[2787] 躯は売っても心は売らない

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《どんな芸事も守・破・離のステップを踏んで上達する》

■映画と夜と音楽と...[450]
 躯は売っても心は売らない
 十河 進

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 芸術は爆発かもしれないが、素人芸術論は自爆かもしれない
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■映画と夜と音楽と...[450]
躯は売っても心は売らない

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20100205140200.html >
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〈チェンジリング/真昼の死闘/ガントレット/許されざる者/ガルシアの首〉

●都合の悪いことを隠蔽する体質はどこの国も同じ

WOWOWで放映されたので改めて見たが、「チェンジリング」(2008年)はイーストウッド映画らしい素晴らしい出来だった。先日、発表になった2009年度キネマ旬報ベストテンでは「グラン・トリノ」(2008年)が一位、「チェンジリング」が三位だった。

昨年の春に「チェンジリング」が公開になり、ずいぶんテレビスポットが流れているなと思ったのだが、その数カ月後には「グラン・トリノ」が公開された。僕は連休中に見にいった。僕のような長年のイーストウッド・ファンにとっては、二本もの新作が見られた至福の一年だった。

僕はアンジェリーナ・ジョリーの派手な顔があまり好きではないので、「チェンジリング」でも最初は馬鹿な母親かと思いながら見ていたのだけれど、途中からスクリーンに釘付けになった。目が離せない。息子のために戦う母親の姿が素晴らしい。アンジェリーナ・ジョリーが途中からめざましく変身し、いい女じゃないか、と僕は椅子から身を起こした。

母親が徹底的に戦う決意をするまで追い込むのは、警察のあまりにひどい対応である。それは、愚かな権力者たちの責任逃れであり、隠蔽体質から起こっていることだ。自分たちに都合の悪いことを隠そうとする体質は、どこの国も同じなのか。実話をペースにしているという。1920年代のロスの警察は、かなり腐敗していたらしいから、信じられないような話だが、そんなこともあるのかと納得した。

有能な電話交換手でシングルマザーのクリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)がいる。彼女の息子は8歳だ。ある日、帰宅すると息子がいない。警察に電話をするが、「そのうち帰ってきますよ」と、とりあってもらえない。翌日になって、ようやく警察がやってくる。何ヶ月かして、息子が見付かったと担当の警部から連絡がある。

母子の感動の再会を撮影しようと、新聞記者たちが集まっている。警察が知らせたのだ。ロス警察は自分たちの手柄を誇ろうとアピールする。クリスティンが列車から降りてきた少年を「息子じゃない」と言うと、「このくらいの子は数カ月も会わなければ変わるもんだ」と強引に息子だと言いくるめる。そう言われて、彼女は半信半疑で少年を連れ帰る。

しかし、彼女にはどうしても息子だとは思えない。風呂に入れて躯を拭こうとしたとき、少年が割礼されているのを知る。翌日、警察にいって「息子じゃない」と言うと、「この数カ月の間に何があったかわからない。それくらいのことで...」と警部は取り合わないが、その日、警察から医者が派遣されてくる。しかし、医者も「あなたが精神的におかしいのでは...」と言う。

彼女の味方は、ロス警察の腐敗を糾弾し続けているブリーグレブ牧師(ジョン・マルコビッチ、いつもながらうまい)だけである。牧師は「警察はどんなことをするかわからない」と彼女にアドバイスをする。案の定、しつこく警察に現れて抗議する彼女を警部は強制的に拘束し、精神病院に収容する。

ここからが凄い。ホントにこんなことがあったのか、と信じられない気持ちになるが、イーストウッド作品の説得力には感心する。権力はここまでひどいことをするのか、と観客を納得させてしまう。個人は弱い。警察が「精神的に問題があるので入院させた」と言えば、本人が「私は正常よ」と言っても誰も信用しない。「頭のおかしい女」にされてしまう。

●娼婦の心意気に感じたヒロインは彼女の言葉をリフレインする

強制的に収容された精神病院で、クリスティンは必死で医者を説得しようとする。だが、誰も「頭のおかしい女」のことなどまともに取り合わない。正体のわからない薬を飲まされ、反抗すると電気治療と称し電流を流される。拘束衣を着せられ、ベッドに縛り付けられる。食堂にいくと、薬か電気ショックかで従順にさせられた魂の抜け殻のような患者ばかりがいる。

ある日、食堂でモジャモジャ髪の女が小さな声で話しかけてくる。彼女によると、警察に都合の悪い女たちを何人もその精神病院に収容しているらしい。彼女は娼婦だったのだが、ある日、客にひどく乱暴され警察に通報したところ、その客が警察官だったのがわかった。警察は、都合の悪いことを言い触らさせないために、彼女を強制的に精神病院に送り込んだのだ。

そんな頃、牧師が警察に現れ、クリスティンをどうしたのかと警部を問い詰める。そのせいか、クリスティンは医者に呼ばれ、「この書類にサインしたら退院できる」と告げられる。しかし、その書類には「息子が別人だと主張しないこと。警察が精神病院に入れた処置に同意したことを認める」と書かれてある。彼女は、医者に向かって「くそ食らえ。くたばるがいい(ファック・ユー)」と言い放つ。

その時代、「ファック」という言葉をまともな女性が口にすることはなかった。それは、クリスティンの戦闘宣言なのである。彼女は、権力の言うがままに従うことを拒否したのだ。戦うことを決意した。それは、彼女を身をもって守ってくれた、もう若くはない娼婦の心意気に感じたからである。その娼婦の言葉を、彼女はリフレインしたのだ。

その少し前、反抗的な態度を示したクリスティンを医者と看護婦たちが押さえ込み、正体のわからない薬を飲まそうとする事件があった。それを見た娼婦が彼女を救おうと、医者を殴り、看護婦に体当たりをした。しかし、逆に娼婦は捕らえられ、ベッドに縛り付けられ電圧を上げた電気治療を施される。娼婦は悲鳴を挙げる。しばられたままベッドに横たわる娼婦の部屋を訪れたクリスティンは、こんな会話を交わす。

──医者を殴るなんて...。
──殴りたかったの。気分よかったわ。もぐりの医者の手で二度、子供を堕ろしたわ...、仕方なく。子供のために戦えなかった。あなたは戦える。あきらめないで...。
──もちろんよ。
──くそ食らえ、奴ら、くたばるがいい。
──女性の言葉ではないわ。
──いいのよ、時には使うべき言葉を使わなくては。
──そう?
──失うものがないときにね。

そうなのだ。クリスティンは娼婦の友情に応えて、医者に「くそ食らえ。くたばるがいい」と宣言したのだ。医者がぎょっとする。その時点で、彼女には精神病院を脱出できる希望は何もない。しかし、医者が出してきた交換条件を蹴り、戦うことを決意したのだ。彼女は言う。──もう失うものは何もない。

●イーストウッドは娼婦たちをやさしい視線で描き続けてきた

「チェンジリング」で僕が一番好きになったキャラクターは、精神病院の中でクリスティンを支える娼婦だった。なぜ娼婦だったのかは、関係ない。喰っていくためには、躯を売らなきゃならないこともある。しかし、心まで売ることはない。彼女は、きっと戦ったのだ。暴力を振るった客が警察官だとわかっても、告訴を取り下げないと孤独に戦ったに違いない。

だから、業を煮やしたロス警察は厄介払いのために、彼女を「狂った女」として精神病院に強制収容した。だが、彼女は諦めていなかった。警察が捜し出した子を自分の子ではないと主張し、警察にとって都合の悪い女が、自分と同じように収容されてきたとき、彼女はシンパシーを感じたに違いない。

彼女は、二度、妊娠した。子供は欲しかった。しかし、彼女には選択の余地はなかった。字幕では「仕方なく」と訳されていたが、彼女が子供を二度も堕ろしたのは、「ノーチョイス」だったのだ。だから、自分の子を取り戻すために戦っているクリスティンに、彼女は「感情入った」のだ。厳しい体罰を受けるのもかまわず、彼女は医者を殴りクリスティンを救おうとした。

思えば、クリント・イーストウッドほど娼婦に共感を抱き、彼女たちをやさしい視線で描き続けてきた男はいない。ドン・シーゲル監督と組んだ「真昼の死闘」(1971年)で、イーストウッドが礼を尽くして守った修道女は、目的地に着くといきなり服を脱ぎ捨て娼婦に戻る。シャーリー・マクレーンの修道女から娼婦への変身が鮮やかだった。

ソンドラ・ロックはイーストウッドの愛人であり、一時期、彼のミューズ(創造の女神)だった。そんな蜜月時代のソンドラ・ロックをヒロインに起用した「ガントレット」(1977年)も、娼婦のやさしさを描いていた。警察のコミッショナーの秘密を握る娼婦を護送することになった主人公の刑事は、全警官を敵にまわし孤立無援の戦いに追い込まれる。

「ガントレット」でソンドラ・ロックが演じた娼婦は、ならず者たちに襲われボロボロにされたイーストウッドを救うために、「あんたたち、男かい。殴るしかできないのかい。こっちを見な」と自ら服を脱ぎ捨て白い胸を晒す。彼女は自らの躯を使って、愛する男を救おうとする。そんな素晴らしい女は、サム・ペキンパー監督作品「ガルシアの首」(1974年)のイセラ・ヴェガしか僕には思い出せない。

また、イーストウッドにアカデミー賞をもたらせた「許されざる者」(1992年)は、娼婦がカウボーイに顔を切り刻まれたことから物語が始まる。娼婦たちは金を出し合い、カウボーイふたりに賞金をかけるのだ。その娼婦のリーダーを演じたのは、フランシス・フィッシャーだった。その後、何人めかのイーストウッド夫人になる。いかにも、イーストウッド好みの女優さんだった。

フランシス・フィッシャーによく似ているのが、「ペイルライダー」(1985年)のヒロインを演じたキャリー・スノッドグレスだ。美人ではないし、骨っぽい(日本語の「骨っぽい」という意味ではなく、頬骨が目立ち何となくガリガリで骨を感じさせる感じの)人なのだが、妙な色気がある。僕は、間違いなくイーストウッドが好きな女性のタイプなのだと思う。

「チェンジリング」で精神病院に強制収容された娼婦を演じた女優も、彼女たちによく似たタイプである。きっと、イーストウッド自らがオーディションで選んだのだろう。ネットで調べてみると、エイミー・ライアンという女優さんだと判明した。娼婦キャロル・デクスターの役である。「カポーティ」(2005年)や「その土曜日、7時58分」(2007年)にも出ていたらしいが、僕はまったく憶えていない。

「チェンジリング」で彼女が演じた娼婦は、クリスティンにシンパシーを感じ、電気ショックの懲罰的な治療を施されるとしても、体を張って彼女をかばおうとした。誰かのために自らを犠牲にする...そんな行為ができる人間は、ほんのささやかなことであっても、僕を感動させる。ほほに涙を伝わらせる。この映画の彼女を、僕は決して忘れない。エイミー・ライアンという名を、僕は永久記憶ボードに刻みつけた。

それにしても、イーストウッドがうまいのは、クリスティンが警察に勝利することだ。それによって、観客にきちんとカタルシスを与える。牧師によって精神病院から救い出されたクリスティンは、警察によって強制的に精神病院に入れられていた人たちを解放させる司法命令を勝ち取る。

クリスティンを躯を張って助けた娼婦も解放され、ふたりは病院の門で視線をかわし、うなずきあう。だが、それだけで別れる。言葉を交わす必要はないのだ。彼女たちは通じ合っている。理解し合っている。そのシーンがいい。女同士の...、ちょっとハードボイルドな雰囲気だ。

ところで、日本で娼婦を共感を込めて描いたのは、加藤泰監督や森崎東監督だった。男はアウトロー(ヤクザ)、女は娼婦。それは加藤泰監督の映画でも、森崎東監督の映画でも、同じだ。彼らは、底辺に生きる男女に共感する視線で、社会を見ることができる映画作家だった。

僕が彼らの作品を偏愛するのは、そんなところに共通点があるのかもしれない。もちろん、今やハリウッドの大御所になったクリント・イーストウッドも彼らと同じく、弱い者に共感できる監督である。でなければ、あんなに娼婦に肩入れするはずがない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com

仕事も実生活も多難なスタートを切った年だったが、早くも一ヶ月が過ぎてしまった。相変わらず、飲んだくれの日々。まったく、この情動は一体何なのだろう。ストレス発散という単純なものではないと思う。心穏やかに暮らしたいものです。ツイッター始めました。sogo1951です。

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■Otaku ワールドへようこそ![111]
芸術は爆発かもしれないが、素人芸術論は自爆かもしれない

GrowHair
< http://bn.dgcr.com/archives/20100205140100.html >
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芸術論というほどの仰々しい形でないにせよ、芸術についてこのごろ思い悩むところを語ってみたい。語ってみようかなぁ。語れるといいなぁ。甚だ自信がない。

恥の多い生涯を送ってきた私ではあるが、そこからまったく教訓を得てこなかったわけではない。いい年こいたおっさんが、セーラー服着てうっふんあっふん言ってる姿を晒したりなんかして恥ずかしくないのかと問われれば、まあ多少恥ずかしくないこともないのだが、これはまだいい。違和感を逆手に取ったギャグだと言ってしまえば収まる。傍からどう映ろうと、本人は気分よくうっとりと自己陶酔に浸れて、とても楽しくてよろしい。精神の健康法としても、お薦めしたい。

どうにも恥ずかしくていけないのは、よく知らないことについて、得々と語ってしまうこと。わが身の丈をわきまえない無謀な背伸び。以前、あるプロの将棋指しが、こんなエッセイを書いていた。イベントなどで、アマチュア指導対局の場を設けると、よく見かけるタイプがいるという。中学生くらい。野球帽をかぶって来る。手合い(ハンディキャップ。強いほうが駒を落とす)は、と聞くと平手(ハンディなし)を希望してくる。初手で端歩を突いてくる。指し手から見えてくる棋力はアマチュア4〜5級。当然、コテンパンにやられる。すると、二度と姿を見せない。看板でも持って帰るつもりだったのだろうか。

聞いてるだけで身もだえしてしまう。こういうのは若いときだけにしておきたい。ところが、どうも私のようなド素人が芸術論などぶつというのは、この野球帽少年の同類という予感がしてならない。その道に生きる方々にしてみれば「アンタ、まだそんなレベルのところをうろくさして悩んでいるのかぃ? 先は長いよ」と言いたくなるかもしれない。けど、まあ、思わないことについては書けないから、思うところを書く以外にないではないか、と開き直って書いちゃうわけである。読み返すことはきっと一生しないと思う。

●叩かれてひと皮むける痛さよし

前回ちょこっと書いたことだが、昨年末に催した人形と写真のグループ展「臘月祭」は、総合的にみて、まあ、成功だったといえる。ならば「ああ、これでよかったのだ。俺、よくがんばった」と自己肯定の気持ちになれたかというと、まるで逆で、「多くの方々に足を運んでいただけたのは、うれしい、ありがたいを通り越して畏れ多い。自分が展示したものがそんな光栄に値するだろうか。ああ、だめだだめだ、こんなことじゃいけない」とひとり煩悶してしまった。

しかも、会期中のたまたま同じ日に美登利さんと武さんから、強烈な駄目出しを食らう。意地悪くけちょんけちょんにけなされて、泣いて帰ってきたというのではない。それならまだしも反発が利く。そうではなくて、前々から自分でも薄々とは感じてたけど、あえて見ないように蓋をしてた弱点を真正面から指摘されてしまったのである。これは深く刺さった。あいたたたたたた...。あー、やっぱり見破られてる、ごまかせないわぁ。

このぐうの音も出ないほどに打ちのめされる感覚、痛いは痛いんだけど、ある種の快感を伴うもののようで、打ちのめされても打ちのめされても何度でも立ち上がって、また壁に向かって突進できるような気がする。

自分の撮る写真の弱点は、単純に言っちゃえば、2点ある。ひとつは、馬鹿のひとつ覚えみたいにマンネリ化した手法に頼りすぎてること。もうひとつは、スタンダードが壊せなくなっていること。前者を美登利さんに、後者を武さんに言われちゃったのである。

多重露光が面白そうだとピンときたのはいつのことだったか。2000年にはその手法を使ったコスプレ写真をウェブサイトに載せているので、多分、その年の早春だったようだ。うわっ、十年一日のごとく、って言葉どおりじゃん。中野哲学堂でボケの花を撮っていて、ふと、これ、二重露光したら面白いんじゃなかろうか、と思いついたのが最初である。その手法自体は私が発明したわけでもなんでもなく、古典的なものであるが。

だいたい、カメラにその機構が備わっているわけだし。底部に小さなポッチがついていて、それを押し込んでおいてからフィルム巻上げレバーをむいぃと回転させると、軽い感触で空回りして、中のフィルムは送られないようになっている。絞りを開放にして、被写界深度を浅くする。花にピントを合わせる。背景は完全にボケて形をなさず、もやもやとした模様になっている。

露出補正は±0Ex か、シャッター速度を速めて1/2Exぐらいマイナスする。次の露光では、背景にピントを合わせる。やはり開放絞りで、シャッター速度で3/2Exぐらいマイナス補正する。こうすることによって、背景のもやもやのなかに、淡く形を描き加えることができるはずだ。それによって、主題の花が副題の枝から浮き上がるように強調されるはずだ、という計算。

現像が仕上がるまでの丸一日、ずっとわくわくしっぱなしだった。で、出てきた絵が、ちゃんと計算通り。絞り込んでパンフォーカスにするのとは全然違った効果。もやっふわっとした非現実的な感じ。これ、いけるじゃん。後からではあるが、まったく同じ手法が、写真雑誌にプロの手によって書かれているのを読んだ。結局、手法そのものに独自性があるわけではなく、その手法を使って何を撮れば面白い仕上がりになるか、そこで腕を発揮するしかないわけだ。

よし、練習しよう。すべての駒を二重露光で撮るぞという決意で、向ヶ丘遊園に行き、丸一日、撮りまくってきた。おお、いけるいける。で、調子に乗ってそればっかやって、今に至る、というわけである。その間、デジタルに乗り換えたことで、合成のしかたが変わった。カメラには多重露光の機能が備わっていないので、2枚別々の駒として撮っておいて、後からPhotoshopで合成するのである。

これは手間がかかるので、以前のように何十枚も二重撮りばっかというわけにはいかなくなったが、埋め合わせてお釣のくるメリットがある。レンズによってはピント位置によって画角が変わってしまうのを、Photoshop上で一方の画像を拡大することで合わせ込むことができる、手持ち撮影したときの位置のズレをPhotoshop上でなおすことができる、2枚の合成比率を後から自由自在にいじれるので、撮る時点ではどちらも標準の露出でよい。合成の精度が格段に向上した上に、仕上がりの絵を心ゆくまで調整することができるようになったのである。

しかし、それに頼りすぎた。この手法を使うことが、私の写真の特徴であり個性である、という勘違いに薄々感づいていながら、しっかり向き合うことを避けてきた。そこへ美登利さんから「もう二重撮りやめたら?」と言われちゃったのである。

そうそう、手法そのものに個性が備わるわけでもなんでもなく、手法は私の所有物ではないのだ。この事実としっかり向き合うためにも、ここで気前よく公開しちゃいます。これ、少し練習してコツをつかめば、きっと誰でも比較的簡単に面白い効果の写真を撮ることができます。ぜひ試してみてください。

ここでは、手前にピントが合っている画像を"ImageA.jpg"、奥に合っている画像を"ImageB.jpg"としておきます。

( 1)Photoshop を立ち上げる

( 2)メニューから[ファイル]-[開く]を選び、"ImageA.jpg"と"ImageB.jpg"を両方開く。

( 3)ImageA を選択して、背景レイヤーをドラッグして、ImageBの中へドロップ→「背景」と「レイヤー1」の2つのレイヤーができる

( 4)ImageAを閉じる

( 5)「レイヤー1」の表示/非表示を切り替え、同じ対象物が小さく写っているのはどっちの画像か、確認する。また、小さいほうを何倍に拡大すれば大きいほうに合うか、目星をつけておく

( 6)もし、「背景」レイヤーのほうが小さい場合、背景レイヤーで右ボタンでメニューを出し、[背景からレイヤーへ]を選択して、「レイヤー0」に変更する

( 7)小さいほうのレイヤーを選択しておき、メニューから[編集]-[自由変形]を選んで、拡大倍率を指定して拡大する。拡大倍率のWとHはロックして連動させる。必要ならば回転も指定する。[○]をつついて決定する

( 8)2つの画像の大きさが合っていなければ、ヒストリーの[自由変形]で右ボタンを押して、[削除]を選んで、ステップ(7)をやりなおし

( 9)「レイヤー1」をアクティブにした状態で、ツールから[移動ツール]を選択して、位置合わせする。画像を500%ぐらいに拡大して、微調整する。「レイヤー1」の表示/非表示を切り替えて、「ナビゲータ」の画像で、位置が合っているかを確認する

(10)2枚の画像が著しくずれている場合、絵柄切れが起きて、市松模様が表示されていることがある。この場合は、メニューから[イメージ]-[カンバスサイズ]を選択して、カットする。

(11)「レイヤー1」をアクティブにした状態で、不透明度を調整する。あるいは、2重露光に近い効果を出すためには、メニューから[イメージ]-[画像操作]を選択して、描画モードとして[スクリーン]を選択して、倍率を適当に指定する。

(12)メニューから[ファイル]-[保存]を選択して、画像を保存する。のちの変更に備えて作業の状態を保存しておく場合は "*.psd" で。画像だけでよければ "*.jpg" で。画質は90%ぐらいでOK。

これを公開したことをもって、第1の弱点から決別できれば。とか何とか言いながら、この手法、まだまだ続けます。頼りすぎるのをやめるってだけで、きっぱり捨てちゃうわけではなく。だって、現実こっちのほうが売れ行きがいいんだもん。

さて、第2の弱点、すなわち、スタンダードが外せない、について。これは、1年ぐらい前から意識はしていた。どうも自分の撮るものは、構図が型にはまりすぎて、不自由だ。もっと柔軟な発想で、変な構図のものを撮れるようになるべきではないか。

どんな芸事も、守・破・離のステップを踏んで上達すると言われる。まずは先人の築き上げた型を踏襲し、基本を身につける。それから、あえて型を壊しにかかる。しかし、壊そう壊そうと意識して壊していたのでは、結局型の呪縛から精神が開放されていない。最終的には型から離れていくことで、個性が完成する、というもの。将棋では「定跡は覚えて忘れろ」「名人に定跡なし」といった格言がある。

その感じ、感覚的には非常によく分かる。小学生のころ、一時期、書道を習っていたことがある。先生はよく「個性とクセは違う。クセは早くから矯正すべきものであって、これを個性と勘違いしてはならない」と言った。基本ができてない人の書くバランスの悪い字は、醜いだけのクセ字。まず、最初のステップは、お手本通りの字が書けるようになるまで、ひたすら単調で退屈な模倣練習を積むしかない。ピカソだって、若いころは教科書通りの上手な絵を描いていた。

聞くところによると、最近の教育は個性を重んじるとかいう題目の下で、守のステップを軽くすっ飛ばしちゃう傾向にあるらしい。クセ字を矯正することなく、むしろ奨励してしまう愚行。それはやめてくれと言いたい。ジャイアンの歌は個性ではない。まずは基本の型が大事、というのは間違いないことと信じている。ただ、多少の疑問がないわけではない。

第一に、芸術家の書く字は、書道的な観点からすると、矯正しなくてはならないひどいクセ字が多い。だけど、なんとなく、そのクセ字にはどこか味わいがあって、直しちゃいけないもののようにも思える。第二に、この段階である程度の完成度をみたところで安心しきって、次の破の段階に進めなくなっちゃった人をどうすればいいか、ということ。

それが、私。壊せなくなっている。あえて壊そうとすればできなくもないが、どう見たってただの下手糞な写真にしかならず、それを作品だと称して展示する気にはとうていなれない。ひとたび破の段階に足を踏み入れたら、きっと紆余曲折の苦難の道がそこにあって、次の完成の段階に至るまでがすご〜く長いんだろうな。そう考えると、この場所に留まっていたほうが安全なのではないかと足がすくむ。

それで武さんからは「こんな優等生の写真、要らない。それを俺に言わすために見せに来たんだろ」と。実に痛いところを的確に突かれた。「優等生」という言葉は芸術的観点からすると、けなし言葉になるよなぁ、やっぱり。「絵葉書のような写真」というのも似たようなニュアンスだ。「教科書通りの歌い方」とか。つまりは、上手だけれども味わいに欠く、ということ。

まあ、優等生なら優等生として、その場所に居直るという手はないこともない。書家に言わせると、楷書で書くときが一番緊張するらしい。基本に忠実でなくてはならず、小手先のごまかしが利かない。歌だって、童謡をちゃんと歌うのがきっと一番難しい。小節を回したりして変に飾りをつけるのはイヤラシイだけで、正攻法でいかないとならない。質の高い童話を書くのは、きっとものすごく難しい。どうせ読むのは子供なんだから「子供だまし」って言葉もあるくらいで、テキトーに書いたってどうにでもごまかせるさ、という姿勢がちょっとでもあると、必ず露呈しそうだ。

私は、小手先のゴマカシを徹底的に排除し、堂々と正攻法で行く、と宣言すれば、それは芸術に向きあうひとつの姿勢としてアリ、というか立派だと思う。40年くらい前、写真を撮る人は、芸術家というよりは神経質な技師だったと思う。なにしろ露出が適正で、ピントがちゃんと合ってて、ブレてもいない、それだけのことでも大変だったのだから。カタクリの花とか、ゴクラクチョウカとか、カワセミとか、写真家好みの被写体というのがあって、それをどんな観点からアラを見つけようとしても、非の打ちどころないように完璧に撮るのが写真家の腕の見せどころだった。プラトンのイデアに限りなく近いもの。クラシック音楽のようなもの。

けど、今、そっちへ行こうとすると、すぐに行き詰りそう。誰かが一度完成度の非常に高いのを撮っちゃったら、それを超えるのは至難の業に違いないし、過去にわんさかいた腕の立つ写真家たちと真正面から勝負、というのは、それはそれでしんどい。ピンボケや手ブレを悪いものと決めつけずに、自由にやろうじゃん、というのがアートとしての写真の今の傾向だったりもするようだし。

私自身も、スタンダードを壊しにかかって必死にあがいている人のその姿勢を尊敬の念をもって見ているし、柔軟な発想ができる人をうらやましいと思う。やっぱ、行くならそっちだろうなぁ。柔軟な発想力って、神様に手を合わせてくれくれくれくれ言ってても、授けてはくれないだろうなぁ。がむしゃらに撮って撮って撮りまくっているうちに「おう、そこの兄ちゃん、その真摯な姿勢、気に入ったぜ、授けてやろう」とか言ってポンと投げてよこしてもらえるようなものなのかも。撮ってる間だけ考えてりゃいいってもんじゃなく、ものをどういう姿勢で見るかという、普段からの生きる姿勢の根幹にかかわることだったりもするんだろうなぁ。

そんな気負いを秘めて、1月10日(日)と1月30日(土)に、花で練習撮り。ローズマリーとか、たんぽぽとか、福寿草とか、水仙とか。撮りながら考えたあれやこれやを今回は語ってみようと思ってたのですが、そこまでたどり着かないうちに、紙面と気力が尽きました。続きはそのうち。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

人形作家10人の作品の写真を撮って展示したグループ展「臘月祭」が終わっても、やっぱり撮影待ちの人形たちに並ばれてる感じ。グループ展開催中に、Gallery 156を通じて人形写真撮影の依頼が来た。見にいらした人形作家さんからで、ポートフォリオ用の写真を撮ってください、とのこと。その時点ではまだ面識がなかった。吉村眸さん。在廊していた八裕さんってば、私の行状をいきなりバラしてくれちゃった。セーラー服のこととか。や〜ひ〜ろ〜、やりやがったな!

もっとも、メールのやりとりの段階で「一度お会いしてお茶でもしばきませんか」とお誘いした際には、待合わせで見つけられるようにと仕方なくセーラー服の写真を送っちゃったわけだけども。これで話を白紙撤回されなかったのだから、やはり芸術家は違う。まだ20代半ばだというのに、2年前にすでに個展を開催している。なんか、レベル高っ。彼女のお住まいが埼玉、私の職場も埼玉ということで、1月27日(水)、仕事帰りの夜9時からStarbucksで打合せ。仕事の上がり際、K原さんと話し込んじゃって、時間をうっかり。

「きゃ〜、デートに遅れちゃう〜」。この歳になって、らしからぬことであたふたする私。間に合ったけど。若くてきれいで明るく聡明で育ちのよいお嬢さんという印象。ひぇ〜、なんとお詫びしたらよいか...。こんなやつですみません。国立大学の教育学部の美術科を卒業してからも、研究生として大学に残っているのだそうで。高校で教鞭をとったり、家庭教師をしたりもしているのだそうで。私の中では「優等生」のイメージ。あ、もちろんけなし文句ではなく。若くてきれいで明るく聡明で育ちのよいお嬢さん、嫌いじゃないです。そういうわけで、第1回目の撮影は2月6日(土)に決定。がんばります。
< http://ennui.in/sinclairs/ >

◇いつもお世話になっている劇団MONT★SUCHTが主催するイベント
『Rosengarten I』が、2月19日(金)・20日(土)15:00〜22:00、渋谷ギャラリーLE DECO 1Fで開催されます。16世紀の錬金術の書『哲学者の薔薇園』をモチーフにしたサロンイベントです。錬金術の死と再生、黒化→白化→赤化の過程を辿る如く、モノクロームの荒廃した風景に真紅の薔薇が咲き乱れる中、神秘的なパフォーマンスやライブが繰り広げられます。

19時まではお茶を飲みながら映像やタロットで寛いでいただける時間、以降はパフォーマンスタイムとなります。実は私も一枚かんでます。イベントなどで撮ってきたMONT★SUCHTのパフォーマンス写真を展示します。チラシの裏面にはプロフィールを載せてもらっています。写真入りで。私が被写体の写真ってこんなのしかないんですけど、と言って渡したセーラー服姿のが、採用されちゃってます。自爆攻撃っ。
< http://montsucht.web.fc2.com/rosengarten/ >

◇イベントや教室展で何回かお目にかかっている、人形作家の清水真理さんの人形展が2月11日(木・祝)〜3月8日(月)、浅草橋のパラボリカ・ビスで開催されます。月〜金/13:00〜20:00 土日祝/12:00〜19:00。入場料500円。
< http://garirewo.s318.xrea.com/strnew/ >

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■編集後記(2/5)

徳川家康 トクチョンカガン 上・荒山徹「徳川家康 トクチョンカガン」を読む(実業之日本社、2009)。作家名とタイトルを見ただけで内容が想像できる。この作家は何でも日韓史テーマにしてしまうのだが、今度は家康の影武者が朝鮮人だというとんでもない設定。いや、いつでも、必ず、とんでもない話にしてくれる人なのだ。家康の影武者といえば、隆慶一郎の大傑作「影武者徳川家康」があるが、視点を変えたもうひとつの影武者ものの傑作(怪作?)と呼べるのがこれ。家康は関ヶ原で死亡、影武者の元信(元朝鮮の僧兵)が指揮をとって東軍を勝利させる。元信は秀忠や幕閣の命令にしたがって忠実に家康を演じているが、本来は日本への復讐に燃える朝鮮人。祖国を侵攻した仇敵豊臣家を滅ぼし、さらに天皇家を廃絶して自分が名実ともに日本の支配者となり、日本国王の冊封を明から受けて、日本を明の属国とするという野望を抱く。かたや娘を秀頼に嫁がせた秀忠は、豊臣の存続を望んでいる。柳生宗矩、真田幸村と霧隠才蔵ら真田十勇士も登場する。元信は朝鮮忍者の降魔衆3人を呼び寄せ、秀忠との対決に備える。というところで上巻は終わり。ここでやめることは絶対にできない。早く下巻を入手しなければ。なんだか山田風太郎の世界に入って行く予感も。(柴田)
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・知らないことを背伸び......うう(恥ずかしい)。毎日後記を書いていて、この恥ずかしさには慣れているさ(涙)!/iPhoneアプリ「TwitCasting」にトライ。起動するとカメラビデオ画面になり、撮影をするとそれがインターネット上で中継される仕組み。上半分にビデオ、下半分がTwitterの書き込み画面。ツイートするとタイムライン上に流れ、それを見た人がURLにアクセス。ページ上には動画とTwitterの書き込みフォームがあり、視聴しながら感想をツイートできる。動画は保存して、後日公開することも。中継しながら配信者側がツイートできるのは面白いなぁと思った。手元がぶれるので長時間なら固定した方が良い。これからの時代、事件が起きたら......。/Ustreamで「ネットビジネスイノベーション政策フォーラム 第一部」の後半を見た。約3,000人のアクセス。/同じくUstreamで「テレビとネットの近未来カンファレンス 2010年のトレンド大予想」を見た。最初はWebサイトで見ていたが、食事の準備が必要だったので、iPhoneアプリをダウンロードして視聴。こちらはTwitterのタイムラインは見られないし、もちろんツイートもできない。チャットはあって、見知らぬ人と少し会話ができた。じゃがいもの皮をむきながら、iPadについての東京からの生中継をiPhoneで見られる時代が来るとは思わなかったよ。ほんと助かる。途中、お風呂場に行ったりする時にも携帯。iPhone用のネックストラップが欲しくなったわ。/PAGE2010のハッシュタグは#PAGE2010。(hammer.mule)
< http://twitcasting.tv/ > TwitCasting
< http://www.ustream.tv/recorded/4438919 >  政策フォーラム動画
< http://www.ustream.tv/recorded/4439497 >  カンファレンス動画
< http://knn.typepad.com/knn/2010/02/2010年02月04日木1830-テレビとネットの近未来カンファレンス-2010年のトレンド大予想.html >
< http://twitcasting.tv/zacke/movie/4253 >
TwitCastingテスト。手持ちでゆらゆら。政策フォーラム1,300人時点でのタイ
ムラインスピード。一度書き込むと30秒待たされる状態でこれ。
< http://itunes.apple.com/jp/app/ustream-viewing-application/id301520250?mt=8 >
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