映画と夜と音楽と...[489]老人たちの長く孤独な闘い/十河 進

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〈スペースカウボーイ/老人と海/ストレイト・ストーリー/八月の鯨/ドライビングMissデイジー/死に花/人生に乾杯!〉

●老人たちの経験と知恵が若者たちの体力と最新知識に勝つ

40年経って、宇宙にいく夢を叶えるために、70をとっくに過ぎてリタイアしていた男は、かつての仲間たちを集める。集まった4人の老人チームは、夢を現実のものにするために老骨にむち打って厳しい訓練に耐える。しかし、グラウンドを何周もして息があがり、フラフラになったひとりがこんなことを言う。

──アメリカは宇宙に死体を四つ打ち上げた初めての国になる。

「スペースカウボーイ」(2000年)は老人たちの経験と知恵が、若者たちの体力と最新知識を詰め込んだ頭脳に勝つ、まことに痛快な映画だった。そうして、夢を叶えた主人公(クリント・イーストウッド)は、宇宙服姿で悠々と宇宙空間を漂いながら「40年なんて、あっという間だ」と述懐する。そう、僕もこの歳になってわかる。40年なんて、あっという間なのだ。

老人を主人公にした映画が好きだ。子供の頃に見た「老人と海」(1958年)のスペンサー・トレイシーがたったひとりでカジキと格闘する姿に、生きていくうえで大切な何かを教えられた。もちろん、僕はその映画をヘミングウェイ原作の映画化作品だと意識して見たのだが、何日も小さな船の上だけで展開される孤独な老人の闘いに夢中になった。ラストシーンの徒労感に人生の深さを感じた。



それから40年経って見た「ストレイト・ストーリー」(1999年)の主人公も魅力的だった。70を過ぎた主人公は、10数年も仲違いしたままの兄が心臓発作で倒れた知らせを受け、死ぬ前に一度会っておきたいと願う。車を運転できない彼は時速8キロのトラクターに乗って会いにいく。途中、様々な出来事があり、様々な出会いがある。トラクターの旅は、彼にとっての孤独な闘いだった。

そう、僕は老人の孤独な闘いに共感し続けてきた。それは、どんな人の人生も困難である、という認識が僕の中に深く落ちているからかもしれない。長く生きることは、長い人生を闘い続けることなのだ。農夫であろうと、職人であろうと、商人であろうと、勤め人であろうと、生きる手段は違っても生き続けることは、それぞれの世界で懸命に闘い続けることだと思う。

もちろん、老人たちの映画を見て、しみじみとした気持ちになることもある。90歳のリリアン・ギッシュと79歳のベティ・デイビスが姉妹役で共演した「八月の鯨」(1987年)や、黒人の運転手と白人の老婦人の数10年に及ぶ交流を描いた「ドライビングMissデイジー」(1989年)を見ると、老優たちの表情や姿や仕草を見ているだけで、落ち着く。気持ちが安らぐ。穏やかになる。彼らの長い人生が伝わってくるからだ。

彼らは、急がない。走るなんて、無理だ。ゆっくり...、いや、ノロノロといった方が適切な形容かもしれないが、歩くのは若者の何倍もの時間がかかる。体力は衰えている。記憶力だって怪しい。耳は遠くなり、目はかすむ。髪は薄くなり、皮膚はたるむ。歯は頼りなく、やわらかいものしか食べられない。喋ろうとすると舌がもつれ、息が漏れて明瞭な言葉にならない。だが、それは老人たちが闘い続けてきた証であり、名誉の傷痕である。

●体力が衰え耳や目や歯が弱くなった老人たちの自虐ジョーク

もう30年近く昔のことになったが、ミステリ好きの間で「オールド・ディック」という翻訳小説が話題になったことがある。78歳の元私立探偵が主人公のハードボイルド小説だった。ハードボイルドな主人公はタフであることが前提だが、この主人公の場合は犯人を追いかければ息が切れ...というイメージと現実のギャップで笑わせてくれるのである。

ある意味では老人(老い)を笑いものにしているのかもしれないが、それは「スペースカウボーイ」でもしきりに使われていた、観客(読者)を笑わせるテクニックである。「スペースカウボーイ」の「宇宙に四つの死体を打ち上げる...」というセリフには、誰もがニヤリとする。それは、体力が衰え、耳や目や歯が弱くなった老人たちの自虐ジョークだからである。

一般的なイメージとして、ハードボイルドと老人はそぐわない。老人と犯罪も似合わない。老人チームが宇宙にいくというのも、突飛なアイデアである。だから、そういう一般的イメージを裏切る物語が発想されるのだ。それは映画だから...という絵空事なのだが、主人公が長い時間を生き抜いてきた老人たちであることで、観客が納得する何かが描けるのではあるまいか。

「死に花」(2004年)という映画も、老人たちが銀行の地下金庫から10数億円を盗み出そうとする、突飛な話である。しかし、初公開から6年経ってみると、刺激的なタイトルを持つこの映画の主要な登場人物だった俳優たちの中で、藤岡琢也、青島幸男、谷啓、森繁久彌がすでに亡くなっている。彼らは、死に花を咲かすことができたのだろうか。

藤岡琢也は映画の中でも死んでいく役だったが、その藤岡琢也が遺した銀行強盗計画を遂行する4人の男たちを演じた俳優たちで、現役で活躍しているのは山崎努と宇津井健だけである。僕が宇津井健を初めて見たのは、「スーパージャイアンツ・シリーズ」だから1957年、53年前だ。宇津井健は来年80歳になるが、今も元気にテレビドラマにレギュラー出演している。

山崎努を初めて見たのは、松本清張原作のテレビドラマ「顔」(1966年3月29日放映)か、ウィリアム・アイリッシュの「幻の女」を翻案したNHKドラマ「都会の顔」(1966年4月30日放映)だと思う。「都会の顔」は、今もよく憶えている。彼が誘拐犯人を演じた黒澤明の「天国と地獄」(1963年)を見るのは、ずっと後のことだ。山崎努が俳優座養成所を出たのは、半世紀ほど前。宇津井健より5歳若い。

俳優は死ぬまでやれる職業だろうが、それにしてもこのふたりのベテラン俳優は凄い。「死に花」のときには山崎努が68歳、宇津井健が73歳だった。普通の人に比べれば格段に若く見えるし、その歳にしては見苦しくない。老人斑や皺も目立たない。髪もフサフサしている。歯並びもきれいだ。動きだって、けっこうキレがよかった。

彼らはあまり老人ぽくないし、老人ホームの住人たちとは思えない。現実の老人ホームにいる人たちは、もっと老いを感じさせるだろう。しかし、老人ホームの老人たちが人生の最後に立ち上がろうとする「死に花」では、長い年月を生きてきた彼らの存在感がスクリーンを圧倒する。俳優としての長いキャリアが、演技を越えた何かを生み出す。

●デスペレートではない「ボニーとクライド」老夫婦バージョン

あまりなじみのないハンガリー映画だが、「人生に乾杯!」(2007年)という楽しい映画を見た。先日は、WOWOWでも放映していた。老人版「ボニーとクライド」である。邦題の「俺たちに明日はない」(1967年)ほどデスペレートではないが、明日なき日々を突っ走る老人カップルの物語だ。彼らは、何の希望も持っていないし、いつ死んでもいいと覚悟して生きている。

「人生に乾杯!」は、1950年代後半のある日、おそらくハンガリー動乱の頃のエピソードから始まる。ソ連指導の共産党政権時代、若い男女が出会う。そして、物語はいきなり現在にジャンプしてしまうのだが、説明のなさがいい。冒頭の短いエピソードで若い男女はほとんど言葉を交わさず、視線と仕草だけでコミュニケーションを成立させる。若い男女が恋に落ちる瞬間はそんなものだろう。

エミルは共産党員だが、下っ端の運転手である。ある日、密告のあったブルジョアの邸宅に出向く。そこの家族を逮捕し、財産を没収するためだ。彼は屋根裏部屋を調べるように命じられる。屋根裏部屋へいくと、屋根がミシミシと音を立てている。エミルが注視していると、その屋根が壊れて少女が落ちてくる。少女はエミルを見つめ、両耳のイヤリングを外すとエミルの手のひらにそれを載せる。

エミルはイヤリングをポケットにしまう。下から「今の音は何だ」と上司が言う。「本が崩れただけです」とエミルは答えるが、ソ連兵が上がってくる足音がする。エミルは少女を「こっちへ」と窓の外へ隠す。そして現在、集合住宅のある部屋のドアベルをしつこく押し続ける集金人を無視して、部屋に老人が隠れている。その老人が、エミルの50数年後の姿だと観客にはすぐにわかるだろう。

老女が帰ってくる。彼女は集金人がしつこくドアベルを押している部屋を通り過ぎ隣の部屋へいくが、集金人が諦めて帰るとその部屋の鍵を開けて入る。中には腰を痛めたエミルがいる。「薬を塗る?」とクールに言う老女が、あの少女なのだろう。老女の方は糖尿病で、インシュリン注射が欠かせないことが描写される。老夫婦には、かつての恋愛感情をうかがわせるものはない。

彼らは年金だけでは生活が立ちゆかず、それぞれ相手に「あなたの車を売りなさいよ」とか、「おまえのダイヤのイヤリングを売ればいいじゃないか」などと言い合っている。エミルはチャイカという自分が運転手をしていた古い公用車を、ウィンドバードと名付けて大事にしているのだ。妻のへディは「あの車を売れば...」とエミルに言うが、ガソリンさえ買えないのにエミルは頷かない。

数日後、差し押さえのために執行官がやってくる。男たちがエミルの大切な本を持っていこうとしたとき、へディが「待って」と声を挙げる。彼女は両耳のイヤリングを外し男に渡し、「ダイヤモンド」と言う。そう、50数年前、初めてエミルと会ったあのときと同じように...。彼女の夫への切ない愛が伝わる。そして、観客は改めて確認するのだ。あのとき、エミルはイヤリングをヘディに返したのだと...。

●緊迫した状況下で出会ったふたりには熱烈な恋の思い出が...

長く共に暮らし、今では遠慮のない言葉を投げつけ合う関係になっていたとしても、エミルとヘディは深く愛し合っている。エミルは駐車場の別の車からガソリンを抜いてチャイカに入れ、手入れだけは怠らなかった愛車を久しぶりに動かす。彼のポケットには、チャイカのトランクに放置されていたトカレフが一丁入っている。

エミルは郵便局の窓口でトカレフを見せて、有り金を入れて欲しいとスーパーの袋を差し出す。ヨタヨタと歩く、どう見ても80は過ぎているだろう老人が拳銃強盗だとは誰も思わない。エミルは腰の痛みをこらえて運転し、悠々と逃亡する。郵便局で奪った金では不足だったのか、再びガソリンスタンドを襲い、レジの金を強奪する。彼の目的は妻に新しいテレビをプレゼントし、彼女の大切なイヤリングを買い戻すことである。

だが、警察は目立つ年代物のチャイカの持ち主を調べ、そのナンバーからエミルが犯人だと割り出す。家にいるヘディの元に女性警部補と刑事がやってくる。その女性警部補と刑事は恋人同士だったのだが、刑事の浮気心が原因で別れかけている。その追跡側の人間の話が、老夫婦の物語と併行して描かれる。

ヘディは警部補に説得され、夫の逮捕に協力することを約束する。エミルから電話があり、鉱山で落ち合うことになったヘディの後ろから警察が尾けていく。だが、鉱山で数日ぶりに会ったエミルは、「会いたかった。おまえに会いたくなるなんて...」とつぶやく。その瞬間、ヘディには共に過ごしてきた50数年が甦ったに違いない。彼女は決心する。夫と共に生き続けることを...。こうして、ふたりの逃避行が始まる。

もっとも、映画はシリアスにはならない。サングラスをかけトカレフを構えたエミルと、それに付き従うヘディが銀行のロビーの真ん中で「金を出せ。さもないと脳みそをぶっ飛ばすぞ」と叫ぶのに、銀行は昼休み当番の女性がトイレにいっていて誰もおらず、ふたりですごすごと出てきたり、読書家のエミルはセリフをすべて何かの本から引用しており、「『脳みそをぶっ飛ばすぞ』は下品だったかな」と反省したり、とぼけたシーンが続く。

彼らは国中の評判になり、年金生活の老人たちに支持される。模倣犯も現れる。しかし、彼らが犯罪者であることには変わりない。指名手配され、賞金が掛けられる。しかし、この映画の老夫婦は「ボニーとクライド」より、たまたま正当防衛で人を殺し強盗を重ねることになる「テルマ&ルイーズ」(1991年)に近い。

しかし、どのような理由があるにせよ、犯罪を重ねた「テルマ&ルイーズ」をあのような衝撃的な結末にせざるを得なかったように、この老夫婦にも悲劇的な結末が待っているのだろうか。逃避行の中で、彼ら夫婦が子供を亡くしていることが明らかになり、どこかに悲劇の予感が漂い始める...。

最初と最後に描かれるふたりの出会いのシーンが、素晴らしく効いている。緊迫した状況下、ひとりは逮捕を逃れた少女、ひとりは党を裏切った下っ端の党員。そんな追い込まれた状況で出会ったふたりは、きっと熱烈な恋に落ちたことだろう。やがて世情が落ち着き、共産党政権が倒れる歴史的な変動を経て、年金暮らしの老後がやってきた。だが、彼らに安穏な生活は訪れない。残り少ない人生の最後で、彼らは最後の火花を散らす。闘い続ける。死がふたりを分かつまで...。

老人の死を思うとき、必ず浮かんでくるシーンがある。「赤ひげ」(1965年)である。保本登(加山雄三)は新出去定(三船敏郎)に命じられ、老人(藤原釜足)の臨終を見届ける。愛する者に裏切られ、子に背かれ、苦労ばかりの人生を送った老人の死。その描写は鬼気迫るが、「立派な人間が...またひとり死んだ」という新出の言葉を甦らせるたび、僕には老人が長い闘いを終えて死を迎えたのだという感慨が湧き起こる。

人は死が訪れるまで、闘い続けなければならないものなのだろう。それは、ほとんどの場合、孤立無援の闘いだ。エミルとヘディのように、最期まで共に闘えるのは幸せな人生だと思う。僕もそうありたいと願うが、相手がどう思っているかはわからない。「人生に乾杯!」では、警部補に「人生の伴侶を取り戻すのよ」と言われたヘディが、改めてエミルを伴侶として認識するのだけれど...。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >
12月11日の土曜日、12時から渋谷宮益坂上のスペイン料理店「ラ・プラーヤ」で、ランチ付きショートムービー上映会があり、僕も参加します。食事代込みで2,500円。我が兄貴分カルロス(TBS「チューボーですよ」二度出演の渋谷の巨匠です)自慢のパエリヤが食べられます。参加は予約制なのかな。

●306回〜446回のコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が新発売になりました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1447ei2007.html >
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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