わが逃走[61]さみしい話とあたった話の巻/齋藤 浩

投稿:  著者:  読了時間:9分(本文:約4,000文字)


こんちはー、齋藤です。

◎さみしい話

まず、さみしい話から。寝台特急『北陸』が今週末で廃止になります。さみしいなあ。

前も書いたかもしれないけど、寝台列車の旅のいいところは"だんだん"にある。上野から発車、見慣れた車窓を眺めながら一杯やってるうちに"だんだん"車窓が金沢になってゆくのだ。映画のスクリーンのようだとも言えるし、一枚の油絵が完成するまでの過程を見ているようでもある。

なによりも、乗車した地から終点までが繋がっているということが実感できる幸せ。(飛行機のように)概念として東京と金沢を繋げずとも、視覚的に体感的に東京と金沢が繋がるのだ。これってとても自然かつ健康的だし、それ故に凄いことだと思うんだけど、合理化やら何やらでこういう考えは受け入れられない世の中になってしまったらしい。

まあ寝台特急から食堂車がなくなった時点で、汽車旅の魅力は半減してしまった訳だが、それにしても寂しい限り。利用者が減ったことが廃止の理由らしいけど、JRも売る気なかったよなー。

ものを並べるだけじゃなくて、売るための工夫を! なんて傍観者である私は思う訳だが、まあこのへんは民間企業と(元)国営企業の違いなのだろうか。最終日には全国から"鉄"が集まるんだろうな。オレは行かないけどね。



2◎あたった話

つぎにあたった話をします。私はわりと健康な方だと思うのですが、過去に苦しかったことベスト3を挙げてみると、22歳のときに牡蠣にあたったときと、30歳のときの謎の呼吸困難と、7歳から現在まで続く偏頭痛です。今回は牡蠣にまつわる思い出話をさせていただきましょう。

私は牡蠣が苦手だ。「一度牡蠣にあたると二度と食べられなくなる」と言われる。経験者である私も多くの方達と同様、自ら率先して食べようとは思わない。

よく好き嫌いと誤解されるのだが、私の場合大当たり後に食べた牡蠣は味わいがよくわからんというか、ゴムを食べてるように感じるのだ。たぶん脳があの強烈な苦しみを思い出したくないのだろう。

あれは確か12月の26とか27日だったと記憶している。まだ実家にいた頃だ。母が「Nさんに会ったらね、広島から牡蠣が航空便で届いたからってお裾分け頂いたのよ。ぜひ生で食べてねって」

『牡蠣=高い=ありがたい』という図式があるらしく、声のトーンがいつもより1オクターブ高い。ちなみに私は過去に生牡蠣というものをどっかで一個だけ食べたことがあったのだが、そこまで旨いとは感じていなかった。もちろん、白ワインとあわせて楽しむなどという、大人の世界とは無縁だったということもあるが。

ところで私が永らく酒と無縁だったのは、やはり両親の影響なのだと思う。両親は全く酒を飲まず、当然飲み方も知らない。知らないものはコワい。コワいものは悪。

当然酒の肴という概念がない。料理はもちろん、スルメもチーズも全ておかずなのだ。その日の広島産生牡蠣も、ごはんのおかずとして食卓に登場した。今思えば晩ごはんのおかずに生牡蠣ってのはアリなのか? と思わなくもないが『牡蠣=高い=ありがたい』という図式がそんな考えを寄せつけなかったのであろう。すき焼きや蛍光灯を、神と崇める世代ならではの価値観の構図と似ている。

その日は夕食時に父も帰ってきており、家族そろっての食事となった。で、ごはんとみそ汁をいただきつつ、レモンを絞った生牡蠣を口に入れた私は、ん、生臭いかも。と感じたのだ。

「母さん、この牡蠣痛んでるんじゃない?」と尋ねてみるも
「ウソよ! 広島から航空便で届いたのよ。牡蠣っていうのはね、こういうお味なの! あんたはお子様だから大人の味がわからないのね」
と聞く耳持たない。

結局2つ目を食べてみたがそこまでの旨さを感じず、3つ目を食べた時点でそれ以上食べる気がしなくなった。父もあまり食べなかった。母はよく食べたなあ。

翌日、全員熱が出た。父は37度、母は38度、私は40度。父は病気をしない体質ではないが、たとえ病気であってもそれを認めない性格なので、「ただ熱があるだけ」ということで会社に行った。

母も(ありがたい)牡蠣(様)にあたったとは認めたくないらしく、「偶然お腹がいたくなって熱が出ただけ」ということで医者にも行かず寝ていた。私はもう、七転八倒の苦しみである。寝てられない、起きられない、当然ながら声も出せない。腹が絞られるように苦しいのだ。

そして緩やかに脈動するように襲ってくる吐き気と目眩。脳内で「もし今が戦争だったらどうするの! 南方でマラリアにかかった日本兵の苦しみはこんなもんじゃないのよ」と母に怒られるという妄想をしてみる。

「ううっ、でも母さん、すでに戦後46年だ。"戦争を知らない子供達"だってもういいオヤジだぜ」と文句をいう妄想をしたところで、痛みは一向に治まらない。

結局その日は仕事納めであったにもかかわらず会社を休み、動けないまま翌日になった。この日も同じ症状が続いた。体力が消耗しきってしまい、立ち上がれない。当然のことながら医者には行けない。

両親はなんだかんだで熱はまだあるようだが、普通の生活を始めている。さすが、戦中世代は強いなあ。
「なんだ、まだ寝てるのか。弱いね」父が言う。
人が苦しんでるというのにそのセリフはなんだよ。文句のひと言も言ってやりたかったが、腹が痛いので黙っていた。

3日目になってようやく動けるようになり、おかゆくらいは食べられるようになった。しかし医者はすでに正月休みなので、結局寝て治すことにした。
4日目。かなり楽になってきた。熱も37度くらいまで下がった。すると、やたら屁が出るようになった。しかも、とてもくさい。硫黄と腐った卵のような匂いだ。しかし、ここまでくさい屁というのはいままで経験したことがなかったので興味深くもあり、屁をする度ににおいを確認した。

そうこうしているうちに部屋がガスで充満したのか、なんだか息苦しくなって
きた。そこへ母が部屋に入ってきた。
「ぎゃー、なにこのニオイ!!!」
すごい形相で窓を全開にする。
「さ、さむいー」
「ガマンしなさい! あー、くさい!!」
短い親子の会話をし、年末の冷たい風から頭を守るために布団に潜る。屁の残り香を感じる。まだ腹は痛い。

窓を開けていると、いろんな音が聞こえてくる。年末の買い物に行き交う主婦の会話や冬休みの小学生の駆け足に混じって、遠くからちり紙交換の声が聞こえてきた。

最初はたいして気にも留めなかったが、近づくにつれ、その異常さに耳が釘付けとなった。こ、これは! 未だかつて聞いたこともない、投げやりなちり紙交換だったのである。歌うでもなくリズムに乗せるでもなく、チンピラが眉間にしわを寄せ、下から睨みつけるような目でつぶやくがごとく

「古新聞ボロ。古新聞ボロ。ボロボロボロボロボロボロボロ。古新聞ボロ。古新聞ボロ。ボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロ。古新聞ボロ。古新聞ボロ、ボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロ!!!」

やたらオペラ調に歌う石焼き芋や、妙に演歌っぽい竿竹屋には出くわしたことがあったが、ここまでオリジナリティのあるちり紙交換は初めてだった。面白い、面白すぎる...。面白いと笑いたくなるものだが、腹が痛くて笑えない。声は徐々に近づいてくる。

「古新聞ボロ。古新聞ボロ。ボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロ。」

そして、ついにはヤケクソになったらしく叫びだしたのだ。

「ボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロボロ!!!!!!」

腹が苦しい。とても痛い。「ハァー、ハッッハァ〜」と笑いにならない声で笑うがその度にズキズキと腹が痛む。頼む、早く行ってくれ、頼むー。布団の中で笑いをこらえながら祈る。ようやく声が聞こえなくなったと思ったら突然部屋のドアが開いた。

「ぎゃはは、ちょっとあんた聞いた? 今のちり紙交換。ぎゃはは! ぎゃはは!!」笑うだけ笑うと「あらやだ、笑うとお腹いたいの? たいへんねえ」と言い残し母は部屋を出ていった。うう。健康って素晴らしいな。はやく元気になりたいな。心からそう思う22歳の齋藤浩だった。

結局、なんとか起きて生活ができるようになったのは大晦日の昼頃だった。ようやく普通にものを考えられる状態になってきた。もう牡蠣なんか見るのも嫌だ。二度と食べるもんか。

夜になり、紅白歌合戦が始まる頃。母が私をじっと見つめて「あんたホントに牡蠣にあたったのかしら? たまたま腹痛で熱出ただけなんじゃない? あの日残った牡蠣を、さらにお裾分けでお隣にあげたんだけど、みんなぴんぴんしてるわよ。だから、あんたのはただの腹痛よ」

わ、信仰ってすごいな。って、あの牡蠣お隣にあげたのか?? ああ、でも全員無事だったか。一家そろってスゲー強靭な肉体なんだな。でも、本当によかった...。

あの冬のことはリアルな映像でいまでも脳裏に焼き付いている。母はそんなことすっかり忘れ、いまだ生牡蠣を崇めているようだ。いろんな意味で、おめでたい年末年始であった。

【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp

1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。