たちに偏見を持つ旧弊な人間たちの醜さを、声を張り上げるように強く強く書いている。各章の間には山城さんが愛してやまない映画に対しての短評が挟まれるのだが、その最後に取り上げた映画が黒人差別を扱ったハリウッド作品「招かれざる客」(1967年)であることも象徴的だ。

この本を読んで、「ああ、あの映画が僕の中にこれほど深く刻み込まれているのは、森崎東監督の弱者と同化する視点での描き方だけではなく、主演の山城新伍の思いが伝わってきたからなのか」と僕は思った。その映画のことは10年近く前のコラムでも書いたけれど、「喜劇・特出しヒモ天国」(1975年)というタイトルを持つ森崎作品である。その映画を僕は封切りで一度しか見ていないが、今も鮮明に思い出すことができる。

タイトルからわかるように、ストリップ劇場を舞台にした話だ。主人公(山城新伍)はサラリーマンだったが、ストリッパー(池玲子)に惚れてヒモになる。仲間のストリッパーたちやヒモたちもいて、楽屋は何かと騒がしい。そんなある日、楽屋に出前にきていた聾唖者の夫婦が「赤ん坊を生むのに金がいる」とストリッパーを志願する。

事情を聞いた人のよいストリッパーたちは同情し、音楽が聞こえない妻を鍛え上げ、何とか踊りに見えるように仕上げる。彼女は人気が出るのだが、ある日、故障でスピーカーから音楽が出なくなってしまう。耳の聞こえるストリッパーたちは踊りをやめるが、聾唖者のストリッパーはそのまま踊り続ける。観客たちが笑う。だが、彼女はなぜ笑われているのかわからない。さらに、懸命になって踊る。そのシーンで僕は涙をこぼした。切なさと、懸命さに泣いたのだ。

「喜劇・特出しヒモ天国」が深く僕の記憶に残ったのは、間違いなく森崎東監督が常に「底辺で生きている人間に寄せる共感」を描くからである。それは一貫した彼の姿勢だ。だから、どんな失敗作であろうと僕は見る。森崎作品の人々は優しくたくましい。底辺に生きている者同士、連帯し、助け合う。弱い人間は弱さがわかるからだ。虐げられた者、差別された者たちは、その痛みや辛さがわかるからだ。

山城さんは「現代・河原乞食考」の最後に再び父親の言葉を引用している。赤ひげのように貧しい人々を平等に診た父親は「世の中を見てみい、貧乏人と金持ち、天皇と賤民、体格、才能…。一体どこが平等やねん? そやけど人間は生まれながらにして人間なんや。ゆえに平等でなきゃならんのだ!」という言葉を息子に残し、糖尿病を患い50歳で肺炎で亡くなった。

それから50年以上経ち、父親と同じように糖尿病を患い肺炎によって山城さんは亡くなった。山城さんが繰り返し糾弾した「差別」は、今も厳然として存在する。しかし、昔に比べれば、何かが少しはマシになったのではないか。少なくとも「喜劇・特出しヒモ天国」に感動した人間はここにひとりいる。あの映画に感動する人間は、自らの差別意識を強く恥じるに違いない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
今年の春から意識的に食事を抑え、8キロほど減量した。先日は、瞬間的に10キロ減を実現したが、このところ少し戻りつつある。多少は見た目にも違いがわかるらしく「痩せましたね」と聞いてくる人もいるが、みんな聞き辛そうだ。僕の年で痩せると、病気を疑うのだ。僕が「ガンなんです」と答えると、冗談だろうと思いながらも相手は絶句する。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■Otaku ワールドへようこそ![101]
拡散から消滅へ? オタクのこれまでとこれから(前編)

GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20090828140100.html
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2005年の3月からオタク文化をテーマに隔週で書いてきて、前回が第100回だった。今回は、中間まとめ的に、ざーっと振り返った上で、オタクの将来のことなど(余計なお世話かもしれないが)考えてみたい。

ところで、いつもの例だと、夏休み後の再開第1回目は、自分がどんな夏休みを過ごしたかの報告を書いたりするわけで、今年も例によって名古屋へ行って世界コスプレサミットを見てきたし、夏コミに合わせてイタリアから来た腐女子たちと餃子を食べに行ってきたし、夏コミにも行ったのですが、そのレポートは、次回、より優先順位の高い他のネタに差し替わらなければ、ということにさせてください。

●オタク文化が2.5次元的な展開をみせた2005年前後

この連載を始めるにあたって、オタクの生態を正しく描写したコラムを世に送り出したい、という動機があった。

2005年ごろ、オタク文化は、2次元と3次元との中間に横たわる不思議な次元の隙間に発展の方向性を見出そうとしていた。漫画、アニメ、ゲームを核として、コスプレ、フィギュア、同人誌、声優コンサート、メイド喫茶、等々へと広がりをみせていたのである。

それは移行ではなく、拡張。元の2次元作品を後ろに置き去りにして、次の段階に引っ越そうというのではなく、あくまでも原作をより深く味わい、妄想を表現として昇華させ、同志と作品やキャラへの思いを共有しあう場として2.5次元の空間が広がりをみせてきたのだと思う。作品世界を受動的に享受して終わり、はい次、ではなく、そこから得た感動をエネルギー源にして、能動的に作品世界に参加していかずにはおれない、という“うずうず感”にみんなが動かされていたように思う。

原作者の作品を「作る」という行為に感動し、敬意を表して、自分たちもささやかながら何かを作らずにはいられない。けど、底流に確かにあったはずの真剣味は、おおっぴらに主張するにはなんだか子供じみていて気恥ずかしいたぐいのものであり、みずからはぐらかさずにはいられない。こんなばかばかしいことに、大の大人がこれほどまでにエネルギーを注ぎ込んじゃいましたー、という自嘲的ユーモア。脱力の情熱。案外その辺に「萌え〜♪」の根源があったんだったりして。

まあ、とにかく、面白いことになっているぞ、という印象があった。そして、それは世の中にはまだほとんど知られていなかった。日曜日の朝、大田区産業会館(PiO)の前には、コスプレイベントの開場を待つ、若い女の子の100人ほどの列ができている。イベント名が掲げられているわけではなく、たまたま通りがかった人は何の列だか知る由もないし、それほど関心があるふうでもない。

しかし、中に入れば、目のさめるような華やかな、というか、目を疑うようなシュールな光景が展開する。これを知っているのは、日本の人口1億人の中でも、ほんの数千人レベルのごくごく少数なんだ。知ったらみんな驚くだろうなぁ。……というのが書きたくなったひとつの動機。

それと、オタク文化の異様な方向への発展ぶりは、マスメディアなどで取り上げられることもなくはなかったが、なんとなく焦点がズレている感じがしていた。コミケなどは規模の大きさと雰囲気の独特さから、取材対象になることはよくあったが、どうしてもエロいところにばかり目がいっちゃうのだな。

「それから二人は末永く幸せに暮らしました」で完結した物語に対し、頼まれもしないのに、「幸せに暮らし」の内容を、暴走する妄想にまかせて微に入り細にわたり露骨に描写した二次創作同人誌なんかが大っぴらに売られている、すごい大規模なイベントなわけで、確かに、初めて足を踏み入れれば「うわっ」「ぎゃっ」「なんじゃこりゃ」という反応になるのも無理はない。しかし、その初期反応にまかせて、コミケとは「性の解放区」とか「無法地帯」みたいな捉え方で報道されると、いやいや本質はそこじゃないんだけどなぁ、という“じれじれ感”をもってしまう。

来場者は女性のほうが多いわけだし。その事実ひとつをとってみたって、コミケが露骨なエロ目的で人が集まる場ではないことぐらい、明らかなような気がするのだが。当時、どうもオタクというのは、世間の認識と実態との間に大きなズレがあったように思う。これは、オタクという呼称が、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人として1989年に逮捕された、宮崎勤のビデオ5,000本の部屋のイメージとともに世に知れ渡ったということも一因となっている。……というのも、書きたかった動機のひとつ。もっと実態をきちんと描写して伝えなくては、と。

どうもオタクというのは、精神的にちょっとおかしくなりかけた、どんな凶悪なことをしでかすか分からないアブナイ連中、すなわち犯罪者予備軍として、世の中から警戒感をもって眺められていたようなところがある。「ゲーム脳」なんて説も出て、オタクというのは、バーチャルな世界に没入するあまり、現実と仮想との区別がつかなくなっているのだ、だから残虐な行為が軽いゲーム感覚でできてしまうのだ、などということが、一部の人々の間でまことしやかに言われていた。

まあ、中には、いい歳こいた中年のおっさんが、自分の年齢と性別を忘れてセーラー服なんぞ着込んでうきゃうきゃ言っているなんて例もないわけではないので、そう見えたりすることもあるのかもしれないが、あれはネタだ、ということを心の片隅で少しは意識してやっているのであって、現実を省みぬナルシシズムに100%浸りきっているわけではない、ということを分かっていただけるとたいへんありがたい。97.4%ぐらいかな。

オタクの側からすれば、世間から宮崎勤と同類項でくくられてしまうのは、いかにも面白くない。確かに漫画やアニメやゲームは好きだけど、それがいったいどういうわけで、現実と仮想との区別がつかなくなっている精神異常者とか、犯罪者予備軍とかっていう話になっちゃうのだ。はなはだ心外である。それって、オタクの実態をちゃんと観察してみようともせず、空想の中でオタクを見下げてテキトーに作り上げた勝手なイメージを現実と混同してないか? 空想と現実の区別がついていないのは、いったいどっちだよ? ここに、一般人vs.オタクという敵対関係が生じかけていた。なんだったら、あんたらの頭の中で勝手に作り上げたイメージ通りのオタクってやつを演じきってみせてやろうか、そしたら満足するか?

しかし、まあ、この敵対を煽るのは得策ではないと、私は思った。オタクの実態を正確に描写すれば、世間からのオタクに対する誤解が解けて、オタクだって普通の人だったのだ、という安心と共感までは得られないにせよ、せいぜい「人畜無害な変人集団」ぐらいのところまではオタクの地位が向上するのではなかろうか、と期待したわけである。連載タイトルの「ようこそ!」はその辺のところを表している。敵対姿勢ではなく、融和姿勢ですよ、と。

ただ、それでもオタクの実態はこうなっていますよ、というのを世間に知らしめるコラムを書くことに対し、オタクの側から反対意見を唱えられることもあった。まあオタクの実態を描写したら、偉人の伝記みたくなるはずもなく、普通だったら子供時代が終わるあたりで興味を失いそうな対象に、全エネルギーを注ぎ込んじゃうような、傍目にはイタくてキモくてどうしようもなくなさけない姿がそこにあるわけで。そんなもんをわざわざ取り上げてレポートせんでもよろしい、と。

もっともである。もっともなんだけど、あのころすでに隠しておくのはもはや無理という空気が生じていた。マスメディアが面白がって、メイド喫茶などを取り上げるようになっていたのである。オタクの側から情報を発信しないから、一般人の側から見学に来てやったぞ、みたいにエラソーに言われるくらいなら、こっちから発信してやろうじゃないの。

後から振り返れば、連載を始めた直後に映画「電車男」が出たりして、オタクブームが起きかけていた。オタクの地位が、「犯罪者予備軍」から、「珍獣」へと、さらには「いい人」へと、飛躍的に向上しつつあった。まあ、珍獣扱いにせよ、実態をちゃんと見にきてくれるなら、こっちからも情報を発信しましょう、というわけで、これを難しい言葉で「碎啄(そったく)同時」という。

●1980年代のオタクは分かりやすかった

世間のオタクを見る目が変化してきたのと並行して、オタク自身も変化してきたように思う。1995年前後には、オタクの定義論が活発に交わされていたが、そういう議論が起きること自体、オタクという概念が統一性を失い、多様性を帯び始めていたからだ、とみることができる。その辺をみていくにあたって、少し助走をつけるため、前の時代を振り返ってみたいと思う。

中森明夫氏が「漫画ブリッコ」の連載コラム「おたくの研究」の中で「おたく」という概念を初めて提唱した1983年から、宮崎勤が逮捕される1989年までの間、「オタク」という概念は世間にこそさほど広まってはいなかったものの、身近に見てきている人にとっては「お互いをオタクと呼び合っているあの連中」としてピンとくる明快なイメージがあった。

オタクという概念を定義する際、おおまかに言って、3つの切り口からくくることができる。
(1)興味の対象
(2)身なり・立ち居振る舞い
(3)生活スタイル・性格・メンタリティ

(1)でいくなら「漫画、アニメ、ゲームの愛好家」と言えば済むので、簡単だ。ただし、それでは旅行をする人をトラベラーと呼び、ゴルフをする人をゴルファーと呼ぶのと同じで、それがどんな感じの人かをまったく描写していない。しかし、あの当時は(1)を言うだけで、(2)と(3)は自動的に伴ってくるイメージがあった。

(2)については、中森氏の「おたくの研究」の中で、コミケにやってくる連中を描写した段が分かりやすい。「髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊っちゃん刈り。イトーヨーカドーや西友でママに買ってきて貰った980円1980円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前はやったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね」。
< http://www.burikko.net/people/otaku.html
> 全文は、こちら。

一般人がオタクを見下した視点で、徹底的に馬鹿にしきった調子でステレオタイプな描写がなされているもんだから、オタクの側から見ればむかむかすること極まりない。実際、この漫画誌の想定される読者は、まさにそういうオタクな人たちなわけで、読者をそういうふうに刺激するのはさすがにまずいだろうってわけで、編集者の大塚英志氏は中森氏の連載を3回で打ち切っている。

それはそれとして、上手く書けているとも言える。くやしいけれど。もちろん、コミケにくる人たちが全員そういう体型と格好をしていたわけではないのだけれども、ニセ物スニーカーやパンパンのショルダーバッグといった具体的なものでもって、象徴的にあの連中の特徴を捉えている。あの時代を知っていれば、「そうそう」「いるいる」とピンとくるものがあるから、描写としては外していないと言えよう。

それと、今、コミケに行っても、もはやその光景は見られない。来る人のなりが、そんなに極端に異様とか無頓着というほどではなくなってきている。来場者数からして3日間で56万人にも膨れ上がっているわけで、そうそう判で押したように同じタイプの人ばかりってことにはなりえない。年齢層も体型も服装も多様化して、ひとつの特徴でくくることができなくなってきている。もはや見ることができなくなってしまった光景を、言葉でもってしっかりとピン留めして標本にしておいてくれたというのは、貴重な資料を残してくれたという意味で、ありがたい。

(3)についても同じところから引用すると「けどあのスタイルでしょ、あの喋りでしょ、あのセーカクでしょ、女なんか出来るわきゃないんだよね。そに『おたく』ってさぁ、もう決定的に男性的能力が欠如してんのよね。で、たいがいはミンキーモモとかナナコとかアニメキャラの切り抜きなんか定期入れに入れてニタニタしてるんだけど、まぁ二次元コンプレックスといおうか、実物の女とは話しも出来ないわけ」と、こんな具合。はいはい、俺だ俺だ。

まあ、世間の価値観が大きく変化した今の時代から眺め返せば「アンタのほうがそうとう古いよぉ」と言い返すことができる。いい車を乗り回して、海外旅行に行って、ひと冬に10回ぐらいスキーに行って、夏は夏で高原のペンションに泊まってテニスにゴルフに乗馬、さわやかなイメージを振りまいて女の子にモテモテ、そんなライフスタイルをトレンディだとかなんとか言い、それに乗っかれないと、まるで大人になりきれない未熟な性格のように言う。

なーに言ってんだよ、買え買え買えの商業主義に踊らされて、虚栄心にまかせてこれ見よがしに金離れのよさを見せつけてるだけの、個性も主体性も創造性も何もない薄っぺらな消費生活に耽ってるだけやんけ、そういうのは、こっちの時代の価値観ではダサいっていうんだよ、と、まあ、今なら言い返すことができる。それはともかく、一般人vs.オタクの対比が明確だよね?

時代を鳥瞰的に眺め渡したとき、それを構成するメンバーひとりひとりは、ほぼ同じ方向を向いた矢印でできている。そんな中に、ほぼアサッテの方向を向いた矢印がぽつぽついる。その異方性分子が、年に2回、真夏と真冬にぞろぞろと集まってきて、一堂に会し、異様なお祭りを繰り広げる。それがコミケ。

だからこそ、宮崎事件が起きて、何をしでかすか分からないアブナイ人がどこかに潜んでいるという不安が時代を覆うようになったとき、その不安がオタクに投影された、ってことなのだろう。

●自分自身のオタクっぷりをさらけ出す方向へ

そういう不遇の時代をかいくぐってきたオタクとして、やっぱひとつもの申したい、というわけで、この連載を始めたのが1995年の春だった。ところが、私個人のものだとばかり思っていたその動機は、実は時代の機運だったようで。

2005年3月には本田透「電波男」(三才ブックス)が出版され、4月には堀田純司「萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造」(講談社)が出版された。前者では、オタクのメンタリティが、オタク自身の内面省察と恋愛資本主義社会への批判とから、よく描写されている。自分は世間から傷つけられてきた、けど、だからといって、人を傷つけ返すようなものにはなりたくない、だから2次元の世界に旅立つのだ、3次元の女よさようなら。後者では、メイドカフェや声優イベントといった2.5次元世界に興じるオタクたちの生々しい姿がよく取材され、しかも、(居酒屋レベルの人生哲学ではなく正統派の)哲学的な視点からオタクのメンタリティに迫ろうとしている。

これを読んで、あ、言おうとしてたことを全部先に言われちゃったよ。やっぱこの連載、降りた降りた、と思いましたね。すんげー打撃を受けました。降りずに続けるとしたら、どの方向に行ったらいいかと悩み、堀田氏の後追い取材をしてもしょうがないから、オタクの世界全体を訪ねまわってレポートするという方向性はばっさりと捨てて、自分自身の生活のオタクっぷりを笑い飛ばしてさらけ出すしかないなぁ、と覚悟を決めて方向転換した、というわけである。そしたら日記とか随筆とか、そんなようなものになっちゃうけど、まぁ、いっかぁ、と。

また、等身大のオタクの姿をリアリティたっぷりに描写した作品としては、木尾士目「げんしけん」(講談社、2002年〜2006年)がある。外から観察する見下し目線でもなく、みずからを美化する虚飾指向でもない、リアルな人間たちの姿がそこに描かれてあり、上質の小説を読むような味わいがある。これもしばらく経つと、過ぎ去った時代の標本になっちゃうのかなぁ。

……といった過去を踏まえた上で、オタクワールドの現在と未来を論じよう、と思って書き始めたわけですが、この辺で力尽きました。タイトルにはとってつけたように(前編)と書き加えましたが、後編はいつになることやら。言いたかったことが誰かに先に言われちゃったら、永久にありません。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

カメコ。8月25日(火)の夜は、イタリア人の腐女子6人を引き連れて、中野にある行きつけのメイドバーへ。アニソン縛りのカラオケで、めちゃめちゃ騒がしく大盛り上がり。T.M.Revolution「INVOKE」(機動戦士ガンダムSEED OP)とか、May'n & 中島愛「ライオン」(マクロスF 2nd OP)とか、定番ながらけっこう難しい曲を、それはそれは見事な日本語で。徳山秀典「STILL TIME」(幻想魔伝最遊記 OP)は2本のマイクを4人でシェアしてすごいノリノリで大合唱。よく知ってるよなぁ。

ビアンカは夏コミに合わせて毎年来ていて、会うの何回目になるかなぁ? フランチェスカ、バーバラ、エレナは1年ぶり2度目。セレナは日本に来たのは3回目だそうだが、会うのは初めて。めっちゃかわいい大学生。シモナは日本在住で、冬コミでも会ったっけ? 日本の漫画をイタリア語に訳している。「BLEACH」、「D.Gray-man」など、337冊(約 64,000 ページ)を訳したそうだ。歴史的に見てもたぐいまれなる、日伊文化交流の陰の立役者と言ってよいのではあるまいか。日本のイメージアップにものすごく貢献していると思う。10月4日(日)には、メディア翻訳学校JVTA東京日本橋校で日本のアニメに関する講演(英語)を予定している。
< http://www.simona.com/
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< http://ameblo.jp/simona-com/image-10327521175-10239591967.html
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八裕沙さんの人形の個展、銀座「木の庄美術」にて開催中。8月30日(日)まで。すでに来場者多数、成功の模様。25日(火)には例のメイドバーの愛ちゃんが行ったそうで。愛ちゃんは髪フェチDVDに出たことがあるというくらい、髪が美しい。その髪を八裕さんが狙っている。帰った後で、80cmばかりほしいな〜、とかなんとか。いや〜、愛ちゃんの髪が植わった人形って、別の価値が生じそうな……。
< http://yahiro.genin.jp/
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またやった。今度は体操着。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Waterside090812/
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■編集後記(8/28)

・8月15日深夜、NHKが「日本怪談百物語」を3時間半にわたって放送した。当然、リアルタイムで見ていられるわけがなく、後から何回かに分けて鑑賞した(仕事しながらBGM代わり)。一龍斎貞水(講談師・人間国宝)、加賀美幸子(フリーアナウンサー)、蟹江敬三、小倉久寛、緒方恵美(声優)、国生さゆり、山崎バニラ(活動弁士)ら10人の語り手が、怪談をひとつ話し終える毎にろうそくの火をひとつずつ吹き消す。「100本のろうそくすべてが消えたとき、闇に真のもののけの姿が浮かび上がる」という。これが百物語のお約束。蟹江の「のっぺらぼう」から始まり、百番目の貞水「置行堀」まで、よく知られた古典的な怪談だけで構成されていた。「四谷怪談」「雪女」など、2人の語り手の朗読芝居みたいのもあったが、ぜんたいにかなり退屈で、3時間半ぶっ続けで見るのはつらいと思う。全然こわくなかったし。一番見たかったのは、100本消えた闇の中の怪異だったのだが、何も起らずあっさり終わる。何の説明もない。期待もたせた前口上はなんだったんだ。しかし、何も起らないのは理由がある。語られたのは百話ではないのだ。百話揃えたのならたいしたものだが、じつは何割かは手抜き。「本所七不思議」「経本百物語」「画図百鬼夜行」などのほか、日本各地に伝わる妖怪や怪異のそれぞれの一枚絵を、簡単に解説するだけで一話扱いにしていたのだ。これでは、魔界との契約を満たしていない。……そして、8月30日、正体を隠した「鵺(ぬえ)」のような妖怪政党が日本全土を席捲する。嗚呼、鵺の鳴く夜は恐ろしい……。(柴田)

・引っ越しの準備をしているのだが、なかなか時間がとれない。夏休み中にと思っていたのだが、「写真を楽しむ生活」サイトでほとんどとられてしまって放置気味。引越し先ではゆったり暮らしたいので、いま使うもの、後日探せば手に入るだろうもの、仕事に差し障るもの以外は捨ててしまいたいのだが、なかなか捨てられないのよね。ケーブル類にはSCSIのものまであって、いくらなんでも使わないだろうと捨てる。大量にあるUSBケーブルも数を減らす。外付装置を買うたびに三種ぐらいついてくるのだ。ACアダプターは、どれがどれのものやら……。今使っていないってことは、基本不要品ってことなんだけどさ。メーカー名の入っているACアダプターが嬉しい。ビデオテープ、カセットテープも大量に捨てる。タイトルを見てしまうと置いておきたくなるので、見ないようにして捨てる。服も何シーズンも着ていないものがあるのだが、気に入らない服ほど着ていないため、汚れていないしくたびれもしておらず捨てるのに罪悪感が。毎シーズン服を買うタイプではないし。そんな私がいま読んでいる本は金子由紀子さんの「持たない暮らし」。無ければ無いでどうにかなる、一年に数度しか使わない客用布団のために残りの日数を狭く暮らすことになる、無料で貰えるものより気に入ったものを買う、買うより捨てる方がエネルギーがいる、収納下手こそモノを減らす、など。モノで悩むぐらいなら少ないほうがいい、と読んでいる時は思うんだけどさ……。(hammer.mule)
<http://www.aspect.co.jp/kaneko/>
 金子由紀子さんインタビュー
<http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757213212/dgcrcom-22/>

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