映画と夜と音楽と...[445]映画に命をかける人たちがいる/十河 進

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映画がなければ生きていけない 2007-2009〈八甲田山/鉄道員(ぽっぽや)/劔岳 点の記〉

●目立つものを好む若い頃の衒気が漂う

「映画と夜と音楽と...」と連載タイトルにあるように僕は本を読み、音楽を聴き、映画を見る。そして、文章を書く。僕は長く文章を書いてきた人間だ。小さな頃から書くのは好きだった。高校生の頃には、初めて小説らしきものとシナリオを書いた。シナリオは8ミリでの映画化が前提だったが、挫折した。

大学時代には、友人たちと同人誌をやっていた。大学のクラスの級友たちと始めた同人誌は、神田神保町の喫茶店の名前を借りて「ラドリオ」とつけ、高校時代からの友人たち数人と始めた同人誌は「発情衝撃体」という誌名にした。「発情衝撃体」というのは、仲間のひとりであるNが金井美恵子の詩から見付けてきた。

Nは金井美恵子の「春の画の館」(だったと記憶している)という詩の中に出てくる「さみしく泣くのよ わたしの局部〈あそこ〉」というフレーズが気に入って、何かというと口にした。マージャンをやっていても、リーチをかけてタバコを口にし、そのフレーズをつぶやく。「局部と書いて〈あそこ〉とルビを振るセンスがいい」と言う。

その詩のタイトルの漢字だけをつなげると「春画館」となる。春画の館という意味である。詩は「春の画の館の主人は...」と始まる。後に金井美恵子は同じタイトルの小説を書いた。金井美恵子は、当時、「現代詩手帖」で天才少女詩人と呼ばれており、やがて小説を出すと天才少女作家となった。異端好みの大学生たちには受けていたし、ある種の難解さが心地よかった。



それにしても「発情衝撃体」というタイトルを付けるとは、今から考えると若者の衒気としか思えない。若いときは目立つものを好んだし、人と違うものを志向した。歳をとると目立たないことを旨とし、なるべく人と同じようにありたいと思う。グレーのスーツを身に着け、一般サラリーマンと呼ばれることを今の僕は望んでいる。通勤電車の中で見分けがつかない存在であることが心地よいのだ。

さて、ある大手出版社の面接を受けたとき、「大学時代に何をやっていましたか」と訊かれて、「友人たちと同人誌を出していました」と答えると、「どんなタイトルですか」と突っ込まれ、「『発情衝撃体』です」と僕は誇らしげに答えた。今思うと、赤面の至りだ。「タイとは軍隊のタイですか」と面接官は苦笑いしながら、さらに質問してきた。

「軍隊のタイではなく、結合体とか、運動体といったタイです」と僕は答え、面接官は苦笑いを深めた。「体育のタイですね。それで、発情した衝撃体とは何を表現しているのですか?」と面接官はしつこく追及してきた。「それはですね...」と僕は詰まった。「発情衝撃体」とは意味のない造語だから、ニュアンスが伝わればいいと思っていただけである。「発情した衝撃体だぜ、衝撃的じゃねぇか」と言ったNの顔が浮かんだ。

面接で相手を見抜くには、受験者がこだわるものを追及しムキにさせ、本性を顕わにさせる手法がある。通り一遍の質問では、マニュアル通りの答えしか返ってこない。そのとき、僕もその手に乗ってしまい、結局、落ちた。あのとき合格していれば、もしかしたら「少年ジャンプ」の全盛期を経験できたかもしれない。いや、月刊「プレイボーイ」の創刊に立ち合い、開高健さんの「オーパ」を担当できたかもしれなかった。

●伝説の映画キャメラマンたちにめぐりあえた

就職の時には文章を書いて喰っていける職業を前提にしたから、主として出版社を受験し一社だけ新聞社を受けた。コピーライターでもやるかと思って広告会社もひとつ受けたけれど、結局、映像関係の専門誌を出している出版社に入った。というか、拾われた。大学時代に写真を始め自分で暗室作業もやっていたので、写真雑誌に興味があったからだ。

青春の蹉跌 [VHS]しかし、僕は面接のときに映画好きの本性を晒してしまったのである。「きみは何が好きかね」と訊かれ、「映画です」と答えてしまったのだ。当然、次の質問がきた。「最近、見た映画を教えてください」と言われ、僕は「青春の蹉跌」(1974年)を挙げた。その印象的なシーンを、カメラアングルまで詳細に解説した。いつの間にか手振り身振りが入っていた。

そういうわけで、入社が決まって配属されたのは映像を創っているアマチュアを読者ターゲットにしている「小型映画」という雑誌の別冊編集部だった。8ミリの専門誌である。当時、8ミリフィルムの端に磁気帯を塗布し、映像と音声が同時に記録できる同時録音カメラが出たばかりで、8ミリカメラメーカーは凄く元気があったのだ。

僕が編集していた専門誌は映像を創る側のことを記事にするので、プロに取材するときもスタッフを対象にすることが多かった。監督よりはキャメラマンであり、照明マンであり、音声マンなどだった。多くのキャメラマン(最近は撮影監督と呼ばれることが多いけれど)に取材でお世話になったが、今から思えば凄い顔ぶればかりだった。

小早川家の秋 [DVD]東宝の中井朝一さんは、入社早々の新米編集者にとっては優しいおじさんという感じだった。戦前にキャメラマンとして一本立ちし、黒澤明監督の主要作品はほとんど手掛けていた。成瀬巳喜男監督の作品も手掛けたし、小津安二郎が東宝で撮った「小早川家の秋」(1961年)も撮影している。僕が会った頃は、黒澤明監督の新作「デルス・ウザーラ」(1975年)の準備をしていた。中井さんには黒澤作品「野良犬」(1949年)の舞台裏を具体的にうかがった。

若者たち [DVD]東宝争議を経てフリーになり小林正樹監督の「人間の條件」(1959年)や「切腹」(1962年)を撮影した宮島義勇さんの事務所が会社から近かったので、何度かうかがったことがある。僕は映画版「若者たち」(1967年)の現場について、いろいろ質問した。後になって、小林正樹監督についてもっと訊いておくべきだったと悔やんだ。

キューポラのある街 [DVD]日活の代表的なキャメラマンだった姫田真左久さんに会ったのは、仕事だったのか、新宿の酒場だったのか記憶が混濁している。日活のいろいろな監督の作品を手掛けている人だったが、僕はやはり「キューポラのある街」(1962年)についての質問が多かった。後には日活ロマンポルノも手掛けたし、日活出身の長谷部安春監督と組んで「あぶない刑事」(1987年)なども撮っている。

ひまわりとキャメラ―撮影監督・岡崎宏三一代記岡崎宏三さんには、市川崑監督と組んだ「我輩は猫である」(1975年)で取材した。猫の目ショットを撮るために独自の超広角レンズを使用した話を記事にした。同時期に手掛けた「雨のアムステルダム」(1975年)の特定のショットの話が出たので、三脚と一眼レフカメラを二番館に持ち込んで、目当てのショットをスクリーンから撮影した。今、そんなことをやっていたらすぐ捕まってしまう。

●活動屋魂を伝える過酷な撮影をするキャメラマン

羅生門 デジタル完全版 [Blu-ray]戦前から活躍してきた名匠たちの話を聞いたおかげで、僕は映画を裏方の目で見ることができるようになった。監督の意図を具体的にフィルムに定着させるのがキャメラマンの仕事である。黒澤明は大映で宮川一夫という名キャメラマンと出会い「羅生門」(1950年)が生まれた。小津安二郎には厚田雄春キャメラマンがいた。

中井さんや宮島さんたちより若い世代のキャメラマンで、僕が気に入っていたのは川上皓一、仙元誠三、長谷川清、木村大作といったキャメラマンたちだった。どの人もブルーを基調とした抜けのよい映像を創る印象がある。透明感と空気感が似ている気がする。

ヨーロッパ系の映画が暖色系のアンバーを基調にするのに対して、日本映画は寒色系のブルーを基調にする傾向がある。これは絵画の世界にも感じていて、ヨーロッパの絵画と日本画の違いも似ているのではないだろうか。北野武の作品は海外で「キタノ・ブルー」と言われ珍しがられているが、あれは日本映画の伝統的な特徴だと思う。

サード [DVD]川上皓一には「サード」(1978年)があり、仙元誠三には「ヨコハマBJブルース」(1981年)や「Wの悲劇」(1984年)がある。長谷川清には市川崑監督の「犬神家の一族」(1976年)に始まる金田一耕助シリーズがある。この作品ではブルー・フィルターを駆使したと長谷川さんはどこかで語っていた。

そして、木村大作さんである。東宝で黒澤組の斎藤孝雄キャメラマンや岡本組の村井博キャメラマンに多くついた後、「野獣狩り」(1973年)で撮影監督として独立。すでに30代半ばだった。映画のスタッフは徒弟制度の職人たちの世界である。サード・アシスタントから始めて、セカンド、チーフと進み、やがて撮影監督になる。10年以上の下積みは当たり前なのだ。

駅 STATION [DVD]木村さんの手掛けた作品では「駅 STATION」(1981年)の美しい映像が忘れられない。木村さんが高倉健の専属キャメラマンみたいになるきっかけは、「八甲田山」(1977年)だった。これは、健さんのスチルを撮っている人から聞いた話だが、あの極寒のロケで木村さんはジャブジャブと十和田湖の中に入っていき「キャメラはこのポジションしかない」と言ったという。

雪の積もる八甲田。身を切るどころではない冷たさだろう。冷たいというより、痺れる、いや、感覚がマヒする冷たさだ。長時間入っていたら、どんなことになるかわからない。そこにキャメラを据えて撮影した。それを見た健さんが一発で気に入ったという。以来、高倉健主演作は、ほとんど木村さんが撮影監督をつとめてきた。

劔岳 点の記 [Blu-ray]昨年、TBSテレビ「情熱大陸」で木村大作さんを久しぶりに見た。木村さんはついに監督をやるという。それが「劔岳 点の記」(2009年)だった。過酷な撮影が続いていた。まず撮影機材を抱えて劔岳に登る。俳優たちも役の扮装をしたまま機材を抱えていた。浅野忠信、香川照之たちはろくな登山の装備もない時代の恰好で、雪を踏みしめていた。

雪崩に呑み込まれるシーンの現場が映った。俳優たちが雪の下に埋まる。木村さんがキャメラのファインダーを覗いてスタートを告げる。しかし、もやがたちこめてくる。「カット」の声がなかなかかからない。俳優たちは冷たい雪の下に横たわったままだ。見ている方が心配になる。ようやく「カット」がかかったが、もやが濃すぎたのでリテイクだと木村さんは厳しく宣言した。

そうして完成した木村大作さんの初監督作品は、今年の夏前に公開され大きな話題を呼んだ。木村さんのことだ。CGで誤魔化すなんてことはやっていない。その場にキャメラを据えて撮影した、雄大な自然風景のショットばかりだ。一日の半分以上は山登りだった、とある出演者がぼやいていた。過酷な撮影だったことが、スクリーンから伝わってくる。しかし、だからこそ、自然の素晴らしさに感動する。

鉄道員(ぽっぽや) [DVD]そういえば「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年)では、あるスタッフが雪に埋もれて大変なことになりかけた話も聞いた。映画の現場では、人が死ぬこともある。それほど情熱を傾ける対象として、映画があるのだ。映画が誕生して100年を越え、世界中で映画に命をかけてきた人たちがいた。「活動屋魂、いまだ健在」とは「蒲田行進曲」(1982年)の中のセリフだが、木村大作さんを見ていると、その言葉が甦ってくる。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com

先週、弱気の愚痴を書いたら、お叱りをいただきました。最終の校正折りと表紙とカバー・帯の色校正が出て、それを見てたら「いい本じゃないか」と再び自惚れ状態に...。恍惚と不安は交互にあらわれるようです。せっかく出す本ですから、売れてくれないと出版社に迷惑をかけます。このテキストが配信される頃は、印刷されているはず。16ページ折り37台。三巻目も600ページ近くあり、巻頭は大沢在昌さんと私の対談です。クリスマスプレゼント、年末年始の読書にいかがでしょうか。

「映画がなければ生きていけない2007-2009」アマゾンで予約受付中。
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21日(月)書店に並びます。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html >
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm >
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html >

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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
水曜社 2006-12-23
おすすめ平均 star
star特に40歳以上の酸いも甘いも経験した映画ファンには是非!
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。

映画がなければ生きていけない 2003‐2006 ジャガーノート [DVD] ハリーとトント [DVD] 重犯罪特捜班 / ザ・セブン・アップス [DVD] 俺たちに明日はない [DVD]

by G-Tools , 2009/12/11