映画と夜と音楽と...[497]人の夢を笑うな/十河 進

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〈恋人たちの曲・悲愴/マーラー/オーケストラ/愛を弾く女〉

●世界には三大ヴァイオリン協奏曲がある

「代表的なヴァイオリン協奏曲は?」と訊かれると、やはり「メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲」と答える。僕はLPレコードでアイザック・スターン演奏のものを持っている。ユージン・オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団と共演した、1958年録音のものだ。

そのLPレコードには、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲も一緒に入っていた。その後、LPレコードを聴かなくなってアイザック・スターン演奏のCDを買い直したときも、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲がカップリングで入ってきた。どちらも超がつく有名曲である。

一時期、そのCDをよく聴いていた。「メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調・作品64」は小学校の授業で聴かされたものだが、「チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調・作品35」もなじみの深い曲だった。チャイコフスキーは交響曲「悲愴」が有名だが、バレエ曲「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「胡桃割り人形」なども作曲していて、人気のある音楽家である。

そのチャイコフスキーの生涯を描いたのが、「恋人たちの曲/悲愴」(1970年)だった。監督は、僕が密かにヘンタイ監督と名付けたケン・ラッセルである。ケン・ラッセルが描く主人公は、みんなどこか狂っている感じがする。異常であり、エキセントリックだ。そして、性的にはホモ・セクシャルだったり、SM嗜好だったりする。その性的な部分ばかり強調される傾向が、ケン・ラッセル映画にはある。



「恋人たちの曲/悲愴」でチャイコフスキーを演じたのはリチャード・チェンバレンで、70年前後にはそれなりに人気のあった人だ。主演作も何本かあった。あまりチャイコフスキーには似ていなかったが、ケン・ラッセル好みの過剰に感情を爆発させる演技をさせられ、彼の代表作になった。彼が演じたチャイコフスキーは、ホモ・セクシャルであり、狂気へと向かう芸術家だった。

「恋人たちの曲/悲愴」で実際に音楽を演奏した指揮者はアンドレ・プレヴィンである。多才な人でクラシック界では一流の指揮者であり、映画音楽も数多く担当している。僕は昔、アンドレ・プレヴィンはジャズ・ピアニストだと思っていた。彼のジャズ・トリオのアルバム「ウエスト・サイド・ストーリー」と「キングサイズ」を持っている。ジャズ・アレンジで「ウエスト・サイド・ストーリー」の名曲の数々を聴くのは楽しい。

アンドレ・プレヴィンはユダヤ系ロシア人の家系だという。だとすれば、チャイコフスキーの音楽を演奏するのにはふさわしい。もっとも、そのチャイコフスキーは、故国ロシアでどういう評価をされているのだろう。ロシアの代表的な作曲家なのに、ソ連時代の評価は低かった。ただし、ソ連時代もボリショイ・バレエ団は有名だったから、「白鳥の湖」や「眠れる森の美女」などは何度も上演されたに違いない。しかし、政治体制によって芸術家の評価が上下するのは困ったものだと思う。

ちなみに、ケン・ラッセルは音楽家を主人公にするのが好きなのか、「マーラー」(1974年)も撮っている。クラシックにはそれほど詳しくないが、僕はマーラーが好きで交響曲はよく聴く。中でもレナード・バーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮した交響曲第二番「復活」をよく聴いたが、「こんな音楽を作る人は、きっとネクラなんだろうなあ」と思っていた。「マーラー」を見ると、そのネクラな作曲家の精神が何となく理解できた気がした。

●クライマックスの盛り上がりが楽しく幸せな気分になる映画

クライマックスシーンでチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」が鳴り響くのは、昨年公開された「オーケストラ」(2009年)という映画である。クライマックスに至るまで少し冗長になる部分はあったけれど、そのクライマックスの盛り上がりは楽しくて、幸せな気分になる映画だった。あんな風に「ヴァイオリン協奏曲」が使われると、また聴きたくなって久しぶりにCDをかけた。そうすると、映像が浮かんでくる。

タイトルバックはオーケストラの演奏シーンだ。やがて、それが練習風景なのだとわかる。指揮者が「そこで、ゆっくりと...」などと目を閉じ、音楽に身をゆだねながら指示を出す。その瞬間、けたたましい電子音で「ウィリアム・テル序曲」が響き渡る。携帯電話の呼び出し音だ。指揮をしていた男が現実に戻り、あわてて携帯電話の受信ボタンを押す。男は想像の中でタクトを振っていたのだ。

そこはボリショイ管弦楽団のホールで、オーケストラの団員たちがリハーサルをしている。それを携帯電話の呼び出し音で中断され、指揮者と団員たちがとがめる目で客席の奥にいる男を睨む。男は卑屈に背を丸めてホールを出ながら、「ここには電話するなと言っただろ」と口にする。居丈高な態度の支配人らしき男がやってきて、男を叱りつける。「おまえは、とっくに指揮者じゃないんだ」と...。

男はアンドレイ・フィリポフ。かつて天才と呼ばれた指揮者である。だが、30年前に何か事件があって指揮者の座を追われ、ホールの掃除夫をやっているらしい。30年前と言えば、1980年前後のことである。ソ連がアフガニスタンに侵攻し、東西冷戦の緊張が高まっていた時期だ。1980年に開催されたモスクワ・オリンピックには、アメリカを始めとする西側諸国の多くが不参加だった。日本もアメリカに追随してボイコットした。

そんな東西対立が高まっていた頃、アンドレイは反国家的行為によって共産党政府に睨まれ、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏の途中で拘束され、指揮者の地位を追われたのだ。オーケストラの団員たちも同じだった。だから、アンドレイを恨んでいる者もいるし、英雄的行為を賛美する者もいる。しかし、誰もが音楽家の道を断たれ、不本意な仕事に従事し、かつての夢を失い、虚しく日々を過ごしている。

きっかけは、ボリショイ管弦楽団支配人室の掃除を命じられたアンドレイが、支配人宛に届いた一枚のファックスを見たことだった。アンドレイは内容を読み、それが届いた履歴を消去し、友人のサーシャに相談する。サーシャはチェロ奏者だったが、オーケストラを追われ今は救急車の運転手だ。ユダヤ系ロシア人サーシャの家族はイスラエルに移住したが、サーシャは「ここが祖国だ」と移住を拒んだ。彼は定期的に家族に送金をしているけれど、家族を失った淋しさに耐えられない。

ファックスの内容は、パリのシャトレ座の支配人から二週間後に演奏をお願いできないか、というものだった。シャトレ座は別のオーケストラに断られ、サイトで確認したところ、ボリショイ管弦楽団のスケジュールがあいていることから、急遽、依頼してきたのである。それを知り、アンドレイはとんでもないことを思いつく。自分とかつての仲間たちで、シャトレ座でチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏しようと企むのだ。

それは、中断された夢の復活である。夢を断たれ、不遇な仕事に追いやられた男の30年目のリベンジ。彼は失意の底に沈み、酒に溺れたこともある。想像の中では、毎日のようにタクトを振り続けてきた。それを現実のものにしようとする。彼はサーシャと一緒に、演奏を中断させたボリショイ管弦楽団のマネージャーであり支配人だったガヴリーロフを訪ねる。彼はソ連が崩壊した今もゴリゴリの共産党員だが、有能な交渉役でもあった。

●メラニー・ロランの悲しみを抱くほどの美しさ

ガヴリーロフに再会した瞬間、サーシャはつかみかかる。ガヴリーロフによって、アンドレイと団員たちは音楽家の職を追われたのだ。妻子を失った哀しみがサーシャを駆り立てる。だが、アンドレイは彼の交渉力を高く評価し、ファックスを見せて「俺たちをパリに連れていけ」と言う。ガヴリーロフもパリに対する何らかの思いがあるのか(それは後に明らかになる)、彼らの企みに同調しシャトレ座の支配人と交渉し、アンドレイ・フィリポフとそのオーケストラの出演を了承させる。

「演目は?」と訊かれたアンドレイは「チャイコフスキー、ヴァイオリン協奏曲」と答え、ヴァイオリンのソリストとして人気絶頂のアンヌ=マリー・ジャケを指名する。その夜、アンドレイは隠し持っていたアンヌ=マリー・ジャケのすべてのCDを取り出し、愛おしそうに眺める。

そこには若く美しい女性が映っている。長く艶やかな金髪、透き通るようなグリーンの瞳、意志的に結ばれた唇、美しい鼻筋、スレンダーな肢体に長い脚...、アンヌ=マリー・ジャケの美しさがこの映画に花を添える。いや、彼女の悲しみを抱くほどの美しさの存在が、この映画のクライマックスをさらに盛り上げる。

アンヌ=マリー・ジャケを演じたのは、メラニー・ロランだった。「愛を弾く女」(1992年)のエマニュエル・ベアールのように、女性ヴァイオリニストの美しさは首筋にある。顎の下にヴァイオリンをはさみ、左手で弦を押さえ、右手で持った弓をしなやかに自在に操る。上体を音楽に合わせて優雅に揺らせながら、彼女たちは美しい曲を奏でるのだ。

僕が初めてメラニー・ロランを見たのは「PARIS」(2008年)だった。パリに暮らす様々な人々の群像劇だが、中心にいるのはジュリエット・ビノシュだった。彼女の病弱な弟が窓越しに見かけて恋に落ちる女学生を、ロラニー・ロランが演じていた。彼女の名前はレティシア。どことなくジョアン・シムカスを連想させる容姿で、大きな瞳でじっと見つめてくる視線が印象に残った。

クエンティン・タランティーノ監督の「イングロリアス・バスターズ」(2009年)では、家族を惨殺され復讐に燃えるユダヤ人少女を演じ、意志的な瞳が僕の記憶に刻まれた。「目力」という言葉が一般的になったけれど、それを感じる女優だ。「オーケストラ」でも、彼女の視線の強さに目を奪われる。

なぜ、アンドレイがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲にこだわるのか、なぜ彼女を指名したのか、そのことが明らかになったとき、何かに憑かれたようにヴァイオリンを弾くメラニー・ロランの姿が、大きく強い光を放つ瞳が、意味を持つのである。

●国家権力によって中断された夢を復活させようとする

「オーケストラ」は、クリント・イーストウッドの「スペースカウボーイ」(2000年)と同じストーリーパターンだ。中断された夢、甦る夢、夢の復活を描いている。老宇宙飛行士たちの宇宙へいく夢は40年ぶりに叶うのだが、「オーケストラ」は30年ぶりに叶う夢...を描いている。

国家権力によって中断された夢、それを復活させようとする老いた男たち、彼らに共感する仲間、新しい夢を実現しようとする若い力、それらが渾然一体となってクライマックスの演奏シーンに流れ込む。すべてが、そのシーンに集約され、解決される。おとぎ話ではあるけれど、その幸福感は素晴らしい。

しかし、老宇宙飛行士たちは4人で、イーストウッドは昔の仲間たち3人に会いにいけばすんだのだが、「オーケストラ」では全員で55人が必要だ。それに、共演するヴァイオリニストを加えると56人という大所帯。ひとりひとりを描いていたら、何時間になるかわからない。だから「オーケストラ」は主要な仲間たちとのエピソードを描き、あまり詳細なやりとりなしで総勢56人はメインの舞台であるパリへ向かうのである。

彼らは30年間、演奏をしていない。それなのに誰もリハーサルにこない。アンヌ=マリー・ジャケは呆れるが、サーシャがほんの少し弾いたチェロの旋律を聴いて彼女の表情が一変する。尊敬するまなざしを向ける。「もっと弾いて」と口にする。どんなにブランクがあっても、彼らの音楽家としての実力は衰えていない。権力は彼らを音楽界から追放できたかもしれないが、彼らから音楽を奪うことはできなかったのだ。

コンサート前夜、アンドレイとアンヌ=マリー・ジャケはレストランで食事をし、アンドレイは30年前の出来事を語り出す。30年前、アンドレイと彼が鍛えたオーケストラ、それに共演者の女性ヴァイオリニストがいたことを...。ユダヤ系の団員たちをかばったために、音楽の頂点を目指して演奏していたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の途中で、「人民の敵」として中断されたことを...。

だが、酔って深い悔恨と共に語られるアンドレイの30年前の物語を聞いたアンヌ=マリー・ジャケは、「私は身代わりなの?」という言葉を残して席を立つ。そのときの彼女の言葉が辛辣だ。それは、まるで60近くになっても未だに夢見がちで、過去を振り返ってばかりいる僕自身に向けられた言葉のように思えた。

──過去は戻らない。

そう、過去は取り戻せない。失われたものは二度と戻ってこない。だが、何と多くの人が過去を取り戻そうとしていることか。世界中で物語られてきたすべてのことは、過去を取り戻そうとする試みのように思える。古今東西のすべての小説、映画、それらは「とき」を留めようとする行為なのではあるまいか。過ぎ去る「とき」、一瞬前の「とき」さえ二度と戻ることはない。過ぎ去った「とき」を懐かしむ、悔やむ、惜しむ、哀切さに浸る...。どんな想いを抱こうとも、失われたものは永遠に帰ってはこないのだ。

だが、過去の夢を甦らせるのではなく、新しい夢を紡ぐことはできる。中断された夢を復活させるのでなく、新しい夢に向かって生きていくこと。そのための努力は、現在の生き方だ。進行形の人生だ。過去を懐かしみ、振り返っているのではない。だからサーシャは、再びアルコールに溺れアンヌ=マリーの前で醜態を晒したアンドレイに言う。

──また、ブレジネフの勝ちだ。

1980年、ソヴィエト連邦最高責任者であったブレジネフ書記長。アフガニスタンに侵攻し、ユダヤ人を排斥した権力者。アンドレイたちを追放し、失意の人生を送らせた男。「おまえを負け犬にしたブレジネフに、また勝たせるのか、それでいいのか」と、サーシャは言いたかったに違いない。様々な障害や、人々のすれ違う想いを抱えたまま、彼らのコンサート(原題は「コンサート」)は、無事に幕を開けるのか。

●過去を甦らせようとするのは他人から見れば滑稽なこと

過去を甦らせようとするのは、他人から見れば滑稽なことなのかもしれない。その滑稽さを担うのが、心の底から旧体制の復活を願っているイワン・ガヴリーロフである。夢の復活を願う戯画化された男である。彼はソ連の体制を信じ、国家に忠実な男だった。

30年前、アンドレイたちの演奏を中断させ、タクトをへし折り「人民の敵」と罵ったのは彼なのだ。ソ連が崩壊した現在も共産党本部につめて、毎週、「真に公平な社会を実現する共産主義体制の復活」を願う集会を開催している。だが、そこに集まっているのは、謝礼金を目的としたサクラばかりである。

そんなガヴリーロフにアンドレイがオーケストラの交渉役を依頼してくる。彼自身、パリで甦らせたい夢がある。だから、ガヴリーロフはその話に乗ってパリへいくことにする。そのとき、彼は「トゥル・ノルマン」というレストランでの夕食を、招聘側への条件として強く要求する。

その店はかつてフランス共産党員たちのいきつけの店で、ソ連共産党の連絡役としてパリにいた若きガヴリーロフも通い、コミュニストの同志たちと論争に明け暮れたのだった。だが、その店はすでになくなっており、招聘側は仕方なく現在ある店の名を一時的に「トゥル・ノルマン」にしてもらうことで条件を充たす。

ところが、オーケストラのメンバーは「元KGBとは一緒に食事したくない」と拒否し、ガヴリーロフはひとりで「トゥル・ノルマン」にいくことになる。店の様子は一変し、出てきたレストランのオーナーはアラブ系である。メニューもアラブ料理ばかりで、オーナーはサービスでベリーダンサーにダンスを踊らせる。

目の前で揺れるダンサーのへそを見つめながら、ガヴリーロフは唖然とする。苦虫を噛みつぶしたような顔だ。もちろん、そこは笑う場面(この映画は基本的にコメディである)であるが、僕には妙な悲しさが募った。ガヴリーロフに感情移入してしまったのかもしれない。

演奏が始まる同じ夜、ガヴリーロフの本当の目的が明らかになる。それを知ったアンドレイが「そんなもののために、パリにきたのか」と罵ると、「夢を甦らせにきた。きみにわかるか」と怒鳴り返す。その人の夢は、その人だけのもの。誰にも理解はできない。どんなにつまらなく見えても、アンドレイの夢が高尚でガヴリーロフの夢が卑小だとは誰にも言えない。そこに、何の違いがある?

もちろん多くの人を巻き込み、共感を呼ぶ夢もある。だが、結局、夢はその人の価値観の中から生まれる。完璧なネズミトリを完成させることが夢だという人がいるかもしれない。ガンダムのフィギュアのコンプリートコレクションが夢だという人がいるかもしれない。だから、どんな夢であっても、その人が本気で実現しようとしているのなら、人の夢を笑うな。否定するな。夢を語ることは人から見れば、ときに滑稽さを帯びることを自覚してさえいれば、それでいいじゃないか。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

「春三月 縊り残され花に舞う」と詠んだのは大杉栄でした。幸徳秋水など大逆事件で死刑になった人々を詠ったものです。最近、評判のノンフィクションに堺利彦と売文社を取材した「パンとペン」があります。未読ですが一番気になっている本です。それにしても、この時期は何だか憂鬱になります。

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