映画と夜と音楽と...[433]もてないおとこたちのうた ワイルドバンチ、北国の帝王、マーティ
── 十河 進 ──

投稿:  著者:



●鬼瓦のような笑顔のボーグナインが好きだった

アーネスト・ボーグナインが好きだった。40年前、僕の友人は「ボーグナインは笑った顔が怖い。まるで鬼瓦のようだ」と、ボーグナインの笑顔を愛情を込めて形容したが、もちろん友人もアーネスト・ボーグナインが大好きだったのだ。僕たちはアーネスト・ボーグナインの怖い笑顔が見たくて「ワイルドバンチ」(1969年)を何度も見にいった。

男たちが死を覚悟してマパッチ将軍率いるメキシコ軍に戦いを挑むのは、ダッチ(アーネスト・ボーグナイン)の思いを共有するからである。ダッチはマパッチ将軍の砦にメキシコ人のアンヘルと一緒に金を受け取りにいくが、アンヘルだけが捕らえられダッチは彼を見捨てて帰らざるを得ない。だから、ダッチはアンヘルを救いにいこうと仲間たちに提案するのだ。

しかし、マパッチ将軍の砦にいってもリーダーのパイク(ウィリアム・ホールデン)を始め仲間たち(ベン・ジョンソンとウォーレン・オーツ)は女を買いにいき、やる気があるのかないのかわからない。ダッチは娼婦の家の前に座って、仲間たちが出てくるのを待つだけだ。やがて、パイクが現れ「レッツ・ゴー」と言ったとき、待ってましたとばかりにダッチは口を耳まで広げるほどの笑顔で「へへっ」と笑う。

男たちはライフルを抱え、四人並んでマパッチ将軍のところへいく。そして、瀕死のアンヘルの喉を切り裂いたマパッチ将軍をパイクが即座に撃ち殺し、数百人の兵士たちと一触即発の緊張状態になったとき、ダッチは再び耳まで避けたように口を広げて歯を見せ、「へへっ」と笑う。確かに、その笑顔は鬼瓦のようだった。その顔をサム・ペキンパーはアップショットで見せてくれる。



僕がアーネスト・ボーグナインという役者の顔を明確に憶えたのは、間違いなく「ワイルドバンチ」だったが、そのとき既に彼は中堅の性格俳優としてハリウッドで尊敬されるポジションにいたのだ。アーネスト・ボーグナインは、その14年前にアカデミー賞主演男優賞を獲得している名優だったのである。それを知った僕は「あの顔で主演?」と不思議に思った。

アーネスト・ボーグナインのファンになった僕は、幸運なことに「北国の帝王」(1973年)というステキな映画と出逢う。リー・マーヴィンとアーネスト・ボーグナイン、年を重ねた渋い男たちが死闘を繰り広げる映画だった。時代は大恐慌の頃、アメリカ中を放浪するホーボーのリー・マーヴィンと、鉄道会社の車掌であるアーネスト・ボーグナインが無賃乗車を巡って対決する物語である。

ホーボーの語源は「方々へいく」という日本語だという説もあるが、本当のところはわからない。1929年、突然に株が大暴落し未曾有の不況がアメリカを襲い、世界中に波及した。最近のリーマンショックみたいなものだ。その大恐慌時代、多くの貧しい人々が職を求めてアメリカ中を放浪した。その頃のことを詳しく小説に書いたのは、ジョン・スタインベックだ。「二十日鼠と人間」や「怒りの葡萄」を読めば、当時の雰囲気が理解できる。

そんな時代、どんな列車にもただ乗りをする伝説のホーボーがいた。それがリー・マーヴィン演じる中年男だ。一方、自分が乗務する列車には絶対に無賃乗車はさせたことがないと誇っているのが、アーネスト・ボーグナイン演じる強面の車掌である。彼は、列車から叩き落としたホーボーが、列車に轢かれて死んでも眉ひとつ動かさない。彼にとっては無賃乗車させないことが、職業的誇りのすべてなのである。

ホーボーたちが死に追いやられ、それに対するリベンジの気持ちがあるのかもしれないが、リー・マーヴィンは、アーネスト・ボーグナインの列車にただ乗りすることに命をかける。冷静に考えれば、下らないこだわりだ。だが、下らないことに命をかける話にバカな男たちは熱中する。アーネスト・ボーグナインが乗っていない列車に乗ればいいだけではないか、と思う人はこの映画を見る資格はない。「タイタニック」でも見て、泣いてなさい。

●この男の素晴らしさがわからない女たちは...

笑った顔さえ怖い...そんなアーネスト・ボーグナインなのに「マーティ」(1955年)を見たときには、何て優しい男なんだろうと僕は何度も頬を濡らした。鬼瓦のような顔が、優しく頼りがいのある兄貴のように見えてきた。この男の素晴らしさがわからないようなら、女たちには見る目がない。しかし、人は見かけが大事なのだと改めて思い知らされたのも「マーティ」だった。もてない醜い男も、自分のことは棚に上げて美人が好きなのである。

「マーティ」という映画、1955年度のアカデミー賞で四部門を獲得している。主演男優賞、作品賞、監督賞、脚色賞と主要部門ばかりである。獲れなかったのは主演女優賞だけだ。おまけに、カンヌ映画祭グランプリまで受賞した。この評価の高さは、一体どうなっている、と現在から見ると思わないでもない。監督はデルバート・マン。最初の作品で監督賞をもらってしまったプレッシャーからか、その後、あまり大した作品はない。

もちろん、主演のアーネスト・ボーグナインは素晴らしい。あまり美しくないヒロインのベッツィー・ブレアにも好感が持てる。物語もよく練られている。50年以上昔の映画である。当時の結婚に対する常識を考慮すれば、かなり先進的な意識も盛り込んでいる。それに、容姿という人間の外見の問題をこれだけ突っ込んでいる映画も珍しい。それは、普遍的なテーマであると「マーティ」を見て僕は思った。

男は「美人を連れて歩きたい」と思い、女は「イケメンを彼氏にしたい」と願う。連れている女に街ゆく男たちが振り返ると、男はムッとしながらも誇らしさを感じる。女だって同じだ。自分の友人たちから「あなたの彼氏、ステキね。イケメンだわ」と言われて嬉しくない女はいない。自慢に思う。イケメンを彼氏にしている自分への満足感が湧き起こってくるはずだ。

マーティは、多くの弟妹を持つイタリア系アメリカ人である。長男のマーティは苦労して弟や妹を結婚させ、今は母親と二人暮らしだ。精肉店で10年働き、人々から信用されているマジメな男である。店主からは店を買い取らないかと誘われている。それほど評価されているのだ。だが、彼はまったくもてない。34歳になるまで、恋人ができたこともない。

彼は、母親からいい女が集まるというダンスホールへいけと勧められる。だが、彼は「もう二度もいったよ」と答え、しつこく勧める母親に突然、「もう傷つきたくないんだ。俺はアグリーなんだ」と激昂する。彼は女にもてたことがない。自分の容貌にコンプレックスを抱いて生きてきた。だが、その夜、親友に誘われて彼はダンスホールへいく。

ダンスホールの隅でひとり立っていたマーティは、軽薄そうな男から「ダサい女ときてしまったのだが、別のを見付けたので乗り換えたい。おまえを友人として紹介するから、後で女を送ってくれたら5ドル出す」と誘われる。「そんな...、女の気持ちを考えてやれ」とマーティはきっぱり断るが、男は別の男に話を持ちかけ5ドルを渡す。

男がテーブルで待つ女のところへもうひとりの男を連れていき、話をしている。マーティはずっと見ている。女が首を振り、男たちはテーブルを離れ、「失敗したんだから5ドル返せ」と言っている声が聞こえる。女は涙ぐみ、ダンスホールのベランダへ出ていく。マーティは女を追い、泣いている女をおずおずとダンスに誘う。

女は、高校で化学の教師をしているクララだ。マーティは、クララ相手にお喋りをする。マーティは、自分が精神的に解放されていることに気付く。彼は自分の生い立ちや家庭の事情、父母のこと、早くに父が死に大勢いた弟妹のために生きてきたこと、軍隊時代の話など、すべてを打ち明けられる相手であることに驚く。マーティは翌日のデートを約束し、土曜の夜は終わる。

翌日、クララといなくなったマーティに腹を立てている親友がやってくる。彼は一瞬見かけたクララのことを「イモだ」と吐きすてるように言う。友人たちも「イモみたいな女は連れて歩きたくないぜ」と冷たい。見せびらかすように美人を連れ歩くのは、男の見栄だ。「どうだ、おれはこんな美人にもてているんだぜ」と自慢したいのである。

クララと意気投合し、初めて女性から「もう一度逢いたい」と言われたマーティは有頂天だったが、仲間たちの言葉に心がぐらつく。また、クララを自宅に連れていき母親に会わせたとき、母親がインテリであるクララの返事を快く思っておらず、母親から「もう逢わないよね」と念押しされたこともマーティを迷わせている。

マーティはクララに電話ができない。約束した時間はどんどん過ぎてゆく。クララは、父母とリビングで電話を待ちながら涙をこぼす。いつも振られて傷ついてきたマーティが、今度はクララを傷つけているのだ。しかし、ラストシーン。マーティは自分の気持ちに従い、ある決意をする。彼は連れ歩いて自慢できる女が欲しいんじゃない、本当に愛せる人が欲しいのだ、と気付く。

後年、強面で鳴らした容貌魁偉なアーネストボーグナインだが、「マーティ」では若くてシャイなボーグナインが見られる。ボーグナインの顔が次第に可愛く見えてくる。アカデミー主演男優賞も当然だと思う。イモと評されるクララも、優しく美しい女性に思えてくる。映画は、登場人物たちの性格や内面を見る者に伝えてくるからだ。だが、現実の人間の優しさや思いやりは、見た目からは伝わらない。

●早川義夫の「もてないおとこたちのうた」を愛唱した

彼は、大学生の頃、早川義夫の歌を愛唱していた。特に「もてないおとこたちのうた」はお気に入りだった。「何の因果か彼女はおらず、いつも男といじけた話」と自嘲的に歌っていた。一種の衒気だと思う。もてないことに苛立ちはなく、もてないことを誇っていたのかもしれない。だが、今から思えば、それもやせ我慢だった。本当はもてたかった。

確かに、彼はもてたことがない。しかし、もてようとしたことは何度もあるし、今も魅力的な女性に会えば気を惹こうとする気持ちが、意に反して顕わになる。気を惹こうとする自分がイヤだし、自尊心も保てないので彼は無関心な振りをする。要するに、口説いて振られたとき、自分のプライドが傷つくのが怖いのだ。そんな男は、女性からすると気取ったイヤな奴かもしれない。もてたくない男なんて、本当はいないのだ。

20年ほど前のこと、仕事を終えた夕方、彼は渋谷の公園通りを歩いていた。今はどうか知らないが、当時はナンパのメッカといわれた場所だ。彼の前を若い女性が歩いていた。若い男がすっとその女性に寄り添った。「ねえ、僕と同じくらいかな。ちょっと話しない」という声が聞こえた。おお、これが話に聞くナンパか、と彼は初めての経験に少し興奮(?)した。そのまま観察する。

しかし、その女性は男を見向きもしなかった。一切、無視してハイヒールの音をカツッカツッと響かせる。足を止めようとはしない。それでも男はずっと話しかけながら並んで歩く。どれくらいそんな風にしていただろう。時間にしたら一分もなかったはずだ。男はしきりに話しかけ、女は完全に無視して駅の方へ去った。

彼は足を止めて、男を目で追った。男は再び公園通りを登り、パルコの前で立ち止まった。物色する目で通りを見る。すぐに次の女性を見付け、さっきと同じように声をかけた。それを見届けて、彼は駅に向かった。彼は深く感心していたのだ。「あれほど見事に相手に無視されたら、僕のプライドはズタズタになる」と友人のソゴーに話したら、「そんなこと言ってたら、ナンパなんてできないさ」と言われた。

男たちは「もて自慢話」が好きである。彼は自慢する話がなかったのと、若い頃にはそういう話をするのは下品だと思っていたので、自分から話すことはなかったが、歳を重ね、気取った奴だと思われないために、下世話な話もするようになった。しかし、自慢するような話もないなと己の来し方を振り返るとき、思い出すのが10数年前のことだ。

もてない彼も女性に腕にすがられたことが、一度だけある。ところが、駅の切符売り場の前で、女性に腕にすがられたまま彼は途方に暮れた。そんな状況にまったく慣れていなかったからだ。「......さん、確か××方面でしたよね」と無粋に聞くと、相手は「忘れました」と答えた。彼はますます途方に暮れ、そのまましばらく沈黙が続いた。

その沈黙に業を煮やしたのだろう、相手の女性は「わかりました」と言うと、きっぱりと彼の腕を放し、切符を買って改札の向こうに消えた。その後ろ姿からは怒りがうかがえた。「この唐変木!」という声が聞こえてきそうだった。ご免なさい、と彼はつぶやくしかなかった。そんな彼は彼女を傷つけたのではないかと、未だに後悔している。「マーティ」を見て身につまされている。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
勤め先で編集者の人材募集をしています。リクルート担当は僕です。一応、30歳までですが、経験は不問です。ネットスキルのある人は歓迎します。興味のある人は、http://www.genkosha.co.jp/
へ。そろそろ試験問題を考えなければ......。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
>
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
>
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
>