映画と夜と音楽と...[501]新しい人生は始められるか?/十河 進

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〈帰らざる日々/卒業/真夜中のカーボーイ/ハワーズ・エンド/日の名残り/新しい人生のはじめかた〉

●新しい人生を始めるには偶発的に起きることを願っても無駄

今の状況でこういう言い方は差し障りがあるかもしれないが、若い頃、「今ここで大地震か何かが起きて今までのすべてが崩壊し、まったく別の人生が始まればいい」と空想することがあった。人生のリセットである(当時は、そんな言葉は存在していなかったけれど)。誰もが一度や二度は望んだことがあるだろう。1978年の夏、「帰らざる日々」の中で浅野真弓が同じことを言ったとき、僕はひどく共感したことを憶えている。

主人公(永島敏行)は作家志望の青年。キャバレーのボーイをしながら小説を書き、同僚のホステス(根岸とし江)と同棲している。ある日、父親が危篤だと連絡を受け、新宿駅から故郷の飯田へと向かう列車に乗る。列車が発車し、その車両を正面から望遠レンズの距離感を詰めた画面で捉え、アリスが「最後の電話を握りしめて〜」と歌う「帰らざる日々」が流れる。

帰郷する列車の中で、主人公はほんの6年前の高校時代を回想する。不良になりきれない彼は、入り浸っている喫茶店の年上のウェイトレス(浅野真弓)に憧れている。仲間が「マドンナ」と呼ぶ美人だが、彼女は喫茶店の妻子あるオーナー(中尾彬)と不倫関係にある。そんな袋小路のような男女の仲に苛立っているのだが、男とは別れられない。



ある日、彼女は自分に憧れる高校生(主人公)から「公園で待っている」という手紙を受け取り、戸惑いながらも自分に憧れる年下の少年に対する愛しさも湧き起こったのだろう、指定された町の中心地にある公園へ出かけるが、それは自分の従兄弟(江藤潤)が勝手に気をまわしてふたりを逢わせる企みだったと知る。

その公園のベンチに主人公と並んで腰かけた浅野真弓が口にする言葉が、「今ここで大地震か何かが起こって、ぜーんぶなくなってしまえばいい」というものだった。その気持ちは僕にもよくわかった。漠然とした気分だったが、当時、そんな風に思うことは多かった。具体的な不満があるわけではない。何となく、今まで生きてきたことをゼロにして、新しく何かが始まれば...という期待だったのかもしれない。

大学を卒業して3年が過ぎようとしていた。結婚をして2年になっていた。会社ではまだ新人扱いだったし、付き合いが長かっただけにカミサンとは10年近くも一緒にいるような気分だった。毎日が同じように流れていき、自分の夢や希望がしぼんでいくのが見えた。休日は本を読み、応募のあてもない下手な小説を書くだけだった。その頃は、酒もほとんど飲まなかった。

あれから30数年が過ぎ、僕はリタイアさえ現実のものとして考える年令になった。27歳の僕はもうすぐ還暦を迎える。あの頃、そんな自分を想像することさえできなかったが、現実にあの後の長い長い年月を生きてきたのだ。その間、様々なことがあったとしか言いようがない。思いがけないこともあったし、やっぱりこうなるのかとため息をつくこともあった。

人生は予想できないが、起こってしまったことは「あのとき、ああなるようになっていたのだなあ」と、妙に納得できるものだと知った。人は諦めることに慣れるのだろう。昂揚と失意、期待と挫折、そんなことの繰り返しだった。充実したときもあったし、空虚な想いに捉われ、虚しさにふさぎ込むこともあった。結局、「人生はままならない」という一般的結論に到達した。

そして、僕はあの震災に遭った。もちろん初めての体験だ。その後、東北を中心とした大きな被害を知るにつれ、現実の大地震の結果に震撼した。多くの死者、それまでの人生のすべてを失った人、それらは現実のものとして僕の目の前に立ち上がってきた。今、大地震が起こっても生き残った人たちは生き続ける他ないし、人生はリセットなどできないのだと僕は改めて思う。

そして、新しい人生を始めるには、何かが偶発的に起きることを願うのではなく、自分自身で切り開いていくしかないのだと、身に沁みて実感した。

●「ラストチャンス」から新しい人生は始められるか

ハーヴェイはCM音楽ばかり作ってきた作曲家だった。しかし、もうセンスが古いと思われ、仕事は減っている。今やっている仕事もクビになりそうだ。かつて結婚し娘もいたが、離婚し今はひとり暮らしである。別れた妻は金持ちの男と再婚し、娘もその義父と仲良く暮らしているらしい。

そんなハーヴェイに娘の結婚式の案内が届く。ロンドンで結婚式を挙げるという。彼は長い付き合いのCMプロデューサーのアドバイスも聞かず、娘の結婚式に出席するためにロンドンへ向かう。そのハーヴェイの背中に向かってプロデューサーが言う「ラストチャンス・ハーヴェイ」という言葉が映画のタイトルになっていた。

「最後のチャンスだぞ」という言い方は、プロデューサーの脅し、あるいは最後通牒である。別な日本語に訳せば、「これが最後」であり「後がない」ということだ。だから、様々なことがあり、結局、ロンドンをさまようことになるハーヴェイの携帯電話にプロデューサーは「あんたはクビになった」と連絡してくるのだ。

そんな原題を持つ映画に日本の映画会社は「新しい人生のはじめかた」(2008年)という邦題を付けた。「ラストチャンス・ハーヴェイ」とは、まったく逆のニュアンスを持つタイトルだ。「新しい人生のはじめかた」というタイトルからは、未来に向かう積極的な気分が湧き起こってくる。「新しい人生をはじめよう」と呼びかけられている気がする。

だが、実際は初老の男の苦い物語だ。結婚式の前夜の集まりで、ハーヴェイは疎外感しか感じない。娘には「教会のバージンロードは義父と歩く」と告げられるし、妻が再婚した相手との財力の差を見せつけられる。妻と再婚相手と娘の間には、ハーヴェイが入れない壁のようなものがある。慣れないロンドンで親しい友もおらず、彼は沈み込むしかない。

そんなハーヴェイが出会うのは、やはり疎外感を感じながら生きている中年女のケイト(エマ・トンプソン)である。彼女は偏狭な母親と暮らしているが、その母親を疎んじながらも決別はできない。それが結婚もせずに40半ばを過ぎてしまった原因かもしれないが、彼女の性格自体が招いた結果だと自分でもわかっているのだ。

友人のカップルが彼女を心配して男友達を紹介してくれるのだが、人付き合いの下手な彼女は相手の調子に合わせることができない。静かに本を読むのが好きなケイトは、軽薄に盛り上がることができないのだ。相手の男はレストランで知り合いの女に出逢い調子よく会話をして盛り上がり、化粧を直して戻ったケイトの居場所はなくなっている。

そんな状況でも、ケイトは肩をすくめて相手に悟られないように姿を消すだけだ。自分が場違いな人間だと自覚しているのである。それに今更恋愛なんてしたくない、傷つくだけだと思っている。言い聞かせている。しかし、それは諦め切れていない自分の心をなだめているだけなのだと、心の隅では感じている。自己を客観的に観察し、分析できる深い知性が彼女にはある。

●アメリカの名優ダスティン・ホフマンとイギリスの名女優エマ・トンプソン

アメリカを代表する名優ダスティン・ホフマンとイギリスの名女優エマ・トンプソンの共演となると、それなりに深いシナリオを準備しなければならないと思うが、「新しい人生のはじめかた」は軽快さを感じさせる大人のラブストーリーになっていた。ふたりとも深刻ぶらないし、人生の経験の深さを前面に出すわけでもない。初老と呼ばれる歳になっても悟れるわけではないし、何かが始まれば青春時代と同じようにドキドキもするのだ。

僕の世代はダスティン・ホフマンを見ると、「卒業」(1967年)と「真夜中のカーボーイ」(1969年)を思い浮かべる。僕は「卒業」は「いい気なモンだ」という感じで批判的に見たが、「真夜中のカーボーイ」のラッツオ役のダスティン・ホフマンには驚き、強い衝撃を受けた。何て凄い俳優だろう、と目を見張った。

「真夜中のカーボーイ」のラッツオはフロリダへ向かう長距離バスの中で死んでいったが、「卒業」のベンは結婚式から花嫁をさらってバスに乗った。大塚博堂は「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」の中で、「ダスティン・ホフマンになりたかったよ」と他の男と結婚する恋人に向けて歌ったが、僕はどうしても「卒業」のラストシーンをハッピーエンドとは思えないのだ。

「新しい人生のはじめかた」のダスティン・ホフマンがベンの数10年後の姿という気がするのは、僕が「卒業」のふたりのその後をひどく心配していたからかもしれない。ベンとエレインは、どこへいったのか。彼らは、幸せになったのか。エレインは、母親と寝ていたベンを許したのか。一時の情熱は冷め、ふたりは別れてしまうのではないのか。

そんな僕の危惧のひとつの結果を、「新しい人生のはじめかた」のハーベェイは見せてくれる。彼は離婚し、孤独に生きている。仕事はそこそこ順調にやってきたが、最近はいき詰まり始めている。才能の枯渇や年令を感じることも多い。経済的には苦労はしてこなかったが、といって老後に不安がないわけではない。しかし、老いるには早い。中途半端な歳だ。

彼は期待を外され、拗ねたような気分で娘の披露宴には出ないことにする。しかし、知り合ったケイトに「娘さんの披露宴には出なきゃダメ」と叱咤され、ケイトを同伴者として出席する。ケイトは知的で落ち着いた会話ができるハーヴェイに惹かれ始めているのか、パーティに出るためのドレス選びではしゃぐ。

しわの目立つエマ・トンプソンがとてもいい。撮影時、彼女の実年令は49である。僕がエマ・トンプソンを初めて見たのは、アカデミー主演女優賞を獲得した「ハワーズ・エンド」(1992年)だった。映画デビューが遅かった彼女は、そのときすでに30をいくつか過ぎていた。しかし、理知的な容貌は印象に残った。ケンブリッジ大学で英文学を学んだ才媛であり、舞台女優特有の風格を漂わせていた。

翌年、エマ・トンプソンは「日の名残り」(1993年)と「父の祈りを」(1993年)で、再びアカデミー主演女優賞と助演女優賞にノミネートされ話題になった。30半ばを前にして大女優として認められたのだ。やがてヴァネッサ・レッドグレーブやジュディ・デンチのようなイギリスを代表する女優になるだろう。最近の「17歳の肖像」(2009年)では、ロンドンの名門女子校の威厳ある校長役をやっていた。少し前ならジュディ・デンチの役である。

アカデミー賞受賞から20年近くが過ぎて、「新しい人生のはじめかた」のエマ・トンプソンは知性に磨きをかけ、深い経験から生まれる何かを加え、憂愁の翳を感じさせる成熟した女性像を演じていた。そう、彼女は終始、憂い顔なのである。戸惑いや諦めの表情、そんな沈んだ顔で生きているケイトがハーヴェイと出逢い、笑顔を見せるシーンが印象深い。キラリと輝くような明るさが差し込んでくる。

ふたりは意気投合し、惹かれ合い、翌日の再会を約束する。しかし、ある事情でハーヴェイは約束の場所にいくことができない。あるいは、心理的なブレーキがかかったのかもしれない。現実的にいけなくなった障害とは別に、もう若くはない、再会したところでふたりにどんな未来があるというのか...、そんな心理がなかったとは言えないのではないか。

一方、ケイトも期待に胸を膨らませるほど若くはない。一夜の昂揚は夜明けと共に醒めるし、人は心変わりする。だから、ハーヴェイが「明日、同じ場所で...」と言ったとき、期待する気持ちと裏腹に「期待してはいけない」と囁く己の声に気付いていたはずだ。約束の時間が過ぎてもじっと椅子に座っている憂い顔のケイトを見ると、そんな心理が伝わってくる。ホラ、やっぱり期待しちゃいけなかったのよ、と彼女は言い聞かせているようだった。

●人は何かを始めると、その結果に期待するが...

人は何か行動を起こしたり、何かを始めたりすると、その結果に期待する。ケイトは偏狭で口うるさい母との生活を棄てることができず、何かを諦めて静かに生きてきた女性だ。しかし、もう恋愛沙汰なんてないと思っていたときに、ハーヴェイと出逢い、もしかしたら新しい人生が始まるかもしれない、と期待した。ところが、約束の場所に男はこなかった。もう傷つきたくない、と彼女は思った。

年を重ねることで、人は何を会得するか。諦めることである。落胆、失意、挫折、そんなことは人生で何度も経験する。若い頃には、期待を裏切られた落胆はひどく身に応えたものだが、何度も経験するうちに慣れてくる。がっかりはしても、長く引きずることもなくなる。僕は心の中で「セ・ラ・ヴィ(それが人生だ)」とフランス語で気取って言うことにしているけれど、「人生なんて、そんなものさ」というやり過ごし方(己のだまし方)が身に付いてくる。ひと言つぶやけば、たいていのものは諦められる。

だから、多くの人は年を重ねるほど「新しい人生」を始めようとは思わなくなる。静かで落ち着いた生活が続くのなら、今のままでいいと考える。若者たちから見れば保守的な生き方だろうが、穏やかな生活が一番という気分になるものだ。僕自身は与党に投票したことは一度もないが、この歳になって日本の戦後政治を自民党や民主党という現状維持を掲げる保守党ばかりが政権を担ってきた理由がわかる。人々は変革など求めていないのだ。

そして、己の人生においても多くの人は変化を求めない。新しい女性との出逢いによって心乱されることを嫌う人だっている。何も起きないこと、静かな日常が穏やかに過ぎていくこと...それが人生の幸せなのだと、この歳になるとわかる。しかし、しかしだ...と、もうひとりの僕が囁き始める。

──確かに、期待が大きければ大きいほど、失意にうちひしがれる。沈み込む。挫折感を味わう。深い傷になる。だからといって、新しいことを求めない人生にどんな意味がある?

そう問いかけられたら、僕はどこかで自分の心が疼くのを感じるだろう。それは、結局のところ僕が諦め切れていないからなのか。あるいは、生きることが常に何かを新しく始めることだからなのだろうか。「新しい人生」などはどこにもない。すべての人間の前には、未知の時間が広がっているだけだ。だから、いくら穏やかに暮らしていても、大地震で生活が根こそぎ破壊されることだってある。

常に未知の未来に向かって新しいことを始め続けるのが、人が「生き続ける」ということなのかもしれない。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >
世界が破滅に向かっているようなイヤなことばかりが続きます。仕事でも気の重くなることが続き、ふさぎの虫に取り憑かれることが増えました。そんなときは、やはり映画を見るのが一番。ウィスキー片手に映画を見ると、精神も高揚します。飲み過ぎに注意しなきゃいけませんが...。

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