Otaku ワールドへようこそ![125]塀の森公園で昼メシ
── GrowHair ──

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ようやく秋めいてきた。昼メシ(というか遅めの朝メシ)をさわやかに外でという気分。パンを買うのを南口前のコンビニで済ませるか、踏切を渡って北口前の店まで行くか、ちょっと迷う。北口の店は、そこで作っていて、作りたてのが並べてある中から好きなのをトングでトレーに取っていき、会計のときにひとつひとつ袋に入れてくれる方式。

そっちのほうが断然いいのだけど、時として、踏切がなかなか開かないのだ。通過待ちのできる駅なので、運が悪いと目の前を電車が何本も通り過ぎるのを眺めてないとならない。南口に戻って少し行ったところに、刑務所の跡地に作られた「塀の森公園」がある。ここで食うわけだが、あの踏切を行って帰ってくることを考えると、コンビニで済ませちゃおうかという考えになるのである。踏切のたもと、パン屋との間に交番があるのだけど、これがまた超ムカつく。



●ムカつくケーサツ、煎じ詰めれば社会の原理矛盾

そういうわけで、今回は、塀の森公園で昼メシを食っているときに頭に浮かんだ、よしなしごとを吐き出してみるテスト。

刑務所だった当時のコンクリートの厚い壁は、もうない。あれ、残しておいてくれてもよかったのに。よく、テニスの壁打ちに利用されてた。この塀の中の面々にはそれほど凶悪なのはいなかったとみえ、外へ出てきて掃除することがあった。それ見たら、「石を投げないでください」という立て札の意味が分かった。なんかあの作業姿があまりにも平和すぎて、刑に服しているという感じがしないのだ。下手すると、塀の外の俺らよりものほほんと快適に暮らしてねーか? いっちょ私的に懲らしめてやれ、そんな気を起こす人がいるんだろうな、きっと、って感じがよく分かる。

今は、池があって、ネズミが泳いでいる。いや、マジで。丸々太った茶色いネズミが向こう岸をちょろちょろ走り回っていて、子供が近づいてきたら、気づかれないうちに、ドボンと池に飛び込んだ。しばらくすると、違う岸辺をまたちょろちょろ走っている。ネズミは泳ぎの達人だ。

そういえば、ウチのトイレにウンコをしにくるネズミがいる。トイレでウンコをする行為自体は間違ってないような気もしなくもないが、ネズミだったらわざわざトイレでしなくてもいいのではなかろうか。たまに、タイルの上にころころと小さなフンが転がっているのである。密室ゆえ、可能な出入り口はただひとつ。じゃっと流したときに流れていく、排水パイプ以外にありえない。名探偵でなくても分かる。解けない謎は、ヤツが何を考えているかである。頼むから、俺が入ってるときは来ないでくれよ。

闖入者といえば、風呂場はたまにKGBに入られるときがある。なめくじの食いカスが散らばっていると、ヤツが来たな、と思う。遭遇しちゃうときもある。これは、知っているのといないのとでは大違い。「宇宙生物を発見しましたっ!」と興奮した口調でテレビ局に電話しちゃう人もいると聞く。

コウガイビル。漢字で書くと笄蛭。略号はKGB。笄(こうがい)とは、ウィキペディアによれば「髪を掻き揚げて髷(まげ)を形作る装飾的な結髪用具」。一端が銀杏の葉のような形をした棒状。コウガイビルは、頭の形がそれに似るが、ぷるぷるしたゼラチン質のひも状。ウチに来るのはせいぜい10センチぐらいのヤツだが、80センチに達するヤツもいて、外ではそういうのを見たことがある。ヒルではなく、プラナリアの仲間。昔、生物の授業で習った、切っても切ってもプラナリア。ふたつに切断すると、それぞれ欠けたところが生えてきて、2匹になるのである。KGBおそるべし。

あ、話が逸れたが、ムカつくケーサツのことだ。もう一年以上も前のことで、まだ怒っているというわけではないのだけれど。南口から北口へ踏切を渡っていると、見知らぬおじいさんがうろうろしている。何か落として、探しているようだ。その横を通って渡りきったところで、警報機が鳴り始め、遮断機が降りてくる。気になって振り返ると、おじいさんはまだ中にいる。しゃがんで、線路と道路の間の溝(車輪のフランジが通るところ)を一心に調べている。何かを探しているようでもあるけれど、子供が砂遊びかなんかしているふうでもある。ボケちゃってるっぽい。

点灯している赤い矢印は右から左になっている。おじいさんは向こう側の線路上にいるので、電車が通過する線路ではない。けど、中にいるのはマズい。開く前に反対方向の電車が来る可能性だってある。人は両サイドに10人以上いて、状況に気がついているのだが、誰も動こうとしない。しょうがないなぁ。右から来る列車がまだ接近していないことを確認し、遮断機が降りている踏切へ入っていった。

おじいさんの手をとり、「ほら、行こ行こ」と促すと、素直にそろそろと立ち上がった。そのまま向こうの南口側へ手を引いていくと、抵抗せずについてくる。降りた遮断機を手で持ち上げ、一緒に向こう側へ出る。救出、成功。まあ、もともと電車の通過する線路上にいたわけではないので、間一髪というようなスリリングな状況ではなかったのだが。冷静に行動できた。手を離しても、戻ろうとはせず、降りた遮断機の手前で立って開くのを待っている。開いたら探し物の続きかと思ったら、もはや関心はないようで、普通に渡っていき、北口側に出ると、そのままどこかへ歩き去っていった。

誰が呼んだか、救急車が来た。けど、その時点ではもはや何事もない、日常の光景であった。こういうところ、すぐ脇に交番があるっちゅうのに、見てないんだよなぁ。見てたら俺なんて表彰もんなんじゃないかと思うんだけど。まあ、それはいい。ムカついたのは、別のときだ。

南口から北口へ渡ろうとしていた。ずいぶん待たされて、やっと遮断機が開いた。前の人に続いて渡ろうとすると、また警報機が鳴り出した。その間、ほんの10秒ほど。このタイミングで、渡るのを断念する人がいるだろうか。いや、いるまい(反語)。前を行く人の歩きが遅いので、小走りで横を追い越そうとすると前から自転車が来て、さらに大きく迂回して向こう岸にたどり着いたとき、右側の遮断機は降りていたが、左側が降りきる前にくぐり抜けられた。気がつかなかったが、警官が立っていた。で、「ちょっと来てください」である。住所氏名を書かされ、警告カードみたいなのを渡された。

自分より後から渡りきった人もいたはずだが、お咎めなしかよ? こっちのほうが渡り始めるタイミングが遅かったからだというのか? だったら、毎日毎日、まる一日そこに立って、同じタイミングで渡った人全員に、同様に警告してくれないかね? そういう人が完全に撲滅されるまで、ずっとやっててくれないかね? なんでやることがそういうふうに恣意的なんだよ?

かなーりムカついたが、下手に抗議なんかしたら、余計に長くなりそうだし、なんちゃら妨害でタイーホされかねない。こっちもいちおう勤め人なので、面倒は起こしたくない。その後も、同じようなタイミングで渡る人はいくらでも見かけるが、ずっと野放しだ。ほんっと、ムカつく。

この種の、ケーサツ心底腹立つ経験、誰でもひとつやふたつや3つや4つや5つや6つ、あるのではなかろうか。私はなんとか耐えたが、その場で素直に怒りを爆発させて、結果として一晩ご厄介になってきたという経験の持ち主を何人も知っている。パトカーなんてめったに乗れないぜ、と自慢するやつまでいて、そう言われるとちょっとうらやましい。

そうなるともはやどうだからムカつくとか、もしそうでなかったらムカつかない、という話ではなく、ケーサツとはムカつくもんだという、なんらかの普遍性が存するのではないかと考えざるをえない。それは煎じ詰めると、今の社会の仕組みに潜在する原理矛盾に対するフラストレーションからくるのではなかろうかという仮説が立つのではなかろうか。暴力を否定しようとして、かえって肯定してしまうという矛盾。

ライオンは、シマウマにがぶりと食らいつき、そのままバクバクと食べてしまう。それは残虐な行為である、暴力である、やめさせねばならぬ、と思ったとしよう。誰が思うか、って、シマウマがである。で、シマウマたちが寄り集まって、法律を作ろうと決議したとしよう。金輪際、ライオンはシマウマを食ってはならん、と。

しかしながら、実際にシマウマを食うという行為をはたらいたライオンに対して、とっ捕まえて牢屋にブチ込むという強制力をシマウマの側が持ち合わせていなければ、この法律は絵に描いた餅というやつで、実質的には効力がない。

われわれ人間は、地球上でいちばん大きな顔をしてのさばっている生き物だが、それは知恵があるからではなく、知恵を使って武器という道具を作り、いちばん大きな暴力を手に入れたからである。丸腰のときに飢えたライオンと一対一で対峙してしまったときは、いくら知恵があってもしょうがなく、ほぼ絶望的であろう。

相手が暴力を使ってきて、それを正当だというのならば、こっちがそれに暴力で対抗しても、やっぱり正当だよな? で、暴力と暴力がぶつかり合ったとき、どっちが勝つかといえば、正義が勝つ、なんてことはなくて、強いほうが勝つわけで。その原理はどうにもならない。

ただ、この原理をまったくの野放し状態にしておいたら、社会などといえるような代物は構築できず、野生動物状態になっちまう。曲りなりにも社会とよべるような仕組みを構築していくためには、一般市民が自由に暴力を行使できて、弱肉強食の原理がはたらいてしまうような状態にならないよう、治めておかなくてはならない。つまり、暴力は抑え込んでおかなくてはならない。

しかしながら、先ほどのライオンとシマウマのたとえで分かるとおり、暴力を抑え込むことができるのは、より強い暴力だけである。つまり、暴力を否定しようとして、より強い暴力を肯定してしまうという原理矛盾。

批評家である東浩紀氏は「そもそも国家の機能は大きく分けて三つぐらいしかない」と述べている。「整理すると暴力の独占、富の再配分、共感の調達装置です」。大塚英志+東浩紀「リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか」(講談社現代新書、2008年)の中で。「まず、暴力の独占はする必要がある。社会哲学的にもこれは譲れないところとしてある。つまり、みんなが銃を持って、警察も軍隊もない状態ではヤバそうだと」。

これはもうどうにもならない原理的なものであって、戦国時代に天下取りの戦いが繰り広げられていたのも、結局は誰が暴力を一手に独占するかを決めあうための戦いだったといえる。現代社会においては、一般市民はすべての暴力を警察に預け、秩序の維持管理をゆだねるしかないわけである。その権力を悪用しないでちょうだいね、というのは、希望として託すしかない。

印刷屋は有価証券を刷る技術をもっている。それを悪用して、本物と寸分たがわないものを偽造してしまえば、不正に利益を得ることができる。しかし、いくらなんでもそれはやらないだろう、という社会的信頼が成り立っている。もしそういうことをして、バレたときは、もはや営業を存続できなくなるであろうから、自分の首を絞めるようなリスクを負ってまで、まずやらんだろう、と。

万が一そんなことが起きていて、明るみに出た日には、その印刷屋が信頼を失うだけでは済まない。印刷業界全体がダメージを食らうだろうし、有価証券の真贋を見分ける手段がないとなると、価値が暴落するであろうし、そうなったら、日本という国への信頼もあやしくなり、経済がガタガタになりそうだ。どの業界でも、そこに委ねられた技術を悪用した不正な利益の獲得は、やれば可能であるが、まずやらないだろうという社会的信頼はいちおう成り立っている。

では、暴力を独占している国家はどうだろう。それを悪用すればいろいろできちゃうのは同じである。しかし、国家の場合は、そう簡単には潰れない。ちょっとした不正がバレたところで、じゃああいつは信用できないから他に頼もうったって、代わりがいるわけではない。それだけ強大な権力を握っているわけだ。で、権力を握ったものは、必ず腐る、とは歴史の教えるところではないか。

科学でいうと、「発酵」と「腐敗」の区別はないそうである。起きている現象としては本質的に同じことなのだが、人間様の役に立つか立たないかの違いでしかない。一方、政治が発酵したという話はついぞ聞かない。あれは必ず腐敗するもののようだ。俺だって、もし権力なんちゅう面白いものを手に入れたら、とりあえず自分の横車がどこまで押せるか、試して遊んでみたくなるわな。

われわれ市民は、暴力を行使する権利をすべて国家にあずけてしまったわけだが、悪用してくれるなよ、よろしく頼むぜ、というのは、はかない希望でしかない。一般市民に対して法を守らせる立場にある者ならば、自身の法の遵守に関してはより一層厳しい心構えでいてほしいもんだと願いたいところである。ところが、警察官でありながら、違法に女性のプライベートな空間にアクセスしてしまったというようななっさけない不祥事がときおり発覚しますわな。

まあ、そういう個人的な気の迷いみたいなやつは、どうでもよろしい。よくないけど。むしろ、そういうのに人々の怒りの矛先が向けられるのに隠れて、もっと大きな問題が潜在していないかどうかである。組織的に、内部が腐ってないかどうか、そこがよく見えない。そのフラストレーションが、原理矛盾からくるフラストレーションに輪をかけている。

市民が常に国家組織の内部までチェックし、腐ってないか確認できるような透明性を確保するシステムができていれば、もうちょっとマシになるのかもしれない。

現代の日本という国家においては、暴力の独占は、いちおうちゃんと機能していて、国家として治まっている。世界の国々に目を向けてみると、たいていの国家は暴力の独占に成功して、政情が安定している。けど、そうでもない国々もまだあるっぽい。

それよりも、問題は世界全体だ。国と国の間で起きる暴力をどうするか。やはり、暴力を否定するためには、より強い暴力を肯定せざるをえないという原理矛盾は同じことである。どこかの国が代表して、世界の暴力を独占すればいいのか。その役目は、イギリスが果たしていたころもあったが、ここ数十年は、アメリカがやってきた。で、公明正大に世界の警察の役目を果たし、世界からの信任を獲得してきたかというと、どうも失敗したっぽい。困ったもんだ。それでもやっぱりアメリカは世界一強大な国なんだ。ほんとうに困ったもんだ。

さて、そうこうするうちに、北口まで行って買ったパンは、いつの間にか腹に納まっていた。というか、もう夕方だ。帰ろう。ネズミはどっかへ行ってしまった。きっと帰ったのだろう。

●イベント「コッペリア Meets オリンピア from ホフマン物語」

以前、浅草橋の「パラボリカ・ビス」にて黒澤潤監督の映像作品「猫耳」が上映されたとき、それのレビューを書くのは私の力の及ぶところではないことに気がついて、映像作家である寺嶋真里さんに本欄の代筆をお願いしたことがありました。
< https://bn.dgcr.com/archives/20100625140100.html
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さてさて、その寺嶋さんが、同じ画廊で、ご自身の映像作品を上映します。寺嶋さんの最新作は『アリスが落ちた穴の中〜Dark Marchen Show!! 』だが、今年の2月、清水真理さんの人形の個展がパラボリカ・ビスで開かれたとき、会期中の週末イベントで上映されています。その映像作品に清水さんの人形が出演しているというつながりでした。今回上映するのは、『エリスの涙』(04年)と『初恋』(89年)。また、『アリス〜』でアリスを演じたマメ山田さんも、このイベントに登場して、マジックショウを見せてくれるとのことです。
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◎菊地拓史×柴田景子の展覧会「Mythos Erotica」会期中
マメ山田マジックショウ×寺嶋真里作品上映会×清水真理のお人形で「ホフマン物語」をモチーフにした関連イベントを行います。

「コッペリア Meets オリンピア from ホフマン物語」
日時:2010年10月16日(土)・23日(土)19:00〜
会場:浅草橋:parabolica-bis パラボリカ・ビス
料金:当日券3000円/前売2500円
上映作品:「エリスの涙」(04年)♪ベルリンロケ敢行の短編作品!
「初恋」(89年)♪伝説の耽美的デビュー作品!

♪目玉デザート付き(デザート提供:美少女)
♪菊地拓史×柴田景子作品と絡んだ妖しいイベントです。
♪マメ山田、美少女と共に寺嶋真里もパフォーマンスに初挑戦!
※詳細はこちらの菊地拓史+柴田景子展サイトの"access+Event"と夜想サイトをご覧下さい。
< http://www.tacji.com/mythos/
>
< http://www.yaso-peyotl.com/
>

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

カメコ。茨城県にある煉瓦の廃墟を見てきた。ついこの間、埼玉県本庄市で、廃屋となった元パチンコ店に探検のつもりで入った小学生の男子児童2人が、白骨化した遺体とコンニチハしちゃった事件がニュースになっていた。
ネットでは廃墟に凸した(← 「突入する」、「突撃する」のネットスラング)レポートがけっこうあるが、その中には、死体とコンニチハ体験がやはりちらほら報告されている。コミケで廃墟写真集を売っている人に聞いてみたら、「普通にあること」らしい。

それに、危険な行為ではある。ネットの凸レポでは、膝にできた傷からばい菌が入ったようで、骨が露出するぐらい膿んだなんてことも書かれている。また、凸しているときに地震が来て恐かったとか。厳密に言えば、人様の所有地に侵入する違法行為であることも意識しておかなくてはならない。だから、茨城のときも、ある程度の気構えをもって凸したつもりではある。

しかし、そこで遭遇してしまったものには、完全に意表を突かれた。初音ミクのコスの人と、カメコ。こういうのを予想の斜め上を行かれたというのだな。そう来るか。私もカメコの端くれ、撮らせてくださいっ! とお願いして撮らせてもらう。二人が帰った後も、次から次へと人が来る。廃墟ブームなんだね。

廃墟凸の後、県道をひとりとぼとぼと歩く。人気がないからと、密かに歌の練習など。9月12日(日)のことで、まだたいへん暑かった。行き交う車はみな窓がぴたりと閉じていて、中は涼しいんだろうな。と思ってたら、信号待ちで止まっている車の列の中の一台、全開なのに気づいていなかった。中から若いオニイチャンに「こんにちは〜」と手を振られる。う。虚無僧かいね、俺。