[2991] ホロコーストに関わった人々の悲劇

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《成仏してくれ宝くじ》

■映画と夜と音楽と...[492]
 ホロコーストに関わった人々の悲劇
 十河 進

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■映画と夜と音楽と...[492]
ホロコーストに関わった人々の悲劇

十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20110121140200.html
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〈ブラジルから来た少年/マラソン・マン/ゴールデンボーイ/夜と霧/アンネの日記/愛を読むひと/縞模様のパジャマの少年〉

●アイヒマンという男が逮捕され被告席に立った頃

開高健の初期のノンフィクション作品に、「声の狩人」という本がある。昔は、岩波新書から出ていた。今はどうだろう。僕は新潮社版「開高健全作品」を持っているので、その「エッセイ2」の巻で改めて確認をした。半世紀近く前に書かれたルポルタージュだけれど、その力強さは今も伝わってくる。

「声の狩人」は、イスラエルにおけるアイヒマン裁判のレポートが中心になっている。1960年にアルゼンチンでイスラエルの情報組織モサドによって拉致され、イスラエルに強制連行されたアイヒマンは1961年にイスラエルの法廷に被告として立ち、国際的な話題を呼んだ。死刑になったのは、1962年のことである。

僕もアイヒマン逮捕から裁判にかけての騒ぎは記憶している。8歳から9歳のときのことだ。その事件の意味はよくわからなかったが、「アイヒマン」という言葉が記憶に残り、「アイヒマン、アイヒマン」と頭の中に響いていた。「エイトマン」みたいだった。誰かに「ユダヤ人を何百万人も殺したナチス高官だよ」と教えられた。僕も何となく禍々しいものを感じていた。

当時、ハリウッドの戦争映画ではナチは徹底した悪役だった。テレビシリーズ「コンバット」が日本で始まったのは「アイヒマン」騒ぎより後のことだが、その頃の日本の子供には「鍵十字のナチスは悪い奴ら」というのが常識になっていた。ヒトラーは極悪人(悪魔)だった。第二次大戦当時、日本がそのナチスドイツと同盟を結んでいたと僕が知るのは、もう少し後のことである。

アイヒマンと同じように、戦後、南米に逃れたナチスドイツの高官は多い。その事実をベースにして書かれたのが「ブラジルから来た少年」(The Boys From Brazil)である。これはヴサノヴァの名曲「イパネマの娘」(The Girl From Ipanema)にかけているタイトルで、寡作なアイラ・レヴィンが書いた怖い小説だ。「少年」が複数形になっているのが、謎を解く鍵だった。

映画化された「ブラジルから来た少年」(1978年)は、珍しくグレゴリー・ペックが元ナチのサディスティックな悪役を演じている。その他、ローレンス・オリヴィエやジェームス・メイソンといった老優たちが活躍する映画で、僕はテレビ放映時に面白く見たのだが、なぜか日本では劇場公開されなかった。

ローレンス・オリヴィエは「マラソン・マン」(1976年)では、残虐な元ナチ高官を演じ、存在感を示した。悪役に凄みがあると、映画は成功する。ナチの陰謀に巻き込まれたマラソン好きの青年(ダスティン・ホフマン)は拉致され、歯医者の椅子に縛り付けられて拷問を受ける。麻酔なしで歯を削られるのである。あの歯医者の器具のウィーンという回転音が聞こえるだけで、僕は耳を塞ぎたくなった。

さすがに最近は、ナチの残党の陰謀という設定はあまりなくなったが、70年代までは戦争ものでもナチが悪役、現代を舞台にしても元ナチが悪役ということが多かった。そう言えばスティーヴン・キングも「ゴールデンボーイ」という中編を書き、アメリカの田舎町に隠れ住む元ナチのサディストの老人を登場させている。

「ゴールデンボーイ」はキングの中編集「恐怖の四季」に収められている一編だが、他の収録作品が「スタンド・バイ・ミー」(1986年)「ショーシャンクの空に」(1994年)として映画化され、感動的な名作の評価を得て映画史に残ったのに対し、「ゴールデンボーイ」(1998年)だけは後味の悪い変質者映画になり、どこかへ消えてしまった(この映画が好きな人がいたら、ごめんなさい)。

●未だにホロコーストを巡る映画が作られ続けている

ナチはユダヤ人の大量虐殺(最近は「ホロコースト」という言葉が有名になった)を行ったため、歴史に悪名を残した。未だにホロコーストを巡る映画は作られ続けている。それもドイツ本国ではなく、他の国で作られるのだ。ドイツ人作家の「朗読者」という本が日本でも数年前に評判になったが、その映画化作品「愛を読むひと」(2008年)もイギリス人たちによって作られた。

主演はケイト・ウィンスレット(常に陰を宿した凄みのある演技は、確かにアカデミー主演女優賞に値した)とレイフ・ファインズ(知的で静かな演技をさせると抜群にいい俳優です)で、セリフは英語である。監督はスティーヴン・ダルドリー。僕の大好きな「リトル・ダンサー」(2000年)という、イギリスの炭坑町を舞台にした映画を作った人だ。「めぐりあう時間たち」(2002年)という秀作もある。

どういう偶然か、同じ年、イギリス人監督によってもう一本、ナチのユダヤ人大量虐殺をテーマにした映画が制作されている。「縞模様のパジャマの少年」(2008年)だ。ユダヤ人の強制収容所の所長に任命された父親と一緒に、収容所近くの官舎に引っ越した8歳の少年の視点で描いたホロコーストものである。監督はマーク・ハーマンだった。

マーク・ハーマン監督は、やはり僕の好きな「ブラス!」(1996年)「リトル・ヴォイス」(1998年)を作ったイギリス人である。「ブラス!」も閉鎖寸前のイギリスの炭坑町を舞台にした作品だった。僕は「地の底からよみがえる夢」(「映画がなければ生きていけない」3巻113頁)で、「ブラス!」「リトル・ダンサー」「フラガール」について書いている。何度も見たい三本の映画として...。

そんな僕の大好きな「炭坑町映画三部作」を作った監督のふたりが、同時期に、加害者の立場からナチのホロコーストを描いた。これは、偶然ではない気がする。「愛を読むひと」のスティーヴン・ダルドリーは1961年生まれ、「縞模様のパジャマの少年」のマーク・ハーモンは1954年生まれ、ふたりともアイヒマン裁判の頃は何も知らない赤ん坊か幼児だった。何が彼らをして、ホロコーストをテーマにさせたのか。

ところで、日本人にナチによるユダヤ人大量虐殺が知れ渡ったのは、いつ頃のことだろう。戦後、ドイツの戦争犯罪人を裁いたニュールンベルグ裁判では、当然のことだろうが全員が「大量虐殺はなかった」あるいは「知らなかった」と証言した。中には「ヒトラーも知らなかった」と証言した者もいたという。

強制収容所体験を書いた「夜と霧」(今もみすず書房で入手できるはず)が出版されたのは戦後十数年経ってからのことである。アラン・レネ監督が制作したドキュメンタリー「夜と霧」(1955年)の日本公開は、1961年の秋。アイヒマン裁判より後のことだった。

ナチのユダヤ人狩りを逃れて隠れ家生活を送る日々を書いた、「アンネの日記」の翻訳が日本で出版されたのが1952年のことだという。これは世界的ベストセラーであり、世界中の人がナチのユダヤ人狩りや強制収容所の存在を知り、アンネが収容所で死んだことに涙した。

僕も「アンネの日記」を読んだことがある。5歳ほど年上の従姉妹が持っていたその本を、僕が読んだのはアイヒマン裁判の少し後のことだと思う。ハリウッドで「アンネの日記」(おお、可憐なミリー・パーキンスよ)が映画化されたのが1959年。その年の秋には日本でも公開されているが、僕が見たのはもう少し後に再上映されたときだった。

前述の「開高健全作品・エッセイ2」の巻には、「過去と未来の国」というノンフィクションも収録されている。開高健は、ルーマニアとポーランドを訪れてルポを書いた。1960年の秋のことだ。その文章で多く割かれるのは、ナチのユダヤ人大量虐殺についてであり、開高はアウシュビッツ収容所跡も訪れている。土を掘れば、すぐに人骨が現れる人工池の描写がすさまじい。

「過去と未来の国」「声の狩人」の初掲載は、岩波書店の「世界」だった。安保闘争の挫折感を抱いた開高健はルーマニアやポーランドをまわり、イスラエルに入ってアイヒマン裁判を傍聴し、その翌年、アイヒマンに死刑判決が出たことを知って擱筆する。当時の日本でも、ナチの大量虐殺は常識だったのだろう。彼の文章は、それを前提に書かれている。

●ケイト・ウィンスレットの存在感が映画を名作にした

「愛を読むひと」は、現在に生きるエリート弁護士の回想として始まる。誰にも心を開くことのないマイケルは、自分がそんな人間になるきっかけになった、15歳の頃を思い出す。彼は自分の母親といってもよいくらい歳の離れた車掌のハンナと知り合い、彼女の手ほどきで初めてのセックスをする。彼は夢中になり、毎日のように彼女の部屋へ通う。

ある日、セックスの後、ハンナは「本を読んでくれ」と言い、マイケルは朗読する。それからは、様々な本をマイケルが朗読するのが日課になるが、ある日、ハンナは姿を消す。それはマイケルに大きな傷を残す。何かが失われた...、いや、損なわれたのだ。喪失ではなく欠損。マイケルは、人を受け入れられない性格になる。

やがて法科の学生になったマイケルは、ゼミの実習で元強制収容所の女看守6人の裁判を傍聴に出かけ、そこで被告席に立つハンナを見る。それは戦後20数年目のこと。60年代半ば、アイヒマン裁判より後の設定である。だが、彼女らへの糾弾は同じだ。「命令に従っただけ」「他にどんな選択があったの」と彼女は答える。

女看守たちの逮捕のきっかけになったのは、収容されていたユダヤ人の母娘が生き延び、収容所時代のことを書いた本が出版されたからだ。その中に、ユダヤ人たちを閉じ込めた教会が空襲に遭い炎上したのに、外から鍵をかけられており、その母と娘を除いて全員が焼死した事実が書かれていた。

裁判官がハンナに「なぜ、鍵を開けなかったのか」と詰問する。「村中が空襲で村人たちだって逃げまどっていた。そんな中に鍵を開けて逃がせと言うの」とハンナは答える。他の被告たちはハンナがリーダーだったと証言しハンナは否定するが、あることを迫られたときに彼女は突然、前言を翻し自ら不利な証言をして終身刑を甘受する。

ハンナの戦争犯罪をめぐる裁判シーンが映画の肝ではあるが、男女の深い愛を印象づけるのはここからの物語だ。実は、僕もあまりに評判になっていたので「朗読者」は単行本で読んだのだが、それほど感心しなかった。どこがいいのかもわからなかった。しかし、映画化作品では深く感動し、2時間余りを引き込まれて見た。

「タイタニック」(1997年)ではミスキャストじゃないかと思った、ケイト・ウィンスレットが素晴らしい(もっとも僕は、若き日のアイリス・マードックを演じた「アイリス」(2001年)で、すでに演技派の評価はしていたけれど)。終始、何かを隠して生きている女の、陰を感じさせる演技。年老いて再会したマイケルに「坊や」と呼びかける凄み。彼女の存在感が映画を名作にした。

●夫が大量虐殺を指揮している男だと知った妻の悲劇

「縞模様のパジャマの少年」でも、ひとりの女優が印象に残った。主人公の8歳の少年ブルーノの母親を演じたヴェラ・ファーミガである。昨年公開された「マイレージ、マイライフ」(2009年)では、ジョージ・クルーニーの情事の相手として印象的な役を演じ「うまいなあ」と思ったが、やはりアカデミー賞助演女優賞にノミネートされていたらしい。ちょっと若い頃の岸田今日子さんに似ている。

ヴェラ・ファーミガが演じたのは、ナチ高官の夫を持ち、ベルリンの屋敷に住み何不自由なく暮らす、12歳の娘と8歳の息子を愛している母親である。しかし、夫が収容所の所長として赴任することになり、大きな屋敷ではあるが収容所の近くに住むことになる。彼女は、もちろんナチのユダヤ人隔離政策を知っているし、ユダヤ人たちが強制収容されていることも知っている。

夫の母親はナチに批判的であり、夫と義母が不仲なのを彼女は気にかけているが、彼女自身もナチを容認しているわけではない。家庭教師に感化された娘がナチの教義を信奉し、部屋にヒトラー・ユーゲントのポスターを飾るようになったことに心を痛める。長女は収容所の目的は知っているが、8歳のブルーノはそこを農場だと思っている。だから、彼女はブルーノに収容所のことを隠す。

だが、夫の副官が漏らした言葉から、彼女は収容所でユダヤ人を大量に殺し、死体を焼却処理していることを知る。彼女は屋敷の下働きのために狩り出されているユダヤ人(かつて彼は医者だった)が、ブルーノがブランコから落ちて怪我をしたとき、手当をしてくれたことに「サンキュー」と口にする人間である。そんな彼女には、収容所で行われていることが耐えられない。彼女は神経を病んでいく。

夫は、ユダヤ人を人間扱いせず、虐殺を「処理」と言い換えて泰然としている冷血漢だ。また、副官の父親がナチを批判してスイスに亡命した反逆者であることを知り、副官を生きて帰れないと言われたソ連戦線に送り込む卑劣な男である。彼女は、そんな夫の素顔を知り、彼の批判者になっていく。「私は、人でなしと結婚したのよ」と、自嘲的につぶやく...。

ベルリンにいた義母が空襲で死に、葬儀のとき、彼女は義母の棺にヒトラーからの弔文が載せられているのを見付ける。ナチを批判していた義母だ。「こんなこと、お母様は望まないわ」と隣の夫に言って、その花が添えられた弔文を取ろうとするが、夫の強い力に阻まれる。彼女は、ますます絶望感を深めていく。彼女の救いは、ふたりの子供だけだ。

屋敷から出られず、通ってくる家庭教師にもなじめないブルーノは、ある日、裏庭から森を抜けたところにある農場の有刺鉄線の中でしゃがみ込む、自分と同い年の少年と出会う。「なぜ、パジャマを着ているの?」と、ブルーノは無邪気に訊く。「お腹空いてる?」と、さらに訊く。何不自由なくお坊ちゃんとして育った、ブルーノの無知と想像力のなさが歯がゆい。

8歳だぜ。もう少し周囲から何かを感じるはずだ、と僕は思った。思ったが故に、「8歳の無垢な少年の目が捉えたホロコーストの悲劇」という宣伝文句のようには、この映画を見られなかった。僕の8歳のときにアイヒマンは逮捕され、大きく新聞で騒がれた。大人たちが話題にした。今ほどテレビが普及していなかった時代だし、情報量も格段に少なかったが、僕は何となくそのことの意味には気付いていた。

だから僕は、夫が毎日何千人もの人間を何の迷いもなく、工場で処理するように殺している男だと知った、妻の悲劇として「縞模様のパジャマの少年」を見た。彼女の悲劇は、ラストに至ってさらに残酷なものになる。それは、ブルーノの無知と想像力のなさがもたらせた結果だが、彼女自身にも責任がある。彼女が真実を、収容所の実態を、その目的を、ブルーノに告げなかったからである。

「愛を読むひと」は収容所の元看守と彼女を愛した男の物語、「縞模様のパジャマの少年」は収容所の所長とその家族の物語...、奇しくも二作品とも加害者側の悲劇を描いている。そこには、心ならずも(ここがポイントだ)ホロコーストの一端を担った人々がいる。そして、虐殺の真相が明らかになった後、彼ら彼女らは「仕方がなかった」「命令だった」「知らなかった」と口にする。

そのことを、二つの映画が裁いているわけではない。肯定も否定もしない。しかし、そこには被害者の悲劇と同時に、加害者の悲劇が存在する。加害者の悲劇は、虐殺の時代が終わってから始まり、生きていく限り続く。彼らは、赦しを求める。だが、「愛を読むひと」の最後に登場する、収容所を生き延びた女性の言葉が重く響く。死者となった多くの被害者たちには、赦しは永遠に存在しないのである。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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キネマ旬報の昨年度公開映画のベストテンが発表になった。邦画には「十三人の刺客」と「必死剣鳥刺し」が入っていた。昨年暮れには「最後の忠臣蔵」を見たが、新人女優賞はその映画に出た桜庭ななみだそうだ。時代劇の評価が高いのは、けっこうなことだと思います。

●306回〜446回のコラムをまとめた「映画がなければ生きていけない2007-2009」が発売になりました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1447ei2007.html
>
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
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■Otaku ワールドへようこそ![132]
言葉の供養と神秘主義と統計力学

GrowHair
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デジクリに書いていると、たまってくるものがある。それは何か。答え=ぜったいに書けない裏話。そりゃあ、ありますとも。いろいろね。あの話の後日談が実はひどいことになってるよ、とか、持ち上げて書いてやったのにキサマ本当はそういうやつだったのか、とか、書いてもし会社にバレたらNDA※ 違反でクビだ、とか、一時期うまくいってた恋だって破綻するときゃしますわな、とか、水面下で進めているプロジェクトなので時期が来たら公開します、とか、みなさんプライベートな領域ではのっぴきならぬことが起きてますなぁ、とか、自分の失敗談なんで恥をしのんで白状するぐらいはいいんだけど、言ったら他の人にもご迷惑が及びますわなぁ、とか。
※ NDA: Non-Disclosure Agreement. 会社間で交わす機密保持契約。

読者諸兄におかれましては、そういうのこそ読みたいという向きもおられるかもしれない。「本当は怖いデジタルクリエイターズ」とか「デジタルクリエイターズの真相」とか。その路線なら、ネタはいっぱいあります、はい。「王様の耳はロバの耳」じゃないけど、しゃべりたくてうずうずしてるとこでもあります。けど、無理無理無理無理。こちとら平和で円満に維持しなきゃなんない人間関係ってもんがありますゆえ。アブナい人かと思われたりすると困るんであります。

で、今回は、裏話ではないけれど、ちょっと書きづらい話。書いちゃうことによって大サービスしようとしているのか、底意地の悪さを発露しようとしているのか、自分でもなんとも言えないのだけれど。ちょっと黒いかも。

●人はなぜ書くか

特に、ギャラの出ないデジクリに、なぜライターさんたちは文句も言わず(というか、不満ならいつ降りちゃったって構わないんだけどね)、せっせと書き続けるのか、疑問じゃありませんか? 当方の極秘調査によると、多くのライターさんたちにとって、書く動機の大きな部分を占めているのは、後記でハマムーさんにツッコミを入れてもらうのが楽しみで、ってことみたい。あー、いやー、そのー、私に関しても、まあまあまあまあ否定はしませんがね。

けど、私の場合、書く動機はもうひとつあって、普通に暮らしてると、自分の中に言葉が溜まってきちゃって、時折吐き出さないと言葉の大爆発が起きそうだから、っていうのがあります。大学時代、「根暗」という言葉が流行ったことがあり、そのとき私はまわりからその典型例のように目されてたようなところがあります。無口だからなんでしょうね、きっと。

あ、なんとなく「です・ます」調で書いてますけど、この辺で「である」調に切り替える。

どうも私は、人よりもCPUのクロック周波数が遅いのか、自然でスムーズな対話がうまくできないところがある。人が話しているのを聞いていると、その内容から刺激を受けて、頭の中に思い浮かぶことはあるのだけれど、果たしてそれは、皆様の貴重なお時間を拝借してまで発表するほどの価値のあることなのだろうか、と検討しているうちに、タイミングを逸して、気がつくとすでに別の話題に移っていたりする。

よくよく検討した結果、やはりこれは発表してみても面白いんじゃなかろうかという結論に自分の中で至ったとしても、「あのさぁ、35分前の話題に戻るんだけどさぁ」などと切り出すことを考えると、スムーズな会話の流れを阻害してまで言い出そうとしているその内容はよっぽど重要なんだろうなぁ、と変な注目を集めてしまいそうで、その時点で「発表する価値」のしきい値が上がっているのである。結局クリアできず、引っ込めて終わることになる。

そのような言葉の数々は成仏できずに冥界をさまようことになるので、線香を上げ、経を読み、丁重に弔ってやる必要がある。その場がデジクリというわけである。言葉の葬式。

●ところで、日本人の会話形態って変わった?

ロダンの彫刻のように逡巡した末に、意を決して英会話のNovaの扉を叩いたのは、'95年ごろだったであろうか。ロビーのテーブルを挟んでおねいさんから説明を聞いている間、脇の教室では授業が進行している。NovaにはVoice Roomというシステムがあり、生徒たちがネイティブの先生を交えて自由に会話ができる場である。Voice Roomからはぽつりぽつりと声が聞こえてくるので、中にいるのは3人ぐらいかと思っていた。

ところが、チャイムが鳴って休み時間になると、ぞろぞろぞろぞろと30人ぐらい出てきた(多分に感覚的であり、実際には20人であったかもしれない)。大勢の日本人の前で英語を発する勇気のある者などほとんどおらず、無言のうちにもテレパシーで「お前しゃべれよ」「いやいやそういうお前が」とメッセージを飛ばしあい、結局、気まずい沈黙の時間に耐えられなくなった人がぼそっと何かを言う、というシステムであった。

ところが、Novaも人知れず財政状態が行き詰ってきていたころには、ムードが一変していた。まあ、'70年代のデパートにおけるバーゲンセールの洋服をうずたかく積んだワゴンの周囲に群がるご婦人方の様相にたとえてみても、分かる人は少ないか。つまり、場の奪い合いなのである。たとえるほどのことでもないか。

とにかく、その場にいる人の中で一番英語のできない人が一番強くて、人が何をしゃべっていようと割り込んできて、とにかく "Do you know" と言っちゃう。そうやって場の支配権を略奪しておいてから、目的語を言って疑問文を完結させようとするのだが、その英単語を知らないもんだから、日本語で言っちゃったりして、先生には通じない。結局、身振り手振りなどを総動員してなんとか通じさせるのに残りの30分を費やされちゃうのである。

概して、みんな自分の実力で表現できること以上のことを言いたがる。ギトギトと脂ぎった中年のおっさんは、「愛と憎しみはコインの表裏みたいに、一体のものである。愛の反対は無関心である」と言おうとして、どうしても伝えることができず、チャイムが鳴って先生が出て行くと、「こういう感情の機微は外人には理解不能なんだよな」とのたまった。めまぐるしい会話のテンポに、英検1級、TOEIC970点の私は、まったくついていくことができなくなっていた。

●成仏してくれ宝くじ

前置きが長くなったが、そんなシャイな私が、かねがね成仏させたいと願っていた話題のひとつに宝くじがある。ジャンボな夢を買うことのできる、たいへん結構なシステムである。その運営形態にはなんら問題があるわけでもなく、購買者はその仕組みを理解し納得した上で買うわけだから、はずれて損したからといって、苦情を申し立てるわけでもなく、平和に運用されている。また、のめりこみすぎて身上つぶすわけでなく、生活上のちょっとしたアクセントとして、健全に利用されている。

なので、私から申し上げることは特に何もないのである。そういうわけで、この話題になると、仏のような笑みを浮かべて、黙って聞いている。で、たまるんだなぁ、そういうときに。我が内側に言葉が。では、今からしめやかに葬式を執り行いたいと思います。

内部に蓄積されたもやもやを一言で要約するならば「無邪気にサンタクロースを信じている人に、ほんとうはいないんだよ、と教えてあげるのは、余計なお世話というもんだよなぁ」である。

そりゃ、お金は、欲しい。で、得るための基本的な形態は、働くことである。モノやサービスを売ることによって、顧客から代金を支払われる。あるいは、モノの生産やシステムの運用などにおいて労働力を提供することによって、雇用主から賃金を支払われる。まじめにこつこつ働いていると、これがけっこうな額となり、あっという間に田園調布に家が建つ。......ということはなく、その額はよくすずめの涙にたとえられる。たまにはダチョウの涙ぐらい、見てみたいもんだ。私も思う。

宝くじに当たったら、いいだろうね。地道な労働からは得られないような高額のお金が、労働なしに手に入るんだから。このロジックに何ら誤りはないように見えるのだが。私も実は本質がよく分かってないのかもしれないけれど、キーは、「お金が潤沢にあること」と「幸せになること」がまったくイコールではない、ってあたりにあるのかな? 私も、宝くじにおけるサンタクロースの不在については、自力で気づくことができず、人から指摘されてあっと思ったクチなので、大きなことは言えない。

どうも、宝くじに当たったけど幸せになってない、という実例がやけに多いのである。お寿司屋さん。たんなるお客さん以上の親近感をもって接していたなじみ客の足が遠のき、結局自殺してしまった。他の例では、親しいと思っていた友人から、いきなり訴訟を起こされたりとか。建てた家が、直しても直しても、何者かによって破壊され続けるとか。暴飲暴食がたたって、結局寿命を大幅に縮めて終わったとか。当たった代償として、人間のもつイヤな側面を見ちゃう、ってことなのかな。

宝くじにあたったら、アレやコレが買えて、あんなところに行って、そんなこともできちゃう、とバラ色の想像が広がる人は多いようだけど、もっと現実に即したシミュレーションとして、こんな不幸に襲いかかられるだろうなぁ、という方面に想像が及ぶ人は少ない模様である。私もその一人だった。15年ほど前だけど、指摘してくれた人は、宝くじに当たることは「ラッキーなできごと」の範疇に入ってないよ、占いの世界では常識なんだけどなぁ、と言う。え? そうだったの?

で、ここからは自力で考えたのだけれど、宝くじに当たったにもかかわらず、ちゃんと幸せになる方法がひとつだけある。同じことに思い至った人は他にもいるようで、実践する人もいると聞く。信頼できる慈善団体に、全額寄付しちゃうのである。

●神秘主義は統計力学みたいなもの

説明するのが難しいのだが、神秘主義と科学的な態度とは、まったく相容れないものかといえば、そうでもないのではなかろうか、と私は考えている。

昔から、「月にはウサギがいて餅をついている」とか「雷サンにヘソを取られる」とか「嘘をつくと閻魔様に舌を引っこ抜かれる」とか「夜に口笛を吹くと蛇が出る」とか「悪いことが起きる前に虫の知らせがあった」とか「ミミズにおしっこをかけるとチンチンが腫れる」なんてことが言われてきた。

科学的な視点からみると、根拠のない迷信であり、まじめに受け取る必要はない、と考えるのは、一面においては正しい。私もいちおう、修士課程を修了するまで数学を専攻していたので、科学的な態度について、ある一定の理解はあるつもりである。しかし、それでも私は上記のような伝承知を完全に否定するのではなく、統計力学みたいなもんだという比喩をもって受け入れている。

どういうことか。たとえば、我々のまわりには空気が取り巻いている。空気は窒素分子や酸素分子などで構成されている。それらがてんでんばらばらの向きに飛んでいる。速いやつもいれば、遅いやつもいる。それらは、そこいらじゅうでしょっちゅう衝突している。衝突すれば、運動量保存則とエネルギー保存則にしたがって、跳ね返り、次の向きと速度とを得て進む。

だから、我々のまわりの空気の状態を完全に把握しようと思うならば、ある時刻において、一個一個の分子について、No.1はどの位置にあってどの速度で飛んでいて、No.2はどの位置にあってどの速度で飛んでいて、......というのをすべて書きくだすしかない。さらに、時間の経過とともに、どれとどれがどこで衝突して、それぞれどの速度を得たかを追っていくしかない。それは無理な話である。ちゃんと計算したわけではないけれど、ほんの近辺だけでも、20桁ぐらいの個数の分子が飛んでいると思う。

では、空気の状態はまったく知ることができないのかといえば、そうでもなく、個々の分子の運動の総和として、全体的にどうなっているという、統計量なら把握できるのである。温度や気圧や風向きや風速という形で。個々の分子の運動がすべて分かっていなければ、それらの総和をとるという計算だってできない道理だが、温度や気圧や風向きや風速は、別の手段を使って、間接的に測定することができるのである。

つまり、個別の分子が正確に運動力学にしたがって運動しているとしても、その挙動をすべて把握することはできない、それでいながら、その全体像は統計力学という形で把握することが可能なのである。神秘主義の言語は、統計力学にたとえることのできる、マクロ言語のようなものなのではないかと思う。ものごとの進行は、ミクロレベルでは神秘でも何でもなく、物理法則に正確にしたがっている。しかし、我々には個別にすべてを把握することは不可能である。一方、マクロレベルでは、個別の事象の総体としてあたかも温度や圧力のように感じ取ることはできる。その「感じ」を言葉で記述すると「虫の知らせがあった」のような迷信っぽい言い方にどうしたってならざるを得ないのではないか。

ところで、話は逸れるが、気体については、私にとって神秘にしか見えない点がもうひとつある。科学をかじった者としてこれを言うのは恥ずかしいのだが、気体がなぜ落ちてこないのか、よく理解できていないのだ。一個の分子が、次に衝突するまでに孤独な飛行を続けている間、等速直線運動をしているかといえば、そうではなく、地球の重力に引っ張られて放物線運動をしている。ガリレオがピサの斜塔で明らかにしたように、重い軽いによらず、等しい加速度を得て、自由落下していく。鉄の球も窒素分子も同じなのだ。

孤独な飛行時間は非常に短く、すぐに誰かと衝突するのだから、その間の軌跡は直線とそんなに変わらない、ということは言えるのかもしれないけれど、だからといって、重力の影響が消えてなくなるわけではない。膨大な個数の分子の集まりをマクロ的にみたとしても、全体の重心位置は、重力加速度にしたがって落下していくしかなく、内部で衝突が起きていようといまいと全体的には鉄球と同様に自由落下いくしかないのではあるまいか。大量のパチンコ球を分子に見立て、頑丈な部屋の中でそれぞれに初速を与え、気体と同様の状態を作り出せ、と言われても、可能なような感じがしない。

話はさらに逸れるが、もうひとつ、別の意味で神秘的なのが、ハードディスクだ。ぶんぶん回転するディスクの上空に磁気ヘッドを差し出して、情報を読み書きするのだが、この円盤とヘッドの距離は、わずか10[ナノメートル]に保たれている。この距離は、1[ミリメートル]の10万分の1である。磁気ヘッドは、それを支える柄によって、ディスクに押し付ける力が加えられるが、一方、ヘッドには翼が生えていて、浮き上がろうとする力がかかるので、バランスが保たれ、決して着陸することはない。相似に拡大すると、ジャンボジェットが地上 0.8[ミリメートル]の高さを超低空飛行している状態に相当する。ディスクに記録されている0と1の羅列を、1秒間に10億個読み出すことができる。ハードディスクよ、おまえは化け物か?!

●人間関係にも応用が利く

さて、話を元に戻して、宝くじに当たったら全額寄付しちゃうとなぜ幸せになれるのか、説明したい。これは、上述のマクロ理論の人間関係への応用展開ということになる。

人は、他の人に対して、さまざまの感情をいだく。親近感とか疎外感とか共感とか反感とか信頼感とか警戒とか尊敬とか侮蔑とか。相反する感情がアンビバレントにはたらくのも普通のことである。好きとか嫌いといった感情は、「なぜ?」と問われても、「これこれが原因で」とちゃんと因果関係を説明づけられることは少ないように思う。「運命の出会い」などといえば、なんだか神秘的な力が作用したようにも感じられる。

しかし、こういうのは、やはり統計力学のように、マクロな記述言語として捉えうるのではあるまいか。ミクロのレベルでは、人は、他の人のちょっとした仕草とか言葉の端々から、ちょっとした印象を抱く。そのこと自体は、神秘でも何でもなく、分子レベルの運動力学の法則のような、脳内の下位レベルの刺激と反応の法則にしたがって、微視的な電磁誘導が起きているだけなのかもしれない。しかも、その微弱反応は、本人にとっても個別に意識できることではないのであろう。

そういうミクロレベルの印象の総体として、「私、この人、好きかも」とか「なんか、気を許せない感じがする」といった、マクロな印象が形成されるのではあるまいか。

大勢の人の集まりからなるひとつの社会の中における人間関係の全体的な相関図なんていうのは、もう神秘みたいなもんである。Aさんにとって、BさんがCさんにどんな感情を抱くかなんてことは、コントロール不可能である。自分では、把握したりコントロールしたりすることはできなくても、ミクロレベルでは、人間関係も自然なメカニズムにしたがって形成されていくように思う。

「多くの人から、この人、幸せになって欲しいな、と願われている人は、実際に幸せになっていく」といえば、神秘的な響きがあるかもしれない。けれど、意識にのぼらないミクロレベルでは、自然なメカニズムがはたらいて、実際には神秘でもなんでもなく、そういうことが起きていくのだと思う。

宝くじの当選額をすべて寄付しちゃうと、施しを受けた大勢の人から、「どこの誰だか分からないけれど、その寛大なお方には幸せになってほしい」と願うであろう。どこの誰だか分からないのだから、その思いが直接届けられることはなく、それがいつか通じるものだと信じるのは、科学的根拠を欠いた神秘主義的信仰の領域のようにもみえる。

しかし、説明をつけちゃえばあたりまえすぎて拍子抜けしそうなほどのミクロレベルの人間関係の作用の総和として、まるで、見知らぬ他人への思いが届いたかのように見えてしまう現象が起きたりすることは、あってもおかしくないような気がする。

それと、もうひとつ。もしあなたが、ある日あるとき、重い病に罹患していることが発見され、このままだと早晩死ぬかもしれないということになったとしよう。そのときは、有り金を全部はたいてもいいから、延命させてくれ、と願うのではなかろうか。それを逆にして、お金をもらう代償として大喜びで命を縮めちゃうというのは、たいへん馬鹿馬鹿しいことのように感じられるのではなかろうか。宝くじに当たるというのは、結果的にそういうことなんだと思う。

ごめん、やっぱり黙って溜め込んでおいたほうがよかったかな? チーン。

●お知らせ:浅草橋「パラボリカ・ビス」にて人形展が開催中

浅草橋「パラボリカ・ビス」にて人形展「錬金術の夢想世界」開催中。雑誌『夜想』のベルメール特集号とシンクロした企画展。

'05年4月のドールショウで林美登利さんと出会ったのが、私が人形を撮り始めるきっかけだったことは、前回書いた。美登利さんは、当時、ほぼ無名の人形作家さんだったが、以来、登竜門を駆け上がっていった。今回のパラボリカ・ビスの展示は、人形界のビッグネームな作家さんたちが名を連ねる中で、出品している。本人は「ドキドキだ」と言っているけれど、ついにトップ集団の仲間入りを果たしましたか、って感じ。2月6日(日)にはスペシャルイベントとしてトークショウが開かれるが、美登利さんも出ることになっている。やっぱり本人「ドキドキだ」と言ってるけど。やー、すごいね。

人形展「錬金術の夢想世界」
会期:2011年1月14日(金)〜2月7日(月)
人形:林美登利、池田祐美、三浦悦子、木村龍、緋衣汝香優理、伽井丹彌、清水真理、山吉由利子、マンタム、みつばち@BabyBee × HIROKO
写真:田中流
< http://www.yaso-peyotl.com/
>

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

カメコ。年末から年始にかけて、ひどい風邪をひいていた。「目が回る」という表現があるが、文字通り目が回るのだと知る。自分の両目が同じ向きにぐりぐりと回っている感触がある。寝て見上げている自分の部屋は、ポルターガイストのごとく、ぐるんぐるん回っている。き、気持ち悪りいっ! ついにウィルスが脳内にまで侵入してきたか。救急車を呼んだほうがいいレベルなんだろうか、とも思ったが、その前にピンクのフリフリヒラヒラのパジャマを着ているのを、なんとかしてからにしなくては、と思いなおす。バレエグッズのコッペリアから通販で買った、お気に入りのやつだ。そうこうするうちに意識が遠のいた。気がついたらこっちの世界に戻って来れてたけど、もし戻れなかったら......。棺に入るときは、白ワンピがいいかなぁ。

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■編集後記(1/21)

・このまま順調に飛行を続ければ、13日後にとうとう3000号に達するデジクリである。創刊が1998年4月13日。1000号が2001年12月21日で、編集後記は「あらま、気がついたら1000号だった。しかも2001年最後の発行日。なんというきりのよさだ。発行部数も20000に届けばなおよかったけど、まあ次の楽しみにとっておきましょう」と淡々としたものだった。その後すぐに20000部を楽々クリアした。2000号は2006年6月27日。この日は、当時の執筆陣の紹介と2000号コメントを特集していた。そして2001号からサイトがリニューアルされたのだった。2000号の編集後記が、なぜかサイトから消えていた。そこで2001号のを転載してこの場を取り繕うと思う。「編集者はあまり主張してはいけないのだろう。でも、ついやってしまうんだなあ、意地悪なのに脇が甘いから、ときどきトンデモなことを書いている。もう誰の目にもふれて欲しくないようなバカを後日見るのはつらい。開き直って言おう、わたしは今の瞬間だけがわたしで、過去のわたしのやったことなんか知らない」今もそう思っている。デスクに訴えたら、2000号後記がサイトで復活するようだ。(柴田)

・喜んでくださると聞いてすぐさま突っ込むのもどうなのかしら?/GrowHairさんが英検1級をとられるまでのお話を以前聞き、うん、真似できない、と思ったが、それでも英単語は増やさなきゃなぁとあがいてはいる。iPhoneアプリの「英単完全攻略8000語」。仕事が落ち着いたら再開するぞ。隙間時間にできるのがいいし、覚えている英単語数がカウントされるのは気持ちいい。実際には例文やら英英での説明やらを含めて学ばないと意味ないけど、いったい自分はどのぐらいの英単語数を知っているのかわかるのは面白いよ。中学生分は楽勝で、この頃は真面目にやっていたんだなぁと。高校生分に入る前に仕事がハードになったのでまだ。中学生分だけで1500もあったのに驚き。/ギャンブルは賭け金を出すのが嫌なケチなので、宝くじは一度も買えていない。でもいつも買いたくなるのよ〜。/ハードディスク凄すぎる。そういやDVDは焼くではなく凍らすが正しいらしい。/昨日あれだけ電子辞書を買いたいと言っていたのに、キーボード配列での日本語入力はローマ字のみと知り、購入意欲が低下。iPadもキーボード配列でのかな入力がなくて使いにくい。アルファベットはブラインドタッチできる。最初はローマ字入力だったが、一文字打つのにキーを二回叩くなんてと思って、練習して切り替えた。人のパソコンを触る時はたいていローマ字なので、頭を切り替えるのに時間がかかる。「ち」と打とうとして「あ」が出る。テンポを分割するために、つい口に出る。「ちー(c)ぃー(hi)」「かー(k)ぁー(a)」。もっと簡単に頭が切り替わらないものか。/XD-B8500あたりがモニター価格で3万切ってるよ〜(hammer.mule)
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