映画と夜と音楽と...[495]数の多さは質の深さを越えるのか?/十河 進

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〈カサノバ/存在の耐えられない軽さ/それでも恋するバルセロナ/コレラの時代の愛/抱擁のかけら/恋愛日記/柔らかい肌/黒衣の花嫁/暗くなるまでこの恋を/隣の女/好色一代男〉

●いつの間にかその道の達人の話を拝聴する場になった

先日、とあるところで大変に興味深い方と話をした。僕より6、7歳年上だが、見た目は60半ばを過ぎているとはとても思えない。誰でも知っている大企業から独立して自分の会社を立ち上げ、世界中のセレブリティを相手に仕事をしてきた人である。会社も順調にいっているのであろう、人生に余裕を感じている雰囲気があった。ジタバタもしていないし、ガツガツもしていない。こんな風に年齢を重ねられたらいいだろうな、と少しうらやましく思った。

ところで、なぜその人が印象に残ったかというと、相当な艶福家らしく、そちらの話をいろいろしてくれるのだが、それがひとつひとつ自身の体験を踏まえていて、まるで落語の艶っぽい色噺を聞いているような面白さだったからだ。僕にとっては、まったく縁のない世界で、若い頃なら少し反発したかもしれない内容だけれど、その人の話し方が実に素直で自慢話の嫌みがない。いつの間にか、その道の達人の話を数人で拝聴する場になった。

そう言えば子供の頃、五味康祐の「色の道教えます」という本が出ていて、僕はその意味がよくわからなかった。五味康祐は「柳生武芸帖」を始めとする剣豪小説で有名だったから、「剣の道」と何らかの関係があるのかとも思ったが(そんなわけないか)、何となく隠微なニュアンスがあり親には訊いちゃいけないんだとは理解していた。当時は「色ボケ」とか「色と欲」なんて言葉もよく見かけた。今では死語なのかもしれない。



さて、先日会ったその人は、形容するなら「色の道の達人」という趣があり、半世紀を超える長い年月を、色道を極めるために費やした感じだった。現代版「好色一代男」である。何事もそれほど精進すると、自ずと独自の哲学が生まれる。物事を深く追究すればするほど、その哲学は深みを増し、人を説得する力を得る。だから、その人の言葉のひとつひとつが僕の身のうちに響いたのだ。

もっとも、僕は「好きな人とは寝ないことをもって貴しとなす」だの、「好きな人としてはいけないものは、仕事と結婚とセックス。それをすれば愛は醒めます」などと言っていたのだけど、その人は「そういう考えで生きているのなら私とは真逆ですが、わからないことはありません」と答えた。僕としては、何となく負け惜しみ的な言い方にならなかったかな、うらやんでいる雰囲気は出なかったかなと心配しつつ、全くもてなかった己の半世紀に及ぶ来し方を振り返ったものだった。

確かに僕はもてなかったし、女性と親しくした経験もほとんどなく、高校時代の同級生と未だに結婚していて...、つまり若い頃から結婚をしていると何かと家庭外における女性との接触には慎重になるきらいがあり...、というか後々面倒なことになりがちで、そのややこしい面倒ごとを考えたら、多少の禁欲生活の方がまだましと考える性格だったのだろう(何だかもてなかったことの言い訳みたいだなあ)。要するに、多くの女性と寝たいという強烈な欲求に支配されずにすんできたのだ。実に、ありがたいことである。

そんなことを話していたら「それはね、あなたが面倒くさがり屋で、マメじゃないからですよ」と、その達人に言われてしまった。達人は、ある有名なスポーツ選手と相手にした女性の数を競い合い、艶福家で名を知られたそのスポーツ選手に「まいりました」と言わせた伝説を保有しているという。「すると、昔、評判になった松方弘樹の千人斬りをかる〜く越えているわけですね」と、少し下品かなと思いながら僕が口にすると、達人は何も言わずにうなずいた。

●漁色家を主人公にした小説や映画は多く存在している

世界の歴史の中で、艶福家として有名なのはカサノバである。もっとも、その回想録の中に出てくる女性の数は200人足らずだともいうから(読んだことがないので正確ではないけれど)、松方弘樹や前述の達人の方が数では勝っているのかもしれない。しかし、女性たちとの交遊を詳細に書き残した「カサノバ回想録」によって彼は有名になり、昔から映画の主人公として起用されている。

最近、公開されたのはラッセ・ハルストレムが監督し、ヒース・レジャーがカサノバを演じた「カサノバ」(2005年)である。その他にもいろいろあって、フェデリコ・フェリーニ監督でドナルド・サザーランドが主演した「カサノバ」(1976年)が最も有名だろう。調べてみたらアラン・ドロンが晩年のカサノバを演じた「カサノヴァ最後の恋」(1992年)やマルチェロ・マストロヤンニ主演の「カサノバ'70」(1964年)というものまであった。

ドナルド・サザーランドが演じたカサノバは、異様なメーキャップであまりいい男ではなかったが、アラン・ドロンやマルチェロ・マストロヤンニなど一世を風靡した美男俳優が演じているのは、カサノバという人物に対して人々が抱くイメージを優先したからだろう。実際のカサノバがドロンやマストロヤンニのような美男子だったかどうかはわからない。どちらにしろ「カサノバ」というタイトルが付く映画には僕は興味がわかなかったから、どれも見てはいない。

しかし、漁色家(古い言い方をしてしまうけれど、プレイボーイといった軽い言い方が嫌いなのです)を主人公にした小説や映画は多く存在している。潜在的に、男はより多くの女性とセックスしたがるからだろうか。歴史的に見ても専制君主はまずハーレムを作る。洋の東西を問わない。徳川将軍には数千人の美女がかしずく大奥があり、ローマ皇帝カリギュラには淫虐を極めたハーレムがあり、始皇帝には美女と宦官たちが徘徊する後宮があった。最近ではカルト宗教のグルが、規模はそう大きくはなかったらしいが、身の周りに美女を配していたという。

支配者の役目は後継者を作ることだからと釈明されることがあるが、それだけではない。権力を手にした者は、自分の欲望を解き放つ。より多くの美女と寝ようとする。下半身は別人格...とよく言われるが、歴史的に賢帝と言われる人や名君の誉れ高い人も、意外と下半身は別だったりする。中には禁欲的な人もいたのだろうけど、何でもできる立場になるとやはり人は色欲を解放するのかもしれない。

これは仮定の話なので僕にも予想がつかないのだが、僕が絶対的な権力を持ったら、もしかしたらハーレムを作るのだろうか。しかし、どうもそんな気がしない。人を殺してもいいとなったら、あなたは人を殺すかと問われれば、僕は絶対に殺さないと答える。僕にとっては、それと同じ設問のような気がするのだ。僕は何も欲望を抑えてきたわけではないし、禁欲的に生きてきたわけでもない。しかし、すべてが許されるようになったとしても、僕は僕の生き方しかできないだろうと思う。

●心の空隙を埋めるために多くの女を求めているのかもしれない

漁色家の主人公で何となく奥深さを感じさせたのは、「存在の耐えられない軽さ」(1988年)のダニエル・デイ・ルイスが演じた若く有能な医者である。「存在の耐えられない長さ」などと揶揄されるくらい長かった(173分)けど、その哲学的なタイトルと共に何となく奥深いものを感じる作品で、そのせいか主人公の青年医師が女漁りをしても単なる女好きには見えなかった。それに1968年夏、民主化が進んでいたチェコにソ連軍が侵攻した「チェコ動乱」をクライマックスにもってきたため、政治的メッセージを感じる作品でもあった。

ダニエル・デイ・ルイスが演じた医師は、何かを強く希求しているように見えた。しかし、求め続けても得られないために、その心の空隙を埋めようとより多くの女を求めているのかもしれない...。そんなことを感じさせる深さがあったのだ。その主人公に対して深く関わる女性はふたり。純情なジュリエット・ビノシュ(思えば彼女はこの作品で一般的に有名になった)と、酸いも甘いもかみわけた姉御タイプのレナ・オリン(彼女はこの作品以降そんな役ばかりやっている)である。

この映画は、原作がミラン・クンデラの代表作である。僕はある人の薦めで一時期、クンデラを集中して読んだことがあるが、何となくとらえどころのない作家だった。ペシミスティックな作家で、この「存在の耐えられない軽さ」の主人公トマシュも虚無的な陰影を与えられていた。医師という人の生死を司る職業が、彼をより虚無的にしているのだ。だから、映画でダニエル・デイ・ルイスが次々に女性を脱がしていても、何となく性的欲望を充たすためだけの行為とは見えなかったのかもしれない。

性的欲望を充たすためだけに、女性とみれば相手かまわず寝たいという欲望を、オーラのように全身で発している漁色家が出てきたのは、「それでも恋するバルセロナ」(2008年)である。演じたのはハビエル・バルデムである。ダニエル・デイ・ルイスがインテリの雰囲気を漂わせているのに対し、「人生楽しまなきゃ損や」的ラテン系のバルデムは男から見るとギラギラし過ぎている。それが、女性から見ると「セクシー」に見えるらしい。

バルデムが演じたのは、スペインの女たらしの芸術家である。芸術家らしく束縛もなく、自分の欲望に忠実に生きている。彼は自由であり、一般的なモラルに縛られることがない。世間も寛容である。だから、会うとすぐに女性を口説くし、ふたりでやってきた若い女性観光客の両方と寝ようとする。バルデムは漁色家の役がよく似合う。ノーベル賞作家ガルシア=マルケスの大作を映画化した「コレラの時代の愛」(2007年)では、初めて愛した女性を失ったために次々に新しい女性と寝るようになった男を演じた。

漁色家の主人公を設定した映画や小説の釈明(?)として、彼が若い頃に燃えるような恋をして、やがて深く傷つく出来事が起こり、その女性の面影を求めて次々に新しい女と寝ているのだという物語のパターンがある。「コレラの時代の愛」の主人公は、他の男と結婚した女を待ち続け(その間、次々に女を作りながらだけど)、その男が死ぬと「50年待っていたよ」と言って女の前に現れるのである。

最近では、ペドロ・アルモドバル監督の「抱擁のかけら」(2009年)がそうだった。いきなり中年男のセックスシーンがあり、その後の会話から相手は道ばたで知り合い部屋まで送ってくれた若い女であることがわかる。なぜ送ってくれたかというと、男の目が見えないからだ。自分のハンデをナンパの手段にする(?)漁色家として主人公は登場し、やがて彼がかつては映画監督であったことがわかり、なぜ目が見えなくなったのかという謎が解き明かされる。彼は、富豪の愛人の美女(ペネロペ・クルス)と恋に落ち、その女の面影を追い続けて生きてきたのだ。

先ほど僕は「存在の耐えられない軽さ」の主人公から何かを強く希求している印象を受けたと書いたが、漁色家は誰もが「見果てぬ夢」を追っているのかもしれない。そして、それは求めても決して得られないものなのだ。しかし、彼らは追い続ける。なぜなら、決して充たされることがないから...。しかし、彼らにとってはその対象が未知の女性なのだが、多かれ少なかれ誰もが「求めても得られない何か」を求め続けているのではあるまいか。

●トリュフォー作品には女性への恐怖が描かれている?

映画監督のフランソワ・トリュフォーは、ものの本によると漁色家だったらしい。「大人は判ってくれない」(1958年)以来、自伝映画的な趣のあるトリュフォー作品だが、「恋愛日記」(1977年)などは彼自身の女性遍歴の告白だと指摘する人までいる。しかし、僕は以前からトリュフォー作品には、女性への恐怖が描かれているのではないかと思っている。なぜなら、トリュフォー作品では女は殺人者であり、男は女に殺される存在なのである。

早世したフランソワーズ・ドルレアック(ドヌーブのお姉さんですね)が主演した「柔らかい肌」(1961年)の主人公は、最後にレストランでヒロインに猟銃で射殺されるし、「黒衣の花嫁」(1967年)のジャンヌ・モローも「暗くなるまでこの恋を」(1969年)のドヌーブも男を誘惑し殺す女たちだ。「隣の女」(1981年)のファニー・アルダンは、ジェラール・ドパルデューを抱擁しながら拳銃で彼の頭を撃ち抜く。ここにはトリュフォーの屈折した願望もあるのかもしれないけれど、僕は嫉妬した女に射殺される怖れの存在を感じてしまう。

漁色家にとっての最大の敵は、女性の嫉妬である。女性の嫉妬という恐怖がなければ、おそらくもっと多くの男が漁色家になっているだろう。「浮気もできない恐妻家」とは侮蔑的に使われる言葉だが、そういう人はけっこう多い。実際、僕も漁色家から見るとそういう存在だろうし、「高校時代の同級生と結婚していること」を驚かれたり呆れられたりした経験は多い。しかし、この際、はっきり言っておきたい。僕は決してカミサンの嫉妬が怖くて、女性の数に挑戦しようとしなかったのではない。それは、くどいようだが僕の生き方なのだ(どうも、もてなかったことの言い訳じみてしまうけど)。

僕が好きになれないのは寝た女性の数を誇る男であり、寝た女性のことを具体的に自慢する男である。「○○と寝たぜ」と得意そうに言う男たちである。モテモテ映画監督ロジェ・バディムは、ブリジッド・バルドーとジェーン・フォンダと結婚し、カトリーヌ・ドヌーヴには子供を産ませているが、彼女たちの名を冠した回想録を出版し、エリア・カザンは自伝の中でマリリン・モンローを始め寝た女優の名を挙げる。彼らでも適わないのがカーク・ダグラスだ。彼の自伝は女優たちとの性遍歴に充ちている。

前述の「その道の達人」の話が面白かったのは、「あんなゴージャスな美女と...」という自慢話的な要素がなかったからだし、達人が徹底的なフェミニストだったからだ。彼はひとりの女性の前では、他の女性の存在をうかがわせるせるようなことは一切しなかった。慎重に隠し(その具体的なテクニックが面白かった)、相手に「私ひとりだけ」と思わせる。それは、相手が気付く気付かないの問題ではなく、女性に対する姿勢の問題なのである。

つまり、女性に敬意を払うことだ。僕はすべての人に敬意を持って接したいと心がけているが、ついつい感情的になり相手を侮辱したり傷付ける。達人に感心したのは、初めて会った僕に敬意を払ってくれたことだった。達人と僕は数人を交えて2時間も話していたのだが、彼は僕の正体を知らず別れ際に名刺交換をした。彼は正体不明の男に深い敬意を示してくれたのだ。達人はすべての人に敬意を払っており、女性に対してはより深い敬意を抱いて接しているのに違いない。そうでなければ、(僕からすれば)そんな天文学的数字が達成できるわけはないのだ。

女性への敬意と言えば、増村保造監督の「好色一代男」(1961年)の世之介が、終始主張し続けるのは「おなごは大事にせなあきまへん」である。ヨーロッパにカサノバがいるなら、日本には(架空の人物ではあるけれど)世之介がいる。僕は吉行淳之介の現代語訳でしか読んだことがないが、主人公は徹底した女性崇拝主義者である。その世之介を市川雷蔵が演じ、雷蔵の喜劇的演技が楽しめる傑作になった。世之介も理想主義者であり、「見果てぬ夢」を求め続ける男だ。充たされない何かに駆られて、未知のものを追い求めている。

女性を求めるか、あるいは別の何かを求めるか。結局、それは個人的な価値観であり、個人的な美学であり、生き方のスタイルだ。しかし、数を求めれば果てしがない。僕のささやかな女性観を言えば、異性に対しては数より質の深さを求めるところがある。ひとりの女性をずっと愛し続けていられたら、死ぬときにその人に看取られたら幸せだと思うが、それはそれで「見果てぬ夢」なのかもしれない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

部屋にカレンダーを吊すことはないのだが、今年はルソーの絵のカレンダーをもらったのでベッドの足下の方の壁に掛けている。目覚めると真っ先にルソーの絵が見える。表紙は自画像。1-2月は「カーニヴァルの晩」。吉田秀和さんの本では表紙に使っていた。有名な「眠るジプシー」は5月まで待たねばならない。ただ、寝起きにルソーの絵を見ても「さあ、今日もがんばるぞ」という気分にはなりにくい。

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