映画と夜と音楽と...[459]わかっちゃいるけど...
── 十河 進 ──

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〈リービング・ラスベガス/ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜/人間失格〉

●そんなにまでお酒飲むって...何かあるからでしょ

「あの先生、ここでは丁寧な仕事をするのよね」と、看護士さんは僕の目の周りを消毒しながら「きれいに細かく縫ってくれてるわ」と感心した声を出す。「何針縫ったんですか?」と僕が聞くと、「何針というのはね、縫う大きさによるの。素人が聞いてもわからないのよ」とたしなめられた。確かに、細かく縫ってくれていたようだった。

無影のリングライトの手術灯の下で目を閉じ、まばゆい光を感じながらベッドに横たわって一時間近くが過ぎていた。20分ほど放っておかれ、やってきた医者はテキパキと事を運んだ。まず右目の横に麻酔注射をする。「歯医者で使うのと同じだけど、今まで気分悪くなったことはないよね」と訊いたものの、僕が返事をする前にチクリと刺した。

麻酔が効くと、目蓋がヘンな具合に痙攣する。それでもずっと目を閉じていた。土曜日の払暁、どこか(たぶん電信柱)で右目をぶつけてメガネフレームでざっくりと切ったらしく、自分でも鏡を見て目を背けるほどの傷だった。月曜に会社の近くで見付けた形成外科で、絆創膏を外した医者が「こりゃダメだ。すぐに縫合の準備して」と看護士に言いつけ、「よく救急車を呼ばなかったね」と言った。



「酔っ払ってやった傷で、救急車なんて申し訳ないですから...」と恐縮すると、「相当、飲んだな。麻酔が効いた状態だったんだろう」と医者が言う。昔、先輩が飲み屋の階段から落ちて額を切り、出血に驚いた同僚が救急車を呼んだが、連れていかれたのはすぐ隣にあった日本医大だった。おまけに簡単な手当ですんだらしい。先輩は素面に戻ると、穴があったら入りたくなったそうだ。

僕がいった病院は美容整形も兼ねていて、「細かく縫って傷が残らないようにしなければね...」と医者はつぶやきながら、30分ほどもかけて目の下を丁寧に縫ってくれた。それから看護士さんがやってきて、後処理をしてくれているのだった。その看護士さんは、僕の耳元で囁くように「大丈夫。きれいに直るはずよ」とつぶやく。

「目の周りの傷って人相変わりますか?」と目を閉じたまま訊くと、「そうね」と言う。「傷残っても、もう、いいんですけどね。この歳だし」と答えると、「人生、これから何があるかわからないわよ。また恋をすることもあるかもしれないでしょ」と囁くように言われ、ちょっとドキリとした。夕方の6時半過ぎだった。僕はベッドを降りた。

──会社に帰るの?
──ええ
──会社の人、驚いたでしょ
──いや、「また、やったんですか」ってなもんですよ。初めてじゃないし
──そんなにまでお酒飲むって...、何かあるからでしょ
──はあ?

妙に親しげな言い方をされた。何だか、よくわからない看護士さんだなあ、と思いながら僕は病院の階段を降りた。過度に酒を飲む理由に「何かあるのかなあ?」と考えながら...。しかし、僕以上に飲む人は周囲にいくらでもいる。泥酔して怪我をした人も何人かいる。彼らにも「何か飲む理由があるのか?」と想像したが、何も思いつかなかった。みんな、単なる酒好きのような気がする。

●酒を飲み続けるベンから「生きる切なさ」が伝わってくる

リービング・ラスベガス [Blu-ray]「破滅への甘い誘惑」(「映画がなければ...」第一巻104頁掲載)という文章で10年前にも書いているのだけれど、僕は「リービング・ラスベガス」(1995年)という映画が忘れられない。ニコラス・ケイジにアカデミー主演男優賞をもたらせた映画である。アルコール中毒になったシナリオ・ライターがラスベガスにいき、酒を飲み続ける話だ。

主人公のベンが、なぜアル中になったのかはよくわからない。アル中になったから家庭が崩壊し、人生に生き暮れたのか、家庭が崩壊したからアルコールに救いを求めたのか。彼が思い出の写真を焼くシーンがある。彼は何かを忘れたかったのだろうか。どちらにしろ、アルコールは精神的な救いを求めるときに、手を出しやすいものではある。僕も30過ぎまでは自宅では一滴も飲まなかったが、あるときから飲むようになった。

30過ぎまで生きてくると、忘れたいことのひとつやふたつはできるものだ。しかし、忘れることができるのは飲んでいる間だけのことだけだった。深酒をすればするほどその間の記憶は飛んだが、忘れたいことは意識するためか、素面に戻るとかえって鮮明になった。ときには、ひどい酔い方もした。深酒した翌日の自己嫌悪だけが積もり重なっていった。そんなことが続いて、いつの間にか僕は、毎日、酒を飲む男になった。

「リービング・ラスベガス」の主人公がラスベガスへ向かうのは、そこでは24時間、酒を売っているからである。彼は気が付けば酒がなくては生きていけない人間になっていたのだ。そして、ラスベガスで彼は、プロフェッショナルな娼婦サラ(エリザベス・シュー)と出逢う。そこにロシアン・マフィアなどがからんでくるのだが、原作者がラスベガスで酒を飲み続けて自殺した(何だか太宰治みたいだ)と知って見ると、その映画からは異様な迫力が漂い出す。

「酔っ払いの自己弁護」ではないけれど、ひたすら酒を飲み続けるベンを見ていると、「生きる切なさ」のようなものがスクリーンからヒシヒシと伝わってくるのだ。生きていくのは辛い、素面で生きていればズタズタに傷ついてしまう...。甘ったれるな、と言われればそれまでだが、そんな精神を持った人間もいるのだ、と納得する。長い人生で一度も、そんな気持ちを味あわなかったとすれば、幸せなことなのかもしれない。

●選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり

ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~ [DVD]去年は破滅派作家の代表である太宰治の生誕百年だった。そのためか、太宰治を巡る話題も多かった。「ヴィヨンの妻」も「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜」(2009年)として、根岸吉太郎監督によって映画化されたし、公開は今年になったが荒戸源次郎監督の「人間失格」(2010年)も制作された。

「ヴィヨンの妻」というタイトルは、高校生の頃に何の意味だろうと思っていたけれど、フランス文学を学んでわかった。フランス文学史上では重要な位置に、フランソワ・ヴィヨンという泥棒詩人がいるのだ。「ヴィヨンの妻」とは、つまり「泥棒詩人の妻」の意味である。太宰治は、その泥棒詩人を自分に擬して描いている。

一時期、僕も太宰治を集中的に読んだことがある。僕はすでに大学生で、様々な本を読んでいたから、極端に太宰にのめり込まなくてすんだが、これを10代半ばで読んだら完全にからめとられてしまうな、と思った。そんな読書体験をすると、たぶん太宰以外の作家の作品は読めなくなる。そうなった人たちもいた。太宰教の信者たちである。

晩年 (新潮文庫)僕は、まず「晩年」を読んだ。処女作品集に「晩年」という題を付けるあざとさに反発を感じたのを憶えている。その作品集が出たとき、太宰は27歳だった。また、その作品集には「選ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」とヴェルレーヌの詩が掲げられてあり、その気取りが鼻についた。しかし、箴言集のような「葉」の最初の一行を読んだ瞬間、僕は間違いなく太宰に精神を奪われた。

──死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

富嶽百景・走れメロス 他八篇 (岩波文庫)高校の教科書で読んだ「富岳百景」が唯一の太宰体験だった僕は、井伏鱒二の紹介でお見合いをする落ち着いた時期の太宰ではなく、若き苦悩に充ちた太宰に直面し、彼がそれまでに起こした数度の自殺未遂を甦らせた。今読めば、また違う思いを持つだろうが、20歳を過ぎた頃の僕には、「晩年」の太宰は衝撃的だったのだ。

年譜によれば、太宰が最初に自殺未遂を起こしたのは20歳のときである。左翼思想にかぶれていた太宰の最初の自殺未遂事件だ。次に心中事件を起こすのは、21のとき。銀座のカフェの女給と入水し、女は死にひとり生き残る。やがて18のときに知り合った津軽の芸妓を上京させて同棲したが、26のときに縊死をはかって失敗する。

その後、薬物中毒になり入退院を繰り返し、ようやく初めの作品集「晩年」を出す。それが芥川賞候補になり、新人作家と認められ始めた矢先、なぜか28のときに同棲していた元芸妓と心中未遂事件を起こす。その後、見かねた井伏鱒二が見合いの世話をし、新しい伴侶を得て太宰はようやく落ち着きを得る。

やがて日本が敗戦を迎え、太宰は迸るように書き始める。多くの読者を惹き付けるのは、この時期の作品だ。「ヴィヨンの妻」「人間失格」「斜陽」など、ポピュラーな作品が並ぶ。そして、それらの作品が太宰治という作家のイメージを作り出した。そんな流行作家として絶頂にいたとき、太宰は美容師の山崎富栄と玉川上水に入水する。39歳だった。

●生きていくのが切なくて、つい浴びるように酒を飲む

太宰治は作品と実生活が重なる作家である。そのダブルイメージが読者を惹き付けるのかもしれない。自殺願望、数度の心中未遂、相方だけの死、薬物中毒、破滅的に飲む酒、そして最後にはとうとう心中してしまう。その生涯がひとつの小説のようだから、太宰治自身を主人公にしたドラマなども多くある。僕は早坂暁さんが脚本を書き、石坂浩二が太宰を演じたテレビドラマ「冬の花火」が忘れられない。

生きていくのが切なくて、つい浴びるように酒を飲む。やがてクスリにまで手を出す。女たちを口説き、子どもを生ませる。妻子を泣かせているのはわかっている。わかっちゃいるけど、やめられないのだ。「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜」で、大谷(ほとんど太宰治だ)を演じた浅野忠信の破滅ぶりは半端ではない。しかし、詩人や作家だから許されるのかもしれない。僕が同じことをやったら生活破綻者として、社会から葬られるだろう。

今の僕は、太宰治に対するアンビバレンツな気持ちが整理できていない。確かに一時期、太宰の小説のうまさには感心したし、生きていく切なさを描き出す才能に惚れ込んだ。しかし、その自己憐憫、自己韜晦、自己中心的な自意識が鼻につき始め、うんざりして今では本を手にすることはない。そんな僕の思いを代弁してくれたのが、心理学者の岸田秀さんだった。

ものぐさ精神分析 (中公文庫)岸田さんは「自己嫌悪の効用──太宰治『人間失格』について」(「ものぐさ精神分析」中公文庫)の中で独特の心理分析を展開し、その末尾は「わたしに言わせれば『人間失格』は、この上なく卑劣な根性を『持って生まれ』ながら、自分を『弱き美しきかなしき純粋な魂』の持ち主と思いたがる意地汚い人々にとってきわめて好都合な自己正当化の『救い』を提供する作品である」と辛辣である。この文章が僕に与えた示唆は大きかった。

この文章を読んで以降、僕は「生きることに苦悩する主人公に共感する」のは、「生きることに苦悩する主人公に共感している自分に自己陶酔している」のではないか、という疑いが拭えなくなった。岸田さんの本は目から鱗が落ちる代わりに、自分の心理を疑う迷宮に陥る。この話に自分は素直に感動しているのか、この話に素直に感動している自分に感動しているのか、わからなくなる。

そういうことで、「リービング・ラスベガス」の主人公のように酒を飲み続けて死んでいく男や、「ヴィヨンの妻」の大谷のように酒に溺れ、愛人を作り、さらに盗みまで働く男に対する共感を抱きながらも、一方で「甘ったれるんじゃない。みんな、きちんとした人生を生きているんだ。切ないのはおまえだけじゃない」という言葉も湧き起こってくる。

もっとも、僕自身がときに前後不覚になるまで酒を飲む理由は、やはりわからない。もちろん、そんなになるまで飲む必要はないのだ。翌日の辛さも半端じゃない。しかし、わかっちゃいるけど...やめられないのである。これも、酒飲みの自己弁護ではあるけれど...。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com  < http://twitter.com/sogo1951
>
休暇を取った前夜、渋谷でスペイン料理店をやっている兄弟分カルロスと飲み、そのまま店に泊まってしまった。「ラ・プラーヤ」という高級レストランのフロアに折り畳みベッドを出して寝ていたのだが、翌朝、ソムリエのお姉さんがくるまで寝ていて驚かせてしまった。

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映画がなければ生きていけない 1999‐2002
水曜社 2006-12-23
おすすめ平均 star
star特に40歳以上の酸いも甘いも経験した映画ファンには是非!
starちびちび、の愉悦!
star「ぼやき」という名の愛
star第25回日本冒険小説協会 最優秀映画コラム賞
starすばらしい本です。

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by G-Tools , 2010/04/09