武&山根の展覧会レビュー 特別編 山元町、石巻大街道、網地島に行ってきました
── 武 盾一郎 ──

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ひょんなことから、5月19日から28日まで、被災地に行ってまいりました。ざっくりとした経緯はこんな感じです。

『被災地子ども向けワークショップの経緯』
< http://d.hatena.ne.jp/Take_J/20110516/1305532371
>

3.11の後、「自分に何か出来ないだろうか」という気持ちはあったのですが、震災復興支援チャリティーアート展等に参加する気分にはなれませんでした。それは、阪神淡路大震災の時もそうでしたが、直後にアートとか文化とかいうのがパーッと盛んになり、すぐにサーッと引いて行った感じが記憶にあったからでした。

自分に唯一できること、自分の「現場」はこれしかないなあと、家に引き蘢りながら小さいドローイングをシコシコと描いてました。それは洞窟で祈りを捧げる儀式のようなものでした。
『[制作日誌] - 武盾一郎の報告書 Take Junichiro report.』
< http://d.hatena.ne.jp/Take_J/searchdiary?word=%2A%5B%C0%A9%BA%EE%C6%FC%BB%EF%5D
>

ともかく、3.11の前と後では世界が変わってしまったかのように感じていました。それは絶望だけでなく、生死に触れる覚醒のようなものも含まれていて、そして、非常に奇妙な日常を生きているような感じでもありました。

今回の「天災(地震と津波)+人災(主に原発事故にまつわること)」は長引くだろうと思いました。というより、「不可逆なんだ」という気がしました。それは、もう戻れない、復興はできない、という感触でした。違う次元にストンと立たされてしまったような感じがしたのです。

天災という人智を越えた出来事に対しては、プリミティブで生命的な欲望が起動するけど、原発は憂鬱になりました。僕はこの事故で初めて原発に関していろいろ知るのですが、知るほどに気が滅入りました。廃炉にするにしても何十年かかる。脱原発しても原発推進に戻っても、いずれは次世代、次々世代の人たちが、使わないのに放射能を出し続ける厄介な屍骸と長年付き合わなければならないのです。

「少なくとも3年以上経って自分に金銭的精神的余裕があるなら、あらためて地震の事を考えてみて、被災地に行ってみよう」と思いながら過ごしていましたが、あれよあれよという間に被災地に赴くことになりました。なぜか躊躇はしませんでしたが、「心の準備」だけは確かめておきました。



●心の準備

初めてボランティアに行くのなら、希望に胸を躍らせるのかもしれません。僕は阪神大震災3年後に、まだ公園に留まりコンテナ村に暮らす、被害の最も酷かった長田町の人たちのコミュニティに、「芸術をぶちこんでやる!」くらいの意気込みで突っ込んで行って、公園の村に暮らしました。

結果、無能で無名で貧乏な芸術は何の役にも立たないことを身をもって思い知り、以降10年「死にたい」と思って生きることになりました。ようやく「死にたい」と思わなくなって1年、まさかまた被災地に行く事になるとは思いもよりませんでした。

正直、怖いです。だけど、きっとこれが唯一のトラウマ克服方法なんだろうとも思います。今度は武器を携えて行きます。小さな一歩だけど、僕にとっては大きな壁を乗り越える一歩です。行って来ます。

『被災地子ども向けワークショップの準備』より
< http://d.hatena.ne.jp/Take_J/20110519/1305784039
>

具体的な予定が分からないままの出発でしたが、間違った所からやり直せるチャンスだと直感的に思ったのでしょう。

ちなみに神戸での制作はこんな感じでした。
< http://take-junichiro.tumblr.com/post/79862424/1998
>
< http://take-junichiro.tumblr.com/post/80016378/1998-1999
>

なぜ震災後3年経ってから神戸に行ったのかというと、簡単に言うと、もう注目されてなかったからでした。

注目されてる、流行ってる、立派に見える、等のものごとに乗っかると、なんだか自分がさもそれを作ったかのように感じてしまったり、そこに居るだけで何かをしてるような気分になったり、「素敵ポジションにいる自分イケてる錯覚」を起こします。その時はそれでいいのですが、過ぎ去ったあとに襲われる虚無感が厭なので、なるべく「主流」に近付かない癖がついてしまいました。

また、芸術とは「忘れられてるモノやコト」、「捨てられたモノやコト」、「無価値だと思われてるモノやコト」に目を向けるものだと考えていて、「芸術家とは誰も行かない所に行くべきだ」的な使命感も今思えば、かなりありました。

理想に立ち向かって闘った結果、破れ挫折して10年ほど鬱で死にたいと苦しんだってことなんでしょう。が、後悔の念はないです。

落ち込む中で押し潰された心は、うまくやっている(ように見える)人たち、という仮想敵を作り出し、劣等感と嫉妬に支配され、ルサンチマンを抱いて世界を見つめるようになります。そこから見えてくる風景は、苦しみから逃れようとする気持ちから生じるとても美しい景色と、人間社会に場面を切り替えた瞬間にガラッと変わる殺伐とした絶望と痛みに満ち溢れた景色です。

画家としてそのような心象風景にめぐり会えたのは幸福なことなのでしょう。しかし、もうこの風景は要らない。そのために、もう一度引き返して、そこに立ち、今度は違う捉え方で世界を観られるようになりたいのです。

それが今回の被災地への思いです。具体的にどのようなことをしてきたのかは以下の報告より。

被災地活動 5.19-28 その1『子供向けワークショップ編』
< http://d.hatena.ne.jp/Take_J/20110531/1306818111
>

被災地活動 5.19-28 その2『石巻大街道編』
< http://d.hatena.ne.jp/Take_J/20110602/1306995086
>

被災地活動 5.19-28 その3『網地島編』
< http://d.hatena.ne.jp/Take_J/20110602/1307005615
>

戻って来て、恐らく風景は変わったとは思います。何より体調が良くなりました(笑)。体を動かす、食べる、寝るの身体と生理中心の時間を過ごしてスッキリした感じです。

泥かきや片付けは身体的にキツかったけど、現場に身を置くことで分かってしまうこともあるんだなあと思いました。臭い、ホコリ、湿度、歩きにくさ。宮城県で原発にほど近い山元町役場避難所、ヘドロに埋まった石巻大街道、漁の道具を大量に捨てた網地島で、石や草木や泥や捨てなければならない家具を手で触れて、子どもや住民とともにした作業で身体の中に入った体験は、それはどうも言語化できないのですが、震災を確かに受け止めてくれた頼もしさを感じるのです。

被災地に行く前と、特に印象が変わったのは原発の放射能のことでした。行く前はパソコン情報が被災地のすべてでしたから、パソコンを見て憂鬱になっていました。

せめて東北の方角の空を見つめて心を痛めれば良いものを、深夜の自宅の四角い画面を見て被災地を知った気になって不安になっていたのです。戻って来てから放射能情報で怯えることはなくなりました。それは、放射能に対して楽観的になったというのではなく「情報」で一喜一憂しなくなったと言ったら良いのでしょうか。情報は判断材料にだけすればよいということです。

行く前は被災地に通おうと思っていました。今は無理やり行かなくてもいいと思うようになりました。長い目で見ようとは思っていますが、自意識や使命感や心情ではなく、身体や直感に耳を澄ませて聴いてみようと思ってます。縁があれば行く機会は巡ってくるでしょう。

身体を動かして、手を使って、考えて、愛し合って生きていけばいいんだよなあ。

【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/婚約者】
take.junichiro@gmail.com
twitter < http://twitter.com/Take_J
>

武盾一郎の報告書 Take Junichiro report.
< http://d.hatena.ne.jp/Take_J/
>

Take Junichiro Art works
< http://take-junichiro.tumblr.com/
>