Otaku ワールドへようこそ![101]拡散から消滅へ? オタクのこれまでとこれから(前編)
── GrowHair ──

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2005年の3月からオタク文化をテーマに隔週で書いてきて、前回が第100回だった。今回は、中間まとめ的に、ざーっと振り返った上で、オタクの将来のことなど(余計なお世話かもしれないが)考えてみたい。

ところで、いつもの例だと、夏休み後の再開第1回目は、自分がどんな夏休みを過ごしたかの報告を書いたりするわけで、今年も例によって名古屋へ行って世界コスプレサミットを見てきたし、夏コミに合わせてイタリアから来た腐女子たちと餃子を食べに行ってきたし、夏コミにも行ったのですが、そのレポートは、次回、より優先順位の高い他のネタに差し替わらなければ、ということにさせてください。



●オタク文化が2.5次元的な展開をみせた2005年前後

この連載を始めるにあたって、オタクの生態を正しく描写したコラムを世に送り出したい、という動機があった。

2005年ごろ、オタク文化は、2次元と3次元との中間に横たわる不思議な次元の隙間に発展の方向性を見出そうとしていた。漫画、アニメ、ゲームを核として、コスプレ、フィギュア、同人誌、声優コンサート、メイド喫茶、等々へと広がりをみせていたのである。

それは移行ではなく、拡張。元の2次元作品を後ろに置き去りにして、次の段階に引っ越そうというのではなく、あくまでも原作をより深く味わい、妄想を表現として昇華させ、同志と作品やキャラへの思いを共有しあう場として2.5次元の空間が広がりをみせてきたのだと思う。作品世界を受動的に享受して終わり、はい次、ではなく、そこから得た感動をエネルギー源にして、能動的に作品世界に参加していかずにはおれない、という“うずうず感”にみんなが動かされていたように思う。

原作者の作品を「作る」という行為に感動し、敬意を表して、自分たちもささやかながら何かを作らずにはいられない。けど、底流に確かにあったはずの真剣味は、おおっぴらに主張するにはなんだか子供じみていて気恥ずかしいたぐいのものであり、みずからはぐらかさずにはいられない。こんなばかばかしいことに、大の大人がこれほどまでにエネルギーを注ぎ込んじゃいましたー、という自嘲的ユーモア。脱力の情熱。案外その辺に「萌え〜♪」の根源があったんだったりして。

まあ、とにかく、面白いことになっているぞ、という印象があった。そして、それは世の中にはまだほとんど知られていなかった。日曜日の朝、大田区産業会館(PiO)の前には、コスプレイベントの開場を待つ、若い女の子の100人ほどの列ができている。イベント名が掲げられているわけではなく、たまたま通りがかった人は何の列だか知る由もないし、それほど関心があるふうでもない。

しかし、中に入れば、目のさめるような華やかな、というか、目を疑うようなシュールな光景が展開する。これを知っているのは、日本の人口1億人の中でも、ほんの数千人レベルのごくごく少数なんだ。知ったらみんな驚くだろうなぁ。……というのが書きたくなったひとつの動機。

それと、オタク文化の異様な方向への発展ぶりは、マスメディアなどで取り上げられることもなくはなかったが、なんとなく焦点がズレている感じがしていた。コミケなどは規模の大きさと雰囲気の独特さから、取材対象になることはよくあったが、どうしてもエロいところにばかり目がいっちゃうのだな。

「それから二人は末永く幸せに暮らしました」で完結した物語に対し、頼まれもしないのに、「幸せに暮らし」の内容を、暴走する妄想にまかせて微に入り細にわたり露骨に描写した二次創作同人誌なんかが大っぴらに売られている、すごい大規模なイベントなわけで、確かに、初めて足を踏み入れれば「うわっ」「ぎゃっ」「なんじゃこりゃ」という反応になるのも無理はない。しかし、その初期反応にまかせて、コミケとは「性の解放区」とか「無法地帯」みたいな捉え方で報道されると、いやいや本質はそこじゃないんだけどなぁ、という“じれじれ感”をもってしまう。

来場者は女性のほうが多いわけだし。その事実ひとつをとってみたって、コミケが露骨なエロ目的で人が集まる場ではないことぐらい、明らかなような気がするのだが。当時、どうもオタクというのは、世間の認識と実態との間に大きなズレがあったように思う。これは、オタクという呼称が、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人として1989年に逮捕された、宮崎勤のビデオ5,000本の部屋のイメージとともに世に知れ渡ったということも一因となっている。……というのも、書きたかった動機のひとつ。もっと実態をきちんと描写して伝えなくては、と。

どうもオタクというのは、精神的にちょっとおかしくなりかけた、どんな凶悪なことをしでかすか分からないアブナイ連中、すなわち犯罪者予備軍として、世の中から警戒感をもって眺められていたようなところがある。「ゲーム脳」なんて説も出て、オタクというのは、バーチャルな世界に没入するあまり、現実と仮想との区別がつかなくなっているのだ、だから残虐な行為が軽いゲーム感覚でできてしまうのだ、などということが、一部の人々の間でまことしやかに言われていた。

まあ、中には、いい歳こいた中年のおっさんが、自分の年齢と性別を忘れてセーラー服なんぞ着込んでうきゃうきゃ言っているなんて例もないわけではないので、そう見えたりすることもあるのかもしれないが、あれはネタだ、ということを心の片隅で少しは意識してやっているのであって、現実を省みぬナルシシズムに100%浸りきっているわけではない、ということを分かっていただけるとたいへんありがたい。97.4%ぐらいかな。

オタクの側からすれば、世間から宮崎勤と同類項でくくられてしまうのは、いかにも面白くない。確かに漫画やアニメやゲームは好きだけど、それがいったいどういうわけで、現実と仮想との区別がつかなくなっている精神異常者とか、犯罪者予備軍とかっていう話になっちゃうのだ。はなはだ心外である。それって、オタクの実態をちゃんと観察してみようともせず、空想の中でオタクを見下げてテキトーに作り上げた勝手なイメージを現実と混同してないか? 空想と現実の区別がついていないのは、いったいどっちだよ? ここに、一般人vs.オタクという敵対関係が生じかけていた。なんだったら、あんたらの頭の中で勝手に作り上げたイメージ通りのオタクってやつを演じきってみせてやろうか、そしたら満足するか?

しかし、まあ、この敵対を煽るのは得策ではないと、私は思った。オタクの実態を正確に描写すれば、世間からのオタクに対する誤解が解けて、オタクだって普通の人だったのだ、という安心と共感までは得られないにせよ、せいぜい「人畜無害な変人集団」ぐらいのところまではオタクの地位が向上するのではなかろうか、と期待したわけである。連載タイトルの「ようこそ!」はその辺のところを表している。敵対姿勢ではなく、融和姿勢ですよ、と。

ただ、それでもオタクの実態はこうなっていますよ、というのを世間に知らしめるコラムを書くことに対し、オタクの側から反対意見を唱えられることもあった。まあオタクの実態を描写したら、偉人の伝記みたくなるはずもなく、普通だったら子供時代が終わるあたりで興味を失いそうな対象に、全エネルギーを注ぎ込んじゃうような、傍目にはイタくてキモくてどうしようもなくなさけない姿がそこにあるわけで。そんなもんをわざわざ取り上げてレポートせんでもよろしい、と。

もっともである。もっともなんだけど、あのころすでに隠しておくのはもはや無理という空気が生じていた。マスメディアが面白がって、メイド喫茶などを取り上げるようになっていたのである。オタクの側から情報を発信しないから、一般人の側から見学に来てやったぞ、みたいにエラソーに言われるくらいなら、こっちから発信してやろうじゃないの。

後から振り返れば、連載を始めた直後に映画「電車男」が出たりして、オタクブームが起きかけていた。オタクの地位が、「犯罪者予備軍」から、「珍獣」へと、さらには「いい人」へと、飛躍的に向上しつつあった。まあ、珍獣扱いにせよ、実態をちゃんと見にきてくれるなら、こっちからも情報を発信しましょう、というわけで、これを難しい言葉で「碎啄(そったく)同時」という。

●1980年代のオタクは分かりやすかった

世間のオタクを見る目が変化してきたのと並行して、オタク自身も変化してきたように思う。1995年前後には、オタクの定義論が活発に交わされていたが、そういう議論が起きること自体、オタクという概念が統一性を失い、多様性を帯び始めていたからだ、とみることができる。その辺をみていくにあたって、少し助走をつけるため、前の時代を振り返ってみたいと思う。

中森明夫氏が「漫画ブリッコ」の連載コラム「おたくの研究」の中で「おたく」という概念を初めて提唱した1983年から、宮崎勤が逮捕される1989年までの間、「オタク」という概念は世間にこそさほど広まってはいなかったものの、身近に見てきている人にとっては「お互いをオタクと呼び合っているあの連中」としてピンとくる明快なイメージがあった。

オタクという概念を定義する際、おおまかに言って、3つの切り口からくくることができる。
(1)興味の対象
(2)身なり・立ち居振る舞い
(3)生活スタイル・性格・メンタリティ

(1)でいくなら「漫画、アニメ、ゲームの愛好家」と言えば済むので、簡単だ。ただし、それでは旅行をする人をトラベラーと呼び、ゴルフをする人をゴルファーと呼ぶのと同じで、それがどんな感じの人かをまったく描写していない。しかし、あの当時は(1)を言うだけで、(2)と(3)は自動的に伴ってくるイメージがあった。

(2)については、中森氏の「おたくの研究」の中で、コミケにやってくる連中を描写した段が分かりやすい。「髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊っちゃん刈り。イトーヨーカドーや西友でママに買ってきて貰った980円1980円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前はやったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね」。
< http://www.burikko.net/people/otaku.html
> 全文は、こちら。

一般人がオタクを見下した視点で、徹底的に馬鹿にしきった調子でステレオタイプな描写がなされているもんだから、オタクの側から見ればむかむかすること極まりない。実際、この漫画誌の想定される読者は、まさにそういうオタクな人たちなわけで、読者をそういうふうに刺激するのはさすがにまずいだろうってわけで、編集者の大塚英志氏は中森氏の連載を3回で打ち切っている。

それはそれとして、上手く書けているとも言える。くやしいけれど。もちろん、コミケにくる人たちが全員そういう体型と格好をしていたわけではないのだけれども、ニセ物スニーカーやパンパンのショルダーバッグといった具体的なものでもって、象徴的にあの連中の特徴を捉えている。あの時代を知っていれば、「そうそう」「いるいる」とピンとくるものがあるから、描写としては外していないと言えよう。

それと、今、コミケに行っても、もはやその光景は見られない。来る人のなりが、そんなに極端に異様とか無頓着というほどではなくなってきている。来場者数からして3日間で56万人にも膨れ上がっているわけで、そうそう判で押したように同じタイプの人ばかりってことにはなりえない。年齢層も体型も服装も多様化して、ひとつの特徴でくくることができなくなってきている。もはや見ることができなくなってしまった光景を、言葉でもってしっかりとピン留めして標本にしておいてくれたというのは、貴重な資料を残してくれたという意味で、ありがたい。

(3)についても同じところから引用すると「けどあのスタイルでしょ、あの喋りでしょ、あのセーカクでしょ、女なんか出来るわきゃないんだよね。そに『おたく』ってさぁ、もう決定的に男性的能力が欠如してんのよね。で、たいがいはミンキーモモとかナナコとかアニメキャラの切り抜きなんか定期入れに入れてニタニタしてるんだけど、まぁ二次元コンプレックスといおうか、実物の女とは話しも出来ないわけ」と、こんな具合。はいはい、俺だ俺だ。

まあ、世間の価値観が大きく変化した今の時代から眺め返せば「アンタのほうがそうとう古いよぉ」と言い返すことができる。いい車を乗り回して、海外旅行に行って、ひと冬に10回ぐらいスキーに行って、夏は夏で高原のペンションに泊まってテニスにゴルフに乗馬、さわやかなイメージを振りまいて女の子にモテモテ、そんなライフスタイルをトレンディだとかなんとか言い、それに乗っかれないと、まるで大人になりきれない未熟な性格のように言う。

なーに言ってんだよ、買え買え買えの商業主義に踊らされて、虚栄心にまかせてこれ見よがしに金離れのよさを見せつけてるだけの、個性も主体性も創造性も何もない薄っぺらな消費生活に耽ってるだけやんけ、そういうのは、こっちの時代の価値観ではダサいっていうんだよ、と、まあ、今なら言い返すことができる。それはともかく、一般人vs.オタクの対比が明確だよね?

時代を鳥瞰的に眺め渡したとき、それを構成するメンバーひとりひとりは、ほぼ同じ方向を向いた矢印でできている。そんな中に、ほぼアサッテの方向を向いた矢印がぽつぽついる。その異方性分子が、年に2回、真夏と真冬にぞろぞろと集まってきて、一堂に会し、異様なお祭りを繰り広げる。それがコミケ。

だからこそ、宮崎事件が起きて、何をしでかすか分からないアブナイ人がどこかに潜んでいるという不安が時代を覆うようになったとき、その不安がオタクに投影された、ってことなのだろう。

●自分自身のオタクっぷりをさらけ出す方向へ

そういう不遇の時代をかいくぐってきたオタクとして、やっぱひとつもの申したい、というわけで、この連載を始めたのが1995年の春だった。ところが、私個人のものだとばかり思っていたその動機は、実は時代の機運だったようで。

萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造2005年3月には本田透「電波男」(三才ブックス)が出版され、4月には堀田純司「萌え萌えジャパン 2兆円市場の萌える構造」(講談社)が出版された。前者では、オタクのメンタリティが、オタク自身の内面省察と恋愛資本主義社会への批判とから、よく描写されている。自分は世間から傷つけられてきた、けど、だからといって、人を傷つけ返すようなものにはなりたくない、だから2次元の世界に旅立つのだ、3次元の女よさようなら。後者では、メイドカフェや声優イベントといった2.5次元世界に興じるオタクたちの生々しい姿がよく取材され、しかも、(居酒屋レベルの人生哲学ではなく正統派の)哲学的な視点からオタクのメンタリティに迫ろうとしている。

これを読んで、あ、言おうとしてたことを全部先に言われちゃったよ。やっぱこの連載、降りた降りた、と思いましたね。すんげー打撃を受けました。降りずに続けるとしたら、どの方向に行ったらいいかと悩み、堀田氏の後追い取材をしてもしょうがないから、オタクの世界全体を訪ねまわってレポートするという方向性はばっさりと捨てて、自分自身の生活のオタクっぷりを笑い飛ばしてさらけ出すしかないなぁ、と覚悟を決めて方向転換した、というわけである。そしたら日記とか随筆とか、そんなようなものになっちゃうけど、まぁ、いっかぁ、と。

げんしけん (1) (アフタヌーンKC (1144))また、等身大のオタクの姿をリアリティたっぷりに描写した作品としては、木尾士目「げんしけん」(講談社、2002年〜2006年)がある。外から観察する見下し目線でもなく、みずからを美化する虚飾指向でもない、リアルな人間たちの姿がそこに描かれてあり、上質の小説を読むような味わいがある。これもしばらく経つと、過ぎ去った時代の標本になっちゃうのかなぁ。

……といった過去を踏まえた上で、オタクワールドの現在と未来を論じよう、と思って書き始めたわけですが、この辺で力尽きました。タイトルにはとってつけたように(前編)と書き加えましたが、後編はいつになることやら。言いたかったことが誰かに先に言われちゃったら、永久にありません。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

機動戦士ガンダムSEED COMPLETE BESTカメコ。8月25日(火)の夜は、イタリア人の腐女子6人を引き連れて、中野にある行きつけのメイドバーへ。アニソン縛りのカラオケで、めちゃめちゃ騒がしく大盛り上がり。T.M.Revolution「INVOKE」(機動戦士ガンダムSEED OP)とか、May'n & 中島愛「ライオン」(マクロスF 2nd OP)とか、定番ながらけっこう難しい曲を、それはそれは見事な日本語で。徳山秀典「STILL TIME」(幻想魔伝最遊記 OP)は2本のマイクを4人でシェアしてすごいノリノリで大合唱。よく知ってるよなぁ。

D.Gray-man Vol.18 (ジャンプコミックス)ビアンカは夏コミに合わせて毎年来ていて、会うの何回目になるかなぁ? フランチェスカ、バーバラ、エレナは1年ぶり2度目。セレナは日本に来たのは3回目だそうだが、会うのは初めて。めっちゃかわいい大学生。シモナは日本在住で、冬コミでも会ったっけ? 日本の漫画をイタリア語に訳している。「BLEACH」、「D.Gray-man」など、337冊(約 64,000 ページ)を訳したそうだ。歴史的に見てもたぐいまれなる、日伊文化交流の陰の立役者と言ってよいのではあるまいか。日本のイメージアップにものすごく貢献していると思う。10月4日(日)には、メディア翻訳学校JVTA東京日本橋校で日本のアニメに関する講演(英語)を予定している。
< http://www.simona.com/
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< http://ameblo.jp/simona-com/image-10327521175-10239591967.html
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八裕沙さんの人形の個展、銀座「木の庄美術」にて開催中。8月30日(日)まで。すでに来場者多数、成功の模様。25日(火)には例のメイドバーの愛ちゃんが行ったそうで。愛ちゃんは髪フェチDVDに出たことがあるというくらい、髪が美しい。その髪を八裕さんが狙っている。帰った後で、80cmばかりほしいな〜、とかなんとか。いや〜、愛ちゃんの髪が植わった人形って、別の価値が生じそうな……。
< http://yahiro.genin.jp/
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またやった。今度は体操着。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Waterside090812/
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