[2756] リッタイポ誕生秘話の巻

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《「ないと不便」→「ないと全然だめ」→「あってあたりまえ」》

■わが逃走[56]
 リッタイポ誕生秘話の巻
 齋藤 浩

■電網悠語:日々の想い[141]
 RIACビジネスセミナー XIV
 三井英樹

■私症説[10]
 ある種の寓話
 永吉克之


■わが逃走[56]
リッタイポ誕生秘話の巻

齋藤 浩
< http://bn.dgcr.com/archives/20091203140300.html >
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みなさん、コンニチハ。突然ですが、12月15日(火)から19日(土)まで、六本木ヒルズ目の前のJAGDA TOKYOにてデザイナーの門嶋隆裕氏と展覧会をやります。
< http://www.jagda.org/information/event/454 >

展覧会のタイトルは「12」。数字の1から12をモチーフにポスターを作る! というルールのもと、奇数対偶数の熱いバトル! ちなみに私が奇数、門嶋氏が偶数を担当し、それぞれ6点ずつ計12枚のポスターを展示します。

もう、どんな展示になるか本人達もわからない(それすなわち、まだ展示作品ができていない→当然のことながらお互いの作品をまだ見ていない)大スペクタクル巨編! ですので、皆様お誘い合わせの上、是非見に来てくださいね。

ちなみに私は、ライフワークでもあるポスターのシリーズ『リッタイポ』の新作を発表する予定です。なんだかんだでこのシリーズも、立ち上げから10年の歳月が経過していた! のです。てな訳で、久々に展示やるぜ! 記念企画といたしまして、この『リッタイポ』について語りたいと思います。

1=ことのおこり

私が20代の頃といえば、世の中にパソコンやケータイやインターネットが急速、というか歴史上かつてない程のスピードで普及していった時期である。"専門家のための高性能な機械"が、"家電"としての側面をチラ見せした瞬間、世の中が一斉に飛びついた。

まあ「IT時代の幕開け」ってことなんだろうけど、新しいメディアを迎える上での混乱期というかパニック期的な「訳わからなさ」が濃厚な時代で、誰もが「パソコンさえあれば何でもできる」とか「マルチメディアが地球を救う」とか意味不明なことを本気で語り合っていたのだ。で、小生意気な駆け出しCGアーティストだった私はこういった状況を「...危険だ。あまりにも危険すぎる」なんて思っていた訳だね。

当時私はたまたま入社した会社のたまたま配属された部署で、デジタル画像処理なんてことを専門にやっていた。いわゆる2次元CGのさきがけ的集団に鍛えられていた若造で、そこでまず最初に叩き込まれたことは何かといえば、『機械に使われてはいけない』なのであった。

グラフィックデザイン業界にも当然コンピュータが普及して、IllustratorやPhotoshopを使った作業が一般化してくるし、イラストやアートのコンペにも、CG作品が続々入賞するようになってきた。で、それらの中には「いいものもある。だけど、悪いものもある」(byスネークマンショー)と感じたんですよ。では、そこで言う「悪いもの」とは? 『機械に使われてしまった作品』です。

2=技術と美術

『機械に使われてしまった作品』をわかりやすく言い換えれば、コンピュータの機能に頼りすぎてしまった作品といったところか。

デザインにしろアートにしろ、表現にはまず伝えるべき目的があるべきだ。それらの作者も、最初はその目的に向けて地道に作っていたんだろうけど、ここにコンピュータという画材(のふりをした悪魔?)が登場し、そいつが小手先の表現、例えばPhotoshopのフィルタ機能等を使って「こんなこともできますよ、あんなこともできますよ」とささやくのだ。当時は使う者にとっても見る者にとっても、そういった機能はめずらしかったし、私自身も初めて見たときは「スッゲー!!!」などと感動したもんだ。

でもちょっと待て。このように「次から次へと差し出すあ〜なた〜」(byピンクレディー)状態、機械から提示されたものを選ぶだけで、自分でも思いつかなかった表現が目の前に!! という状況。

ここに、いま目の前にある「目的よりも表現の面白さを優先して"できちゃった"であろうビジュアル」は、果たして自分の作品と言えるのか?「はい、これは私の作品です」と答える人もいるだろう。「コンピュータを手にしたことにより、絵の上手い人も下手な人も対等な立場、感性だけで勝負できるようになった」なんてことを語ってくれた人もいた。確かにそれはそれで正解である。

が、しかし。私が今まで千枚以上描いてきたデッサンはすべて無駄かといえば、そんなことあるはずもない。と思いたい。何故ならデッサンとは技術や表現手法の上達が目的ではなく、事物の構造を学んだり、相手と自分との関係を知るための手段なのだから。なんてことをパソコン信者に言ってみたところで平行線で議論にならないし、けむたがられるか古い人扱いされるかだ。

また、それらのツルンとした「いかにもCG」な作品たちは、絵であることより先にデータだった。表現目的を話題にする前に「すごいですね。これ、何MBですか?」とか「ソフトは何を使ってるんですか?」とか言ってる時点で絶対オカシイよ。画家に「これ油絵具何cc使いましたか?」なんて普通聞かないだろ?

で、何が言いたいかというと、私はクヤシかったのだ! とっても!! 私はそうやって作られる作品がそれはそれでアリだってことを知っていた。でもそんな作品は嫌いだったし、紙と鉛筆を使わない自称"アーティスト"達がもう、小憎らしくてしょうがなかった。

そんな奴らと一緒に"CGアーティスト"とひとくくりにまとめられることが嫌で嫌でしょうがなかったのだ。なんだけど、コンピュータそのものに対する嫌悪感はなかったし、むしろ新しい画材としての方向性を提示したいと考えていた。もちろん、奴らとの差別化をしながら。では、そんな私が提示していた表現とは。

3=便利機能封印

とにかく手描き。紙に鉛筆でスケッチしまくった上でスキャン。絵具もスキャン。テクスチャも錆びた鉄板や石などを拾ってきてはスキャン。これらの素材をコンピュータの中で混ぜくり回して仕上げる、なんてことをしていた。

「マウスのクリックで引いた線はすべて同じだけど、紙に鉛筆で引いたこの線はオレにしか引けない線...」けっこう必死だった。今じゃわりとベーシックな方法だけど、16年も前にこんなめんどくさいことやってる人はあまりいなかったはずだ。とにかくコンピュータに負けないように描く、描く。でも、コンピュータにしかできない表現は積極的に取り入れる。そんなことを5年もやってると、世の中からそれなりに評価してもらえるようになってきた。

なんだけど、同時に自分の創るビジュアルの薄さ、弱さが気になってくる。欠けているものは何か。自問自答する日々。で、ある日突然気づく。私の作品は意識しないと上品で繊細になってしまうのだーっ! つまり、放っとくと育ちの良さが絵に出てしまうのだーっ!!! そんな訳でとりあえず、こいつを否定してみようと思った。

暴力とか破壊とか血とか因縁とか、そういったものを意識して描いてみる。するとどうだろう、迫力のある力強い絵を創り出せるようになってきた。しかも上品で繊細。いやー、育ちの良さだけは隠し通せないなあ。そうこうしているうちに、私は運命的なテーマに出会うのだった。

4=時代劇を描く

その頃私は『鬼平犯科帳』にハマっていた。テレビシリーズも好きで見ていたが、たまたま会社に捨ててあった原作小説の3巻を拾って帰りの電車で読んだらもう、止まらなくなってしまったのだ! 1行読むごとに、江戸の町並みや旨そうな料理が鮮明なビジュアルとなって脳内に投影されるショックたるや尋常じゃなかった。おお、これだ! 鬼平の世界を描いてみたい!! もう、じっとしていられなくなって紙と鉛筆を取り出した。

が、描けなかったんですよ。私は日本国民のくせに、江戸時代の風習や約束事について知らなすぎたのです。刀の差し方や髷の結い方も、「なんとなくこんな感じ」レベルでしか理解していない。アポロが月に行く時代に生まれたんだし、仕方がないといえば仕方がないかもしれない。

なんだけど、描くからにはウソは描きたくない。でも、いちいち調べているうちに感動の鮮度が落ちてしまう。そうしたらきっとつまらない絵になってしまうだろう。イメージが脳裏に浮かんでいるにもかかわらず、"間違い"がコワくて描けないというジレンマ。こんなことってあるのか! 部屋でひとり白い紙をみつめる。

で、どうしたか。開き直りました。間違いなんて気にせず描いちゃいました。そもそも私にとっての時代劇とは、スターウォーズやガンダムだったのです。黒澤明の時代劇がルーカスによってジェダイ劇となり、その世界的ブームに呼応するようにして生まれたガンダムから、演出や構図や色彩やら形態なんかを学んだ世代なんだから、それを逆手にとって、この体験をした者=逆輸入世代!にしかできない表現で、原点である江戸を描いてみよう。

武士がダースヴェイダーやモビルスーツになったのなら、その逆もありえるのではないか。そう思った途端、テンションがググッと上がり、一気に描き上げたのがこれ。我ながら今見ても迫力のあるいい絵ですね、自画自賛。12年前の作品。
< http://bn.dgcr.com/archives/2009/12/03/01.jpg >

5=構造を検証する

ちょうどその頃、ずっと惚れていた車を買った。ユーノス・ロードスター。世界中で大人気となったマツダの2人乗りスポーツカーだ。私はオタク気質故、どんなモノでも惚れてしまうと調べずにはいられない。で、この車のデザインについて調べていくうちに、そのモチーフは能面であったということを知る。

近い将来、能面よりも先にロードスターを知った世代が、伝統にとらわれない新しい造形の面を作る日が来るかもしれない。てなことを考えていたら、これって、時代劇を描いたときの構造に似ている! ということに気がついた。いわゆる逆輸入的構図。

あれ?? この考え方を突き詰めればもっと面白い表現ができるかも。その行程をもっと単純化したら? 例えば文字だ。文字の多くは絵を記号化したものだ。では、その逆の流れを視覚化したら? 文字をまた絵に戻す作業から何か新しい発見が生まれるのでは? そんなことを考えているとき、偉大なデザイナーからヒントをいただくことができたのだ。

6=佐藤晃一の言葉

銀座のガーディアンガーデンで、佐藤晃一さんの講演があったので聞きに行った。たぶん11年くらい前。講演会終了後に、持参したポートフォリオを見ていただきつつ、『手描きCG』についてコメントを頂いた。

「きみは手描きにこだわりすぎているんじゃないか。いかにもCG的なツルンとした表現がダメなんてことはないよ。伝えたいことが伝わる表現を選べばいいだけのこと。いかにもCGといったビジュアルの方が伝わるのであれば、そういった表現をチョイスすればいいし、手描きの方が伝わると思えば手描きを選べばいい。目的はあくまでも伝えることだ。」

この言葉で目からウロコが50枚くらい落ちた。頭ではわかっていたつもりだったが体でわかっていなかった。脳で理解していたつもりだったが、手が理解していなかった。要するに木を見て森を見ていなかったのだ。今まで森だと思っていたものが、もっと広い目でみたら木でしかなかったのかもしれない。とにかく、この言葉で次の表現が決まった。

7=リッタイポ

佐藤晃一さんの言葉と逆輸入の構造をヒントに、CGをデータとしてでなく、絵として感じてもらうための仕組みを考えていた。答えはいたってシンプル。足すのではなく、引くのだ。テクスチャもタッチも不要、色も極力減らす。構成要素自体が技術的に単純化されれば、見る者の興味は当然、技術ではなく目的へ向かうはずだ。

で、前述した文字にまつわる実験である。絵が記号化されてできた文字。これを再び絵に戻すという作業をいかにして行うか。答えはすぐに出た。立体にすればいいんだ! 立体化するだけで、いままで文字だったものが"絵"になる。しかも絵→記号→文字と、いままで辿ってきた道とはまったく無関係に、突然文字だったものが絵になるのだ。この発見は、まるでワープ航法を目のあたりにしたかのような衝撃だった。

私はこの偉大な発見をリッタイポと名付けた。欧文表記は「Re-TYPO」。おお、名は体を表しとる。いいじゃないか! その記念すべき第一作がこれ。
< http://bn.dgcr.com/archives/2009/12/03/02.jpg >

JAGDAポスター展『DESIGN』出品作品。世界ポスタートリエンナーレトヤマ入選作品。デザインって、無から有を作ることなんかじゃなくて、ものの見方を発見し、それを提示することなのかもしれない。そんな『考え方』を、シンプルに伝えてる。こちらもやはり自画自賛だ。

このポスターが完成したとき、自分の中で何かが変わったような気がした。今からちょうど10年前。フリーになったばかりの齋藤浩はまだ30歳であった。

【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp

1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。

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■電網悠語:日々の想い[141]
RIACビジネスセミナー XIV

三井英樹
< http://bn.dgcr.com/archives/20091203140200.html >
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RIAコンソーシアム(RIAC)は、年に3〜4回の100名単位のセミナーをなんとか自力で開催できるように育ってきた。発足から約6年。私は発足の数か月遅れて参加したけれど、それなりに中心的な活動をしてきた。浮き沈みの激しいIT用語の中で、6年以上前の「RIA(Rich Internet Application)」という言葉が、未だにメディアで取り上げられるのは、このコンソーシアムの動きと無関係とは言えないと思う。

そして第14回のセミナー。最初の頃は違うセミナー名を使っていたので、実際の回数とは微妙に異なる。今回は秋葉原、初めての場所。テーマは「事例」。ここ数回、技術系とデザイン系の制作現場という観点でテーマ探しをしてきたが、もう少し発注するクライアントさんも交えた話を共有したいというのが、きっかけだった。

 ▼RIAコンソーシアム:RIAコンソーシアム・ビジネスセミナーXIV
 < http://www.ria-jp.org/information/20091201.html >

RIACの事務局長から出たアイデアは、「事例」。RIAC会員の開発した事例をタイムリーに見せて、更に開発苦労話をシンクロさせれば、それだけで価値がある。そう考えて、会員宛に事例募集を呼びかけた。いつもはテーマを絞れても、そこに登壇してくれる方を探すのが一苦労。でも今回は、今までの苦労が嘘のように、短時間に候補が挙がる。

詳細調整は、いつもと変わらない。壇上に立つ方の何人かには、実際に出向いてお願いする。mailだけで済ませられるとは思っていない。壇上に立つ前に、意図を説明し、何を話して欲しいかを伝える。会いましょうと言ってくれた方で、話がかみ合わなかったことは殆どない。単なる企業宣伝の場と思っていた方も殆どいない。自分達の苦労をシェアし、同じ轍は踏まないようにしましょうね、と語ってくれる。

実は今回は更に難しいお願いを加えた。「数字」が欲しい、と。昨今の提案は、見栄えとかユーザビリティの正論などで、納得してもらえるケースは余りない。効果を数字の形で見たいと希望される。経済状況からも、理論や高揚した気分でプロジェクトが開始されることは減ってきた。そうした状況を踏まえて、せっかくクライアントさんが直接語って頂けるのであれば、何を目論んでプロジェクトが生まれ、育ち、測定し、軌道修正し、どこを目指しているのかを聞きたかった。

交渉をしながら書いた案内文は下記の通り(抜粋)。「事例」が中心なのに、担当者にも焦点があたっている。

  RIA(Rich Internet Application)という言葉も広く市場に浸透し、RIA
  技術の進歩も開発環境の整備も進んでいます。同時に多くの視点がそうし
  た技術寄りになりつつあるようにも感じます。しかしながら、何故RIA化
  するのか、何故ユーザビリティ向上を目指すのかというテーマが、今後の
  ビジネスの根幹になっていることは忘れてはなりません。

  今回のRIACビジネスセミナーでは、その本質的な部分や実際の想いや苦労
  した点などをお話しして頂けるように、実際にきちんとユーザに目を向け
  ビジネスを展開している担当者様にお集まり頂きました。業界も技術も異
  なってはいますが、訪れてくれるユーザのことをどのように考え、どのよ
  うにもてなすのか。あるいは業務アプリであれば、どこまで自然に操作が
  できて、作業に集中できるか。そうしたビジネスの原点に関わる努力と技
  術とがどのように融合して、実際にサービスやWebサイトが成立している
  のかのヒントをご一緒に覗いてみたいと思っています。

  技術によってのみ成り立つものでもなく、見栄えだけの整備で辿り着ける
  ものでもない領域。対象ユーザを大切にするという路線の先にある苦労と
  喜びを、そのプロジェクトの担当者の生の声で共有できる場を目指します。
  それが業種業界を越えて、皆様のビジネスにとって、良いヒントとなり得
  ることを期待しております。

熱い語りを期待した。そしてまさにそうだった。4セッションある中で、配布資料があったのはひとつだけ。他は、センシティブな話をするので、資料配布は遠慮させてくれと逆に頼まれた。日頃見れない数字がスクリーンに現れる。多分私が感知できる以上の意味や価値が、そこに存在している気がする。そこに辿り着けない自分が悔しいけれど、その場にいることが嬉しい。

移動/旅行系、物流系、住宅(通常生涯最高額の買い物)系、保険系。ECサイトなどの分かりやすいWebアプリケーションではない。でも、通常の生活の中に普通に存在する。B2Cプロジェクトが3、B2Bが1。Flashが3、Biz/Browserが1。様々な分類軸はあるけれど、リアルな生活感が香ってくる。ネットが一般的になってきていることを、改めて再確認する。

「トコトンこだわろうと決めた」「○○のシェアがここまで来たら、これを仕掛けると決めていた」「エンドユーザである現場からの不満はゼロ」「要件定義の時点から現場が参加している」「トータルなサービス提供をしていかないと、エンドユーザのためにもならない」「間違いを認め、方針転換すると決めた」「エンドユーザに、こう理解してもらいたいんです」。出来上がったモノを目の前にしたら、当たり前で単なる正論にしか見えないかもしれないけれど、作っている最中にこれらの軸足をぶらさないで作り上げたことの大変さが頭の中を巡りだす。

私は司会をやっていたので、舞台の真横のソデにいて、それらの熱弁を見つめていた。思わず目頭が熱くなってきた。本当に涙腺がきしみ始める。原点に立ち返るという視点で、既存のプロジェクト、しかも成功しているプロジェクトを見返すと、まさにその原点から離れずに進んでいるのだ。しかも収支感覚は厳しくなっているけれど、熱い夢を語っている。勝手に諦めてみていた部分があったのかもしれない、思ってた以上に、クライアントはユーザを見つめている。先の先まで読んでいる。それがビンビン伝わってきた。

なんだ、まだまだ道は広く遠く明るいじゃないか。この道を進んできて間違ってなんかいない、このまま突き進めばいいんだ、と背中を押される感じすらした。「あれば便利」から「ないと不便」に育った情報インフラ。その中で、開発者もクライアントもベンダーも試行錯誤を経ながら、確実にワンステップ登ったんだと感じる。そして更にステップは続いている。

「ないと不便」から「ないと全然だめ」、そして「あってあたりまえ」へ。そして、その中で更に競争があり技術革新が後押しし、汗も涙も織り交ぜながら次の時代が姿を現していくのだろう。期待を確信に変えてくれる場だった。関われたことに感謝。いつもそうなんだけれど、熱いプレゼンテータが凄かった。心から感謝。

【みつい・ひでき】感想などはmit_dgcr(a)yahoo.co.jpまで
・もう今年も1か月を切りました。愕然としています。頑張らねば。
・mitmix< * http://www.mitmix.net/ >

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■私症説[10]
ある種の寓話

永吉克之
< http://bn.dgcr.com/archives/20091203140100.html >
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周知のように、人間の右脳と左脳は、互いに補完しながら活動している。そして、このふたつを合わせて「内脳」という。内脳は、体外にある「外脳」と連絡しているが、両者は右脳左脳のような相互補完的な関係にはない。五官からの刺戟によって内脳に生じた、喜びや悲しみ、怒りなどのさまざまな感情が外脳に伝えられ、外脳が、それらの感情を見て見ぬふりをするというメカニズムになっている。

わが国では、外脳は、盲腸の先端にある虫垂と同じで、生命活動には必要のない無駄な部位と考えられ、旧厚生省の働きかけで、昭和39年(1964年)3月31日をもって廃止になった。したがって、同年4月1日以降に懐妊した女性から生まれた子供には、外脳がない。つまり、現在、40代半ばより上の世代が外脳世代ということになる。

実はもっと以前に、外脳廃止が実現するはずだったのだが、ある野望によって遅らされていたのだ。明治末期から日本人の内脳を独占してきた赤間一族が、外脳にも支配を拡げるために、すべての新生児の外脳皮質に、赤間一族の血を引いたエビの卵を埋め込む計画を発表し、国会で審議するよう各方面に働きかけていたのである。

彼らの遺伝子をもった卵が孵って成エビが繁殖すると、その外脳の持ち主は、エビの意志に支配されるようになり、ひいては一族の意のままになるはずだと考えた。そこで、その計画の遂行のために、官界の中枢に人脈をもつ一族の当主、赤間是房が、外脳廃止法案の通過に圧力をかけたのだ。

ところが、江戸末期から日本人の顎を独占してきた尼蔵一族も外脳に眼をつけていた。彼らは、器量のよい幼児を選び出し、その外脳の発達を人工的に妨げ、何歳になっても可愛いらしい子供のままでいる人間を創出し、海外に輸出して、一族に巨富をもたらす案を関係各省庁に持ち込んでいたところで、赤間一族とは、利害が対立することになった。

「赤間一族の大志を実現しよう!」
「尼蔵一族に繁栄をもたらそう!」

両家とも、そんなスローガンを掲げて、新聞や週刊誌で国民に訴えかけた。しかし、その後の研究で、外脳は、人体の他の部位に何の影響力も与えないということが判明し、それまでの努力が水泡に帰したと悟った赤間と尼蔵の親族はみな、年寄りから乳幼児にいたるまで大津波に呑まれて死んだ。そして内脳と顎は国の管轄に入り、外脳は廃止へと到ったのである。

                 ●

小学生のときだった。同じクラスに、小山秀春というあだ名の、体は小さいくせに、むやみにでかい外脳をもった男子児童がいた。すぐにカッとなる奴で、本気で怒ると、そのでかい外脳をランドセルから引っぱり出して、フルスウィングで殴りかかってくるのだ。私も一度「貴様の外脳は馬糞に相違なかろう」とからかったために、その巨大な脳で後頭部を殴られて昏倒し、賽の河原が見えたことがあった。

ふつう外脳は、市販の外脳パックに入れてあるので、直接外気に触れることはなく、ササミのように柔らかい。しかし小山秀春の外脳はそうやっていつも鍛えられていたせいか、かなり硬化していた。硬化した外脳というのは牛のバラ肉のような質感をもっている。私はまだバラ肉で殴られたことはないが、同じくらいの衝撃があるのではないかと思う。

小山秀春とは高校まで同じだったが、卒業以来、社会人になって、ある日、街中で邂逅するまでは一度も会わなかった。その時の彼は手ぶらで、例の大きな外脳を身につけている様子がない。アレはどうしたと訊くと、喰ったと言う。
 
「しかし君、脳なんかよく喰えたものだな」
「君だって、指先にささくれができたら噛み切って飲み込むだろう。自分の体を喰ってるわけだ。自分の脳を喰うことと、ささくれを喰うことで、どれほどの違いがあるというんだい」
「なるほど。しかし僕はささくれは喰わないぜ。吐き出すからね」
「そりゃいかんね。身体髪膚これを父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始め也、だよ君。親にもらった体だ。ちゃんと食べて栄養にしたまえ」
「あまり適切な引用とは思えんな」
「君も食べるか、それがいやなら、外脳なんてさっさと捨ててしまえ。何の役にも立たないんだから」
「役には立たなくても生きてるんだ。内脳からの情報を見て見ぬ振りをするという活動を営々と続けているんだから、生ゴミのように捨てるわけにはいかんじゃないか」
「それそれ。その活動がそもそもいかんのだ。内脳からの切なる願いすらも、外脳は見て見ぬふりをする。いわば、市民からの陳情書を一応は読むけれど、上司に報告せずに溜め込んでいる役人みたいなものなんだ。役に立たないどころじゃない。悪だ。いいか。われわれがいくら神に祈っても願いが通じないのは、外脳が神への通信路をブロックしているからなのだ」

外脳を食べるとは、常識では考えられない行動だが、それよりも彼が、神などというものを持ち出したのには驚いた。しかも、脳と神を結びつけるという荒唐無稽な考えまで持っているということを知って愕然とした。彼と話していると、異常な世界に迷い込んだような気分になったが、それを態度には表さず、話を続けた。

「それはともかく、どんな味だい。外脳は」
「不味くはなかった。ステーキにしたんだが、肉というよりエビ入りピッツァのような風味だったなあ」

エビの風味。赤間一族はエビの卵の埋め込みに秘かに成功していたのか。それとも、小山秀春の外脳が硬化したことによって、エビ味になったのか、あるいは正常な外脳でもエビ味がするのか。謎だ。

【ながよしかつゆき】thereisaship@yahoo.co.jp
ここでのテキストはブログでも、ほぼ同時掲載しています。
・無名芸人< http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz >

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■編集後記(12/3)

売国者たちの末路・副島隆彦・植草一秀「売国者たちの末路」を読む(祥伝社、2009)。副島隆彦は、リーマン・ショックほか、金融・経済関連の多くの予測を的中させていることで有名な言論人だ。植草一秀は一流の経済学者で、二度にわたるスキャンダル攻撃で痛めつけられたことが記憶に新しい。この二人の対談である。ここでいう売国者とは、郵政民営化という名のもと、日本国民の資産を強奪しアメリカに貢いだ小泉純一郎と竹中平蔵らである。小泉・竹中の売国政策と市場原理主義を徹底的に糾弾し続けた結果、狙い撃ちで痴漢冤罪の謀略にはめられたのが植草であったという話と、経済学者・竹中の正体が「情報の流通業者」で「特定勢力の利益のための代弁者」に過ぎないという話がメインでじつに興味深い。植草事件はここで語られた政治弾圧に間違いないだろう。酩酊状態で記者会見の席に臨んで失態を演じた中川昭一は、一服盛られたという説もある。あのとき、テレビを見て思ったのは、なぜ同席する財務官僚が中川を止めなかったのかということだったが、アメリカに金を貢ぐ係であった官僚は中川と対立しており、仕組まれた事件だったらしい。時の政治権力とは恐ろしいものだと思う。狙われた愛国者は十字架にかけられる。副島は第14回トンデモ本大賞を獲得した陰謀論「人類の月面着陸は無かったろう論」の著者だった(失笑)というのがマイナス要素だが、この対談はまともだと思う。もっとも、副島が植草を贔屓の引き倒ししている観もなくはない。ある種の民主党本だけど......。末路とは「なれのはて」のことだが、売国者たちが今ものうのうと暮らしているのはくやしい。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396613342/dgcrcom-22/ >
→アマゾンで見る(レビュー77件)

・ユーノスロードスター! 確か「キッチン」と同時上映(公開時ではない)されていた映画「愛と平成の色男」で鈴木京香が赤いこれに乗って登場したシーンがかっこよくて、欲しいと思ったことがあった。映画の内容はさっぱり覚えていないのに、このシーンだけは強烈に覚えている。車乗らないから実現できず。/家族が、自転車のスポークにつけるライト「Nite Ize flashflight SpokeLit」が欲しいと言いだした。どれどれと見てみたら、イメージ写真では綺麗だったが、動画を見て撃沈。Monkey Light Bike LightYouTubeで関連動画を見ていて、Monkey Lightに行き着く。9パターンの模様が楽しい! 12km〜40kmほどで走ればこれらの模様になるらしい。まぁ走っている本人には見ることのできないものなのだし、派手すぎて恥ずかしいという人もいるだろうが、走っているのを見たことないし、夜間走行は目立つ方がいいし、明るさは十分だし、いいんじゃない? と。結束バンドで簡単につけられそう。スポークの間隔が広いとつけられないようなことも書いてあったが、8つの幅にできるとか何とか書いてあるから大丈夫なんじゃないかと。円高の今、ドルで買うしかない! と直接サイトから購入(円換算でも買えるし、国内で販売しているサイトはあるよ〜)。送料は船便で700円程度。海外サイトでのシェアウェア購入、個人輸入歴が生きました、ええ、気になったのは「クーポンコード」欄。どこかにクーポンが掲示されていないか検索したら10%OFFのが見つかったので、送料程度は安くなったよ〜。トータル6,000円ぐらい。/カスタムオーダー品は$2,000。文字が表示できるので宣伝になるかもかも〜。(hammer.mule)
< http://www.niteize.com/productdetail.php?category_id=26&product_id=163 >
SpokeLitはイメージ写真は綺麗だが
< >  動画だと
< http://www.monkeylectric.com/m132s_graphics.htm >
Monkey Light
< http://www.monkeylectric.com/m132s_gallery.htm >
動画
< >
宣伝に使うならVideo Pro
< http://www.monkeylectric.com/m464q.htm >
$2,000は高いか安いか
photo
愛と平成の色男 [VHS]
松竹ホームビデオ 1991-11-29
おすすめ平均 star
starバブル石田純一
star軽みの味わい

by G-Tools , 2009/12/03