電網悠語:日々の想い[133]時間とともに走る旅/三井英樹

投稿:  著者:  読了時間:6分(本文:約2,600文字)


ドラッカー曰く「買えない。雇えない。価格もない。簡単に消える。貯蓄もできない。したがっていつも不足している。他のものに代替ができない。しかも、人間に付きまとって離れない。これなしで生きるのはむずかしい。それが時間である」。[注1]

Web屋になって想う事は、時間に振り回される人生が続いているなぁ、ということ。クライアントの時間、会社の時間、チームメイトの時間、ユーザの時間、身近な方々の時間、家族の時間、自分の時間。その制御に成功しているかと問われると心許ないとしか言えない。



なぜいつもいつも追われている感覚があるのだろう。あと何分でこれをしなくちゃ、あと何日でこれをロウンチ(公開)しなきゃ。毎日毎日カウントダウンである。秒針にお尻をつつかれながら作業をしているうちに、次から次へと追いかけてくるモノの影が大きく迫る。飲み込まれそうになりながら、かろうじてお尻を噛み千切られない毎日。

でも、紙一重でかわした経験は、次に生きている。どうなったら「よりヤバイ」かが何となく察知できる。危険だと鬼太郎のアンテナみたいに、何かが心の中でピンと立つ、ささやいてくる。その声に気が付かない程どうかしていることもあるのだけれど、後で考えても、あぁ何か兆候はあったと思い至る。

そうしたアンテナは経験でしか得られないものなのかもしれない。それに気が付いているから、「もの作り」をしないコンサルのみの人の話を信じられない。数日前に斜め読みした日経誌の記事を、さも自分の体験のように語り、机上の「あるべき姿」を説いているだけに見えてしまう。Webがそうした何も生産しない層の中抜き機能によって拡大していると信じているから、なおのこと腹が立つ。傷だらけの現場上がりのボクトツとした声に魅力を感じる体になっている。

デスマーチ(死の行軍)と呼ばれることが多い「アプリケーション開発」は、もはや「そんなものだ」という慣習と化しつつある。そこから抜け出すには、膨大な死の谷を歩んだ実経験こそが鍵ではないかと思っている。後方にいて、対する敵の大きさも恐ろしさも机上でしか経験していない人たちには、語る資格すらないのではないか。

死と直接相対する歩兵である必要はないかもしれない。それでも、前線に出た経験は限りなく重いだろう。その重き経験を重ねたとしてもなお追われる感覚が抜けないのは、経験が足りないのか、戦術が悪いのか、頭が悪いのか、それとも戦場が余りに広いのか。


時間を管理しようと挑むのは、考えてみれば年中行事だ。聖夜から年末にかけて、その年の成果と傷と反省とを見つめる。年が明けたら、今年こそ効率よくしのいで行こうと心に決める。手帳や時間管理の方法論に触れ、毎度あたかも初めて知るかのような感動と反省を覚える。

一か月経った頃、すでに1/12を経過した事実を重く捉えるフリをする。誰に対してでもない、自分で自分を焦らせる。

そして3か月経った頃、再度自分の非力を嘆き、方法論を探す。たいていの本は基本的に同じことを書いてあって、「激励」部分のない「叱咤(しった)」のみに読み解ける。

そして半年経ったところで、今年が半分終了したと嘆き、9か月で慣れっこ無感覚に陥る。「あと3か月だよ今年も」と、つぶやきながらも、「打つ手」に鈍さが増しているのも実感する。そして年末、最初に戻る、というループ。

これだけ情報に接していながら、時間を操る方法に辿り着いていない。きっと、それが一番大切な情報なんだと気付いていながら、闇雲に情報を探る行為を繰り返す。頭の中に、情報に接することと生きることとの差異が余りない暮らしを願う自分がいる。

けれど、年を重ねるごとに、自分自身に対するもの以上に抱え込まざるを得ない「責任」が増えていく。父親として、家長として、家庭における責任。年長者として、各種リーダー格として、会社での責任。地域社会での責任。自分一人がちゃんとしていれば良い時代は過ぎていく。何を書いても、何を話しても、なにかしらが後からついてくる。

重荷として認識することも多いけれど、それを糧とする自分もいる。縛るものは、邪魔であるだけではなく、自分を成長させてくれるものでもあることを、今までの歩みの中で知っている。負荷をかけないと筋肉は強まらない。うとましいけれど、それを避けてばかりでは、生き残れない。ピンチとかチャンスとか、後付で命名はされるけれど、どれも貴重な一瞬に間違いない。


いつか時間を追い越しているような感覚を持てるのだろうか。明日が来るのが待ち遠しい。早く来いよと待つ感覚。ワクワクしながら待ち構える。そして待つほどに、こちらにエネルギーがみなぎって来る。そんな夢のような状況。

そんな夢のような状況を生む秘訣とは何だろう。やはり、計画なんだと思う。先を読み、先手を打つ。迎え撃つように構えることができるように策を講じる。「マネージメントとは、先ず時間を管理することである」。再びドラッカーの言葉である。できない身に沁みる。でも、そうなりたいと願う。

そんなことを考えると、「管理」とは、ペットのように飼い馴らすことではないように思えてくる。決して牙を抜くことが必要なのではない。時間をおろそかにした結果の恐ろしさは保っていて欲しい。それでいて、どこか信頼感のある、「共存関係」を築くことが「時間の管理」なのではないだろうか。獰猛のまま、それでいて傍にいて欲しいという変な関係。隙あらば利用してやるという「強(したた)かさ」。

ただでさえルーズな私が、時間を制することはないだろう。でも上手に伴走していきたい。無限にかけられる時間はない、かけられる時間内にどこまで品質を上げられるか。そんなことを考えながら付き合っていくと、何か違うところに辿り着くように想う。そう、もっとよりよい伴走パートナーとして。

[注1]もしかしたら枝川公一氏自身の言葉かもしれません。
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