映画と夜と音楽と...[466]お前だけは信じていたのに...
── 十河 進 ──

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〈紅の拳銃/フェイク/ディパーテッド/インファナル・アフェア/インファナル・アフェアII 無間序曲/インファナル・アフェアIII 終極無間〉

●犯罪は悪というシンプルなモラルが支配的だった

子供の頃に父親に連れられてよく見ていた日活映画は、アウトロー(風来坊と呼ばれた)やヤクザ、殺し屋が主人公になることが多かった。彼らは金子信雄や西村晃がボスを演じる犯罪組織に雇われ、反社会的行為(当時の僕はそんな言葉は知らなかったが)を行う。子供というのは単純だから、なぜ犯罪者が主人公なのだろうと不思議に思った。

当時は、子供だけではなく、大人たちもそう思ったのかもしれない。昭和30年代のことだ。まだ、勧善懲悪が物語の主流だった。複雑なモラルではなく、犯罪は悪、というシンプルなモラルが支配的だったし、警察は正義を象徴していると信じられていた。だから、結局、最後には悪人は改心するし、ヤクザな主人公は警察に協力する。

そんな日活映画でよく使われたのが、「実は......だった」という手法である。殺し屋の振りをして犯罪組織に協力していたが、実は麻薬取締官(その頃は麻薬Gメンと言った)で潜入捜査をしていたのだ、というオチである。代表的なのは赤木圭一郎が主演した「紅の拳銃」(1961年)だ。公開当時、拳銃や殺し屋についての蘊蓄が評判になった作品である。

潜入捜査(最近は「アンダーカバー」と気取って言う人もいる)は、日本の警察では許されていない。潜入捜査が許可されているのは、厚生労働省管轄下の麻薬取締官だけだそうだ。これらの知識は、大沢在昌さんの作品をたくさん読んだので、かなり詳しくなった。大沢さんは、昔から麻取(麻薬取締官)を主人公にすることが多い。「新宿鮫」シリーズにも、麻取は印象的な役で登場する。

昨年暮れに出た上下2巻の長編「欧亜純白(ユーラシア・ホワイト)」も主人公は麻薬取締官で、潜入捜査でヤクザ組織に接近する。正体がばれれば死が待っている極限状態に主人公を置くことで、常に緊迫感が漂うからサスペンスにあふれた物語展開ができるのだ。もちろん、大沢さんほどの名手だから緊迫感を持続できるので、下手に使うとありふれた物語になってしまうこともある。




アメリカでは潜入捜査やおとり捜査がよく行われているらしく、小説や映画でも取り上げられることが多い。実在のFBI捜査官がマフィアに潜入した話を映画化したのが、ジョニー・デップが主演した「フェイク」(1997年)だった。僕は長大な原作も読んでいたので、家族を犠牲にし何年間も組織に潜入する捜査官の苦悩が手に取るようにわかった。

ジョニー・デップが演じた捜査官はマフィアに潜入し、ある幹部(アル・パチーノ)に信頼され、愛される。アル・パチーノはデップを息子のように可愛がり、自分の後継者にしようとさえする。デップもパチーノを父親のように慕う。だが、彼は最初からパチーノを裏切っているのだ。その相克が彼を襲い、デップの人格は分裂しそうになる。

結局、デップは仕事をまっとうし、マフィアに多大なダメージを与える。その結果、彼にはマフィアから莫大な懸賞金がかけられる。デップは職務をまっとうしただけだが、マフィアにとっては最大の裏切り者である。彼と家族は別の人間になり、証人保護プログラムに守られ、まったく知らない土地で暮らすことになる。

潜入捜査もので観客にサスペンスを感じさせるのは、いつ正体がばれるかということである。しかし、犯罪組織の中で友人ができたとき、その友人も裏切らなければならない葛藤に悩む主人公もよく描かれる。主人公は正義を行おうとしているのだが、友人を裏切るというモラルに反することをせざるを得ない矛盾...、それが主人公を苦しめる。

彼がまっとうな人間であればあるほど、自分を信じてくれる人間を裏切ることのつらさが、彼を襲うのだ。友を裏切らない、自分を信じてくれる人間を裏切らない。それは、僕にとっては、犯罪を摘発することより、ずっと大切な基本的モラルである。そのモラルを持たない人間は、人からの信頼は得られない。

●いつの間にか自分が何者なのかわからなくなり始める

その若者は正義感の強い人間だった。子供の頃からのあこがれだった警察官になれたときは、一生、その仕事をまっとうしようと思ったに違いない。しかし、警察官として優秀だった故に、彼は運命を狂わされてしまう。警察学校で抜群の成績を誇った若者は、教官と警察幹部に目を付けられる。潜入捜査官にならないか、という誘いを夢に燃えていた彼は承諾する。それが、職務であり、正義だと信じたからだ。

しかし、若者は汚名を着て警察学校を放校になる。警察官失格の烙印を押される。真実を知るのは教官と、ひとりの警視しかいない。彼は自分を放り出した警察学校、その閉じられたままの扉を振り返る。正義の側に立って犯罪を取り締まることを夢見ていた若者は、もうそこにはいない。若者は夢やぶれて自暴自棄になり、街のチンピラになったのだ。

それから10年。若者は、彼を兄貴と慕う弟分がいる黒社会の一員になっている。組織では信頼の厚い幹部だ。ボスは、彼に様々なことを相談する。彼は、常に緊張を強いられ、自分の正体を自覚しながら、いつの間にか自分が何者なのかわからなくなり始めている。犯罪組織の中で信頼を得るために、様々な違法行為を犯したし、時には喧嘩相手を気が狂ったように痛め付けたこともある。だが、それは信頼を得るためにしている行為なのか、自らが主体的に行っていることなのかが、今はもうわからない。

彼は、連絡で会う警視に「10年だ。もうやめさせてくれ」と訴えるが、優秀な潜入捜査官を警視は簡単に手放さない。「3年だと言ったじゃないか。3年経ったら、もう3年と言う...」と彼は詰る。警察学校の教官が死に、今では彼の正体を知るのは警視しかいない。その警視は「おれが記録を消せば、おまえは一生ヤクザ者だ」と恫喝する。そんな警視に怒りを感じながらも、彼は警視に対する信頼と友情は抱いているのだ。

彼は、眠っている間にも寝言で何かを言わないか、と気が休まるときがない。彼が安心して眠れるのは、美しい精神分析医の部屋の長椅子だけだ。それは、彼に安眠を提供してくれる。そこでは、女医に「おれは警官だ...」と話すことができるからだ。しかし、女医は本気にしない。嘘と真実...、それらが彼には判別できなくなっている。彼は、いつまで正気を保っていられるのだろうか。

一方、街のチンピラだったひとりの男がいる。彼は誓いを立てて、黒社会の一員になる。しかし、ボスから命じられたミッションは、意外にも「警察学校に入れ」というものだった。彼は優秀な成績で卒業し、10年経った今、エリート捜査官になっている。ある日、大きな麻薬取引があると警察に情報が入る。それは、潜入捜査官がもたらせたものらしい。

彼は、ボスに警察が情報をつかんでいることを報告する。しかし、取引は予定通り行われ、彼は警察内部から援護する。結局、潜入捜査官によって麻薬取引は失敗するが、警察に潜入したスパイである彼によって警察も組織を摘発できない。警察は内部にスパイがいることを感知し、組織も内部に「もぐら」がいることを知る。皮肉にも彼は「内務調査課」に異動を命じられ、警察内部のスパイを捜すことを命じられる。

●悪の仮面をかぶった善人と善の仮面をかぶった悪人

「インファナル・アフェア」(2002年)は公開された途端に香港で大ヒットし、ハリウッド資本がリメイク権を高額で入手した。4年後、ハリウッドはマーチン・スコセッシという実力派監督を起用し「ディパーテッド」(2006年)のタイトルで公開。「ディパーテッド」は、初めてマーチン・スコセッシにアカデミー監督賞をもたらせ、作品賞まで獲得した。「ディパーテッド」がよくできていたのは、やはり「インファナル・アフェア」の着想がぬきんでていたからである。

「インファナル・アフェア」の斬新さは、潜入捜査官に対して警察に潜入した黒社会のスパイを設定したことである。ふたりの人生は交差し、善と悪を照射する。悪の仮面をかぶった善人、善の仮面をかぶった悪人。ふたりは、それと知らずに知り合い、互いに好感を抱き、別れていく。後半、それぞれが潜入捜査官と黒社会のスパイだと知って邂逅するとき、彼らは互いに相手の中に己を見ている。まるで、鏡を見るようだったのかもしれない。

しかし、黒社会に潜入し、正体がばれれば死が待っている潜入捜査官ヤン(トニー・レオン)の緊迫した状況に比べ、黒社会の一員だが警察官となり、日常的には警察の仕事で優秀な結果を残してきたラウ(アンディ・ラウ)は、もし正体が判明したとしても命を奪われることはない。その安心感が、ラウの場面を見るときには漂う。彼はエリートであり、婚約者と豪華なマンションに住んでいる。

彼は、次第にその幸福な生活になじんでいく。黒社会のボスから携帯電話が入ると、彼はあまり心楽しそうではない。一方、彼は、警察の仕事を楽しんでこなしているように見える。善を行うのは、悪を行うよりはずっと楽だ。精神的な負担もない。不安が湧き起こることもない。正義の側に立っていると思えるとき、人は安心していられるのかもしれない。

彼は、黒社会に内通し、そのことによってヤンの正体を知る唯ひとりの警視の死を招く。ボスが警視を殺す命令を出すとは思っていなかった彼は、ひどく動揺する。いつの間にか、彼は警察官のような感じ方をするようになっている。婚約者も、警察官である彼を愛しているのだ。ある日、彼は自分がどちらを選ぶのかを迫られる。黒社会の一員として生きるのか、警察官として生きるのか...。

もちろん、彼は楽な方を選ぶ。不安と背徳の中で生きることを拒否したのだ。そのことによって、彼は再び警察内で絶大な称賛を受け、信頼感を得る。警察組織の中で、彼は信頼される存在になる。だが、ラウが「善人として生きる」ことを決意したとき、潜入捜査官のヤンは彼が警察に潜り込んだ「モグラ」であることに気付くのだ。それぞれに組織の信頼を得ているふたりは、たがいに相手の組織からは信用されないのである。

そう、ヤンがラウを人質にして「おれは警官だ」といくら叫んでも、彼らに拳銃を向けた刑事は「まず課長を解放しろ」と、彼の言葉には耳を貸さない。犯罪組織で優秀であったヤンは、まごうことなき犯罪者であり、警察でエリートだったラウは、間違いなく優秀な警官なのである。人は信頼を得るために努力するのだが、信頼されたためにヤンは犯罪者であり続けねばならないし、ラウはスパイであることを疑われもしない。

●僕が努力してきたのは相手に信頼されることだった

人は、何のために努力をするのか。もちろん、個人的な努力は、様々な目的のために行われるだろう。自分の夢の実現のために、人は努力する。だが、人は他者との関係の中で生きる存在だ。人はひとりでは存在しない。生まれたときから両親という他者がいる。学校という社会で同級生という他者と共存し、社会に出てからも、何らかの形で他者と関係を持って生きている。

僕は、大学を卒業以来、35にわたってひとつの組織に所属してきた。50人ほどの規模の専門誌の出版社だ。その間、様々な人と仕事を通じて知り合った。編集者時代は筆者だったり、写真家だったり、デザイナーだったり、印刷会社の営業マンだったり、企業の広報担当者だったりした。

そんな社外の人間、社内の人間を問わず、僕が努力してきたのは、結局のところ、相手に信頼されることだったと思う。いや、それほど大げさではなく、「あいつはダメだと思われないようにしよう」という程度だったかもしれない。そのために、約束したことは守った。相手にとってよかれと思うことは、積極的に提言した。その結果、付き合いがなくなってもう10年近くにもなるのに、未だに僕のことを編集者として評価してくれる人たちが何人かはいる。

僕は「男を磨く」とは、人から信頼される人間になることだと考えている。「あいつにまかせておけば大丈夫」と思われることは、最大の評価だ。だから、僕は逆のことをする人を信用できない。約束を守らない人、仕事がいい加減な人、自分の専門分野のことを確信を持って説明できない人...、要するにプロフェッショナルでない人、そんな人たちを僕は「いい加減な奴だなあ」と思う。

現在、僕は社員の勤務状況を管理する立場にいる。僕が信頼している人間が一か月の残業を50時間と申請してきたら、「いろいろあって忙しかったんだろう」と思うが、そうでない人間が同じ時間を申請してきたら「仕事のやり方がまずいんじゃないか」と疑う。そんなことを考えると、ゆるぎない絶対的な信頼を得るのは大変だと思う。

「インファナル・アフェア」のヤンもラウも組織内での信頼を得たために、本来の組織から疑われるという矛盾に晒される。しかし、信頼される人間でなければ、潜入者にはなれないのだ。彼の一番の使命は、その組織に信頼されることなのである。だが、あらかじめ裏切ることを想定した信頼関係は、潜入者に強い葛藤を強いる。その葛藤を克服できない人間には、潜入捜査は無理である。

もっとも、僕らは潜入捜査に従事しているわけではない。日常の人間関係の中で、自分の所属する組織の中で、信頼されることを行動原則にすれば、どんな場合も間違いはないと僕は思っている。しかし、信頼を得るには長い時間と努力が必要だが、一瞬で信頼を失うこともある。割に合わない話だが、誰にも「お前だけは信じていたのに...」と言われないようにしたいものだ。

ちなみに「インファナル・アフェア」はヒットしたおかげで、翌年すぐに第二部「インファナル・アフェアII 無間序曲」、第三部「インファナル・アフェアIII 終極無間」が作られた。3編を通してみると、10年にわたる壮大な悲劇が展開され、深い感動が得られる。全編を貫くテーマは「善と悪」であり、ジャン・ピエール・メルヴィル監督が言ったように、世の中を構成する要素は「愛と友情と裏切り」なのだとわかる。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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久しぶりに表参道の青山ブックセンターに寄った。広々としていて、本を探しやすいし、アート系の雑誌や書籍の充実ぶりはやはり凄い。映画の本のコーナーに僕の「映画がなければ生きていけない2007-2009」も並んでいた。隣は川本三郎さんの本だった。その横に上島春彦さんの黒澤明論「血の玉座」が平積みになっていた。

●306回〜446回のコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が新発売になりました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1447ei2007.html
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●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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