映画と夜と音楽と...[472]下駄を鳴らして奴がくる/十河 進

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〈やがて復讐という名の雨/ギャング/マルセイユの決着〉

●実家の散歩圏内にスタバができているとは思わなかった

帰郷して3日目のことだった。昼食を摂り、散歩にいく、と母親に言い置いて出た。少し歩くと大きな書店があり、そこで新刊の棚でも眺めた後、向かいのショッピングセンターにあるスターバックスでアイス・カフェラテでも飲んで帰ってこようと思ったのだ。まさか、実家の散歩圏内にスタバができているとは思わなかった。

中学生の頃、自転車通学していた道路の両脇は田んぼばかりだったが、今はレインボー通りと名付けられた大きな道路が走り、広い歩道が設置され、人工の流れが造られている。歩道も凝った石畳だし、人工の流れには石がきれいに積まれていた。レインボー通りの両側には大きなショップばかりある。家電の量販店、靴のチェーン店、ファミリーレストラン、それにショッピングセンターである。

梅雨がまだ続いていた。蒸し暑く、歩いているうちに首筋と額から汗が流れ始める。上はTシャツ1枚だからそれほどでもないが、無理をしてジーンズを履いてきたので腰の周りにも汗が流れる。足を止め、ヒップポケットからタオル地のハンカチを取り出して、首筋をぬぐった。見上げた空は、微妙に曇っている。薄日が差す。そのとき、「電話してみるか...」と不意に思った。

Tが東京での生活をたたんで故郷に帰ったのは、もう15年前になる。その後、一度会ったきりで、ずいぶん会っていない。電話もしなくなってしまったし、Tからの電話もいつの間にか途絶えた。3年前、朝日新聞に掲載された「小説宝石」の広告に大沢在昌さんの対談相手として僕の名前が出た朝、「あれはおまえか?」という電話がかかってきたのが、10年ぶりのことだった。

そのときに、何年もメールマガジンに映画の文章を書いていて、それが2冊の本にまとまり、たまたま内藤陳さんに認められて賞をもらい、その縁で大沢さんと知り合い、対談することになったと告げると、Tは「『新宿鮫』書く前の若き大沢さんとは会ったことがあるよ。『本の雑誌』の目黒さんの関係だった」と懐かしそうに電話の向こうで口にした。

しかし、そのときには、その電話だけで終わった。僕の方から積極的に連絡をしなかったからだ。長く連絡をしないと、何となくしそびれてしまうところがあり、気が付くと何年も経っていることがある。そのときも、そんな風に時間が流れ、今年の2月、3巻目の本の担当編集者からメールをもらうまで、僕はTに献本しなかったこともそんなに気にはしていなかった。



水曜社の担当編集者のメールには、著者の友人だという人から3巻目の注文があり、そのときに長く話をすることになったとあった。彼は「朝日新聞の記事を見て、3巻目が出たのを知った。ソゴーに連絡すれば送ってくるだろうけど、買ってやらなきゃね」と話したという。相手は名乗らなかったが、「武蔵境駅でバンザイをした男です」と最後に口にしたと書いてあった。

武蔵境バンザイ事件は、今から31年前の6月のことである。この連載を始めて間もない頃、僕はその話を「祭りの準備」(1975年)という映画の思い出(「映画がなければ生きていけない」第1巻82頁所収)として書いた。そのとき、多くの人から「メールマガジンを読んでいて、泣いたのは初めてです」というメールをもらった。そのことが、僕がこの連載をずっと続けるきっかけになったのだと今も思っている。

●その瞬間、長い長い時間が消え去り昔と同じように話していた

武蔵境駅の改札で「バンザーイ」と、人目もはばからず大声で僕を励ましたのはTである。それがなければ、僕は別の人生を送っていたことだろう。高校の一年後輩、僕が浪人したために大学では同級になったT。最初、「ソゴーさん」と言っていたが、いつの間にか「ソゴー」と呼ぶようになり、一緒に授業をさぼり、映画館のはしごをし、本の貸し借りをし、飲めない酒を飲み、ときには何日も生活を共にしたTだった。

水曜者の担当編集者からメールをもらっても、僕はすぐにはTに連絡をしなかった。迷っていたのだ。長く離れすぎていたために、改めて連絡を取った最初になんと言えばいいのか、そんなつまらないことが僕をためらわせた。僕がTに最初の本を送らなかったのは、その中に書かれていることのほとんどをTが知っているからだった。あいつ、あのことをこんな風に書いたのか、と思われることに妙な恥じらいがあった。

結局、メールをもらった一ヶ月近く後に、僕はTに電話をした。出てきたのは奥さんだった。奥さんは「ソゴーさん?」と、驚いた声を上げた。声はTと結婚する前と変わっていない。まだ20歳だった奥さんの姿が甦る。あの頃は、簿記学校に通っていた純情そうな少女だった。20歳の女性に少女というのもどうかと思うけれど、どこか幼さの残る人だった。

その日の夜、Tは仕事だった。奥さんは携帯の番号を告げ、「明日、そちらに電話してください」と言う。翌朝、僕は通勤途中、乗換駅でその番号に電話した。「おう」と、Tの声が答える。その瞬間、長い長い時間が消え去った。昔と同じだった。「昨夜、電話もろたらしいな」とすっかり讃岐弁に戻ったTの声が聞こえ、昔ずいぶんなじんだ声だなあ、という思いが湧き起こる。まるで、昨日、別れたばかりのような話し方だった。

気が付くと、僕も昔のように喋っていた。何のわだかまりもなく、言葉が出てくる。「版元に注文したら、担当者だという感じのいい女の子が応対してくれたから、つい長話したよ」とTは言う。人なつっこい男で、人に好かれる男だった。東京で出版社の営業として書店まわりをしていた頃にTは結婚したのだが、そのときには東京の主だった書店の店長たち数10人がお祝いのパーティを開いてくれた。

通勤途中だったにもかかわらず、僕は5分近くも話をした。広いコンコースの壁に寄り添うように立って、携帯電話を耳に当てていた。目の前を早足に人々が通り過ぎる。中には走っている人もいる。無秩序に歩いているようで、ぶつかることはない。誰もが遅刻をせずに、会社や学校に着くことをめざしている。他人のことなど、頭にないだろう。しかし、チラリと僕を見ていく人もいる。

誰も、10年以上会っていない旧友と話しているとは思わないだろうなあ。そんなことを思っていると、「あの本、印税の半分くらいもらってもいいと思うぜ」とTが言った。もちろん、電話の向こうで笑っているのだ。「確かに...。出演料、払うべきだな。でも、知ってる人間には読まれたくなかったもんだから...」と僕が言うと、「何、言ってんだ。ネットで公開してるくせに」と、さらに笑った。

●神田神保町「ラドリオ」でフィルム・ノアールの話で盛り上がる

その後、ときどきTから携帯電話に連絡が入るようになった。そんなときは、決まって昔と同じように本と映画の話になる。日本未公開でDVDのみの発売になった「やがて復讐という名の雨」(2007年)の話が出る。「絶望的に暗い映画だよな」とTが言い、「おれは好きだな」と僕が答える。「ダニエル・オートゥイユが好きなんだ」と続けると、「おれも好きだよ」とTがたたみかける。

そして、話は当然のように「マルセイユの決着(おとしまえ)」(2007年)へとつながる。ジャン・ピエール・メルヴィル監督の「ギャング」(1966年)をアラン・コルノー監督がリメイクした「マルセイユの決着」である。ほとんど前作通りにリメイクしたのに、どこか決定的に違う、致命的な何かが...とTと僕は同意する。

──説明しすぎるんだよ。
──メルヴィルはストイックだからな。
──20分、セリフなしだったり...。
──ところで、「ギャング」のテープ持ってないか。DVDも出てないし...。
──持ってるよ。それもオリジナル版だ。140分近くある奴。
──貸してくれよ。
──いいよ、送るよ。返さなくていい。もう充分、見た。

まるで40年近く前、神田神保町の「ラドリオ」という喫茶店で、初めてフランスのフィルム・ノアールの話で盛り上がったときのようだ。そして現在、携帯電話でそんな会話をした翌日、僕は「ギャング」のVHSテープを緩衝材で大切に包み、封筒に入れて発送した。それは、画質にこだわるために探した、ノーマルモードで140分(通常はノーマルで120分)が録画できるテープだった。

●10数年ぶりに会おう、と決意して携帯電話を取り出した

「ギャング」のテープをTに送ってから数ヶ月後、僕は一年ぶりに実家に帰った。午後に到着して1日目は暮れた。2日目は帰郷すると必ず会う友人の車で土産(もちろん讃岐うどん)を仕入れにいき、うまいピッツァを食べさせる店でごちそうになった。3日目、午前中に父の車を借りてカミサンの実家へいき、ひとり住まいの義母を見舞った。

カミサンの実家から帰り、昼食を摂ってしばらくぼうっとしていたが、運動不足を感じて散歩に出ることにした。そして、書店に向かう途中、僕はTに電話しようと思い付いたのだ。携帯電話では屈託なく話ができた。しかし、まだ顔を合わせていない。10数年ぶりに会おう、と僕は決意して携帯電話を取り出し、Tの番号を出した。通話ボタンを押す。呼び出し音が何回か鳴り、Tが応えた。

30分後、僕はTの車の助手席にいた。Tは、ほとんど変わっていない。老けてもいないし、髪も黒く薄くはなっていない。昔から小太り(?)だったから、あまり太った印象もない。学生時代からでも変わったという印象はない。40年、変わらない印象を保っているのだから、大したものだ。僕に対する態度も、少しも変わらないのがうれしかった。

「喫茶店でもいくか」とTが言い、慣れた手つきで小型車を扱う。運転免許など持っていなかったのに、帰郷してから取ったのだ。40を過ぎて免許を取りにいったのは僕と同じだが、彼の場合は必要に迫られてだった。今も、車で通勤している。「おれの車に乗るのは初めてだろ」と笑う。後部座席の紙袋をあごで示し、「うちのがサインもらってくれ、と言ってたぞ」と言う。分厚い僕の本が3冊入っていた。「奥さんも読んだのか?」、まいったなあという気分で僕は下を向いた。

──「ギャング」のテープ、見たんだろ。
──あれで、気になったんだけど、ギュはマルセイユで匿ってくれる男に、マ
ヌーシュのことを妹と言ってるんだが、「マルセイユの決着」じゃギュとマヌ
ーシュは寝てるよな。
──モニカ・ベルッチがマヌーシュ役だったから、サービスのベッドシーンか
もしれないね。「ギャング」のギュとマヌーシュは男と女の関係じゃない印象
だった。
──「ギャング」で一番カッコいいのは、あのロシア人。出番は少ないが、ほ
とんどさらってるよ。ジョバンニの原作では、あれにしか出てこないはずだ。
──確か、オルロフだ。リメイク版ではほとんど印象に残らない。
──ところで、ジョニー・トー、見たか?
──よかったぞ。「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」
──こっちでは見られない。「エグザイル・絆」だってやらなかったんだ。
──「エグザイル・絆」の後、「仁義」をリメイクするという情報だったけど、
あの映画は「サムライ」にオマージュを捧げてる。ジョニー・アリディの役名
はコステロだ。ジョニー・トーはメルヴィルとペキンパーのDNAを受け継いで
るよ。「エグザイル・絆」は「ワイルドバンチ」だしな。
──みんなでウィスキーのまわし飲みするとこなんかもな。

好事家の会話はどんなジャンルでもこんなものだろうが、共通基盤が近いうえ、若い頃からの付き合いで相手が持っている知識や情報もわかっているから、10数年会わなくてもこんな会話が永遠に続きそうになる。といっても、今回は僕の方がはしゃいだように喋っていたのは確かだった。本と映画以外の話にならないようにしていたのかもしれない。

「もう帰って寝なきゃならない。今夜は仕事なんだ」とTが言ったのは、僕がひとりで本の話をしているときだった。いつの間にか時間が過ぎていた。そう言えば、僕は話に熱中するあまり身振り手振りを交えていた。店の女性が呼ばれたと勘違いしてやってきそうだったな、と冷静になると苦笑いが浮かぶ。「いつ帰るんだ?」とTに訊かれ、「明後日の昼過ぎの飛行機」と答えると、「空港まで送ってやるよ」とTは言った。

●長い時間と共に消え失せた二度と戻ってこない何か

Tは、会社運あるいは仕事運の悪い男だった。出版社に編集職で入り、営業に異動になったときには「書店営業は天職だ」と言っていたが、いくつかの出版社を経て、結局、東京を引き払うことになった。その間、「本の雑誌」に原稿を書いたり、ペンネームで文庫(徳間文庫の五味康輔作品など)の解説を書く仕事もあったのだけれど、そちらで身を立てるほどにはならなかった。

東京を引き上げるとき、「おまえみたいに、きちんと就職活動しておけばよかったよ」とTに言われたのが、その後の僕の心理的負担になったのかもしれない。Tらしく屈託のない言い方だったのだが、そう言われたことで気軽に連絡が取れなくなった。Tから見れば、僕は計画的に出版社を受験し、それなりの待遇の会社に入り、経済的にも恵まれて生きてきたと見えるのだろう。

僕たちの仲間には、就職活動をする人間をバカにする気分があった。その気分は僕にもわかったから、僕は後ろめたい思いを抱えながら大学4年の夏休みから就職活動を始めた。言い訳をするなら、僕には卒業したら呼び寄せる約束をしている女性が郷里にいたのだ。経済的基盤を築く必要に迫られていた。僕は故郷に帰って就職することも考えたが、自分のやりたい仕事はなかった。だから、僕は出版社を受験し続けたのだった。

その結果、運がよかったのか、ひとつの会社でずっと勤めている。それなりの仕事をしてきた自信はあるし、社内での評価も得た。会社は毎月、給料を支払ってくれたし、ボーナスも出た。30前でマンションを購入し、35で今の高層団地に移った。ローンも支払い終えたし、子供たちも育った。倒産もリストラも転職も経験せずに生きてきた。しかし、人生はそれだけのものではないはずだ。

10数年ぶりに会ったTは、落ち着いた顔をしていた。帰郷してからも、いろいろ苦労はあったのだろうが、生まれ育った土地で落ち着いた豊かな気分で生きている雰囲気だった。相変わらず古本漁りをしているらしい。長男は、すでに結婚して近くに住んでいる。真ん中の子は大阪で働いていて、下の子が18で高専に通っているという。隣の芝生は青いと言うが、Tの家庭は幸福そうに思えた。

実家の前まで車で送ってくれたTが「......ちゃんによろしく」と、カミサンの名前を口にした。そう言えば、就職し結婚した頃、阿佐ヶ谷の狭いアパートでカミサンが作った夕飯をよく一緒に食べたな、とすっかり忘れていたことを思い出す。「あさって、午前中に連絡くれたら迎えにくるよ」と言ってTが去った後、不意に「我がよき友よ」という吉田拓郎の歌が浮かんだ。大学を卒業する頃、かまやつひろしが「下駄を鳴らして奴がくる」と歌ってヒットした。

そう言えば、大学に入学したばかりの頃、Tは下駄で大学に通っていたことがある。あの頃は、まだそんな若者の衒気が認められたのだ。カランコロンとゲゲゲの鬼太郎のように下駄の音をさせ、Tは教室に現れたものだった。遙かな...、そう、遙かな遠い昔の話だ。

あの時代に存在し、今はなくなってしまったもの、とうに失われてしまった何か。僕らの長い時間と共に消え失せ、二度と戻ってこない何か...。それらが一瞬、胸にあふれ返るように甦り、僕は実家の玄関の前で呆然と佇んでいた。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >
あなたはすべての思いが過去に向かっている、とある人に指摘された。ものを書く人間はナルシシズムから逃れられないのかと、改めて反省。ある作家さんからは「ソゴーさんは正直な人だなあ」と言われたけれど、その本意はわからない。自己憐憫も自己韜晦も否定したいと努力しているのですが...。