映画と夜と音楽と...[509]ボギー!俺も男だ(と思う)
── 十河 進 ──

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〈マルタの鷹/黄金/キー・ラーゴ/アフリカの女王/カサブランカ/ボギー!俺も男だ/インテリア〉

●ジョン・ヒューストンがボギーに捧げた弔辞

先日、出社の途中、上野駅で足止めを喰らい、時間つぶしで駅ビルの書店に入った途端、新刊棚にあった「友よ 弔辞という詩」という本が目に飛び込んできた。井上一馬さんの訳で河出書房新社の刊行だった。昔、井上さんが訳したボブ・グリーンのコラム集はよく読んだが、井上さん自身が書いた上下二巻の「アメリカ映画の大教科書」(新潮選書)も愛読している。

その本を開くと、巻頭に掲載されていたのはジョン・ヒューストン監督がボギーことハンフリー・ボガートを悼む弔辞だった。それを見ただけで、僕は本を持ってレジに並んだ。その他にもオーソン・ウェルズがダリル・ザナックに、ニール・サイモンがボブ・フォッシーに弔辞を捧げているのだ。買わずにはいられない。

おまけにジャニス・ジョプリンへの弔辞やジェームス・ディーン、リバー・フェニックスなど、夭逝した人たちへの弔辞も並んでいた。歴史的な人物としてはカール・マルクス(もちろん弔辞はエンゲルスが捧げた)やエジソンやチェ・ゲバラ(もちろん弔辞はフィデル・カストロが捧げている)なども取り上げられていた。

僕はキャサリーン・ヘップバーンの自伝や小説「ホワイトハンター・ブラックハート」、あるいは川本三郎さんのハリウッドに関する本を読んで、ジョン・ヒューストンという監督は相当にクセのある(できれば近寄りたくない)人だと思っていたので、その本の巻頭に掲載されたハンフリー・ボガートへの弔辞を読んで、意外に感じた。肩すかしを食った気分だった。もっと型破りな弔辞を期待していたのだ。

ハンフリー・ボガート主演で「マルタの鷹」(1941年)「黄金」(1948年)「キー・ラーゴ」(1948年)「アフリカの女王」(1951年)という名作を作ったジョン・ヒューストンは、ボギーの人間性を絶賛し、彼が果たした映画界への貢献を讃え、家族との深い愛に敬意を表した(ある意味では常識的な)弔辞を感動的に述べていた。もっとも、シニカルなジョン・ヒューストンのことだから一筋縄ではいかない。こんなことも言っている。



──ヴェルサイユ宮殿の噴水の池にはどこにもカワカマスが一匹いて、それが鯉たちを活発に動きまわらせています。そうしないと、鯉は太りすぎて死んでしまうからです。ボギーはハリウッドでそれと同じような役割を果たすのをこのうえなく楽しんでいました。

ボギーというキャラクターを、人々にストレートに理解させる言葉だと思う。ユニークだが、適切な比喩だ。それを読んで、僕はナサニエル・ベンチリー(「ジョーズ」の原作者ピーター・ベンチリーの父親です)が書いた「ボギー」(石田善彦・訳/晶文社・刊)の序章を思い出した。こんな書き出しだった。

──一九五七年七月のある夜、ハンフリー・ボガートと妻のローレン・バコールはひとりの友人とともにビヴァリー・ヒルズにある由緒あるレストラン〈ロマノフ〉にいた。彼らのすわった窓ぎわのテーブルの向かい側のバーのスツールには海兵隊軍曹の制服を着た男が腰かけていて、ボガートはしばらくのあいだ無言でその男を見つめていた。

この描写の後、ボギーがその男が偽の海兵隊員であることを見破り、トラブルの予感を感じたローレン・バコールがボギーを止めたエピソードが紹介される。ナサニエル・ベンチリー自身もボギーと親交があった作家である。ボギーがどういう人間だったか、それを理解させる格好のエピソードだと作家は思い、巻頭に配置したのだろう。

──年を追うごとに激しさを増したボガートの闘争心は、さまざまの形をとってあらわれた。ときによってそれは、ただ他人がどんな反応を示すかを見るための実験だった。また、尊大にふるまう人間をへこませるための鋭い針となることもあった。(晶文社刊「ボギー」石田善彦・訳)

こういった証言を読むと、ハンフリー・ボガートも近寄らない方がよかった人なのかもしれない。僕には、ジョン・ヒューストンとハンフリー・ボガートが盟友だったことが信じられないが、才能を認め合うことで互いに敬意を抱いていたのだろう。40を過ぎたボギーを主演に抜擢したのは監督のジョン・ヒューストンであり、スターの座につけてくれたのは「マルタの鷹」のヒットだった。

●ボギーは男のダンディズムを体現したシンボルになった

ボギーが体現する男のダンディズムはアメリカだけでなく世界に広がり、共通するイメージを想起させるアイコンになっている。トレンチコートの襟を立て、ソフト帽を目深にかぶり、両切りのタバコをくわえて、紫煙に目を細める。彼が連想させるのはタフでありながら、センチメンタルな心を隠した男である。ぶっきらぼうでシニカルな物言いをするが、心優しいタフガイである。

そのタフガイのイメージは「マルタの鷹」の私立探偵サム・スペイドで確立され、犯罪者を演じた「ハイシェラ」(1941年)を経て「カサブランカ」(1942年)のリックで決定的になった。アメリカ人にとっては「カサブランカ」は特別な映画であり、彼らの基礎教養になっているのではあるまいかとさえ感じられる。

そして、ボギーが体現する男のダンディズムが、男たちの夢になり、憧れになった。あんな風になりたいな、という具体的な姿が確立されたのだ。しかし、夢は夢である。現実には、カサブランカの酒場のオーナー・リックのような男はどこにもいない。それにヒーローには必ず美しいヒロインが現れるが、現実の人生にそんな美女が登場することはあり得ない。

ボギーが男としてのリファレンスだとすれば、現実とのギャップを描き出すために冴えない男の人生にボギーを登場させてみたらどうだろう、と発想した男がいた。ニューヨークに住むユダヤ系のインテリであり、コメディアンであり、脚本家でもあった冴えない小男である。当時はまだ、数本の作品を脚本・監督・主演で撮っていただけのウディ・アレンだ。

彼は自らを主人公に設定したような、神経症的なニューヨーカーの物語にボギーを登場させることを思い付く。その主人公は、ウディ・アレン自身のような脚本家であり、妻とは離婚寸前の男である。何かというと精神分析医に頼り、自意識過剰で他人の些細な言動に過敏に反応する。そんな男が自分を変えるために、ボギーを生き方の指針にする。映画には、実際にボギーの幽霊(幻)が登場する。

「ボギー!俺も男だ」(1972年)は、アート・シアター系での公開だったと記憶している。だとすれば、東京では新宿文化劇場と日劇文化劇場だけの公開だった。当時は単館ロードショーというのはあまりなかったから、都内二館での公開では集客はあまり望めない。映画好きの間で少し評判になったくらいだった。奇妙な映画...、そんな評価だった。ウディ・アレンは脚本を書き、監督はハーバート・ロスである。

絶え間なく喋り、自意識過剰なくせにコンプレックスに悩み、小心さと臆病さを隠せない小男...、ウディ・アレンを形容するとそんなマイナスイメージばかりが連なる。ことさら強調しているにしても、彼自身が自分をそのように見ているのではないだろうか。滑稽なほど、自分自身が演じる主人公を戯画化してみせる。彼は相手のひと言やちょっとした仕草を過剰に推察し、その裏の意味を読み取ろうとする。

言ってみれば、ハンフリー・ボガートが演じるタフガイとは対極にいる男である。もちろん、本人はそんな自分に嫌気が差し、ボギーのようになりたいと憧れている。だから、うだつの上がらない離婚寸前の脚本家である「ボギー!俺も男だ」の主人公は、ボギーの幽霊を呼び寄せる。もちろん、それは彼の心の中を具現化したものに過ぎないのだが、例のボギー・スタイルの男が現れて主人公に「男ってのはな...」とアドバイスするのである。

現在なら、デジタル技術やCGを駆使して、ボギー本人をウディ・アレンの前に登場させることもできるだろうが、40年近く前の非ハリウッド系作品である。ボギー役は別の俳優が演じている。ただし、トレンチコートに目深にかぶったソフトである。そのかっこうさえしていれば、誰が演じてもそれなりに見える。僕は、本物のボギーより体格がよいのが気になった記憶がある。

●ボギーの幻に象徴される何かを憧れて生きている僕自身

どんなにリアルに撮影していてもハンフリー・ボガートの映画は、やはりある種のファンタジィだ。それは、ジャン=ピエール・メルヴィル作品がファンタジィ(メルヴィルは「私の映画は夢でできていて...」と語る)であるのと同じように、男たちの憧れを描いているのである。そういう意味では自らもトレンチコートを好んだメルヴィルは、ボギーが体現したスピリッツの正統的後継者なのだろう。

それにしても、男たちは(人それぞれだろうが)なぜ「男とは...」という言葉を好むのだろう。「男のロマン」「男の生き様」「男の美学」という言葉がよく使われる。結局、男がファンタジィの世界への憧れを棄てきれないからかもしれない。僕が「ボギー!俺も男だ」を見て共感したのは、ウディ・アレンのように気弱で自意識過剰な臆病者のくせに、ボギーの幻に象徴される何かに憧れて生きている自分自身を見たからである。

「ボギー!俺も男だ」のオリジナルタイトルは「PLAY IT AGAIN. SAM」である。「カサブランカ」の中の有名なセリフだ。「ボギー!俺も男だ」の主人公は、「カサブランカ」を何度も何度も見て、今の自分ではない人間になろうとし、哀しみと滑稽さをにじみ出す。現実の世界で、ボギーになろうとしている男がいたら、それは滑稽でしかないし、自らをボギーのような男と思い込んでいるとしたら、単なる勘違い野郎でしかない。

そんなことを考えたのかどうか、ウディ・アレンは「ボギー!俺も男だ」以降、現代社会の生きにくさを描く作品を何本も作る。自意識が強すぎるために、ひとりで空まわりをしているような人間たち。「アニー・ホール」(1977年)「インテリア」(1978年)「マンハッタン」(1979年)と、彼はボギー映画のように単純には生きられない人々を描き出す。都会に住む頭でっかちな知識階級の内的悲劇である。

その中でも、ウディ・アレン自身が出演しなかった「インテリア」という作品の印象が僕には最も強い。公開されたのは1979年の春だった。「アニー・ホール」でアカデミー賞の脚本賞、監督賞、作品賞、主演女優賞を獲得した後だったから、ウディ・アレンの名前に興行価値はあったのだが、作品が地味で難解だったせいか、ひっそりと公開された記憶がある。

当時は難解であることがまだもてはやされた時代だったことや、コメディアンとして認知されていたウディ・アレンがイングマール・ベルイマンばりの難解でシリアスな作品を作ったことから、「インテリア」は知的観客(?)には受けたと思うが、「ベルイマンの影響が露骨」という評判が立ち、僕はそういう予断を持って「インテリア」を見ることになった。

●難解で訳がわからない映画を見てもわかったような顔をした若い日々

若い頃は背伸びをする。難解で訳がわからない映画を見ても、わかったような顔をする。僕が上京して名画座巡りを始めた頃、イングマール・ベルイマンの名前は世界の巨匠として燦然と輝いていた。「鏡の中にある如く」(1961年)「沈黙」(1961年)「ペルソナ」(1967年)などが頻繁に上映されていた。もちろん、僕もそれらの作品を見た。しかし、僕にはベルイマン作品が全く理解できなかった。いや、見続けるのが苦痛でさえあった。

しかし、1979年に「インテリア」が公開された頃には、まだ僕は素直に「ベルイマン作品を見続けるのは苦痛」と告白することはできなかった。あの素晴らしい世界が理解できないのか、と言われるのが怖かった。「叫びとささやき」(1972年)「秋のソナタ」(1978年)など、ベルイマンは精力的に新作を発表していたし、新作が出るたびに評論家たちに絶賛されていた。だが、僕はベルイマン作品は見にいく気になれなかった。

だから、なぜ僕が「インテリア」を見にいったのか、今もよく理由がわからない。「ボギー!俺も男だ」で、ウディ・アレンの風貌は目に焼き付いていたが、あの小男が監督に専念した映画...ということに興味があったのか。あるいは、入社4年目に初めてできた後輩の編集者がウディ・アレン好きで、「インテリア」を絶賛していたからか。そんなことすべてがきっかけだったのかもしれない。

そして、僕にとっては「インテリア」がウディ・アレン作品の中で最も好きな作品になったのだった。そこには、現代社会の息苦しさや家族という人間関係の煩わしさが、突き放すような視点でクールに描かれていた。登場人物たちに思い入れず、客観的に距離を置いて映し出すキャメラワークはベルイマン作品のものかもしれないが、そのキャメラワークだからディテールが理解できたし、作品から伝わってくるものに感応できたのだ。

30年連れ添った夫婦(ジェラルディン・ペイジとE・G・マーシャル)がいる。彼らには三人の娘(ダイアン・キートン、クリスティン・グリフィス、メアリ・ベス・ハート)がいる。夫が愛人を作り、夫婦に離婚話が持ち上がる。インテリア・デザイナーの妻は自殺未遂を起こし、三人の娘たちは右往左往する。全編にシリアスさが漂っていた。

メアリ・ベス・ハートが演じた三女の苦悩が僕には共感できた。文章を書いて生きていこうとしている三女は、細いメタルフレームの眼鏡をかけインテリジェンスを感じさせる風貌だった。彼女は憂鬱そうな表情で笑顔を見せることもなく、家族の煩わしさから逃れようとしながら逃れきれないジレンマを表現した。以来、彼女は僕のアイドルになったが、出演作はあまり多くない。「ガープの世界」(1982年)の奥さん役が目立つくらいだろうか。

「インテリア」を見終わった後「ボギー!俺も男だ」のウディ・アレンの姿が浮かんできて、本当に彼が脚本を書き監督をしたのかと疑った。同一人物とは思えなかった。自信がなく自意識過剰だった脚本家は、「アニー・ホール」の成功で自信をつけたのだろうか、「インテリア」は堂々たるシリアスドラマだった。戯画化されすぎていたとはいえ、「ボギー!俺も男だ」の主人公(僕は完全にウディ・アレンに重ねて見ていた)が作るような映画ではなかった。

その後、ウディ・アレンは数多くの作品を作り、多くのハリウッド人がオマージュを捧げる大物監督になった。ダイアン・キートン、ミア・ファーロー、ミラ・ソルヴィーノ、ジュリア・ロバーツ、スカーレット・ヨハンソンといった女優たちを、次々に自らのミューズ(創造の女神)として主演させ、小品だが気の利いた作品を作り続けてきた。

ウディ・アレンのミューズだったミア・ファーローの自伝を読んだことがあるが、ウディ・アレンと恋に墜ち、同棲し、やがて泥沼の訴訟に発展するいきさつが後半を占めていた。その訴訟では、ウディ・アレンが養子にした少女とセックスしていたというスキャンダルも暴露され、ウディ・アレンのイメージは大きく傷ついた。しかし、ウディ・アレンの才能は枯れず、70代半ばの今も現役監督として活躍している。

30代半ばで「ボギー!俺も男だ」の脚本を書いたウディ・アレンは、それからの40年をどのように生きたのか。20代初めに「ボギー!俺も男だ」を見た僕は、それからの長い人生を経て「ベルイマン作品は難しくてわかりません」と言えるようにはなった。見栄を張らない、自然体で生きていくと悟ったのならいいが、そうではないようだ。要するに、男の生き方などにこだわらず、人からどう見られようと気にしなくなっただけではないか。鈍感になったということか?

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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仕事の時以外は酒を飲んでいるか、本を読んでいるか、映画を見ている。原稿を書いているときは音楽を流しているが、以前よりじっくり聴く時間が減ってしまったし、コンサートもジャズクラブもしばらくいっていない。映画はひとりで見るくせに、ジャズクラブはひとりでいってもつまらない。それにブルーノート東京は高いしね。

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