[2767] 人生は悔いるだけのものなのか

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《にゃーにゃーにゃーな人が読むとスカッとする本》

■映画と夜と音楽と...[446]
 人生は悔いるだけのものなのか
 十河 進

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 バカと暇人? 病んでる人? ウェブの住人の人物像を探る
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■映画と夜と音楽と...[446]
人生は悔いるだけのものなのか

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20091218140300.html
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〈列車に乗った男/アメリカ、家族のいる風景〉

●自分の人生を全面的に肯定できない人々

彼は地方の小さな街の由緒ある家に生まれ、人生のほとんどを古い屋敷で過ごしてきた。屋敷は階段の途中の壁に、先祖たちの肖像画がかけられているような館だ。彼は高校の国語教師として職をまっとうし、今はリタイアしている。母親の遺産が入ったときに羽目を外そうとパリにいったが、結局、映画を見続けただけで帰ってきた。結婚はしなかったし、子供はいない。書物に取り囲まれて生きているが、初老になった今でも自宅に呼ぶ愛人はいる。

その週末、彼は心臓の手術をする予定になっていた。死ぬことは怖くないが、何かが彼の心残りになっている。自分の人生を全面的に肯定できないでいるからだ。これでよかった、と自分の人生を振り返れないのである。充たされない何かが、彼の中にある。このままでは死んでも死にきれない、と思うほどのやり切れなさではない。自分が憧れていた何か、実現できなかった何かが彼を後悔させる。

平穏無事であり、何の起伏もなかった長い長い時間、そんな人生がここへきて彼を歯がみさせる。金の苦労をしたわけではない。命がけの恋愛はしたこともない。教え子たちに何かを託そうとしたのではなく、ただ、自分の仕事として彼らに詩を教えてきた。だいたい、彼らは、自分のことなど忘れてしまっているに違いない。

そんな彼がひとりの男に会った。その男は列車から降りたのだろう、鞄を提げて薬局にきてアスピリンを買った。髪は短く刈り上げているが、もみあげが長く、あごひげと口ひげを生やしていた。目が鷲のように鋭い。頬がそげ、荒れた肌が男の過酷だった人生を顕わにしているかのようだ。彼は、その男に興味を惹かれ、思わず「薬を飲むのに水がいるね」と声をかけ自宅に案内する。

男は水をもらってアスピリンを飲むと出ていったが、観光シーズンしかホテルが営業していないので戻ってくる。彼は内心、男が戻るのを期待していたのかもしれない。男を部屋に案内し、西部劇のヒーローの真似をする。彼は自分の夢を語る。西部劇のヒーローのようになりたかったと...。無口な男は「映画の見過ぎだ」と短く反応する。そう、彼はその男のようになりたかったのだ。

一方、男は彼の古い部屋を見渡し「ここには過去がある」と口にする。翌朝、男は彼に「部屋履きを履きたい」と言う。部屋履きを履いたことがないのだ。その男の部屋履きを履いたことがない人生を彼は想像する。家に籠もっている間、彼はいつも部屋履きを履いている。彼とは、対極のような人生だったのではないだろうか。

もう初老といってもいい男ふたりが、古い屋敷で共同生活のように暮らしている。彼が夕食を作り、男がバゲットを買いに出る。バルコニーで星を見上げ、会話をする。彼と男は次第に親友のようになる。男は彼の落ち着いた生活に、いつの間にか憧れを感じているのだろう。

彼は、男が拳銃を持っているのに気付く。ある夜、一緒に食事をしワインを飲んでいるときに「この街にいる目的は?」と訊くが、男は「わかってるんだろ」と言う。もちろん彼にはわかっていた。「手伝おうか?」とまで言い出す。彼は銀行強盗をするのが夢だったと男に言う。そして、あることを男にねだる。

彼がねだったのは、男が持っている自動拳銃を撃つことだった。彼は廃屋で空き缶を並べて拳銃を撃つ。男が簡単にアドバイスする。そのとき、男がある詩のフレーズを暗唱する。それは、彼が夕食のときに男に教えた詩だった。男は続きが知りたくて、調べたという。男は、彼の人生を羨んでいる。落ち着いた人生に惹かれているのだ。

●人生の黄昏を迎えたふたりの男を描いて秀逸

フランスのパトリス・ルコント監督は、僕と同じで「人生は苦い派」だと分類しているのだが、その割りには作品には甘美な救いがあって、それだからファンが多いのだと思う。日本では官能的な映像が評判になった「髪結いの亭主」(1990年)が公開され、その後、一作前の「仕立屋の恋」(1989年)も封切りになった。その後の作品を見ると「耽美派」「官能派」と呼ぶのがふさわしいかもしれない。

「橋の上の娘」(1999年)は、ナイフ投げ芸人(ダニエル・オートゥイユ)とその標的になる娘(バネッサ・パラディ)のナイフを通しての官能的な関係を描く映画だったし、「歓楽通り」(2002年)は娼婦の館で育った男の官能に充ちた物語だったが、それはパトリス・ルコント独特のカムフラージュではないか。彼は、間違いなく「人生は苦い派」のひとりだと僕は思っている。

「髪結いの亭主」は、髪を切られる官能的な快感を映画にしてしまった奇妙な作品だったけれど、その結末はひどく苦い。少年時代に女性の理容師に髪を切られているときの快感は僕にも理解できたが、その夢を抱いたまま大人になり美容師と結婚し、人生に満足していた男は最後に手ひどく裏切られるのである。彼はせっかく手に入れた幸福を、失ってしまうのである。

パトリス・ルコントの本音は「ハーフ・ア・チャンス」(1998年)にあるのではないだろうか。歳を重ねたアラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドのふたりを引っ張り出して、懐かしいアクション映画を作ってしまったところに彼の嗜好がうかがえる。彼は少年の頃に、ふたりの映画を見て夢中になったに違いない。ベルモンドの「リオの男」(1963年)そっくりなシーンまで用意する傾倒ぶりである。

そんなパトリス・ルコントの「列車に乗った男」(2002年)は、人生の黄昏を迎えたふたりの男を描いて秀逸だ。小さな街の高校教師として生きてきた男、無頼の世界で犯罪者として生きてきた男、そのふたりが出会ったときに何が起きるのか、パトリス・ルコントはそれを描こうとした。それぞれに悔恨の念を抱いている。教師だった男は、もっと波瀾万丈の人生を送りたかったのだ。犯罪者として生きてきた男は、落ち着いた人生に強い憧れを抱いている。

元教師を演じたのは「髪結いの亭主」のジャン・ロシュフォール、犯罪者役はフレンチ・ロックの帝王(日本で言えば内田裕也?)ジョニー・アリディである。40数年前、僕は「アイドルを探せ」をヒットさせたシルビー・ヴァルタンの夫としてジョニー・ハリディ(昔はこう表記された。フランス語独特の無音のHを知らなかったのだろう)を知ったが、その当時でもフランスでは彼の方がビッグネームだったらしい。

そのふたりが出演した「列車に乗った男」を見ると、人生の黄昏を迎え、誰もが己の人生を悔いているように見える。元教師の男は手術の前に姉に会いにいき、「姉さん、もう言ってもいいんじゃないか。『私の亭主は最低だった』って」と促し、姉はとうとうその言葉を口にする。それは、長い結婚生活を完全に否定することだが、その言葉を口にすることで彼女は解放される。新しい人生が拓くような気分になる。

そして、元教師の男もレストランでうるさく騒いでいる若い男たちとケンカになるのを覚悟して注意することで、今までの自分ではない何かになろうとする。彼は、60年以上生きてきた己を否定するのである。彼にとっては、60年以上つき合ってきた自分は、否定されるべき存在なのだ。誰もが、自分の人生には満足していない。しかし、人生は悔いるだけのものなのだろうか。

●人生が思い通りになると思うほど彼は若くない

もうひとり、己の人生を悔いている男を思い出した。彼は人気のなくなった映画スターだ。かつては西部劇スターとして、どこへいっても女が群がった。それが、今は砂漠の真ん中でB級映画のロケに参加している。彼は、今の状況に嫌気がさしているのだ。何もかも放り出したい。そんな衝動が撮影中に起こった。彼はローンレンジャーのような衣装で、馬に乗ったまま撮影現場から逃げ出す。何もかもがどうでもいい。

放埒な生活を送ってきた。無軌道と言われても仕方がない。映画スターという特権的な人生だったのだ。女たちを抱き、酒を浴びるように飲み、やりたい放題だった。だが、次第に人気が翳り、彼を見た通行人たちは「どこかで見た顔ね」という反応しかしなくなった。そのことは、もちろん腹立たしい。だが、人生が思い通りになると思うほど、彼は若くない。それなりに歳を重ね、経験も積んできたのだ。

彼は30年ぶりに故郷の母を訪ねる。ずっと音信不通のようになっていた。何の連絡もせず、母親を棄てていたのだ。だが、母親はまるで変わらない。息子として彼を迎えてくれた。彼のことを心配し、暖かく迎え入れてくれた。おまけに三十年近く前にかかってきた女の電話のことを憶えていて、彼に子供がいるらしいことを告げる。その女は彼の子供を妊娠したのだと、母親に伝言を頼んだのだった。

彼は忘れていた。女は大勢いた。ひと晩だけの関係を入れれば、一体何人いたのかわからない。しかし、彼は三十年の記憶を探る。その記憶を探る中で、彼は自らの人生を振り返らずにはいられない。そこにあるのは、深い悔恨ばかりだ。悔いるしかない人生だったことを、今さらのように彼は気付かされる。愚かだった。なぜ、そんな風に生きてきてしまったのか。だが、取り返しはつかない。

彼の記憶の中に、ひとりの女が浮かぶ。ある街でロケをして長く滞在したときに関係ができた女だ。彼は、その小さな街に女を探しにいく。女はいた。昔と同じように酒場のウェイトレスだ。その酒場には、彼がロケのときに書いたサインが飾られていた。二十数年前のことだ。人気絶頂の時代だった。その頃、彼の前に女たちは進んで身を投げ出した。だが、そのひとりだったウェイトレスは、自分の子供を生んでいた。

ヴィム・ヴェンダース監督が「パリ、テキサス」(1984年)以来、二十年ぶりにサム・シェパードと組んだ「アメリカ,家族のいる風景」(2005年)は、アメリカの乾いた風景が美しく捉えられた映画だ。乾いた空気がスクリーンの外に漂う。その風景の中で、人生を虚しく費やした男の深い悔いが伝わってきた。彼は自分の子供という存在に戸惑い、それでも自分の人生は無駄ではなかったのではないかと思い始める。少なくとも、自分には子供がいた...。

だが、彼は単純に父親であったことの幸せを噛みしめるという風にはならない。子供がいることもまた、人生にとっては悔いになる要素だと思う。子供を持っても持たなくても、おそらく人は悔いる。子供を育てた人間は、ときに子供がいなかったらどんな人生だっただろうと後悔し、子供がいない人生を送った人間は、老いた悲しみの中で子供がいたら人生はどう変わっていただろうと悔いるのだ。

それは、あり得なかった人生を望む、人間の性かもしれない。もちろん、僕も振り返って後悔することは多い。だが、それは日々変化する。あるときは結婚したことを悔い、あるときには家族がいたことを感謝する。そのたびに、あのとき別の選択をしていたら...と空想する。もちろん、そんなことは意味がない。意味がないが、そう思うことで、人は本当に救いのない後悔から逃れられているのではないだろうか。悔いながらも、人は生き続けるしかないのだ。悔いることも...、人生の一部なのかもしれない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
いつもの病院にいったら「基礎疾患があるので新型インフルエンザの予防接種は優先されます。受けますか」と訊かれ、しばらく迷ったが受けることにした。予防接種は初めてだからというので、医者は注射をした後「異常が出ないか、30分は待合室で様子を見てください」と言う。異常はなかったが、頭がくらくらした。二日酔いだった。

●306回〜446回までのコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が12月21日には書店に並びます。アマゾンで予約受付中です。
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4880652288/dgcrcom-22/
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●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■Otakuワールドへようこそ![109]
バカと暇人? 病んでる人? ウェブの住人の人物像を探る

GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20091218140200.html
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暮れだからというよりも、グループ展の直前だからという理由で、このところ、わりかし忙しい。グループ展は来週火曜からだ。それまでに10人の人形作家の作品を撮らねばならない。今この時点で、やっと6人。撮るペースが加速的に詰まってきている。一昨日水曜は会社を休んで、文化財指定の古い建物で撮った。今週末が山場だ。もう後がない。コミケの入場待機列が、もし全部人形だったら怖いだろうな。それが全部、私に撮られるのを待って並んでいるんだったらますます怖いだろうな。

そういうわけで、人形を撮ったって話ならいくらでも書けるんだけど。すでに2回続けざまにやってますわな。今回は、最近読んだ本の感想など。忙しい忙しい言いながら、なぜ本など読んでる暇があるか、というツッコミに対しては、現実を直視するのが恐ろしくて、ついつい本に逃げ込んでしまいました、としか言いようがない。

●ウェブはバカと暇人のものか

はいはい、私のものだと前々から思ってました。って茶々は置いといて。中川淳一郎「ウェブはバカと暇人のもの 現場からのネット敗北宣言」光文社新書(2009年4月)。これは読まねばと思い、一気に読んだ。挑発的なタイトルに釣られたわけではない。表紙裏の紹介文に共感してのことである。いわく、

 とにかくネットが気持ち悪い。そこで他人を「死ね」「ゴミ」「クズ」と罵
 倒しまくる人も気持ち悪いし、「通報しますた」と揚げ足取りばかりする人
 も気持ち悪いし、アイドルの他愛もないブログが「絶賛キャーキャーコメン
 ト」で埋まるのも気持ち悪いし、ミクシィの「今日のランチはカルボナーラ」
 みたいなどうでもいい書き込みも気持ち悪い。うんざりだ。

いやー、思ってた思ってたよく言った。この本は、「テレビブロス」の編集者であり、「アメーバニュース」の中の人でもあり、職業柄、ネット漬けの日々を送る著者が、「ブログ炎上」「吉野家テラ豚丼騒動」「オーマイニュースの惨敗」など、ネット上で起きているおよそ美しくないドタバタを具体的に取り上げ、「ウェブ2.0」だかなんだか知らないけど、ネットにあんまり過剰な期待をかけてもダメなんじゃない? と疑問を呈するものである。梅田望夫の「ウェブ進化論」に対抗する「ウェブ退化論」とも言える。って、ずばりそのタイトルの本も書いてるのね、この人。

私は「ウェブ進化論」を読んで「にゃーにゃーにゃー」という感想しか持てなかった。正面切って「アンタの言うことは間違ってる」と反論できるほどの材料を持ち合わせているわけではないけれど、なんだかすーっとは飲み下せない違和感がある。昔、落合信彦が、悩める若者の精神の救済者のように、雑誌などで持ち上げられまくったときと同じ感覚だ。

立派すぎる人は、煙たいのでなるべく近寄らないでください。どうぞ高速道路をお通りくださいませ、私は塀の上をのそのそ歩いていきますから、みたいな感覚。そんな、にゃーにゃーにゃーな人がこの本を読むとスカッとする。やっぱそうじゃん。ダメダメな場所なんだよ、ネットって。テレビにとって代わる次世代のマーケティングツールだかなんだかは知らないけど、バカで暇人な私のような者にとって、居心地のいい遊び場なんだよなぁ。

●初めよくやがて腐臭のネットかな

ネットの用途やユーザ数が拡大していくと同時に、中身が退化していく歴史は私も目の当たりにしてきた。ネットの黎明期、今の巨大掲示板「2ちゃんねる」のように、トピック別に区切られた場で誰もが自由に発言できる仕組みとして「ネットニュース」というのがあった。数学の話題はsci.mathで、独身者の愚痴はsoc.singlesで、ミョーに明るい猥談はalt.sexで、という具合に。

発言の末尾にはシグネチャ(署名)をつけることになっていて、所属と実名が当たり前のように公表されていた。そうでなくても、メールアドレスが自動的に公表されるから、分かっちゃう。プリンストン大学とかマサチューセッツ工科大学とかIBMとかINTELとか。すげーの。あの頃のインターネットが一番面白かった。HTMLが出てくる前で、テキストでしか情報伝達できなかったんだけど。NNTPっちゅうんだっけ。

こう言っちゃ反感買う恐れがあるけれど、あの頃のネットの何が面白かったかというと、全世界からエリートだけを抜き出して、互いに結びつける魔法の装置だったという点である。飛び抜けた知性と教養の持ち主が、世界中の同レベルの仲間を相手にしていることを意識して発言するのだから、面白くないはずがない。内容が豊かで表現が機知に富んだ発言がどんどん投げ込まれ、新鮮な驚きの連続であった。

ネットは性善説をあたりまえのように信じるという基盤の上で運用され、それがまたあたりまえのように成立していたところが、今から思えば驚異的である。数学のフォーラムでは、誰かが質問を投げると、さほど間を置かずに的確な答えが返ってきた。社会問題のフォーラムでは、心の傷をもった人がいて苦しみを訴えれば、やさしく慰め、希望がもてるようないい言葉をかけてくる人がいて、暖かい空気の漂う場になっていた。

猥談の場でさえ、たとえば「カーセックスに向いた車は何であるか」のような議題に対し、論文調のやけに堅〜い文体で理路整然と意見を述べ合ったりしてて、そのエリートくさいユーモアのセンスが鼻につく人もいるだろうけど、とにかく知性と教養の空気に満ち満ちていた。やがて議論は「セックスに向いた飛行機は何であるか」へと発展していき、どこそこの路線の二階席は空いてるし、夜間はほとんど見回りが来ないので、やり放題だったよ、なんて最先端の情報が交換されていた。

ウィットに富んだやりとりも見事なもので、"People are naked underneath their clothes"(人は服の下ではみな裸)という人がいれば、"What a revelation!"(なんという啓示!)と返す人がいる。"revelation"は「啓示」と「露出」をかけたシャレである。

女性の「月の障り」にまつわる悲惨な体験談募集、みたいな話題では、状況を事細かに描写して、情景が目に浮かぶようなグロいのが次から次へと投稿されて、こっちが貧血起こしそうだったなぁ。しまいには「ここまで暴露しちゃったら男の子たちから幻滅されちゃうかもよ」と言った人がいたけど、もう遅いよ、って感じ。

こんなのを、新技術のリサーチと英語の勉強を兼ねてという名目で仕事中に堂々と読んで過ごせた私。いい時代だった。言い訳がましいけど、これのおかげで少なくとも英語の実力はそれなりに伸びたと実感している。

インターネットは、前身をARPANETといって、アメリカの軍事目的ネットワークだった。それが、学術目的となり、商用目的となり、なんでもありの玉石混交種々雑多ぐっちゃんぐっちゃんネットとなっていった。その流れで、「ネットニュース」もやがて荒れていく。

数学フォーラムでは、ものすごい勢いで住人が増加しつづけているのが実感されるようになってくると、新米者によって同じ質問が繰り返し繰り返し投げられるようになってきた。「1を3で割ると、0.3333...となり、それを3倍すると0.9999...となって、1に戻らないではないか」というのが典型的なやつ。

FAQ(frequently asked questions、よくある質問)をまず読んでから投稿してちょうだいね、それがマナーですよ、とたしなめられるのだが、その人は二度と同じことをしなくなるとしても、後から来た人がまた同じことをするので、だんだん収拾がつかなくなってくる。場の魅力が失われていく。ゴミ捨て場の臭気が漂い始める。

HTMLが出てきて、メルマガ、ブログ、SNS、twitterのようにいろいろな形態の情報伝達ツールが現れたが、なんだか似たような道をぐるぐる回っているだけ、という印象を私はもっている。面白いのは最初だけで、その面白さが新規ユーザをひきつけ、ユーザ数が爆発的に増えると、やがて価値の低い情報があふれて、価値の高い情報が埋もれて見えなくなり、場に腐臭がしてくる。人々がうんざりしてきたころに、目新しいサービスが登場してみんな飛びつくけど、同じことの繰り返し、みたいな。

ミクシィのフォトアルバムだって、最初は有料会員の限定機能だった。当時は、人のフォトアルバムを順繰りに眺めていくのを楽しみにしていた。キーワードをブランクにして検索をかけると、新しいほうから順にサムネイル画像が表示されるので、ざっと見ていき、きれいなのがあれば中を開いてみるのである。だいたい10個に1個ぐらいの割合で、いわゆるハイアマチュアの作品に出会える。腕の立つ人が、本気で撮った、非常に美しい写真。こういうのは見ていて飽きない。

ところが、この機能、無料ユーザにまで開放された時点で、終わった。私にとっては。ページをめくってもめくっても、撮った場面に一緒にいた当事者以外の人にとっては何の意味もない、ゴミクズ画像しか出てこないのである。砂浜からダイヤモンドの粒を探すような作業をする根気はなく、楽しみがひとつ消滅した。

ミクシィにはニュースを引用して日記を書く機能があるが、これもまた然り。初期のころは、ちょっとひねった感想を述べるとどどどと足跡がつき、ひねったコメントを残してくれる通りすがりの見知らぬ人もけっこういた。それで知り合いになってずっと仲のいい人もいる。今は、日記を書いてから最初の10分だけは、分速20ペタの超速で足跡がつくが、それ以降はぱったりと閑古鳥。ニュースを引いて日記を書く人があまりに多くて、あっという間に埋もれてしまうのである。

ニュースから日記を読みにいくと、たまには面白いことを言う人がいるのだけど、そこにたどり着くまでに大量の瓦礫を踏み越えないとならない。「アホ」「バカ」「死ねばいいのに」。性犯罪のニュースではお決まりの「虚勢しちまえ」。ニュース記事を読んだ時点でついてるだろうなと予想されるコメントがやっぱりついてたというヒネリのなさ。ああうんざり。

やっぱ、畳やなんかと同様、ネット上の種々のサービスも新しいほうが...ってなことを思っていたので、この本には共感するところ大なるものがあった。しかし、人はなぜネット上の公共の場に脊髄反射のような芸も品もない書き込みをするのかという疑問に対しては、「バカだから」「暇だから」だけではかたづけきれない、なにか不健康なものを私は感じていた。本書はそのかゆいところにまでは手が届かなかった感じ。

●バカとか暇とかよりも病なんではないかと

天に向かって吐いた唾のごとく、外に吐いた言葉は半分くらい自分に返ってきちゃうという法則があるっぽい。人に向かって死ね死ね死ね死ね言ってた人がある日ぱったり自殺しちゃう、なんてことは、きっとそこらへんでよく起きているのだと思う。

他人に侮蔑的な言葉を投げつけて見下していると、そのときだけは自分が高みにいるような快感が得られても、結局は「そういうお前はどれほど立派なんだ」という自問となって、襲いかかってきてしまう。心とは、そういうメカニズムになっているらしい。だから、全力で他人をこき下ろす人を見ると、ああこの人も先は長くないのかもしれないなどと、ついつい不吉なことを考えてしまう。

だいたい、自分よりもダメな人間を探し出してきて、アイツよりは俺のほうがいくぶんかマシだ、と差分を算定することによってしか自己肯定の支えが得られないのだとしたら、その時点で心が弱いとみえる。誰と比べて上だの下だの気にする必要性も特段に感じることなく、自分には自分独自の軌道というものがある、と絶対的に自己肯定できれば、自信が感じられ、どっしりとした安定感がある。その基盤がないと、相対的な自己肯定に頼らざるを得なくて、下に見ることができる人を掘り出し続けなくてはならなくなる。

で、そういう努力はよく裏切られる。よほどダメそうにみえる人をつかまえてきて、こいつなら安全にけなしまくれるぞ、と思っていても、人とは分からないものである。特別な技能を隠し持っているけれど、やたらとひけらかしたりはしない謙虚な人だったと後から判明したりすれば、けなしていたほうがものすごーく滑稽な道化になってしまう。

そうすると、安全に手放しでけなせる対象は犯罪者というところに行き着く。これは便利だ。悪を憎む正義の動機からという大義名分が立つ。ただし、ドストエフスキーの「罪と罰」の例を引くまでもなく、犯罪者が必ずしも馬鹿であるとは限らないので、あんまりナメてかかるのはやっぱり危ういんだけどね。うふふ。

出典は忘れたが、坂口安吾あたりが言ってなかったっけ。精神の究極の高みに登りつめることを目指したが、志ならず挫折に終わり、今度は反対に徹底的に堕落してみようと目指した。そこで人づてにダメな人、ダメな人とたどっていき、その結果、もうこれ以上ひどいのはいないと思えるくらいに究極的にダメな人を探しあてることができた。その人は、自分よりもダメそうな人をなんとかして探し出し、あいつはダメだとけなすことに腐心して人生を過ごしていた。

もし、ネットにみられる美しくない諸現象が、人々の病んだ心を反映して起きているのだとしたら、その病みはいったい何に起因しているのだろうか。社会のシステム化が急速に進みすぎて、人間の尊厳を失わせたから、とか。リストラや派遣などの雇用形態の変化が、人間どうしの基本的な信頼関係を破壊してしまったから、とか。いろいろ考えちゃうけど、根拠があって言っているわけではなく、私の勝手な思い込みかもしれない。

だから、バカだ暇だと片付けてしまわずに、社会病理といった観点から、根拠を提示しつつ、因果関係を解き明かしてくれるような本を書いてくれる人がいてくれたらなぁ、と待ち望んでいたりする。仮説をちゃんと検証するには、そうとう骨の折れる調査が必要かも。って、人任せな態度もアレだから、私にいったい何ができるだろうか、と考えてみる。

新しい宗教を起こして、教祖様になって、悩める人々の心を正しい方向に導くべく、ひと肌脱いでみればよろしいか。ブルマを穿いて滝に打たれると、心が浄化・開放され、細かい悩みなんか一気に吹っ飛んでしまいますぞ、みたいな。幸福のブルマぱつぱつ教。ダメか。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

コスプレイヤーを撮るカメコ。だったはずが、いつの間にか人形を撮る人に。水曜に八裕(やひろ)沙(まさご)さんの人形を撮ったロケ地は、藤沢市民会館の敷地内にある旧近藤邸。大正14年竣工。国の登録有形文化財。もし万が一破損騒ぎでも起こした日にゃ、ニュースになりかねない。そしたらネットで「アホ」「バカ」「死ね」と罵倒の集中砲火を浴びるんだろうなぁ。

神経使ったさ。撮影許可をもらう手続きもなかなか大仰で、楽しめたし、いい経験になった。企画書はもう書きなれたけど、実印と印鑑証明が要ったのは初めてだったな。結婚にも離婚にも要らなかったのに。

「湘南藤沢フィルムコミッション」という社団法人があり、藤沢市内での企画物の撮影に際して手続きの窓口を一手に担当してくれる。この仕組みは、よいと思う。FCに企画書を提出すると、市役所との交渉を仲介してくれた。口頭でOKをもらってから、書面で手続き。

市役所へ行き、行政財産使用許可申請書、撮影利用申込書、物件撮影に伴う誓約書の3通の書類に記入し、実印を押し、印鑑証明とともに提出。最初の書類を持って市民会館へ行き、提出。捺印回覧の末尾は市長。手続き完了を後日電話で確認。

撮影当日、行政財産使用許可決定通知書が渡される。「神奈川県藤沢市長印」が押されている。駅前まで戻り、銀行で、一日の使用料500円を納付。戻って鍵を借りて、撮影開始という流れ。撮影後、管理の人が破損・紛失がないか点検して終了。うん、けっこう大変。けど、文化財で撮るとはこういうことか、と感覚がつかめたのは収穫。

ロケ地探しは常々の課題。廃工場とか営業休止中のホテルとか、撮影スタジオとして再生すれば、私以外にもきっと需要がありそう。コスプレイヤー、とか。って、すでにあるか。もっとできると、いいなぁ。
< http://www.shonanfujisawa.jp/
> 湘南藤沢フィルムコミッション
< http://www.geocities.jp/layerphotos/House091216/
> 旧近藤邸での写真
< http://yahiro.genin.jp/rougetsu.html
> 人形作家10人展「臘月祭」

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■イベント案内
「CSS Nite in KANSAI, LP1」大阪・京都初の合同イベント開催決定!
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< https://bn.dgcr.com/archives/20091218140100.html
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CSS Nite、初の大阪・京都合同版が遂に開催決定。初CMS特集として、東京のLPシリーズを大阪会場で開催します。Web制作現場にてCMSに対する必要性が高まる中、今回のセミナーは「経験豊富なパワーユーザ」によるイベントとなります。(制作会社の宣伝イベントではありません)

よくありがちな難案件をその場で解決するべく、その案件事例をもとにパワーユーザが実際にCMSを組み込んでいく様子を大公開!
「Movable Type」は東京よりステキな方を、「WordPress」はあのWordCampから、「a-blog cms」は静岡からパワーユーザを、「SOY CMS」は豆蔵(の代わり?)が、それぞれ出演。詳細は後日!(主催者より)

日時:2010年2月27日(土)午後
会場:TKP大阪梅田ビジネスセンター ホール2A(大阪市福島区福島5-4-21 TKPゲートタワービル TEL.06-4797-6610)< http://tkpumeda.net/access/
>
定員:150名
申込:12月20日より公式サイトにて

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■編集後記(12/18)

・一段と寒くなった。午後から犬の散歩や買い物で外に出ると、学校帰りの小学生たちによく出会う。驚くべきはこの季節に、薄着の子どもが少なからずいることだ。こっちは冬支度なのに、上着なしの春秋モードの子がいる。極端な子は半袖Tシャツに短パンの真夏モードである。しかも彼らは元気一杯で、まったく寒そうではない。なぜだ。耐寒性に優れた皮膚を持つ新人類か? 親がなにかの主義か? 家が貧しいのか? いずれでもなさそうだ。子ども間の薄着競争という説も浮上する。薄着の子どもに親が当惑しているとも聞く。いずれにせよ、見てる方が寒い。自転車で下校小学生軍団に遭遇すると大変だ。彼らは道交法は無視し、前も後ろも見ない。こっちの自転車が見えているはずだと思うのが間違い。予想外の行動をとるからじつに危険な連中だ。天下無敵の無法者、小学生男子。ほほえましくもあってきらいではないが。一方、天下無敵の無法者と言っては褒め過ぎだが、民主党幹事長というお方がいる。14日に行われた、傲慢で無法で無知(憲法解釈間違い)でウソつきの、とっても恥ずかしい記者会見の動画が、民主党のサイトにちゃんとあったのには驚いた。ご本人だって、これはまずかったと思っているはずだ。参院選にマイナスだもの。サイトから削除されないうちに見ておいた方がいい。不快な内容だけど我慢して。しかしなあ、天に唾する無茶苦茶な発言に、きちんとつっこめる記者がいないのが情けない。(柴田)
< http://www.dpj.or.jp/news/?num=17431
>
民主党 2009/12/14【ビデオ配信】小沢幹事長会見

・今日は午後から入居後点検のため、施工会社の人たちが来られる。引っ越ししてこのかた、他人が家に入るのははじめて。引っ越し前に家電や家具の運び入れはあったけど。昨日おとといと仕事があって、料理や洗濯はやっているものの、一部の掃除はさぼっている。今朝は早起きして掃除しているが、それでも気になるところが出てきて、松居一代が来るわけじゃないんだから、とか、慣れてらっしゃるって、とか言い聞かせながらも、水回りが気になる。窓のサッシやもろもろのホコリが気になってくる。松居棒でなでたりしないって! で、こういう時に限って、書留が届き、年賀状のセールスがはじまる。イレギュラーな電話が何本もかかってくる。すぐに対応してくれ、という話も。なんで? そういやまだ客用スリッパ買ってないよ!(hammer.mule)