歌う田舎者[14]真夏の出来事
── もみのこゆきと ──

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真夏の出来事と言えば、彼の車に乗って最果ての町に行くことに相場は決まっている(※1)。平山みき先生がそのようにおっしゃっているのだから、間違いはない。8月と言えばまごうかたなき真夏である。もちろんわたしも日本国民としての義務を果たすべく、車に乗って最果ての町に出かけた。

注意深い読者の皆さんは、ここで気付いたかもしれない。何かが足りない。何が? "彼の"だ。最果ての町には"彼の"車に乗って行かねばならないのだ。ふっ......悪かったな。自分の車で。仕事だ、仕事。真夏は地方巡業のシーズンなのだ。

意地汚いわたしにとって、地方巡業の楽しみと言えばランチタイムしかない。しかし、違いのわかる女は知っている。最果ての町でオシャレなメニューを頼んではならないことを。そんなところでカルボナーラなど注文したら、間違いなく炒り卵スパゲティが出てくるのだ。最果ての町で最も当たり外れがないのは、ラーメン・うどん・とんかつ定食である。海辺の漁村だと、刺身定食という選択肢もある。

しかし、あの夏の日、わたしの胃袋は、ラーメン・うどん・とんかつ定食の繰り返しに飽き飽きしていた。ネットで調べると、その最果ての町にはフランス料理店を標榜する店が一軒あることを確認し、違いのわかる女の看板を一時外して、その店に足を踏み入れてみることにした。

駐車場に車を入れて、おそるおそる店を覗いてみる。なんだか薄暗い。電気がついていないのだ。もしや潰れてしまったのか? ......しかし、営業中のカードはぶら下がっている。薄暗い店に入ってみると、おおよそ50歳くらいのオバチャンが出てきた。

「あら、お客さま?」「あ、はい」「まさかお食事?」
まさかって、その、まさかの食事です。
オバチャンはあわてて室内の電気と空調をつけ、BGMのスイッチを入れた。
流れ出るボサノバの調べ。来客は想定外だったようだ。



「ええと、どうしましょう」
え、どうしましょうって......だ、だいじょうぶですか?
「ランチですよね」
ディナーじゃありません。正午ですから。
「たとえば1,000円くらいとか、1,500円くらいとかでしょうか」
た、たとえば?

「えーと、そのたとえばなランチは、どんなランチなんですか」
「前菜の盛り合わせとか、メインとか、デザート、コーヒーですね」
「はぁ。じゃあ滅多にこのへん来られないんで、1,500円でお願いします」
「まぁ、かしこまりました」
オバチャンは笑みをたたえてキッチンに消えた。どうやらメニューというものはなかったようだ。

しばらくして、ワンプレートに盛りつけられた前菜が出てきた。ポタージュスープにベーコンのキッシュ。ブロッコリ・ニンジン・アスパラのゼリー寄せに、野菜サラダ。最果ての町とナメていたら、意外にちゃんとしたものが出てきたのであった。その後、メインに隠元とトマトのソースがかかったハンバーグ。

最後に運ばれたフルーツ添えムースが、まだ解凍されていなかったのは少なからず残念であったが、コーヒーとともに平和なランチタイムが終わろうとしていたその時......。

うっ、腹が痛い! 最果ての町などと失礼なことを言ったので罰が当たったのか? 下腹がぎゅるぎゅると鳴き出した。

こっ、この痛みは"アレ"か ......話せば長いことながら、かいつまんでお話すると、わたしは長年大変な月経困難症に苦しめられている。ちなみに、VRS(Verbal Rating Scale:痛みの強さを口頭で伝えるための評価スケール)では、最も強い痛みを『痛みのために動くのもつらく、一日中横になっている』と表現しているが、冗談ではない。『痛みのために横になることすらできず、転げまわっている』なのだ。

様々な治療を試みたが、なかなか良くならず、現在服用しているのは、漢方の桃核承気湯である。この薬、「体力のあるガッチリタイプもしくは肥満体質の人で、顔色がよくのぼせ気味、また下腹部が張り便秘がちの人に向く処方」(おくすり110番 ※2)というシロモノなのだが、わたしはもう少しで掛かり付けの婦人科医に「おまんは、わしのことをガッチリした肥満体質で下腹が出とると、そう思うとるがか」と詰め寄りたくなった。しかし、実は問題なのは"便秘がちの人に向く処方"と、ココなのである。

確かにわたしは便秘がちである。しかし便秘薬の成分には敏感なのだ。胃検診でバリウムを飲んだあとに貰う下剤など、激烈に効きすぎて仕事にならなくなるので、毎回午後半休することに決めている。

先日の検診の時など、職場のうら若き男子が、バリウム後、夕方まで客先回りという狂気の沙汰としか思えないスケジュールを入れていて、こいつはアホか、さもなくば鋼鉄の大腸小腸柔突起を持つ妖怪なのではないかと思っていたら、案の定、イオンのトイレで塗炭の苦しみに喘いでいたようである。

バリウム下剤を侮ってはいけない。読みが甘いわ。わたしなんぞ、この検診の時は何やら他の巡り合わせも悪かったのか、その後2日間、腹下しで家から動けず、デジクリの原稿も落としそうになったのだ。健康診断で健康を害するという笑えない話だ。

婦人科医から「桃核承気湯、一応、毎食前3回でお出ししときますけど、下剤が効きやすい体質だったら調整してくださいね」と言われ、実験した結果、1日3回飲むと、お腹ピーピーで日常生活が送れないということがわかったので、夕食前に1回だけ飲むことにした。以来、快適便通生活を送っていたのだが、たまたまその数日はリズムが悪く、前日2回飲んでいたのだ。......説明が、ぜんぜん"かいつまんで"になっとらんやないか。

「トっ......トイレ.........」
腹を押さえフランス料理店のトイレに駆け込み、苦悶の数分。その後、無我の境地で数か月ぶりにわが作品と対面した。

え? あんた、なんでそんな長い間、自分の作品と対面してないんですか? ふっ、屈辱的なその言葉。......話せば長いことながら、かいつまんでお話すると、わたしは、自らの作品を見つめることなどできない環境にあるのだ。

室井滋の書いた『幸菌スプレー』(※3)という本がある。デパートのトイレに長蛇の列ができているときに和式トイレが空いても、麗しき婦女子の方々は「和式苦手なんで、お先にどうぞ」と後に譲ってしまう人が多い。「私、和式、使わせてもらいます。お・さ・き・に!」と宣言して和式に入った室井滋は、眼下の金隠しを見つめながら「あんたも嫌われたもんだねぇ」と思った......と書いている。

しかしな、これって、選択肢は和式水洗と洋式水洗の二択だよな、間違いなく。そんな素敵な選択肢を前に、贅沢云ってるんじゃねぇや。日本国民は、トイレという構造物の多様性を忘れちまったんじゃないのか。「あら、もちろんウォシュレットだってあるわよね」ちがーう!!! そんなたわけたことを云う輩は、獄門さらし首にしてやる。なに? うちか? うちのトイレを知りたいのか? ......おほ、おほほほほほほ。そんなに知りたいなら教えてあげてもよくってよ。うちのトイレはね、おフランス風に云うと、ド・ヴォン式ですの。皆さまご存じかしら、ド・ヴォン式。『ド』が付くってことは、もちろん、貴族にしか使えないことを表していますの。

[ド・ヴォン式]用を足したあとの作品は、奈落にどぼんと落下するのみ。落下式とも云う。別名としては、ポットン、ボットン、スットン、ドッポンなど、様々な名称がある。

わかったか、ゴルァ。だからな、作品を感慨深く観察することなんかできんのだ。観察する間に、奈落に落ちていくんだからな。文句ある奴、出てこい! おまいら東京モンにはわかるめぇ。華麗なる水洗トイレの恩恵に浸りきり、そのありがたみなど思い出しもしない奴等にはな。

あまつさえ『成功者は皆トイレ掃除をしている』などとしたり顔で語り、その上、『素手で掃除するともっと運気がつく』などと書きつらねる輩までいるが、まったくトンでもないうつけ者だ。君らの頭には水洗トイレしかないのであろう。ド・ヴォン式のトイレを素手で掃除したら、つくのは運気じゃなくてウンチである。

しかし、最果ての町などと言っていたフランス料理店のトイレすら、和式水洗だったのだ。うぅぅ、わたしの家の方がよほど最果てではないか。いや、しかし、わたしだって好き好んでド・ヴォン式に甘んじているわけではない。世間様並みのトイレにしたいのだ。そうならないのは、ひとえに都市計画課の職務怠慢だ。わが住処は、お上より区画整理で立ち退きを宣告されておるのだ。

それなら移転先で、黄金の茶室ならぬ、黄金の水洗ウォシュレット御殿を建ててやる! それまでは耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶのだ......と密かな野望を抱いていたのに、宣告されてから何年も放置プレイされている。責任者出てこい! ......説明が、ぜんぜん"かいつまんで"になっとらんやないか。

悔しさを胸に、まじまじと作品を見つめるわたし。保健所は云う。
「色や硬さを観察し、自分の体調管理に役立てましょう」
保健所様のおっしゃることは絶対だ。わたしも自分の体調管理のために、ここぞとばかりに詳細に観察を行った。「......あ、あれ? これは何だ? 何やら小さな赤いものがちらほらと散りばめられているが......」

こ、これは、もしや......話せば長いことながら、かいつまんでお話すると、それは昨晩のディナータイムに遡る。冷蔵庫を開けたわたしは、保存食タッパーの後ろに見慣れない瓶を見つけた。「あれ、なんだっけ、これ」

取りだすと、それは横浜中華街・萬珍楼の香辣脆(シャンラーツイ ※4)である。話題の食べるラー油に近いものだが、大量の鷹の爪が暴君ハバネロ並みの暴れん坊ぶりを発揮する、痺れる辛さの激辛調味料で、辛いもの好きのわたしに妹旦那が送ってくれたものだ。

「しまったなー、何かの拍子に、後ろにしまい込んじゃったんだな」
半分食べた状態でしまい込まれていたのだが、賞味期限を見ると、既に2週間過ぎている。しかし、わが胃袋の強靭さと香辣脆の原材料を鑑みたとき、これは間違いなく、あと3か月はイケる。何、死にゃあしない。味見したが、開栓時と同様にうまいではないか。大丈夫。かまへんかまへん(良い子はマネしないでね)。

しかも、この夏、妹一家が3年ぶりに帰省することになっていた。もし、賞味期限の切れた香辣脆が冷蔵庫に鎮座ましましているのを発見したら、妹旦那の悲嘆はいかばかりか。「お義姉さん。辛いものが好きだって言ってましたよね。あの冬の日、横浜は氷点下でした。香辣脆をお義姉さんにプレゼントしようとポケットをさぐれば、小銭が少し。中華街に立ち並ぶ店を覗くと、おいしそうに湯気を立てる饅頭や炒飯の匂い。僕は買いたい気持ちを我慢して街角に座り、かじかむ指先でマッチを売り続けました。やっと何人かのメリケンさんに買ってもらうことができた頃には、僕の指はしもやけで真っ赤でした。天津甘栗の売り子をかわしながら萬珍楼に辿りつき、ポケットの小銭と、マッチを売って手に入れたお金を足して、やっと買った香辣脆。♪あゝそれなのに それなのに ねえ おこるのは おこるのは あたりまえでしょう(※5)」

いったい何の話なんだかわけがわからなくなってきたが、細かいことは気にしなくてもよろしい。とにかく、冷蔵庫に賞味期限切れの香辣脆を置いておくようなことは、人として決して許されないのだ。なんとしても妹一家が来る前に食べ尽くさねばならぬ。そんな食べ残し、捨てちゃえばだと? 何を云うか。わが家は農家の家系だ。そのようなことをしてはお百姓さんに顔向けできねぇべさ。

そして、前日の夕餉。白ご飯に香辣脆。冷や奴に香辣脆。マカロニサラダに香辣脆。餃子に香辣脆。「いやー、何につけてもうまいべさ。いくらでも食えるでねえか。うますぎて止まらないべ」そんなホットな夕餉の時間を過ごしたのだった。おそらく激辛調味料の摂取量としては、通常の5倍は取ったであろう(当社比)。そうか、そうだったんだな。わたしの作品に散りばめられた赤いものは。せっかくだから作品に『鷹の爪のロンド』とでも命名しよう。......説明が、ぜんぜん"かいつまんで"になっとらんやないか。

鷹の爪よ。こんなところでまた再会するとは。会いたかったぜ。いや、あまり会いたくなかったかもしれない。こんなところでは。思わぬ再会ではあったが、芸術作品とは儚いもの。惜しまれて去ることこそが美学であり、芸術の役割だ。わたしは涙をぬぐい、水洗のレバーを押した。さらば『鷹の爪のロンド』。また会う日まで。いや、会わなくていいけど。

感傷を胸に秘め、立ち上がった。「......うぉ、ちょっと待て」な、なにやら作品の出口がヒリヒリするのだが......熱い! しっ、尻から火が、火の手が上がっておる! これは鷹の爪の残党か。激辛が尻に良くないというのは本当だったのだ。さ、さすがに食べ過ぎたか。

「どうもありがとうございます〜。またおこしくださいませね」フランス料理店のオバチャンの涼やかなお見送りも、熱く燃え上がる尻を冷やすことはできなかった。しかし、松岡修造なら言うだろう。「人間熱くなったときがホントの自分に出会えるんだ!だからこそ、もっと熱くなれよ!!!(※6)」
......ホントの自分ってどこ?

職場の女子に、あの夏の日の報告をしたのは、昼下がりのランチタイムである。鷹の爪との劇的な再会を涙ながらに語ったものだが、うら若き女子たちも、自らの作品について語ってくれた。中には『もやしのエチュード』だとか、『ひじきのコンチェルト』などという妙なる調べの作品を生み出した女子もいた。ガールズトークはいつもエレガントだ。芸術の世界は深い。

※1「真夏の出来事」平山みき
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※2「おくすり110番 桃核承気湯」
< http://www.interq.or.jp/ox/dwm/se/se52/se5200106.html
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※3「幸菌スプレー」室井滋
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167179156/dgcrcom-22/
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※4「横浜中華街・萬珍楼の香辣脆」 ←いや、うまいです。ほんとに。
< http://www.manchinro-shop.com/SHOP/74.html
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※5「あゝそれなのに」美ち奴
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※6「松岡修造名言集」
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【もみのこ ゆきと】qkjgq410(a)yahoo.co.jp
働くおじさん・働くおばさんと無駄話するのが仕事の窓際事務員。かつてはシステムエンジニア。食事しながら読んでた方、スミマセンスミマセン。