電網悠語:日々の想い[145]支えてくれるもの
── 三井英樹 ──

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心が折れそうになる時がある。どんなに虚勢を張っても、体が動かない時がある。語っていて、言葉に力がないと自分で感じてしまう時がある。睡眠時間とか純粋な肉体的な問題は、年齢とともに下降していくのはいたしかたないにしても、精神的な部分でそれを認めたくない自分がいる。

自分が何によって支えられているのかを自覚するのは大切なことだろう。思い出、実績、音楽、喜怒哀楽、言葉、ヒーロー。心の中を覗くと、幾つもの太い支柱が見えてくる。それが脳裏をよぎると、活力が出る。負けてられないと思う。頑張ろうと思う。どこかでカチッというスイッチが入る音がする。



▼思い出/実績/成功体験
今足元をすくおうとしているネガティブな条件と類似で、かつそれを克服した経験。あの時はなんとかなったじゃないか。そんな声とも言える。そんなパターンマッチングを脳内で行うのだが、そんな検索がヒットし易くなるためには、検索対象の数が多くあった方が良いに決まっている。無茶を色々と重ねると、そんな経験が増える。おとなしく無難な経験の積み重ねは、支えにするには平穏すぎるのかもしれない。苦労は買ってでもしろという言葉も浮かぶ。

▼音楽
テレビや映画のシーンを、音楽つきで記憶していることもある。「ロッキー」や「スター・ウォーズ」などが好例かもしれない。ダースベーダーがマントを揺らして、あの呼吸音を響かせながら歩いているシーンを見ると、どうしても脳内であの音楽が鳴り始める。逆に、音楽を聴くとそのシーンも浮かぶ。ならば、大逆転劇をするシーンを連想させる音楽が染み付いていたら、励みになる。

吉田拓郎、中島みゆき、甲斐バンド。私の中では再起を連想させる曲が、彼らに集中している。彼らの曲に心酔し、無茶や様々な克服をしてきた自分に対しても、恥ずかしいことはできないなと思うと心が震える。頑張ろうと思える。そして特別な意味合いを持った曲もいくつかある。歌詞やメロディとは関係のないシーンが、曲とともに刷り込まれている。もはや、どういう経緯でそう記憶しているかさえ定かでない。そしてそれはどうでもいい。その曲が脳内で鳴り出すと、負けられない病のスイッチが入って立ち上がる。

▼喜怒哀楽
ポジティブなことよりも、ネガティブなものが大きな支えになっているかもしれない。くやしい。負けてたまるか。そんな三歳児でも思い浮かぶ感情が心を折れさせない。

でも、ようやく最近になって、やはりネガティブなものはネガティブなものを残すのかもしれないと思うようになってきた。「ナウシカ」の映画で、「火は一瞬で全てを焼き尽くす。水と風がはぐくむ。わしらは水と風がええ」という台詞があった。年齢とともに火のような喜怒哀楽ではなく、水や風のような喜怒哀楽が支えになっていって欲しいと思うようになっている。そしてそれが、未だ未だタマにだけれどできるときもある。すがすがしく心を折らずに進んでいくこと。そんな風に進みたい。

▼言葉
沢山の言葉に支えられている、昔も今も。未来は益々そうなるだろうと予測している。例えば、「それがどうした」。矢吹ジョーが最後のリングを前に白石嬢から自分の病状を告げられたときに返した言葉。何かを言い訳に諦めようとしている自分に何度もつぶやいた。それがどうした、関係ないんじゃないのか。自問する中で心に灯が灯る。

年齢とともに涙もろくなっていっているのだが、本当にどんぴしゃな表現や的確な描写に出会ったときに、涙腺が緩む。素直に感動している。それは、映像や音楽もあるけれど、やはり言葉が多い。検索エンジンのおかげで、その比率がもっと高まったとも言える。曖昧な記憶からでも探し当てることが可能になっている。支えてくれるものがすぐに集められる、集まってくる。凄い時代だ。

▼ヒーロー
モロボシ・ダンの頃から、様々な英雄達が脳内に住みこんでいる。そうした英雄達の中に、見た目は普通のおじサンやおばサンがたくさん混じっている。私がお世話になった方々だ。先生や先輩や上司。文字通り近所の方々やクライアント、協力会社の方々。普通の方々、普通に生活しながら通常以上の困難を越えてきている。それが普通じゃなくて凄い。それが回りまわって支えになっている。自分も頑張らねばとつながって行く。


それでも、同時に諦める勇気も持つようになっている。どうやっても無理なときは、退散する。そこに無理して踏ん張ってもいいことがないと悟れるようになってくる。総合点で優勢であればよいという計算もする。ここで失点しても、次で倍だけ獲得すれば合計では勝ちだと割り切れる。

でも。基本は「諦めない」。諦めるのを基本とはしない。だから、必要なときに、カンフル剤を用いる。自分にあったカンフル剤。年齢とともに、そういった術をいくつか溜め込んでいて、使いこなせるようになってきているのかもしれない。

そんなこんなで壁を越えるたびに、何か足跡が残る。自分だけが誇りに思う足跡。そしてそれが、あの時できていたことに近づこうとしている自分にとっての支えになる。あの時できていたんだから、今できない訳がない。同じ視線は他者へも注がれる。尊敬しているとかライバル視しているとか関係なく、あの人ができたんだから、あの人がしているんだから、私にもできない筈がない、と言ってみる。そこに疑いを持たない。敢えてポジティブな可能性しか見ない。ネガティブな想いを封印する。それは信仰に近い。

「神は越えられない試練は与えない」、時々耳にする言葉だ。聖書の原文は下記だと思う。こう思えると楽になる。最後には越えられると分かっていれば、案ずることはない、悩むことはない。さっさと越えてしまえばいいのだ。

あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練
に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるよ
うに、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
        新約聖書(新改訳):第一コリント人への手紙 10章13節


実は、下記のニュースを読みながら、浮川氏の笑顔を見ながら、これを記そうと思い立つ。ジャストをお辞めになった詳細は知りませんが、この笑顔で充分です。日本語入力をする限り、氏への感謝の念は変わりません。彼も会ったことはないけれどマイヒーローの一人。越えられぬ困難はない。頑張ってください、頑張りますから。

・ASCII.jp:MetaMoJiは"テクノロジーホールディングス"─浮川夫妻が語る
< http://ascii.jp/elem/000/000/490/490033/
>

【みつい・ひでき】感想などはmit_dgcr(a)yahoo.co.jpまで
・mitmix< * http://www.mitmix.net/
>
・この原稿を書いていて、朝5:00前にテキストエディタがクラッシュ。さすがに心が折れそうになりました。