[2875] 記憶の中で生き続けるもの

投稿:  著者:  読了時間:30分(本文:約14,700文字)


《通過儀礼みたいなもん、乗り越えられなくてどうするよ》
 
■映画と夜と音楽と...[468]
 記憶の中で生き続けるもの
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![120]
 萌え〜、ではない「猫耳」
 GrowHair


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■映画と夜と音楽と...[468]
記憶の中で生き続けるもの

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20100625140200.html >
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                        〈乱れ雲/あした来る人〉

●夫を轢き殺した男に妻の強い憎しみの視線が向けられる

妻の妊娠がわかり、通産官僚である夫のワシントン赴任が決まるという、二重の喜びをふたりで祝った日の夜、妻は夫が車にはねられて死んだことを知らされる。幸福の絶頂から、思いもしなかった不幸へ。はねられた夫の顔を見つめる妻は、おそらく現実感を失っているのだろう。こわばった顔で立ち尽くすだけだ。

官舎での葬儀。現役のエリート通産官僚の死である。多くの花輪が並び、弔問客が列を作る。その中をひとり若い男が進み出て焼香を終え妻の方を向き、「奥さんですか。このたびは...」と頭を下げる。妻の横にいた夫の父親が「おまえが、息子を殺したのか」と激高する。怒声をあげ、「何しにきた。出ていけ」と睨みつける。息子を失った悲しみを、事故の相手に向けるしかないのだ。

男に付き添ってきた上司がかばうように肩を抱き、男を連れ出そうとする。男が玄関で振り返ったとき、初めて妻の強い憎しみの目にぶつかる。妻は何も言わない。鋭い視線で男を見つめるだけだ。夫を殺した男、自分の幸福を奪った男...、憎しみは男に向かう。ほかに、どこへ向けられるというのか。

男は商社のエリート・ビジネスマンだった。反対はされているが、恋人は常務の娘だ。前途は洋々だった。しかし、取引相手の外国人の客を接待し、客とコールガールを同乗させて運転しているとき、前輪がパンクしてハンドルを取られ、通産官僚をはねてしまう。商社勤めの人間が通産官僚を殺したのだ。不可抗力とはいえ、社内での立場はない。

男は裁判では無罪になるが、賠償金は分割で支払うと申し出る。姉に付き添われて現れた通産官僚の妻は、終始、顔を背けている。男が賠償金の話を持ち出すと、「お金なんかいりません。夫を返してください」と言い募る。男は何も言えず、何も反応できない。そうやって、相手の妻に責められ続けるしかないことを、男は覚悟している。

アパートに帰ると、恋人が待っている。青森支社に左遷される男は、恋人に「一緒にいってくれないか」と言うが、恋人はそれには返事をせず、黙ってカーテンを閉める。その瞬間、男にはわかる。彼女は別れる決意でいるのだと...、最後に自分に抱かれるためにカーテンを閉めたのだと...。それは彼女の詫びなのだろう。

男は、ひとりで青森支社に赴任する。定年間近の所長、数人の営業マン、それに事務の女子社員がひとり。花形の商社マンとして活躍してきた男に、そこはどんな風に映ったのだろう。それでも、男は賠償金を支払うために仕事を続ける。

そんなとき、通産官僚の妻が男の前に現れる。お金はもう送らないでほしい、と彼女は言う。子供は流産し、夫の実家に迫られ籍を抜いて旧姓に戻った。実家が青森の十和田湖畔の旅館で、今は義姉が取り仕切っているが、そこで働くのだという。「あなたからお金をいただいていると、いつまでも過去に縛られるような気がして...」とつぶやく彼女に、「そうやって僕を責め続けるのですか」と男は答える。

●切なさと悲哀を観客の胸にかきたてる成瀬巳喜男作品

成瀬巳喜男監督の遺作になった「乱れ雲」(1967年)は、人を轢き殺してしまった商社マン(加山雄三)と、夫を轢き殺された妻(司葉子)の悲恋物語だった。加害者と被害者の妻の恋...。普通ならあり得ない話だが、名匠・成瀬巳喜男は、その物語に説得性を持たせ、切なさと悲哀を観客の胸にかきたてた。

女は、男の誠意を感じてはいる。だが、許すことはできない。愛する夫を殺した相手だ。だから、たまたま湖畔の旅館で酔った自分の姿を男に見られたとき、女は強い口調で「私の前からいなくなって。どこか遠くへいってしまってよ」と言い放つ。そのとき、女の心は揺れている。愛してはいけない男に惹かれている、自分の心に戸惑っているのだ。

女が「どこか遠くへいってしまって」と言う本当の気持ちは、これ以上、男が身近にいると、もっともっと惹かれてしまうからではないのか。そんな自分が怖いからではないのか。夫を殺した男を愛せるはずがない。そう言い聞かせながら、彼女は自分の気持ちの振れに気付いている。司葉子の演技は、観客にそんなことを伝えてくる。想像させる。

「どこか遠くへいって」と言われた男は泥酔して下宿に戻り、息子を心配してやってきていた母親に、「あの人は僕を責め続ける」と涙を流す。彼は、女に惹かれている。詫びる気持ちが、女に幸せになってもらいたいと願う気持ちが、何度か逢ううちに恋慕へと変わっていったのだ。あの人を自分が幸せにしたっていいのだ、と思った。だが、女からは強い拒絶の言葉しか返ってこない。

男は、転勤願いを上司に出す。ある日、本社からやってきた元上司は、彼の赴任先を告げるが、それはたったひとりの駐在員しかいない海外支社だった。前任者が精神的におかしくなり、行方不明になったその後釜だという。誰もいきたがらない場所である。「3年経ったら呼び戻してやる」と、元上司はもっともらしく言う。

男は転勤の辞令を受ける。そんなある日、女とバスで乗り合わせ、男は転勤になることを告げ、最後に十和田湖を案内してくれないかと誘う。ふたりはボートに乗るが雨が降り出し、風邪気味だった男は熱を出す。女は、知り合いの旅館に頼んで部屋を取り、医者の往診を依頼する。医者は数時間ごとに解熱剤を飲ませるように指示して帰る。

熱でうなされる加山を看病する司葉子は、本当に美しい。流しで氷を砕く背中にさえ恋慕の情がにじみ出す。氷嚢を直す仕草に幸福感が漂う。熱のために歯を食いしばる加山の口に錠剤を入れ、水差しをくわえさせる表情が輝く。そして、とうとう「手を握ってくれ」と言う加山の望みを叶えてやる。いや、司葉子は加山の手を握り返すのだ。その瞬間、彼女は自分が男を愛していることを、明確に自覚したに違いない。

しかし、眠らないまま翌朝帰宅し、男と旅館で一夜を過ごしたことを知った義姉(森光子)とその愛人(加東大介)に「どんな間柄なのよ」と冷やかされると、「夫を殺した相手よ。そんな人を私が愛せるはずがないじゃないの」と激しい口調で明かす。それは、男を愛してしまった己に言い聞かす言葉だ。そんな気持ちが伝わってくる。

苦しい。苦しくてたまらない。切ない。切なくてやりきれない。胸がかきむしられる。胸の奥から鳩尾にかけて絞られるような...淋しさが募る。悲しみが湧き起こる。痛いほどの悲しみ、胸に穴が開くような痛み...。躯の裡から何かを希求するような、そんな切実な思いが、司葉子の姿から、表情から、仕草から、気持ちとは裏腹に口を衝いて出る言葉から、立ち上ってくる。

●抑制のきいた大人の恋の禁欲が美しく輝いて見える

僕は「恋する相手とは寝ないことをもって尊しとする」人間だから、「乱れ雲」を見ると、ふたりの禁欲的なところが美しく輝いて見える。抑制のきいた大人の恋...。昔の恋愛小説や恋愛映画は、恋愛感情が芽生え、育っていくことに主眼をおいていた。そんな物語では、ふたりが愛を確認し、手を握り合う、あるいはくちづけを交わすことは、ほとんど物語の終焉を意味した。

たとえば、井上靖の小説である。僕は彼の小説の愛読者であるが、その中でも川島雄三監督によって映画化された「あした来る人」(1955年)は、昔読んで深く印象に残っている。その物語には何組かの男女が登場するけれど、彼らのほとんどは手さえ握らない関係のまま終わる。

「乱れ雲」は2時間たらずの映画だが、彼らが初めてくちづけを交わしたとき、すでに1時間半が過ぎていた。風邪から回復した男が十和田湖へ女を訪ね、山菜採りをしている女を驚かし、初めて愛を告白する。男は「海外の転勤先に一緒にいってくれませんか」と、決断を迫るように抱きしめる。抱きしめられたとき、女はあらがい一度は身を離す。しかし、自らの思慕の念を確認するように、改めて身をゆだね唇を重ねる。

──僕たちに、今、必要なのは、過去にとらわれることじゃない。
──私たちから、過去を消すことなんかできやしないわ。

結局、女は愛した夫の思い出から逃れられない。青森に帰ったばかりの彼女が、夫との旅の思い出を甦らせるシーンがある。おそらく、それは繰り返し繰り返し、彼女の中に浮かぶ思い出だ。傷付けた者にはわからない。愛する者を失った女は、いつまでも思い出を消すことはできない。

思い出の中で、死者は永遠に年をとらず、美しい記憶だけになっていく。忘れることなどできはしない。逝ってしまった人間は、いつまでも昔の姿で、薄れゆく記憶の中からときに鮮明に甦る。しかし、愛した人の記憶を抱えて生きていくことは、生きている者のつとめだと僕は思う。生者の記憶の中に、死者は生き続ける。

●大勢の弔問客の間に波紋のように広がった囁き──何しにきた! 帰れ!

弔問客の中から、怒声がとんだ。うなだれるように頭を下げた男が、何も言えず斎場の入り口で肩を落としている。付き添いの男が、その横でじっと正面を見つめていた。肩を怒らせ、虚勢を張るように、じっと立っている。正面には献花台が設けられ、大きく引き延ばされたKさんの写真がかけられていた。何の不安も感じていないような、幸せな笑顔だった。

男を取り巻くように囲んだ大勢の弔問客の間に、水面に小石が投げ込まれて立つ波紋のように「轢いた相手だって...」という囁きが広がった。4月の早朝、強い雨が降っている中、Kさんは横断歩道を渡ろうとして車にはねられた。即死だったらしい。車を運転していたのは飲食店主で、築地に仕入れにいく途中だったと聞いた。

その男が、おそらく身内だろう別の男と一緒に、自分が殺してしまった若い女性の通夜の席に姿を現したのだ。Kさんの父親は男が姿を現したことに怒りを顕わにし、男が警察に拘留されていないことに不審を募らせた。「帰れ」と、さらに鋭く言い放った。弔問客たちも、多くは男を責める目で見つめていた。

ただ、僕は一緒になってその男を責める気にはなれなかった。その夜、僕が悲しくなかったわけではない。それどころか、献花をした後から涙が止まらなくなった。しかし、その男だって、とんでもなく大きなものを背負ってしまったのだ。人を殺した、その罪の意識もあるだろうし、悔やんでも悔やみきれない何かを抱えたに違いない。罵られるのがわかっていて、自分がはねた相手の通夜にやってくる辛さや気後れを僕は想像した。

Kさんが転職で僕の編集部に入ってきたのは、もう19年前のことになる。彼女は予定されていた配属部署が、入社直前になって急に変更になり、僕が編集長をやっていた季刊のビデオ雑誌に配属になったのだ。そのことを彼女は気にしていたし、自分がビデオのことなど何も知らないのになぜ、と不思議がってもいた。

配属部署が急に変更になった理由は社内の人事的な事情だったのだが、そんなことがあったので、僕は何となく彼女に対しては申し訳ないような気持ちを抱いていた。それに、彼女と仕事をしてみて編集センスが抜群だとわかったし、アート、音楽、文学などの世界に造詣が深いことを知った。その結果、自分の担当する雑誌ではあったけれど「ビデオの本じゃあ、もったいないな」と僕は口にするようになった。

結局、1年が過ぎた頃、イラストレーションという雑誌の編集部に異動できる機会があり、僕は彼女に「きみには、そちらの方が向いているよ」と話をした。しかし、彼女は僕に気を遣ったのか、「もう少し今の編集部で...」と返事を留保した。「確かにアート系の雑誌をやりたかったのですが、今、異動すると中途半端になるようで...」と彼女は続けた。

しかし、その後、彼女はイラストレーション編集部に移り、水を得た魚のように生き生きと活躍し始めた。異動して1年ほどが過ぎたとき、「ずいぶん楽しそうに仕事してるようだね。よかった」と声をかけると、「おかげさまで、ありがとうござました」と頭を下げられた。通夜のとき、僕はそんなことも思い出し、拭っても拭っても涙は止まらなかった。

あれから...長く果てしない時間が流れた。しかし、今でも、僕の記憶の中では、30になるかならぬ姿で彼女は生き続けている。笑いかける。問い詰める表情もする。それは違います、編集長、という顔もする。彼女の取材原稿を誉めたときにとてもうれしそうにしたのを、今でもよく思い出す。僕に早川義夫のCDを貸してくれたときの照れたような仕草も...。

僕にとってKさんは、非常に強い印象を残した女性だった。生きていれば、彼女も40半ばになる。結婚して、子供が生まれていたかもしれない。作曲の才能が花開いたかもしれない。あれだけの文章が書けた人だ。音楽評論家として、世に出ていたかもしれない。そんなことを、ときに夢想する。

そんなとき、自分が轢き殺してしまった若い女性の通夜に現れ、罵声を浴びた男の心になぜか僕は思いを馳せる。あの通夜のシーンが、僕の脳裏を去らないのだ。いつまでも記憶に残っている。もしかしたら、司葉子の憎しみに充ちた視線に黙って耐えていた、「乱れ雲」の加山雄三の姿を連想するからかもしれない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >
ユーチューブで、みなみらんぼうを見付けて「途上」と「少年の夏」を繰り返し聴いている。それらが入ったLPは持っているのだが、レコードがかけられない。テープにダビングしたものを車の中で聴いていたが、今の車はハードディスクタイプになっている。もうすぐCDも聴けなくなるかもしれない。

●306回〜446回のコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が新発売になりました。
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■Otaku ワールドへようこそ![120]
萌え〜、ではない「猫耳」

GrowHair
< http://bn.dgcr.com/archives/20100625140100.html >
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2年前に銀座の「ヴァニラ画廊」で人形作家さんたちの作品とともに、私が撮った写真を展示したとき、それが人生最大の晴れ舞台になると思っていて、冗談で「あとは死ぬだけ」などと言っていたが、今度こそ「あとは死ぬだけ」になりそうな展示が、浅草橋の「パラボリカ・ビス」にて、6月18日(金)より始まった。

こういういい場所で展示させてもらえる話になった当初から、当然のことながら、プレッシャーを感じていた。人形作家さんたちも同じだったが、彼らはそれを跳ね返して、ちゃんと答えを出してくれた。

よくある人形のグループ展では、各出展者の表現の方向性がばらばらなためか、めいめいに小区画が割り振られ、その中で自由に表現する独立分離の展示形式が多い。10人いたら、1/10ミニ個展×10といった構成。今回は、そういうのとは違うことをしようと話がまとまっていた。人形のいる空間をご覧に入れよう、と。

空間構成は赤色メトロさんが中心となって案を練り、展示の始まる1週間前から搬入開始し、それでも時間的にかなりきわどい進行で、みんな必死にがんばった。自分たちに対して厳しい姿勢を最後まで緩めず、ちゃんと結果を出したのは、本当にスゴいことだと思う。

それにひきかえ写真は、って話は、回を改めてしようかと思う。こっちはこっちで力を出しきって、やれることはやったので、今回の展示がどうこうということはないのだが、伸びきったゴムのごとく今のレベル維持で一生似たり寄ったりの写真を撮りつづけて終わったんじゃ、今まで強運を授けてくださったお天道さんに申し訳が立たないので、これからどういうふうにしていこうかな、と。ぶかぶかの殻に入っちゃったヤドカリは、自分が大きくなる以外にない。

7月5日(月)までの会期中には、土日が3回挟まる。それぞれに週末イベントが入り、6回。その第1回として、黒澤潤監督の映画「猫耳」が上映された。今回はそれをレポートしよう。ということで、2階カフェスペースをちょうどぴったりな感じで満杯にした人々の後ろの通路から、私も見た。見終わって、困った。書けない。無理だ。

面白くなくはなかったのである。普通の人の発想を遥かに超越したシュールな映像を楽しむことはできた。けど、奇妙奇天烈な光景が脈絡なく次から次へと切り替わっていく、たいへん前衛的な映像でした、と言ってみたところで、どんな感じか伝わるとは思えないし。なじみのないジャンルで、どういうところに作風が現れ、こういうところが見どころです、などと語ることもできないし。困った困った。ドラえもぉぉぉん。

あ。いやいや。でもでも。いやいや、とんでもないぞ。でもでも、もしかしたら。おいおい、なに考えてんだ、正気かよ、泣きつく相手じゃないって、畏れ多いって。でもでも、適任といえばこんな適任な人はいないわけで、解説やコメントがいただけたら、ちょっとスゴいかもよ。おいおい、無茶だって、ぶしつけにもほどがあるぞ。でもでも、立っているものは親でも使え、のたとえもあるし。おいおい、たとえが違うって。餅は餅屋、とか?

......ってな葛藤を0.2秒でやりすごし、気がついたらお願いしていたのは、映像作家の寺嶋真里さん。長年にわたって自主制作映像を世に送り出しつづけ、いくつかの輝かしい受賞歴もあるお方だ。最新作の「アリスが落ちた穴の中 Dark Marchen Show!!」は、Rose de Reficul et Guigglesや清水真理さんの人形が登場する作品で、評判上々だ。すでにドイツでも上映されている。こんなすごいお方が、私なんぞの無茶苦茶なお願いを快く聞いて下さった。
じゃ、寺嶋さん、よろしくお願いします。

■ゴスロリ映画の起源〜黒澤潤監督作品「猫耳」上映レポート 寺嶋真里

 去る6月19日、浅草橋にあるギャラリー、パラボリカ・ビスにて幻の元祖ゴスロリ映画といわれる黒澤潤監督の映画「猫耳」が上映された。

 パラボリカ・ビスは「夜想」をはじめとする幻想文学や芸術系書籍の出版で知られる旧ペヨトル工房、現在のステュディオ・パラボリカが直営するギャラリーである。「猫耳」の上映会はギャラリーで開催されている漫画家・画家・ミュージシャンである宮西計三の個展のスペシャルイベントとして企画された。

 「猫耳」は94年に制作された16ミリフィルムの自主制作映画である。黒澤潤監督の初の長編作品で80分の尺のものだ。それはストーリーが明確で登場人物に台詞があって、という通常の劇映画スタイルではない。イメージの断片の羅列と大音響のノイズ音楽が被った作品で、どちらかといえば"実験映画"と呼ばれるアート映像のジャンルに入るだろう。今、この原稿を書いている時に、どういう映画だったのか記憶が曖昧になってしまっている。傑作、映像美、ノイズ、耽美やゴス好きの人はおそらく好きな映画、という風な言葉しか出てこない。

 ロケ地は立川の米軍基地跡の廃墟や、現在では解体された東大駒場寮などだったらしい。部屋には幾つか宙吊りにされた柱時計、ある時は無数のフォークとナイフが吊り下げられ、どこか小劇場の演劇空間に変質させたかのような廃墟の部屋の中、白い襟の付いた黒いワンピースの若い三、四人ほどの女性たちと、シックで軍服のような衣装の若い一人の男性が登場する。

 最初は数個の棺桶の中に寝ていて身を起こし、また静かに棺桶の中に身を沈める、という風な出だしだったかと思う。セリフがあるわけではなく、揺らめく燭台の炎の元、何か楽しそうに語らいながら皆でテーブルの上のご馳走を食べずに弄んだり、外の木々を眺めながら窓辺で女性が歯磨きしていたり、キャンドルが無数に置かれた床の上を白いスリップの下着姿で角砂糖を並べる、といった風なイメージ映像が続く。天井からたわむビニールに水が貯まっていて、それをナイフで突き刺し頭から水を浴びる、といったようなシーンなども出てくる。アヴァンギャルドな映像美の傑作、としかいいようがなく、どうだったのか思い出せないだなんて、それはまるでタルコフスキーの映画を見ている途中、美し過ぎる映像のせいで己の夢想世界に没入してしまい、しかしハッと我に返る。「嗚呼、やっぱりタルコフスキーの映画は傑作だよね。」というのと同じかも知れない。

 そこでこの「猫耳」を取り扱い、DVD販売などをしているミストラルジャパンのサイトを検索してみた。そこでは「猫耳」が以下のように説明されている。

  4人の若者が、ゲームのような生活をしている。ゲームがルールによって
  常に終わりへと閉じていき、サイコロのひとふりでまた新たに始まるよう
  に、4人の生活は慢性的に、終わりと始まりを繰り返すにすぎない。終わ
  りと始まりの感覚の磨滅によって、彼らは過去と未来といった時間の世界
  と絶縁している。それは同じ映画をエンドレスで見続けていることに似て
  いる。そして、彼らの周りにはカメラや映写機が見えかくれする。一人の
  少女は写真をとられ続け、一人の少年はスクリーンにへばりつく。彼らに
  とって、反復不可能なものは嫌悪の対象でしかない。(ミストラルジャパ
  ンのサイトより < http://www.mistral-japan.co.jp/ >)

 そうか、若者たちが廃墟の中で延々と続ける遊戯的生活だったのか。途中、変調したかのように黒のロングドレスを纏い妖しくて美しい女が登場する。そして女は着席した皆の前で骸骨と踊っている。それは上映終了後のトークに出演したダンサーの薔薇絵だった。そして薔薇絵が演じる女は医療用の寝台ストレッチャーの上に乗せられたまま、部屋中をあちこち暴走させられたり、上半身裸で縛られ目隠しをされいたぶられ、最後には死んで棺桶の中に入ってしまう設定だ。そして皆はその棺桶を外に運び出し、何だか"ごっこ"のような葬列シーンがある。それから森や草原の中、白い襟の付いた黒いワンピースの若い四人ほどの女性たちが、ただ佇んでいるシーンがあったり、それから山の湖の中に入ってゆき、目を閉じたまま横一列で手を繋ぎ、ワンピース姿の女性たちが湖の中を胸まで浸かっている。という風だったかと思う。

 あっという間の80分。私の拙い文章ではこの映画をうまく説明出来ないのだけれど、それは耳をつんざく大音響のノイズ音楽と、タルコフスキー監督の映像美に楠本まきの漫画「KISSXXXX」のような画のセンスが混じり合ったようだと思った。94年の作品だから今見ると時代のレトロ感やズレはあるが、それでもやはり傑作である、と言い切る事が出来る。

 この映画を見ながらふと思い出した事がある。それは私が関西に居た90年代の終わり頃、京都大学の敷地内にある廃墟となった校舎を、若者たちがしばらく不法占拠したのだった。おそらく京大生や美術系の学生、アーティストなどの十代から三十代後半までの男女がたむろしていたかと思う。私も友人から噂を聞いて二度ほど訪れた記憶がある。部屋を其々が好きに使い、ベットを置いて仮の住処にしたり、簡易バーが開店されたり、アトリエとして使ったりという風だった。そしてその若者たちが政治や哲学、芸術論などを語り合ったり、少し恋が芽生えたりする姿を傍目に見ながら、強烈な恥ずかしさが込み上げてきたのだ。

 なぜならそこに集う者たちのほとんどが学生かアルバイト、フリーターであって、社会の中で自分のポジションを見つけられず、だが"負け組"の中には入りたくはないモラトリアム人間の"学園祭ごっこ"だと思ったからだ。校舎だからトイレはあっても風呂はないだろ?! 銭湯に行くのか?! 洗濯機もないし洗濯はどうするんだ?! アイロンはっ?! 薄汚いだろっ!! 簡易コンロで鍋なんかも、カセットボンベを買うのがもったいないのでは? 不法占拠の廃校暮らし、アウトローや反体制な自分を気取っても、一々着替えを取りに帰ったりコインランドリーに行ったりで無駄じゃないのかっ?! そしてここから授業やバイト先に通うのかっ?! ...否、皆若いからの一言で。

 しかしコラッ、そんな事をしている間に論文書けよ! もっとバイトして次のステップに備えろよ! とも思っていたが、大学側の強硬措置で数ヵ月後にはこの"学園祭ごっこ"は終息したのだ。廃墟の中で展開するゲームのような若者たちの生活。現実になると何と稚拙なのだろう。ちっとも耽美じゃないし。嗚呼、恥ずかしい!

 だが「猫耳」は映画であるから現実生活の些末な恥ずかしさは省略され、出演者は皆美しく、センスの良い服や小物が目に写り続けてくれた。おかげで京大校舎不法占拠の"学園祭ごっこ"の記憶はかき消され、私はホッと安堵したのだ。80年代のトランスギャルやナゴムギャルを経て、ゴシックロリータが誕生し認知さていゆく時代のセンスが、そのまま映画の画面全体にきらめいていた。90年代の理想や美学を体現し、若い時の一瞬にしかあり得ない輝きをシャープで美しく、暴力的に描いているのだ。

 黒澤監督はこの作品で音楽や美術、衣装まで自らが担当しており、おそらく監督自身がそのような指向なのだろう。私は「猫耳」の他には「片足の神様」しか見てはいないが、確か同じように映像美が光るイメージの羅列の集積で見せていく傑作だったと記憶している。黒澤監督は他にも「東京天使病院」「スピノザのレンズ」「Un Ange Passe」などの短編がある。なるほど、タイトルからして夜想の読者やゴスロリ文化が好きな人には食指が動くではないか。

 さて、上映が終わり休憩を挟んで映画の出演者である薔薇絵のトークショウとなった。薔薇絵は舞踏家・ダンサーでもあり、丁度パラボリカ・ビスで開催されている展覧会作家の宮西計三のパートナーでもある。そしてトークショウのお相手のゲストは、当時、観客としてリアルタイムで見ていた人形作家・役者として活躍する由良瓏砂。司会はこの上映イベントの企画者でもある人形作家の清水真理だ。パッと花が咲いたような何と素晴らしい組み合わせなんでせう。トークショウには黒澤潤監督を呼びたかったらしいのだが、実は黒澤監督は消息不明であるそうだ。私は昔、黒澤監督と数回年賀状のやり取りをした事がある。なぜ消息不明なのか理由は定かでない。

 出演者の薔薇絵は撮影秘話などを披露してくれた。最初に黒澤監督から出演の依頼があった時には薔薇絵が主役でセリフも有り、脚本は未完のままだったそうだ。出演を受けるかどうか悩んでいて、しばらくしてまた話があった時には全然違うプランになっていたらしい。薔薇絵が話すには黒澤監督は凝り性で、上映会のその都度編集を変えてしまい、最初出演者が受け取った作品コピーとは全く違うものになっていたそうだ。また薔薇絵が石膏で身体が固められてゆく過酷なシーンなど、散々苦労したのに結局どのバージョンにも使用されなかった。どんな役か詳細な説明のないまま監督の指示通りに演じたら、結局私はいたぶられる役で、でもそれはとても楽しかったわ、と薔薇絵はニッコリと笑っていた。

 それから当時の出演者の活動を知る由良瓏砂は、美加理が天井桟敷、演劇舎蟷螂、月蝕歌劇団、ク・ナウカなどの劇団に所属しており、小劇場のアイドル的な存在だった事を話した。また「猫耳」の伝説的な上映会の恵比寿EAST GALLERYでの話を披露してくれた。由良瓏砂の話に薔薇絵も加わり、当時の様子の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる。その伝説となった上映会は「完璧な病室」と題され、ギャラリーの地下にある使用されていないプールの中、医療用ベットを客席として並べ、そのベットに観客が座って作品を見るスタイルであった。そのような特殊な演出のおかげも手伝ってか、自主制作の長編実験映画であるにも拘わらず、ギャラリーの受付には長蛇の列が並んだという。

 嗚呼、何だか今、フッと思い出す90年代の名前と作品たち。それは医療用器具を使用した作品で知られる現代美術作家のリサ=スペース・ナイチンゲール(井上リサ)、同じく医療繋がりでレントゲン藝術研究所、テクノクラート、東京グランギニョル、という名前が出れば当然それは飴屋法水。嗚呼、そうか。その流れでもあるのか、「猫耳」は! 何だか嬉しくなってしまった。自分では絶対に作れないけれど、憧れる作品の系譜ではないか! そして懐かしい! そんな発見でウホウホとしていたら、「ではそろそろ時間ですね。」と手際良い清水真理の司会の声でトークショウは終了した。次回は7月3日に同じくパラボリカ・ビスで再度上映される。これは再び行かねばなるまい!

〈猫耳情報〉
◎黒澤潤監督の映画「猫耳」は、コスプレやアニメキャラに登場する"猫耳"ではありません。念のため。上映会場は浅草橋であって、秋葉原ではありません。念のため。
◎さらに詳細なデータはミストラルジャパンのサイトの「猫耳」をご覧下さい。
< http://www.mistral-japan.co.jp/ >
◎次回の「猫耳」の上映は7月3日(土)・午後7:30〜 詳細は夜想/パラボリカ・ビスのサイトをご覧下さい。他にも関連イベントや展示有り!
< http://www.yaso-peyotl.com/ >

【映像作家 / 寺嶋真里】
HP ☆ < http://honey-terashima.net/ >
アリスが落ちた穴の中 ☆ < http://www.rose-alice.net/ >

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

カメコ。6月26日(土)のパラボリカ・ビスでの週末イベントには、劇団MONT★SUCHTが出演します。2年前に川口の鋳物工場跡のスタジオで撮らせてもらって以来、公演のたびに撮っています。私の印象では、ずっと上昇気流に乗っている感じ。一回一回、全力を出し切っているのが伝わってきます。今度のも、人形展示テーマに合わせた新作です。由良瓏砂さんが中心になって、がんばっています。設営は開場前の2時間だけでは足りず、前日から照明の交換などします。すごい気合いです。ご期待くださいませ。

7月4日(日)の電氣猫フレーメンもよろしくお願いします。瓏砂さん、永井幽蘭さん、廻天百眼および月蝕歌劇団の大島朋恵さんで組みます。ゴシックでダークで耽美で、ちょっとだけホラーな世界観を洗練された演奏と歌と台詞回しで体現します。こちらもご期待くださいませ。詳しくは、上記パラボリカ・ビスのサイトをご覧ください。

やっぱくるわな。2ちゃんで叩かれた。人類を2ちゃんで叩かれたことがある人とない人とに二分し、どっちかに自由に入れるとしたら、やっぱなんてったって前者だ。面白い側っちゅうか。今まで嘲笑されることはあっても、酷評されることはなかったので、ぜひ一度はと思っていた。なんらかの活動をつづけてりゃ、ある水準(というか目立ちレベル)を超えた時点で叩かれるのは必然で、通過儀礼みたいなもん。乗り越えられなくてどうするよ。念願かなった格好で、「やったー、これで一人前だー」と言いたいとこだけど、うーん、やっぱ痛いね。ひりひりするぜ。あー、そう言われるか。皮肉や負け惜しみではなく、言ってくれた人に真面目にありがとうと言いたい。重く受け止める。

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■編集後記(6/25)

●6月23日の読売新聞の「9党首公開討論詳報」のページに、各党首の写真と揮毫が掲載された。その揮毫の見映えと内容が興味深い。とにかく今日の政治家は愕然とするほど字がヘタだ。恥ずかしい。政治家や有名人は揮毫の機会が多いと思うが、だったら専門家の指導で、お決まりの言葉と名前に絞って徹底的に練習すればいいではないか。そんなことさえやっていないから、こんな醜態を晒すことになる。ヘタなりに一点一画しっかり書いたらどうだ。いつも筆文字を書かない福島と志位だが、サインペンでもお子様文字。読めない、意味が分からないのが谷垣。「一片氷心」ひとひらの氷のように清く澄んだ心、だというが意気上がらない。このタイミングでは言葉を選べよ。さて民主党、サインが菅直人と読めない。「最小不幸社会」だが「私は政治の役割というのは国民が不幸になる要素、あるいは世界の人々が不幸になる要素をいかに少なくしていくのか、最小不幸の社会を作ることにあると考えております」という演説内容からいったら「最少不幸」と表記するのが正しい。元ネタであるオルダス・ハクスリー「すばらしい新世界」では「最小不幸」らしいが。いずれにしろ、「不幸」という文字を政治目標に含むのは違和感がある。そんな揮毫、不吉じゃないか。そして、「奇兵隊内閣」ときた。冗談ではなかったのか。そう名乗るからには、靖國神社に祀られている高杉晋作に挨拶に行くのがスジだろう。8月15日に参拝したらどうでしょうかね。/勝った〜! 朝7時、ゴミ出しから戻ると、テレビにスイッチをいれたばかりの妻が「勝っている...」。荒川静香以来の朝の朗報かも。今日の本仕込みはまた格別うまい。(柴田)
< http://bn.dgcr.com/archives/2010/06/25/images/01.jpg >

・1時に寝て、3時にアラームで起きる。ベッドの中、iPhoneから中継を見る。入場し、デンマークの国歌が流れた辺りから記憶がない......勝利での決勝進出おめでとう! リアルタイムで見ないほうが勝ちそうな気がしてきた......。TVのUST番組で本田選手が本田多聞の親戚だと知った。その時のカメルーンの占い師が決勝進出と予言していたような覚えが。まったく信じていなかったぜ。/(月曜続き)電子出版をビジネスとして確立させるための試算&損益分岐点は厳しいものだった。何万部と売れればいいが、電子書籍そのものが浸透していない現状では、印税を従来より上げてしまうと次の本を作り、宣伝するためのコストが出ない。ビジネスにならないなら従来の紙媒体からのシフトは難しいとのこと。ただし、浸透し重版になると印刷費がかからない分、儲かると。/InDesignからのEPUB書き出しには癖があって、制作時に、はまる可能性大。そのノウハウは勉強になった。/TIME誌やphotoJ.誌は美しく、所有欲の湧くものであった。PDFをそのまま、ではダメなんだと力説されていた。エディトリアルデザイナーの活躍の場が増えるね。これらの雑誌配信は、InDesignのプラグインによってシステマチックに実現できることを知った。配信までやる編プロができそう。配信だけ引き受ける楽天(モール)やレンタルサーバー会社のようなところも。(hammer.mule)
< http://www.tbs.co.jp/kakumeitv/ >
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