Otaku ワールドへようこそ![126]表現の場としての街頭のもつ意味について
── GrowHair ──

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●若い女性が新宿の街頭で詩を売っていた

「私の志集」と大きめに書かれたボードを首から下げて、新宿の街頭に立っている女性をときおり見かけ、気になっていた。東口マイシティの地下一階、国鉄の改札口から左のほうへ進み、駅前ロータリーへ昇っていく階段の手前。見かけるのはたいていそこだったと思う。たいてい夜だったと思う。

ただ静かに立っているだけで、呼び込みなどはしない。年齢は自分と同じくらいに見えた。20歳前後か。まったく飾り気のない、きちんとした地味な服装、やや華奢な体格で、顔立ちはあどけなさを残す。その姿からは純粋な精神が見えるような気がする。えーっと、けっこうかわいいじゃん。

しかし、「私の志集」とだけ掲げて、人通りのかなり激しい街頭に静かに立ち続けている姿というのは、唐突というか突飛というか、思い詰めたようなただならぬ気配を放っていた。文学にかぶれすぎて気が触れてしまった少女、とか?そこだけ空気がピンと張り詰めていた。

私が学生だったころのこと。1年浪人した後、修士課程を終えるまで、19歳から25歳までの間のいつかだ。真ん中とって22歳のときだったとすると、25年前になる。気になっていただけで、声をかけたりはしなかった。

その後はぱったりと見かけなくなったり、また急に見かけたり。最初に声をかけて一冊買ったのはいつのことだったか、思い出せない。すでに学生ではなかったと思う。「一冊売っていただけますか」と切り出し、300円払って受け取った。それだけだったと思う。

いわゆるコピー本。B6サイズで20ページほど。ホチキスで綴じてある。プロフィールが書いてあり、私よりひとつ年上、神奈川県の小田急線沿線に住んでいて、37歳年上の旦那さんがいることを知った。旦那さんと共著である。「街から街頭詩人を絶やしてはならぬ」というようなことが書いてあったような気がするが、あいまいな記憶しかない。

'90年代後半だったか、ネットでちょこっと話題になっていた。まだウェブが登場するかしないかぐらいで、たしか「ネットニュース」と呼ばれる、テキストオンリーの掲示板みたいなところだったと思う。受けた印象は「こいつらヘタレだなぁ」だった。もっとも「ヘタレ」という表現は割と最近になってよく使われるようになった気がするので、そのころは違う言葉で同じことを思ったかもしれない。

UFOやネス湖の恐竜やツチノコの話だったら、不確かな伝聞情報も情報として価値があるのかもしれないけど、そこにいると分かっている人のことだ。話しかけたらどうだったとか、買ったら内容はこうだったとか、直接的な情報が出てきてもよさそうな話題なのに。気に入った人でないと売ってくれないらしい、みたいな、まるで都市伝説のような調子である。



●街頭に立つ意味を問うてみる

2005年ごろだったか、しばらくぶりに見かけたのは、西口だった。地上に出て、大ガードのほうへ向かう歩道上、上の歩道の円柱状の柱を背にして、向こう向きに立っていた。以前とほとんど変わらない姿。年月の痕跡さえ感じられない。

そのときは、ちょっとした議論を吹っかけている。私がここにレギュラーで書き始めたくらいの時期だったと思う。「俺も、もの書く人の端くれなんだぜぃ」といった、妙に驕り高ぶる気持ちがあった。ぐぇ、ハズカシィ〜。書いたものを正式な出版物として発行してもらう機会のないアマチュアにとっての発表の場としては、自費出版とか、ネットとか、コミケのような同人誌即売会などがあるが、わざわざ街頭に立って売る意味は何か、そこを聞いてみたかったわけである。

種々の発表形態のメリットデメリットを挙げて比較検討し、街頭に立つことの優位性を滔々と論じ倒してくるような人ではなかった。「志です」とだけ返してきたように記憶している。写真を撮らせてもらえないかとお願いしたが、断られた。

私がメルマガに書いたことをプリントアウトして、渡してみようかと考えた。また、メルマガやウェブサイトのような情報発信形態のことを教えてあげて、こっちのほうが楽だし、はるかに多くの人々に言葉を届けることができますよ、と教えてあげようかとも考えた。いや〜、やらなくてよかった(冷や汗)。

その後も同じ場所でときおり見かけたが、素通りしていた。9月25日(土)、銀座で打合せがあった帰りに見かけたときは、また声をかけてみたくなった。去年の12月に「ギャラリー156」で人形と写真のグループ展「臘月祭(ろうげつさい)」と催したが、今年もやることになった。臘月とは12月のことなので、やはり12月に。その打合せ。今回は俳優・演出家のV銀太さんに参加していただける話になっている。

帰りの電車の中、Vさんは、お芝居をすることの意味について語ってくれた。よく、舞台で生の芝居をするよりは、テレビに出演したほうが、いっぺんに数万人に届くので、そっちを志向したくならないか、と聞かれることがあるそうだが、それは違うという。見た人の記憶の残り方が違うでしょ、と。うん、たしかにそうだ。舞台では、今、その場にいて見なければ、同じものは二度と再現されない。自分に向けて生で演じられるのと、四方八方に飛んでいった電波をたまたま受信するのとでは、なるほど見る真剣さが違う。

会場が満杯になったとしても、黒字になることはまずないという。費用の7割方が持ち出しになるのが普通だという。それを聞いて、芝居とは、その場にいる、せいぜい100人ほどの観客への心のこもった贈り物なのだと思えた。その話の余韻に浸りつつ、私は先に新宿で中央線の電車を降りて、数日前から見当たらないclubDAMカードを見つけに、置き忘れたのはここではないかと思うビッグエコー新宿西口店に向かった(それは後に中野から出てきた)。

詩を売る人は、いつものように立っていた。「ずっと以前に買った者ですが」と話しかけ、最新号を買い求めた。「20年以上前から居ますよね?」と聞いたら28年だという。街頭に立って詩を売ることの意味について、聞いてみた。すると「それ、前にも聞きましたよね?」。あ。言われて、以前の会話が記憶によみがえってきた。

「メルマガに書かせてもらっていいですか?」、「それも聞かれました」。あああ、そうだっけ? あー、聞いた聞いた。書きたいと思ったんだった。それで、こっちの書いた文章のサンプルをプリントアウトして持ってこようなんて考えて、けど、実行しないまま流しちゃったんだった。

5年前の会話がお互いの記憶に残っている。それ自体が答えなのだと思った。自費出版でもネットでもコミケでもなく、街頭に立つことの意味。言葉の重さが違う。消費されて消えていったりしない言葉。メリット・デメリットを勘案して表現メディアを選択するというのとは違う。これでなくては駄目、そのほかはありえない、という必然性。それが「志」ということなのだろう。

最新号は第43号で、「私の群集」。10篇の詩が収められている。その表題作には、もっとストレートに答えが書いてある。「生きられなくなったから」。損得勘定ではもちろんない。好きだから、というのともちょっとズレてる。売名が目的ではけがらわしい。修行? 自分磨き? ぜんぜん違う。生きられない自分がなんとか生きていこうとするならば、こういうふうにしかありえない、そういうあたりに、創造的な活動に向かう姿勢としての本物らしさを感じる。

いま、試しに「私の志集」でググってみると、5,050件ヒットする。軽〜い調子の日記風の文章が多い。新宿で詩集を売る女性をときおり見かけて気になるけど、誰か買った人はいませんか、とか、ググってみたらだいたいのところは分かって、こうだった、とか。相変わらず、一次情報が少ないねぇ。悪いとは言わないけど、なんのひっかかりもない日常の言葉、言葉、言葉...。発せられたそばから消えていく。

そんな中にあって、北尾トロ氏の文章には、負けた、と思わされた。鉄人社の「裏モノJAPAN」に寄稿したものだという。ふざけて面白半分に書いている文章に見せかけて、自己の内部で起きている反応の描写などがスルドイ。まるで暴風雨にさらされるかのごとく、1分間に100人もの人が通り過ぎる場所に平然とみずからの身を置いているあのパワーに圧倒され、衝撃を受けた、というようなことが書いてある。

で、そうすることの意味を知ろうと、自分もボードを首から下げて、自作のミニコミ誌を売るべく、吉祥寺に立ってみるのである。人の視線を受けて脇の下に汗が伝わることを描写し、そして、一冊も売れなかった旨を報告している。いやぁ、自分でそこまでしてみようとは、私には思いつかなかった。負けた、と思ったゆえんである。

●確認しに行く

さて、この辺まで書いたところで、街頭に立つことの意味について私が思ったことを本人に聞いてもらい、的外れでないかを確かめておきたい気持ちになった。5年前に交わした会話をお互いがちゃんと覚えていることに象徴されるように、ここから発せられる言葉は重みが違う、そこなんでしょ、と。

10月6日(水)の仕事帰り、夜8:30pmごろ新宿西口に着くと、冬子さんはいつもの場所でいつものように立っていた。あいさつすると、すぐにこの前会ったことを思い出してくれた。同じ昭和37年生まれで、数ヶ月しか違わないことが判明する。

以前は東口にいたのに、そこに居られなくなったいきさつが、誰かのブログに書いてあった。それがその通りであるかを聞いてみた。その人は、沖縄に赴任してほどなく東京に出張する機会があったので、久しぶりに彼女に会いに行ったら、鉄道公安官と口論の真っ最中だったと書いている。結局、彼女は公安室に連れて行かれ、2時間ほど待っていると戻ってきたという。

彼女によると、物売りの取締りが強化されて、以前から警告されていたのをずっと抵抗してきたのだが、今日、誓約書にサインさせられてしまった、あの場所にはもう立てない、愛着のある場所だったのでとても寂しい、ということだったそうだ。私はそれを読んで、激しく憤りを感じた。そこに立って詩を売ったって、誰に迷惑がかかるというのだ? 迷惑どころか、その場にプラスの価値を添えることではないか。物販禁止の法律をかざして追い立てるなんて、それは正義でもなんでもなく、ただの弱いものいじめだろう、と。

冬子さんによると、そういうことは、確かにあったという。しかし、今になってみると、公安の言うことももっともだという。法律は誰に対しても公平・公正に適用されなくてはならない、この人は認めるけど、あの人は認めない、というわけにはいかない。一人を許してしまうと、誰かがその隣りで商売を始めちゃったときに、駄目と言えなくなってしまうから、と。本人がそう納得しているのなら、私なんぞが脇から怒ってもしょうがないか。

それはもう10年も前のことなのだという。その沖縄に赴任した人は、会いにくるときはいつもチューリップを一輪くれるのだそうだ。あ、書いてあった。なんてロマンチックな話! 街頭で詩を売る女に、チューリップを持ってくる男。けど、あのとき以来、会っていないという。今、再びそのブログを見に行ってみると、日付は2001年6月10日だった。

自主制作のドキュメンタリー映画に出演していることもネットに書いてあった。けど、それは断りもなく勝手に収録され、勝手に上映されたのだとも書いてあった。聞いてみると、その通りだという。そのことについては、今もお怒りのようす。うん、たしかにそれは失礼な行為だ。けど、映画の制作者としては、たいへんまじめな動機で、ある種の義務感・使命感をもって作ったことが伺われるので、悪いとは決めつけきれない。うーん、難しい。

軽いなぐさめのつもりで、私もネットに画像をさらされた件について言ってみた。しかもその画像が拾われ、テキトーなキャプションをつけられて書籍になり、コンビニや書店で売られていたのだ。鉄人社の「バカ画像500連発」。それを聞いて冬子さんはそうとうお怒りのようであったが、私はもうぜんぜん怒ってないのだ。笑って流しちゃってる。そう言っても、冬子さんはちょっと納得いかない様子であった。

さて、本題。5年前の会話をお互いに覚えていた件、やっぱり街頭に立つことによって生じた会話というのは、言葉の重みが違うということでしょうか? 「いえいえ、私、記憶力よくないんで、そういうのはどんどん忘れていっちゃうんですよ」。あれ? 「たぶん、あなたが、強い印象を残す人だからということではないでしょうか」。あれれー。俺の勝手読み?

訂正。街頭に立つ意味については置いておくとして、そこで出会った人と交わされる言葉の重みについては、本人が通行人に強い印象を残しているのは必然として、その逆のケースが起きるのは、その通行人のキャラによる。それだけ。あったりまえじゃん。最初っからそうと分かっていたら、そもそもこの文章は書かなかったなぁ。うん、失敗だ。

コミケについてはあまりご存知ではなかったようで。どんな感じのイベントか、ざっと説明する。3万サークル(だっけ?)が表現者として参加し、48万人が来場する。表現したい人って、たくさんいるんですよねぇ。

なんだか、すごくショックだったみたい。柱に頭の後ろをつけ、くらくらしている様子。「私には、ゆったりと時間が過ぎていくんです。今日はものすごい量の情報が急に入ってきて、すでに私の中ではパンク状態です。どうか、もうこれ以上しゃべらないでください」と懇願されてしまった。ひぇっ、どうもすみません、また来ます。

●寺嶋真里さんのイベント情報、再掲

◎菊地拓史×柴田景子の展覧会「Mythos Erotica」会期中
マメ山田マジックショウ×寺嶋真里作品上映会×清水真理のお人形で「ホフマン物語」をモチーフにした関連イベントを行います。
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> 予告動画

「コッペリア Meets オリンピア from ホフマン物語」
日時:2010年10月16日(土)・23日(土)19:00〜
会場:浅草橋:parabolica-bis パラボリカ・ビス
料金:当日券3000円、前売2500円

上映作品
◎「エリスの涙」(04年)♪ベルリンロケ敢行の短編作品!
◎「初恋」(89年)♪伝説の耽美的デビュー作品!

※詳細はこちらの菊地拓史+柴田景子展サイトの"access+Event"と夜想サイトをご覧下さい。
< http://www.tacji.com/mythos/
>
< http://www.yaso-peyotl.com/
>

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

カメコ。先日のデジクリで、べちおさんがとっておきの暇つぶし方法を気前よく公開してくれていたので、私もひとつ。およそ科学技術とは縁遠いキーワードで特許検索。特許電子図書館のサイトへ行き、
< http://www.ipdl.inpit.go.jp/homepg.ipdl
>
[特許・実用新案検索]-[公報テキスト検索]を選択し、公報全文の枠内に「メイド喫茶」などチョー適当なキーワードを入れ、[検索]ボタンを押す。ヒットしたのがあれば[一覧表示]ボタンを押す。発明の名称を見て面白そうなのがあれば、公開番号のリンクをつつけば中身が見れる。

例えば「猫耳」で検索すると5件の公開特許がヒットし、その中には新日鉄から出願された真面目そうなのがある。本文中に「鋼板断面の形状が猫耳状になり」という表現が見つかる。鋼板の加工形状を猫耳にたとえちゃうあたり、ひょっとして発明者さん、萌えるクチですか?

「怨念」で検索すると6件がヒットするが、どれも一癖ありそう。「霊遺伝子から解く姓名判断法」とか「熱力学の第二法則を否定する動力機関」とか。念のため言っておくと、公開特許というのは出願から一年半後に自動的に公開された段階のものであり、その後、審査を通過しなければ特許としては認められない。こういうのが特許査定を受ける可能性は億が一にもないので、ご安心されたし。

怨念で出てきた中の「若い男性の人格形成の方法」という名称のは、秀逸な発明だと思う。まず、この発明によって解決しようとしている課題が壮大で、「男性の人格形成において、特に、社会的正義感を醸成し、犯罪の少ない世の中とし、また、ニート、フリーターといった層が増大するのを防止し、ひいては、日本国家と日本国の産業の発展に寄与する為の、若い男性の人格形成の方法を提供すること」とある。そんな方法、あったらすごい。で、その解決方法がまたすごい。「1.社会的正義感を持つ人格形成を行う為に映画の持つ効果を活用する、2.映画が、任侠映画であること、3.映画が、女優藤純子が主演しているものであること」とある。選択図は藤純子の写真。

これだけでも従来の特許の概念を覆す驚くべき出願であるが、本領が発揮されるのは、「実施例」の項目においてである。拝啓に始まり敬具で結ばれる150通ものファンレターからなる大作である。「お元気ですか。日本侠客伝シリーズの第一作のビデオを見ました。今から36年も前の作品なのですね。私は、まだ15歳ぐらいで、貴女も19歳ぐらいの時の作品かと思います。高倉健さんの恋人役で、とても初々しい感じがしました。貴女は、緋牡丹博徒のころから、また一段と美しくなられたのですね」とこんな調子。

言うまでもなく、この発明のすごいところは、次の点にある。アマチュアが、自分の書いた文章を世に送り出すための手段としては、自費出版、同人誌即売会、インターネット、街頭売りなどが知られているが、それらに加えて官報を発表媒体として用いることを案出したことである。先に述べたように、審査を通過するしないにかかわらず、出願したものはもれなく一度は官報に掲載されるのである。やるなぁ。よい子はまねしないでね。

いろいろなキーワードで検索をかけてみると、技術立国ニッポンの行く末が見えてくる。「援助交際」で検索して「膣内筋の収縮機能強化器具」とか出てくると、もう仕事どころじゃなくなるね。この手のを集めて本にしてコンビニで売ったら、売れるんじゃない? タイトルは「DQN特許500連発」。