映画と夜と音楽と...[503]昭和は遠くなりにけり
── 十河 進 ──

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〈絶唱/錆びたナイフ/関東無宿/花と怒濤/俺たちの血が許さない/仁義なき戦い 代理戦争/仁義なき戦い 頂上作戦〉

●チャンネルを合わせてすぐに歌ってくれた「ダイナマイトが百五十屯」

先日、NHK-BSプレミアムの「ショータイム」を見た。気が付いたときはすでに10分以上が過ぎていたのだが、チャンネルを合わせた途端に年令を重ね、昔に比べると少し贅肉の付いた小林旭が映った。司会は金八先生こと武田鉄矢と欽ちゃんファミリーのはしのえみだった。ゲストに白い頬髭を生やしサングラスをかけ、帽子をかぶった宍戸錠が出ていた。アキラにはジョーである。

小林旭は1938年、昭和13年生まれ。現在72歳だ。児童劇団に所属し、その後、日活ニューフェイスに合格。大部屋俳優としてスタートし、主演に抜擢された。20歳前のことである。その時代のことは本人も「いじめられた」とよく語っているが、かなり鼻っ柱の強い青年だったらしく、その番組でも宍戸錠が「いじめられても負けてなかったよ」と証言していた。

チャンネルを合わせてすぐに歌ってくれたのが「ダイナマイトが百五十屯」である。僕はアキラ節と言われた曲が大好きで、この歌も愛唱歌である。ヒットし、「マイトガイ」と呼ばれるきっかけになった。この歌は「爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ」(1959年)の挿入歌だったと思う。主題歌は「爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ」というタイトルだ。

その前年の秋に公開された「絶唱」(1958年)で小林旭は主人公を演じ、新人賞を獲得した。相手役の小雪は、浅丘ルリ子である。「絶唱」は舟木一夫と和泉雅子バージョン(1966年)、三浦友和と山口百恵バージョン(1975年)がある。僕は舟木版公開の頃に原作本を書店で見かけたが、原作者の大江賢次と大江健三郎をしばらく混同していた。

「絶唱」で共演した浅丘ルリ子がゲストで出てくると、小雪が死ぬシーンが流され、小林旭の涙が死んだ浅丘ルリ子の唇に落ちるのを撮影するために何度も撮り直した話が披露された。アキラとルリ子は昔のことを懐かしそうに話し、アキラが「あなたに恋していたんだよ」と言うと、ルリ子も「あたしだって」と応え、武田鉄矢が「そうなんですってね」と合いの手を入れた。



若き小林旭と浅丘ルリ子が恋仲だったことは、小林旭が10年ほど前に出版した「さすらい」という回想録で告白されているが、NHKの番組で話題になるとは思わなかった。この番組では、ことあるたびに武田鉄矢が「さすらい」の中の文章を朗読していたから、当然、そのことは武田鉄矢もスタッフも知っていたわけではあるけれど...。

その後、武田鉄矢が小林旭の歌の中で最も好きなものをリクエストし、浅丘ルリ子は小林旭の耳に口を近づけて何かを囁いた。まずアキラが歌い始めたのは「さすらい」である。その瞬間、僕はカミサンに「さすらい・北帰行・惜別の歌...と続けばいいんだけど...」と言ったのだが、二曲目は「北帰行」だった。それが浅丘ルリ子のリクエストだったのだ。

なぜ、浅丘ルリ子が「北帰行」をリクエストしたかは、歌い終わってからの話でわかった。「渡り鳥」シリーズは「北帰行より 渡り鳥北へ帰る」(1962年)が実質的に最後の作品である。主人公の名前は滝伸次、ヒロインはいつも浅丘ルリ子だった。ふたりの最後の作品になったのが、「北帰行より 渡り鳥北へ帰る」である。やはり、思い入れのある歌なのだろう。

「北帰行より 渡り鳥北へ帰る」の後、二人の共演作はほとんどない。小林旭の相手役は笹森礼子(死んだ赤木圭一郎の相手役が印象的だった)と、新人の松原智恵子がつとめた。「さすらい」(1962年)はサーカスを舞台にし、空中ブランコ乗りを小林旭が演じたが、松原智恵子はこのとき初めて相手役をつとめた。一方の浅丘ルリ子は、石原裕次郎のムードアクションの憂愁を漂わせるメランコリックなヒロインへと成長していく。

●「錆びたナイフ」のアキラは裕次郎の忠告を聞かず身を滅ぼす

小林旭はデビューした頃、石原裕次郎と三本の映画で共演している。「勝利者」(1957年)「幕末太陽傳」(1957年)「錆びたナイフ」(1958年)である。アキラは裕次郎への対抗心をはっきりと口にし、自分で主役を張るようになってからは決して共演はしなかった。しかし、大部屋時代には会社の命令に従わざるを得なかったのだ。「勝利者」では、名もない端役で出演した。

もっとも、「勝利者」の裕次郎は主演ではない。主人公は拳闘のプロモーターである三橋達也だ。彼は、裕次郎登場以前には日活で主演を張っていた。小林旭のデビュー映画「飢える魂」(1956年)の主役も三橋達也だった。「勝利者」での裕次郎の役は、三橋達也が夢を託すボクサーである。三橋達也は、その後、東宝へ移籍し、いくつかの作品で主演したが、やがて脇にまわるようになった。

「幕末太陽傳」はフランキー堺の代表作である。裕次郎は高杉晋作を演じ、アキラは久坂玄瑞の役だった。もちろん裕次郎の高杉晋作の方が役としては大きく、久坂玄瑞の登場シーンは少ない。月代を剃った髷姿のアキラも珍しい。「錆びたナイフ」は主題歌が大ヒットしたように、石原裕次郎の主演である。原作は石原慎太郎。弟のために書いたオリジナルストーリーだ。

「錆びたナイフ」のアキラは、あまりいいところがない。恋人に暴行した相手を痛めつけて前科者になった主人公(石原裕次郎)は酒場を経営して暮らしているが、ハードボイルドな男で放送記者の娘(北原三枝)にも興味を持たれる。彼の店をバーテンとして手伝っている弟分が小林旭だ。しかし、裕次郎の忠告を聞かず、弟分はバカなマネをして身を滅ぼす。

小林旭は自分がトップでいることで、モチベーションを保っているのかもしれない。だから、自分の作品が添え物であることは、我慢がならないのではないか。さすがに裕次郎映画との二本立てはなかったようだが、芸術派監督・今村昌平の話題作「にっぽん昆虫記」の添え物映画だった「関東無宿」(1963年)の撮影のときには、初日のロケで小林旭がとんでもなく太い眉を描いてきたという。

プロデューサーが「あれはやめさせろ」と言うと、鈴木清順監督は「当人がいいつもりでいるからいいじゃないか。アキラがツムジを曲げたら初日からうまくない」と答えた。このエピソードは鈴木清順著「暴力探しにまちへ出る」(北冬書房)に出ているらしいが、僕は小林信彦さんの「われわれはなぜ映画館にいるのか」(晶文社)の「鈴木清順論のためのノート」から孫引きさせてもらった。

その本では清順さんは続けて「あいつがああやるなら、俺もやろう。ついでなら何やったっていいじゃないか。まあ、お客さんは『にっぽん昆虫記』を見にくるんだ。こっちはそのついでなんだから...」と独白しているという。その居直りが名作「関東無宿」を生んだのだ。僕は「にっぽん昆虫記」は一度見ただけだが、「関東無宿」はオールナイト上映や名画座に通って数え切れないくらい見た。

●原作はプロレタリア作家の平林たい子「地底の歌」だった

無国籍、和製西部劇、荒唐無稽...などと言われた「渡り鳥」シリーズ及びそこから派生した類似のアキラ映画とは違い、「関東無宿」のアキラの演技は抑制したシリアスなものだ。元々、シリアスな演技が上手な人だったのだが、「渡り鳥」シリーズで別の世界にいっていた。鈴木清順監督とは「渡り鳥」でブレイクする以前に、「踏みはずした春」(1958年)と「青い乳房」(1958年)で組んでいる。

「関東無宿」は、鈴木清順監督との三本目の作品である。「関東無宿」は清順美学と言われ始めた作品群の中では初期のもので、僕の大学生の頃にはカルトムービーになっていた。「けんかえれじい」や「刺青一代」などはよく名画座にかかったが、「関東無宿」「花と怒濤」(共に1964年)「俺たちの血が許さない」(1964年)の小林旭が立て続けに出た清順映画はあまり上映されなかったのだ。

僕は小林信彦さんが絶賛する「関東無宿」のシュールなシーンを想像し、見たくて見たくて身悶えする思いだった。たとえば小林旭が長ドスで悪役を斬ると、斬られた男はトトトッと奥の障子を突き破って消えるのだが、そのときワイドスクリーンの背景になっていた障子が一斉に倒れ背景が真っ赤になると書かれていたが、それは実際にはどのようなシーンなのか...。

そして、ある日、僕は文芸地下のオールナイト上映のプログラムに、「関東無宿」「花と怒濤」「俺たちの血が許さない」の三本を見付け驚喜した。その他の二本は何だったか。同時期の作品だとすると、「野獣の青春」「悪太郎」(共に1963年)あたりだろうか。「肉体の門」(1964年)「春婦伝」(1965年)もあるが、こちらは「河内カルメン」(1966年)を加え、野川由美子主演作特集として上映されることが多かった。

「関東無宿」の原作は平林たい子の「地底の歌」である。これは、同じ日活で原作通り「地底の歌」(1956年)のタイトルで映画化されたことがあった。主演は、後に悪役で知られた名和宏である。若いヤクザである「ダイヤモンドの冬」を演じたのが、デビュー間もない石原裕次郎だった。

「関東無宿」では、小林旭は着流しのヤクザを演じた。ダイヤモンドの冬は、平田大三郎(昔の日活映画ファンならわかると思いますが)である。アキラの組長の娘が松原智恵子。その女学生仲間が中原早苗(後の深作欣二夫人)と進千賀子だった。その映画の時には「新人」だった進千賀子は、後に酒井和歌子主演の東宝映画「めぐりあい」(1967年)に出ている。

中原早苗が演じたのは積極的な女学生で、ヤクザに憧れている。何かというと「ぬばたまの やまとおのこのゆく道は 赤き着物か 白き着物か」と達観したように詠う。「赤き着物」は囚人の象徴であり、「白き着物」は死者の装束である。ヤクザという稼業では、どちらにしろ、ゆきつく先は監獄か死だ。そのことが中原早苗によって強調される。

余談だが、中原早苗の役名が「山田花子」というのを、この原稿を書くので調べていて判明した。ホントかな、平林たい子と言えばプロレタリア文学者で、没後に「平林たい子文学賞」まで創設された人である。そんな人が自作の登場人物に「山田花子」などというイージーなネーミングをするだろうか。あるいは、中原早苗の役は映画のオリジナルなのだろうか。いずれ機会があれば調べてみたい。

「関東無宿」「花と怒濤」「俺たちの血が許さない」の小林旭は、どれも憂愁の影を引きずるキャラクターである。笑い顔は見せない。メランコリーな暗さを漂わせるヤクザである。相手役はすべて松原智恵子だったが、数年後、松原智恵子は新人・渡哲也映画のヒロインとして映画ファンの記憶に刻み込まれることになる。

アキラ節と言われる脳天気(最近では「ノー天気」と表記した方がわかりやすいかもしれないが)な、頭から突き抜けそうな高音を生かして歌う声を聴き、「渡り鳥」シリーズ及びその類似アクション映画だけを見ると、小林旭の本質を見間違う。小林旭の演技には、元々、暗さがあり、屈折感があり、いつか見返してやるぞといったルサンチマンの気分が漂う。だからこそ、あれほど石原裕次郎にこだわった。

石原裕次郎はベストセラー作家の弟であり、最初から主役を約束されたスターとして日活に迎えられた。年は下だったが、小林旭はほぼ同時期に撮影所の大部屋で「いつかスターになってやる」と目をギラギラさせていたのだ。そういう時代があったからこそ、小林旭の演技には深みが加わったのではないか。そして、それは「仁義なき戦い」(1973〜1974年)で頂点を迎えた。

●「ショータイム」でまったく触れられなかった「仁義なき戦い」

NHK-BSプレミアムの「ショータイム」でまったく触れられなかったのが、東映の「仁義なき戦い」に出演した時期のことである。日活を退社した小林旭はゴルフ場経営に手を出し、失敗して巨額の借金を背負った。その借金は「昔の名前で出ています」(1975年)の大ヒットで完済したらしいから、「仁義なき戦い」出演の頃は、まさにゴルフ場経営に乗り出していた時期かもしれない。

1970年代に入り、小林旭の出演作はほとんどなくなっていた。60年代には、少なくとも年間に数本は主演していたスターである。その頃、映画は斜陽産業でテレビに出演していないと新しいファンは獲得できなかった。だが、映画で育った銀幕スターたちは、テレビに出ることを格落ちと感じた。だから、石原裕次郎が石原プロの借金を返すためとはいえ、「太陽に吠えろ」にレギュラー出演したことは大ニュースだったのだ。

小林旭も1971年10月からその年いっぱい「ターゲットメン」というテレビシリーズに主演した。案の定、大衆は「とうとうアキラもテレビに出るしかなくなったのか」と受け取った。翌年に出演した映画は一本しかない。だから、「仁義なき戦い」が大ヒットし、二部「広島死闘篇」が作られ、さらに三部「代理戦争」が公開され、いきなり小林旭が登場したとき、僕は映画館で腰を浮かせたものだった。

「仁義なき戦い」の一部と二部は、それぞれ映画として独立した作品だ。だが三部「代理戦争」と四部「頂上作戦」は二部作であり、五部「完結篇」はオマケ(脚本の笠原和夫は降りている)である。そして、三部と四部では主人公(狂言まわしに近いかも)は広能昌三こと菅原文太ではあるものの、もうひとりの主人公は武田明こと小林旭である。

最初、山盛組の幹部のひとりとして登場した武田明はあまり目立たない存在だが、そのインテリジェンスと決断力を元に反明石組のリーダーとなり、神戸の明石組をバックとする広能と対立する存在になる。どちらも認め合っている仲だが、背景組織の関係から敵対するようになるのだ。武田の役は小林旭にピッタリだった。スターの輝きが、武田を輝かせていた。

「わしゃあ身体も弱おうて、ひとに誇れるような勲章も持っとらんけんのう」と暗い顔をしてつぶやく武田には、やはり屈折した心理を感じたものだ。一方、敵対するヤクザとやりあうときの武田には惚れ惚れした。「広島のヤクザゆうたらよ、いまだかって旅のモンの風下に立ったことはないんで」と、日本一のヤクザ組織に向かって放った啖呵は今も僕の耳について離れない。

BSプレミアムの「ショータイム」の最後は、小林旭の新曲「遠き昭和の...」という歌だった。出だしの「あの顔、この顔...」という過去を懐かしむ歌詞を聴いて、突然、僕は30年も昔に見たテレビの回顧番組を思い出した。日活スターたちが集まった「日活すばらしき仲間達」(1977年10月放映)である。石原裕次郎と浅丘ルリ子がライブで「夕陽の丘」をデュエットし、吉永小百合のピアノ伴奏で渡哲也が「くちなしの花」を歌った。

それを、小林旭、宍戸錠、二谷英明、葉山良二、長門裕之、和田浩二、高橋英樹、藤竜也、清水まゆみ、松原智恵子、それに日活に劇団をあげて協力していた民藝の宇野重吉などが微笑みながら見守っていた。小林旭は、椅子に座ったまま「夕陽の丘」を一緒に口ずさんでいた。日活がロマンポルノしか制作しなくなって、6年が経っていた頃だ。それでも、みんな、若かった...。そのとき、気付いた。昭和は、とっくの昔に...遙かに遠い過去になっていたのである。

降る雪や 昭和は遠くなりにけり

夕陽の丘 

くちなしの花 


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「アタック25」と「週刊ブックレビュー」の児玉清さんの追悼番組を見た。「ブックレビュー」では児玉さんの書庫と書斎が映った。可動式の本棚に二万冊。書斎の立派な革張りの椅子が羨ましい。最近、僕は書物の整理に入っていて、昨年末には写真関係の本を整理した。今は映画雑誌や映画のパンフやチラシを箱に詰めている。文芸書もまとめるか。

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