わが逃走[56]リッタイポ誕生秘話の巻/齋藤 浩

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みなさん、コンニチハ。突然ですが、12月15日(火)から19日(土)まで、六本木ヒルズ目の前のJAGDA TOKYOにてデザイナーの門嶋隆裕氏と展覧会をやります。
< http://www.jagda.org/information/event/454 >

展覧会のタイトルは「12」。数字の1から12をモチーフにポスターを作る! というルールのもと、奇数対偶数の熱いバトル! ちなみに私が奇数、門嶋氏が偶数を担当し、それぞれ6点ずつ計12枚のポスターを展示します。

もう、どんな展示になるか本人達もわからない(それすなわち、まだ展示作品ができていない→当然のことながらお互いの作品をまだ見ていない)大スペクタクル巨編! ですので、皆様お誘い合わせの上、是非見に来てくださいね。

ちなみに私は、ライフワークでもあるポスターのシリーズ『リッタイポ』の新作を発表する予定です。なんだかんだでこのシリーズも、立ち上げから10年の歳月が経過していた! のです。てな訳で、久々に展示やるぜ! 記念企画といたしまして、この『リッタイポ』について語りたいと思います。



1=ことのおこり

私が20代の頃といえば、世の中にパソコンやケータイやインターネットが急速、というか歴史上かつてない程のスピードで普及していった時期である。"専門家のための高性能な機械"が、"家電"としての側面をチラ見せした瞬間、世の中が一斉に飛びついた。

まあ「IT時代の幕開け」ってことなんだろうけど、新しいメディアを迎える上での混乱期というかパニック期的な「訳わからなさ」が濃厚な時代で、誰もが「パソコンさえあれば何でもできる」とか「マルチメディアが地球を救う」とか意味不明なことを本気で語り合っていたのだ。で、小生意気な駆け出しCGアーティストだった私はこういった状況を「...危険だ。あまりにも危険すぎる」なんて思っていた訳だね。

当時私はたまたま入社した会社のたまたま配属された部署で、デジタル画像処理なんてことを専門にやっていた。いわゆる2次元CGのさきがけ的集団に鍛えられていた若造で、そこでまず最初に叩き込まれたことは何かといえば、『機械に使われてはいけない』なのであった。

グラフィックデザイン業界にも当然コンピュータが普及して、IllustratorやPhotoshopを使った作業が一般化してくるし、イラストやアートのコンペにも、CG作品が続々入賞するようになってきた。で、それらの中には「いいものもある。だけど、悪いものもある」(byスネークマンショー)と感じたんですよ。では、そこで言う「悪いもの」とは? 『機械に使われてしまった作品』です。

2=技術と美術

『機械に使われてしまった作品』をわかりやすく言い換えれば、コンピュータの機能に頼りすぎてしまった作品といったところか。

デザインにしろアートにしろ、表現にはまず伝えるべき目的があるべきだ。それらの作者も、最初はその目的に向けて地道に作っていたんだろうけど、ここにコンピュータという画材(のふりをした悪魔?)が登場し、そいつが小手先の表現、例えばPhotoshopのフィルタ機能等を使って「こんなこともできますよ、あんなこともできますよ」とささやくのだ。当時は使う者にとっても見る者にとっても、そういった機能はめずらしかったし、私自身も初めて見たときは「スッゲー!!!」などと感動したもんだ。

でもちょっと待て。このように「次から次へと差し出すあ〜なた〜」(byピンクレディー)状態、機械から提示されたものを選ぶだけで、自分でも思いつかなかった表現が目の前に!! という状況。

ここに、いま目の前にある「目的よりも表現の面白さを優先して"できちゃった"であろうビジュアル」は、果たして自分の作品と言えるのか?「はい、これは私の作品です」と答える人もいるだろう。「コンピュータを手にしたことにより、絵の上手い人も下手な人も対等な立場、感性だけで勝負できるようになった」なんてことを語ってくれた人もいた。確かにそれはそれで正解である。

が、しかし。私が今まで千枚以上描いてきたデッサンはすべて無駄かといえば、そんなことあるはずもない。と思いたい。何故ならデッサンとは技術や表現手法の上達が目的ではなく、事物の構造を学んだり、相手と自分との関係を知るための手段なのだから。なんてことをパソコン信者に言ってみたところで平行線で議論にならないし、けむたがられるか古い人扱いされるかだ。

また、それらのツルンとした「いかにもCG」な作品たちは、絵であることより先にデータだった。表現目的を話題にする前に「すごいですね。これ、何MBですか?」とか「ソフトは何を使ってるんですか?」とか言ってる時点で絶対オカシイよ。画家に「これ油絵具何cc使いましたか?」なんて普通聞かないだろ?

で、何が言いたいかというと、私はクヤシかったのだ! とっても!! 私はそうやって作られる作品がそれはそれでアリだってことを知っていた。でもそんな作品は嫌いだったし、紙と鉛筆を使わない自称"アーティスト"達がもう、小憎らしくてしょうがなかった。

そんな奴らと一緒に"CGアーティスト"とひとくくりにまとめられることが嫌で嫌でしょうがなかったのだ。なんだけど、コンピュータそのものに対する嫌悪感はなかったし、むしろ新しい画材としての方向性を提示したいと考えていた。もちろん、奴らとの差別化をしながら。では、そんな私が提示していた表現とは。

3=便利機能封印

とにかく手描き。紙に鉛筆でスケッチしまくった上でスキャン。絵具もスキャン。テクスチャも錆びた鉄板や石などを拾ってきてはスキャン。これらの素材をコンピュータの中で混ぜくり回して仕上げる、なんてことをしていた。

「マウスのクリックで引いた線はすべて同じだけど、紙に鉛筆で引いたこの線はオレにしか引けない線...」けっこう必死だった。今じゃわりとベーシックな方法だけど、16年も前にこんなめんどくさいことやってる人はあまりいなかったはずだ。とにかくコンピュータに負けないように描く、描く。でも、コンピュータにしかできない表現は積極的に取り入れる。そんなことを5年もやってると、世の中からそれなりに評価してもらえるようになってきた。

なんだけど、同時に自分の創るビジュアルの薄さ、弱さが気になってくる。欠けているものは何か。自問自答する日々。で、ある日突然気づく。私の作品は意識しないと上品で繊細になってしまうのだーっ! つまり、放っとくと育ちの良さが絵に出てしまうのだーっ!!! そんな訳でとりあえず、こいつを否定してみようと思った。

暴力とか破壊とか血とか因縁とか、そういったものを意識して描いてみる。するとどうだろう、迫力のある力強い絵を創り出せるようになってきた。しかも上品で繊細。いやー、育ちの良さだけは隠し通せないなあ。そうこうしているうちに、私は運命的なテーマに出会うのだった。

4=時代劇を描く

その頃私は『鬼平犯科帳』にハマっていた。テレビシリーズも好きで見ていたが、たまたま会社に捨ててあった原作小説の3巻を拾って帰りの電車で読んだらもう、止まらなくなってしまったのだ! 1行読むごとに、江戸の町並みや旨そうな料理が鮮明なビジュアルとなって脳内に投影されるショックたるや尋常じゃなかった。おお、これだ! 鬼平の世界を描いてみたい!! もう、じっとしていられなくなって紙と鉛筆を取り出した。

が、描けなかったんですよ。私は日本国民のくせに、江戸時代の風習や約束事について知らなすぎたのです。刀の差し方や髷の結い方も、「なんとなくこんな感じ」レベルでしか理解していない。アポロが月に行く時代に生まれたんだし、仕方がないといえば仕方がないかもしれない。

なんだけど、描くからにはウソは描きたくない。でも、いちいち調べているうちに感動の鮮度が落ちてしまう。そうしたらきっとつまらない絵になってしまうだろう。イメージが脳裏に浮かんでいるにもかかわらず、"間違い"がコワくて描けないというジレンマ。こんなことってあるのか! 部屋でひとり白い紙をみつめる。

で、どうしたか。開き直りました。間違いなんて気にせず描いちゃいました。そもそも私にとっての時代劇とは、スターウォーズやガンダムだったのです。黒澤明の時代劇がルーカスによってジェダイ劇となり、その世界的ブームに呼応するようにして生まれたガンダムから、演出や構図や色彩やら形態なんかを学んだ世代なんだから、それを逆手にとって、この体験をした者=逆輸入世代!にしかできない表現で、原点である江戸を描いてみよう。

武士がダースヴェイダーやモビルスーツになったのなら、その逆もありえるのではないか。そう思った途端、テンションがググッと上がり、一気に描き上げたのがこれ。我ながら今見ても迫力のあるいい絵ですね、自画自賛。12年前の作品。
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5=構造を検証する

ちょうどその頃、ずっと惚れていた車を買った。ユーノス・ロードスター。世界中で大人気となったマツダの2人乗りスポーツカーだ。私はオタク気質故、どんなモノでも惚れてしまうと調べずにはいられない。で、この車のデザインについて調べていくうちに、そのモチーフは能面であったということを知る。

近い将来、能面よりも先にロードスターを知った世代が、伝統にとらわれない新しい造形の面を作る日が来るかもしれない。てなことを考えていたら、これって、時代劇を描いたときの構造に似ている! ということに気がついた。いわゆる逆輸入的構図。

あれ?? この考え方を突き詰めればもっと面白い表現ができるかも。その行程をもっと単純化したら? 例えば文字だ。文字の多くは絵を記号化したものだ。では、その逆の流れを視覚化したら? 文字をまた絵に戻す作業から何か新しい発見が生まれるのでは? そんなことを考えているとき、偉大なデザイナーからヒントをいただくことができたのだ。

6=佐藤晃一の言葉

銀座のガーディアンガーデンで、佐藤晃一さんの講演があったので聞きに行った。たぶん11年くらい前。講演会終了後に、持参したポートフォリオを見ていただきつつ、『手描きCG』についてコメントを頂いた。

「きみは手描きにこだわりすぎているんじゃないか。いかにもCG的なツルンとした表現がダメなんてことはないよ。伝えたいことが伝わる表現を選べばいいだけのこと。いかにもCGといったビジュアルの方が伝わるのであれば、そういった表現をチョイスすればいいし、手描きの方が伝わると思えば手描きを選べばいい。目的はあくまでも伝えることだ。」

この言葉で目からウロコが50枚くらい落ちた。頭ではわかっていたつもりだったが体でわかっていなかった。脳で理解していたつもりだったが、手が理解していなかった。要するに木を見て森を見ていなかったのだ。今まで森だと思っていたものが、もっと広い目でみたら木でしかなかったのかもしれない。とにかく、この言葉で次の表現が決まった。

7=リッタイポ

佐藤晃一さんの言葉と逆輸入の構造をヒントに、CGをデータとしてでなく、絵として感じてもらうための仕組みを考えていた。答えはいたってシンプル。足すのではなく、引くのだ。テクスチャもタッチも不要、色も極力減らす。構成要素自体が技術的に単純化されれば、見る者の興味は当然、技術ではなく目的へ向かうはずだ。

で、前述した文字にまつわる実験である。絵が記号化されてできた文字。これを再び絵に戻すという作業をいかにして行うか。答えはすぐに出た。立体にすればいいんだ! 立体化するだけで、いままで文字だったものが"絵"になる。しかも絵→記号→文字と、いままで辿ってきた道とはまったく無関係に、突然文字だったものが絵になるのだ。この発見は、まるでワープ航法を目のあたりにしたかのような衝撃だった。

私はこの偉大な発見をリッタイポと名付けた。欧文表記は「Re-TYPO」。おお、名は体を表しとる。いいじゃないか! その記念すべき第一作がこれ。
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JAGDAポスター展『DESIGN』出品作品。世界ポスタートリエンナーレトヤマ入選作品。デザインって、無から有を作ることなんかじゃなくて、ものの見方を発見し、それを提示することなのかもしれない。そんな『考え方』を、シンプルに伝えてる。こちらもやはり自画自賛だ。

このポスターが完成したとき、自分の中で何かが変わったような気がした。今からちょうど10年前。フリーになったばかりの齋藤浩はまだ30歳であった。

【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp

1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。