映画と夜と音楽と...[447]父親の誇り・息子の敬意/十河 進

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〈3時10分、決断のとき〉

●元旦に初詣にいったときの出来事

毎年、元旦の朝には近くの香取神社へ初詣にいく。昔、まだ冷えた(?)夫婦関係になっていなかったときには、カミサンと紅白歌合戦が終わってすぐにいったことがある。着くと、ちょうど新年になっていた。しかし、参道の外にまでお参りの列ができていて、深夜の寒空の下、一時間近く並ぶことになった。その翌年、まだ高校生だった息子といったが、やはり参道の外にまで人が並んでいた。

このところ、ひとりで初詣にいくことが多くなった。毎年、破魔矢とお札を買ってくるので、それを納めにいって、今年の干支の破魔矢と新しいお札を買ってこなければならないから、やめるわけにいかないのだが、誰も付き合ってくれなくなったのだ。一昨年はひとりでいった。昨年は珍しくカミサンが付き合ってくれたが、今年もやはりひとりでお参りすることになった。

自宅からは、歩いて20分ほどである。家族連れが、やはり去年の破魔矢を持って歩いていく。羨ましいかと問われれば少し羨ましいが、まあ、そんなものだろうと思えるようになった。いつもは自室に籠もって本を読んだり、音楽を聴いたり、DVDを見たり、原稿を書いたりしているだけの男が、突然、家族一緒に...と言ったところで説得力はない。



元旦の10時過ぎだったが、参道にはまだ数10人の列ができていた。御用済みのお札と破魔矢を納め、お参りの列に並ぶと前にいる人が神社から出てきた、裃を着けた氏子代表みたいな人(地元の有力者だと思う)に声をかけ、いきなり深々と礼をした。それから大きな声で、「市場をクビになっちゃったんです」と言った。

氏子代表(かどうかはわからないが)の人は立ち止まり、「どうして?」と苦い顔をした。もしかして、この人が紹介した仕事なのだろうか、と瞬間的に僕は想像した。僕の前の人は「でも、お陰様で今年から職業訓練校に通えることになりました」と、みすぼらしい帽子を取り、再び最敬礼をした。

よく見ると、僕と同年輩か、もしかしたら年上なのかもしれない。ヨレヨレのジーンズに、かなり着古した革のジャケットを痩身に着けている。帽子を脱いだときにてっぺんが薄くなっているのが見えたが、髪は白髪交じりで長髪というより、のばし放題という形容が当たっている。もう少し崩したら、ホームレスの人と間違われるかもしれない。

彼はじっと参拝の順番を待ち、たったひとりで賽銭箱の前に立った。神主さんがお祓いをしてくれるのを、頭を垂れて受け、賽銭を入れ、綱を引いて鈴を鳴らし、作法通りに二礼二拍手をし、合掌して何かを祈った。その時間が、かなり長かった。何を祈っているのだろう、と僕は思った。

彼は、おそらく地元の人で、失業したのを氏子代表(かどうかは不明だが)になるほど地元では顔が利く人の紹介によって、近くにある市場で職を得たがうまくいかず、改めて職業訓練校で何か手に職を付けるのだろう。還暦近くになって、そんな風になるのは大変だろうなあ、と不況を実感した。みんな、幸せに暮らせないものだろうか。

しかし、彼に比べれば僕など運のいい人生だった、と思い上がった考えを持ったのではないか、と己を責める声がして、何となく落ち着かなくなった。そんな風に思うのは、傲慢である。彼も僕も、たったひとりで初詣にきているのは同じじゃないか、と改めて我が身を振り返る。どっちがいい人生だったかなんて、わかるわけはない。

●人は金を得るためだけに生きているわけではない

決断の3時10分 [DVD]昨年、「決断の3時10分」(1957年)のことを書いたけれど、あの映画では金を強奪し面白おかしく生きてきたアウトローより、貧しくとも真面目に働き家族を愛し、家族に愛されて暮らしている農民の方が幸せなのだという結末だった。50年代の映画である。それはそれで仕方がない。ピューリタン的モラルが生きていた頃のアメリカ映画なのだ。

3時10分、決断のとき [Blu-ray]「決断の3時10分」をリメイクした「3時10分、決断のとき」(2007年)は、リメイクものの多くがオリジナルを越えることができない、という定説をくつがえす傑作だった。多くの人を殺したアウトロー役のラッセル・クロウと、真面目に働く牧場主のクリスチャン・ベイル。このふたりの対比が見事で、最後のシーンでは涙ぐまずにはいられなかった。

ラッセル・クロウが演じるベン・ウェイドは冷血な人殺しで、駅馬車に積んでいる大金を強奪するのに皆殺しも辞さない。「金があれば何でも手に入る」とうそぶき、酒場で会った女も彼が肩に手を触れただけで身を任せる。しかし、女とつかの間の情事を持ったが故に、彼は保安官に逮捕されてしまう。

クリスチャン・ベイルが演じるダンは、北軍に狙撃兵として従軍したときに片脚を撃たれ義足になっている。今は小さな牧場の主だが、鉄道会社と結託する川上の牧場主に水をせき止められ、その牧場主に借金をしている貧乏暮らしだ。ある夜、借金を返せと迫る牧場主の手先タッカーに納屋を焼かれ、さらに困窮する。水がなければ牛は死ぬ。彼は追い込まれている。

そんなとき、ベン・ウェイドの一味が駅馬車を襲い皆殺しにするのを、ダンは息子ふたりと一緒に目撃する。それをベンに見付かるが、彼は馬だけを奪って親子を野に放つ。ダンは駅馬車の護衛をしていたバイロン(何とピーター・フォンダだ)を救い、荒野を町に向かっているときに、駅馬車襲撃を聞いた保安官たちと出会い、一緒に町へいく。

町の酒場で、ダンはベンに会い、彼が逮捕される場に立ち合う。鉄道会社の人間が馬で2日ほどかかる町にベンを護送し、3時10分発のユマ行き列車に乗せれば200ドル払うと聞いて、ダンは護送を引き受ける。護送するのは怪我をしたバイロン、彼を手当てした獣医、鉄道会社の男、それにダンの納屋を焼いたタッカーである。

オリジナル版と違って、この護送の道中に様々なエピソードが加えられている。この行程で、自分の欲望のために平気で人を殺してきたベンの生き方と、いくら真面目に働いても楽にならず困窮しているダンの生き方が対比される。夕食のときに会ったダンの妻を、「俺なら贅沢させられる。結婚前は美しかっただろう」と、ベンはダンを挑発する。

護衛はひとり、またひとりと死んでいき、鉄道駅のある町に着いたとき、残っていたのは、ダンと鉄道会社の男とダンの跡を追ってきた長男のウィリアムだけである。彼らは鉄道が到着する3時10分まで、ホテルの部屋に潜む。鉄道会社の男は金を出して保安官に応援を頼み、助手を含めて3人がやってくる。

しかし、ベンを救うべく凶暴無惨な強盗団の一味が町にやってくる。そのリーダー格のチャーリーは200ドルの札束を町の男たちに見せ、「ベン・ウェイドの護送をしている人間を殺せばこれをやる」と宣言する。何10人もの人間が、金につられて銃をとる。ホテルから駅まで800メートル。ダンがベンをユマ行きの列車に乗せるのは、どう考えても不可能だ。

●いくら金があっても誇りをなくしては生きていけない

「3時10分、決断のとき」は、「善と悪」「正義と不正義」「罪と罰」といった根源的なテーマを浮き彫りにする。ダンは借金を返済できる200ドルのために護送を引き受け、「金のためだろう」とベンに言われるのだが、彼は自らの誇りのために、ベンを列車に乗せるまで護送することにこだわる。ダンは、鉄道会社の男から「これまでだ。200ドルは払うから諦めろ」と言われても、たったひとりでベンを列車まで連行しようとする。

ダンはベンを連れてホテルを出る。そこからは銃弾の嵐だ。町中の人間が襲ってくる。彼らは金が欲しいのだ。金がすべてという、ベン的な価値観でしか生きていない。その中で、たったひとり自らの誇りのために、引き受けた使命を完遂しようと、ダンは引き金を絞り続ける。孤立無援の戦いだ。そんなダンの姿が、ベンの中にあった何かを変える。

銃弾の嵐をかいくぐり雑貨店に逃げ込んだ後、ダンの告白を聞いたベンは、自ら先頭に立って駅へ向かう。ダンとベンは、まるで同志のようだ。ベンは列車に乗せられ、ユマの刑務所に送られると公開処刑が待っているのだが、そのユマ行きの列車に乗るために、自ら銃弾をかいくぐって走る。

このシーンが素晴らしい。ギターが彼らの心を謳い上げる。流麗なキャメラワークが、走る彼らをとらえる。映像的エクスタシーである。気が付くと、僕の頬を涙が伝っていた。男たちの心が通じ合ったのだ。彼らは理解し合ったのだ。互いの人生を...。だから、死刑が待つ囚人なのに、自ら囚人護送の車両に向かい、死を賭して走る。

ダンが何のために命を張っているのか、ベンは理解し、その心根に打たれたのだ。だから、この後の意外な展開も僕には理解できた。何10人もの人間を冷血に殺してきたベン・ウェイドは、大金を奪い、それによって何でも手に入る生き方だけが幸せなのではないことを理解した。人は、いくら金があっても、誇りをなくしては生きていけない。ダンは、そのことを身をもって示す。

●父親はいつか子どもに理解されたいと願っている

「3時10分、決断のとき」のもうひとつのテーマは、オリジナル版でも描かれていたが、より強調する形で鮮明に描写される父と子の物語である。リメイク版では、ベンの長男ウィリアムは14歳と年長に設定され、彼のシーンから映画は始まる。彼は燃え上がる納屋から馬を助け出し、父のダンが「もういい」と止めるのも聞かず、エサを運び出そうとする。それは牧場に残っている最後のエサだった。

父は「何とかする」と言うが、息子は「嘘だ」と吐きすてるように反応する。彼は、父が不甲斐ないのだ。納屋を焼いたタッカーにライフルを向けると、父はそれを止める。納屋を焼かれて、泣き寝入りする父が信じられない。父は「そのうち、俺を理解する」と言うが、彼は「理解したくない」とにべもない。彼は苛立っている。貧乏にも、借金取りの横暴に対して反撃しない父親にも...。

彼はベン・ウェイド一派が駅馬車を襲い、生き残った護衛が部下のひとりを人質にとったとき、ベンが抜く手も見せず部下もろとも護衛を射殺するのを見て、思わず感心したように「速い」とつぶやく。父親がベンを護送するのを追いかけて合流し、野営のときに自分のカードさばきを「プロ並みだ」と言ったベンの言葉に誇らしさを感じる。

彼は地道に真面目に働いても、牧場を取られそうになっている不甲斐ない父親より、拳銃も速く欲しいものは何でも手に入れてきたベンに憧れているのだ。だが、孤立無援になっても、囚人を列車まで護送する使命をまっとうしようとする父親を見て、初めて「凄いよ、尊敬する」と父親に告げる。それに対し、ホテルを出る直前、死を覚悟したダンは息子に言う。

──立派に成長してくれた。おまえは、俺の誇りだ。

この言葉は、父親なら一度は言ってみたいと夢見るものだろうが、現実の人生ではほとんど言う機会はない。僕も一度は「おまえは俺の誇りだ」と子どもたちに言いたいと思っているが、それは、子どもたちが誇れることをしたときに言うのではなく、彼らが困難にぶつかり挫折しそうになったとき、彼らを力づけるために言いたいと思う。失意のとき、せめて父親くらいは、手を差し伸べる存在でありたい。

現在、我が家には28になろうとしている長期失職中の息子と、もうすぐ25になるフリーターの娘がいる。2年ほどSEとして会社員をやっていた息子は扶養から外しているが、娘は未だに扶養家族に入っている。23歳から社会人になり、35年間、厚生年金も健康保険も雇用保険も税金も納めてきた人間としては、情けない気持ちもあるが、そういう状態でも許容されるのが現代だ。

息子は自分なりの夢があるようで、夜中にしきりに何かやっている。娘も改めて今年からある専門学校へいくことになり、昨年の秋からパン屋でアルバイトを始めた。彼らの夢が実現することを僕は望んでいるが、そう簡単には実現しないだろう。生きることは、困難を乗り越えることだ。我が家の現状をシビアに見れば、ニートとフリーターが存在するだけである。それでも、彼と彼女が僕の誇りであることは間違いない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
昨年暮れ、結膜下出血になった。10年ほど前から時々なるのだけれど、そのときは出血が多く、左の眼球がいびつに膨らむほどだった。「赤目」といえば白土三平の劇画に出てきそうだが、ほんとに真っ赤な目になった。仕方がないので花粉防止用に買ったサングラスをしていたら、会社の若いモンに笑われてしまった。

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by G-Tools , 2010/01/15