映画と夜と音楽と...[510]過去に囚われてはいけないか?/十河 進

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〈瞳の奥の秘密〉

●映画的語り口が惚れ惚れするほどうまい作品だった

駅のプラットホーム。男を見つめる女のふたつの瞳が、スクリーンの横長のフレームで切り取られる。アップになった瞳の奥に何かかがうごめいている。たぎる情熱だろうか。去っていく男を止められない悔恨だろうか。女の顔はわからない。駅をゆき交う人々はスローシャッターで撮影され、像がブレている。人々の残像が重なり合う。その雑踏の中に佇む男女がいる。背景に流れるピアノの曲が美しい。

顔はわからないまま瞳の持ち主らしい女が、去っていく男の背中を追う。小走りに走り出す。太いブルーのストライプのブラウスに無地のスカート。そのストライプがブレて残像になる。女が車窓に手のひらを貼り付ける。列車の中から男の手がガラス越しに女の手に重なる。それも一瞬だ。男は列車の最後尾まで走り、デッキに出る。列車を追った女は、ホームの端に佇んでいる。女の顔はやはりわからない。

シーンが変わると、暗い部屋で先ほど列車で去っていった男がノートに何かを書き連ねている。小説らしい。先ほどのシーンは男が書いている小説の一場面だったのだろうか。男の髪には白いものが増え、列車で去ったときより老いが目立つ。男はうまく書けないのに苛立ち、綴った文章をペンで乱暴に塗りつぶす。ペン先に苛立ちが乗り移ったように荒々しい。



次のシーンも男の小説の中のことなのだろう。美しい若い女と夫らしいふたりが、朝の陽光が差し込む明るい一室で食事を摂っている。レモンを入れた紅茶のカップがアップになる。ジャムがトーストに塗られる。若い女が笑い転げる。その頬に朝の光が当たり、髪を輝かせる。愛おしそうに夫が若い溌剌とした妻を見る。愛情にあふれ、幸せに充ちたシーンだ。

だが、次のシーンでは、その若い妻が暴行されている。荒々しい裸の男の背中。その男に犯され、殴られ、血を流している女。「やめて」と言う声さえ弱々しい。美しい裸身が暴力によって、無惨に傷付けられていく。壊される。そのシーンも男が書いている小説だ。しかし、男は書き続けることができない。その場面があまりに残虐だから...。

夜、男は目覚め、枕元のメモに何かを書き付ける。翌朝、そのメモを見ると「TE MO」とある。スペイン語で「怖い」という意味らしい。男は何を怖れて、そんなメモを残したのだろう。男は身支度を整え、裁判所へ出かける。男のかつての職場のようだ。守衛の男の様子から、男が久しぶりに訪ねてきたらしいのがわかる。男は検事室に向かう。ドアを開けると、中年の女性が顔を輝かせる。

男の名はベンハミン・エスポシト。かつて、刑事裁判所で働き、様々な刑事事件に関わってきた事務官である。退職した今も、彼の名は知れ渡っている。そして、女性検事はかつて彼の上司だったイレーネ。イレーネがエスポシトに「あなたが小説を書いているなんてね」と言う。エスポシトが書いている小説の題材は、25年前、4974年6月21日に起こった暴行殺人事件である。それを聞いたイレーネの表情が凍る。

素晴らしい導入部だ。映画的語り口が惚れ惚れするほどうまい。冒頭の10分たらずで様々な伏線を張り、ミステリアスな雰囲気を盛り上げる。主人公が書いている小説の場面として、断片的に描かれた三つのシーン、悲しみに充ちた駅の別離、幸福感にあふれた朝食、おぞましい暴行...、それらがどう結びついていくのか、そして、エスポシトとイレーネの複雑な視線の交錯は何を意味しているのか? 

●残酷で、美しく、悲しい、そして幸福感にあふれた映画

「瞳の奥の秘密」(2009年)は、日本ではあまり公開されることのない、スペイン語が飛び交うアルゼンチン映画である。舞台になるのはブエノスアイレス。それも現在から回想されるのは、70年代の混乱した政治体制下での物語だ。この映画が公開されることになったのは、アカデミー外国語映画賞を受賞したことがきっかけだろう。受賞するだけあって心に残る映画だった。残酷で、美しく、悲しい、そして幸福感にあふれた映画である。

エスポシトは大学を出ていない叩き上げの事務官。イレーネは有名大学を出た法学博士で、家柄もいいエリートである。日本の官僚機構で言うなら、キャリアとノンキャリアの違いである。官僚組織は階級社会だから、キャリアとノンキャリアの差はとてつもなく大きい。赤いベレーをかぶり溌剌としたイレーネが上司としてやってきたとき、エスポシトはそのことを強く意識したに違いない。

ある日、エスポシトは若い女の暴行殺人事件の担当になり、現場にいく。アルゼンチンの警察や検察機構がわからないので、エスポシトの仕事がどういうものか、最初はよく理解できなかった。検事局の事務官みたいなものかと思っていると、実際の殺人現場に出かけるし、捜査の指揮(これは越権行為らしいが)までとったりする。容疑者の取り調べも行う。

無惨な姿で裸身を晒して殺されていたのは、結婚したばかりの23歳の教師だった。新婚の部屋には幸福感が充ちている。壁や棚に飾られた被害者の写真。美しい若い女性の笑顔がエスポシトの脳裏に焼き付く。彼はその現場のひとつひとつのものを、記憶に刻み込むように見つめる。何かの強い力が、彼の心を鷲掴みにしたようだ。その部屋にそぐわない無惨な遺体。検死官の手が遺体の目を閉じる。その場面がエスポシトの記憶から消えない。

エスポシトは警部と一緒に、銀行に勤めている被害者の夫に会いにいき、夫が「今朝、レモンティーを飲んだ。彼女がいれてくれたんだ」と呆然とつぶやく言葉を耳にする。印象に残る。夫は現実感をなくしている。突然の悲しみに、言葉を失う。彼の中に、最後に妻と過ごした時間が甦る。それを象徴するのが、「レモンティー」なのだ。

この映画はセリフのディテールが重要で、「レモンティー」というキーワードはさらりと出てくるだけだが、事件から一年してエスポシトが夫と出会ったとき、彼は「今では、レモンティーだったのかジャムを入れたティーだったのかさえ、曖昧になっている」と、妻の記憶が薄らいでいくことに苛立ち、己を罵るように言う。過去が遠のいていくことを留めようとしているが、記憶は時間と共に薄れていく。

妻の死を知らされた夫が呆然とつぶやいた「レモンティー」の記憶は長くエスポシトの中にも残り、25年後、その事件を小説に書こうとしたときに甦る。冒頭の彼が思い描く小説の一場面。朝食を摂る幸福な若い夫婦はレモンティーをいれ、そのレモンティーに朝の陽光が差し黄金色に輝く。記憶の中では、すべてが美しく輝いている。

●過去を小説という形で明確に定着させようとする男の想い

「瞳の奥の秘密」は、記憶と回想の物語である。退職したエスポシトが記憶を甦らせるために書いている小説として描かれる回想シーンと、現在のエスポシトの行動が併行して語られていく。だが、記憶を甦らせ、過去を小説という形で明確に定着させようとする行為が、長く封印してきた様々な想いを現在に浮かび上がらせるのである。

時間は続いている。ひとりの人間の中で、彼が生きてきた時間は連続し、ときに錯綜する。人は、時系列で生きているわけではない。過去は過去としてきちんと整理され、封印されたものではない。過去は、現在に続いているのだ。だから、過去の意味を改めて確認しようとしたとき、エスポシトの中で現在の想いが顕在化する。封印し、閉じ込めていたはずの想いを再び燃え上がらせることになる。

「瞳の奥の秘密」はミステリとしての骨格を持ち、謎解き的な展開を見せる中で、男女の強い想いを浮かび上がらせ、それを普遍的な高みにまで昇華させる。ひとりの男が生きてきた時間が描かれるが、彼の中では25年という長い時間は自由に超越できるものだ。それは、どんな人も同じである。過去に強烈な情熱を持ったことがあれば、その記憶はその人にとっては、つい昨日のことのように思えるはずである。オンリィ・イエスタデイ...。

記憶は、自在に時空を超える。25年前に恋をした人と再会したとき、人は簡単に25年という長い時間を消すだろう。忘れていた情熱を瞬時に甦らせる。僕も60年生きてきて、そのことを思い知らされた。人の記憶とは、その人にとって重要なことが優先されて残り、どうでもよいことは忘却の波に呑み込まれる。人は何十年も前の初恋の人は忘れないが、特別な晩餐でない限り昨夜の食事の内容は憶えていない。

エスポシトにとって、その事件が忘れられないものになったのは、被害者の夫の執念であり、印象的な妻への愛である。夫は自ら復讐するつもりはないが、犯人が罰せられ、終身刑を宣告されることを望んでいる。夫は言う。「犯人には長生きしてほしい。長い空虚な時間を生きてほしい」と...。そして、そのセリフは別の意味を持って立ち上がり、エスポシトの口から語られるのである。

●想いは瞳に表れる。瞳は語りかけ、瞳は雄弁だ

事件が起こったのは、アルゼンチンの政情が不安だった頃だ。軍事政権が続いたアルゼンチン。1974年から1976年にかけては、イザベル・ペロンが女性大統領として話題になった。また、ゲリラや反乱分子の制圧に政府が苦労していた頃である。そうした時代背景を知っていると、エスポシトの同僚が容疑者を拷問して自白させ、事件を簡単に終わらせようとするエピソードにも納得がいく。

冤罪と知りながら犯人をでっち上げた同僚をエスポシトは告発する。同僚は左遷される。が、やがて別の部署の権力者としてエスポシトの前に現れる。エスポシトが苦労して逮捕した犯人を、ゲリラの情報を得るために協力させ、そのことを交換条件として恩赦にしてしまうのだ。いくらなんでも殺人者を...と思うが、当時のアルゼンチンでは起こり得たのかもしれない。

エスポシトが女教師暴行殺人事件の容疑者に気付いたのは、被害者の夫の部屋を訪ね、被害者のアルバムを見ていたときである。どの写真でも、美しい被害者をいつも見つめている、同郷の幼なじみの男の存在にエスポシトは注目する。その男の視線が明らかに何かを語っている。エスポシトは、酔いどれの相棒パブロに言う。

──奴の彼女への想いは瞳に表れている。瞳は語りかける。瞳は雄弁だ。

酔いどれではあるが鋭い観察眼を持つパブロは、その言葉がエスポシトの深く心の奥にしまい込んでいる想いを語っていることにも気付く。そして、容疑者の手紙を分析し、容疑者が熱烈な情熱の対象を持っていることを探り当てたパブロが言う「情熱だ。人は情熱を隠すことはできない」という言葉も二重の意味を持つ。それは犯人のことを語ると同時に、エスポシトについても語っている。さらに、すべての人に当てはまる普遍性を持つ言葉になる。

容疑者を特定できたものの、エスポシトはその男をひと足違いで逃してしまう。やがて、上層部の判断で事件捜査は終了する。一年後、エスポシトは駅で被害者の夫に出会う。彼は毎日、ターミナル駅で容疑者が通りかからないかと見張っていたのだ。その深い愛に感動したエスポシトは、イレーヌを説得して捜査を再開。パブロとふたりで容疑者を追い詰める。だが、事件は意外な展開を見せ、エスポシトの身にも危険が迫る...。

●過去こそが彼を生かし、現在には空虚な人生しかない

よく練られたプロット。感動的なストーリー。何重もの意味を持たせたセリフ。象徴的だが具体的で美しいイメージ。それらが一体となって「瞳の奥の秘密」という作品を創り上げ、公開時に朝日新聞紙上で沢木耕太郎をして「映画らしい映画を見た」と絶賛させた。映画ならではの鮮烈なイメージ、時空を自由に超越する映画的語り口、過去と現在の自由な映画的時制...、確かに、この物語は映画でしか表現できない。視覚に訴えるからこそ、より感動的である。

現在のエスポシトとイレーヌが、昔の写真を見るシーンがある。イレーヌがエリートのエンジニアと婚約を発表したパーティの写真だ。その写真の中でエスポシトの視線は、常にある人物に向けられている。一方、ファーストシーンでは去っていくエスポシトを見つめる女の双眸が映される。誰かを見つめること、見つめられること。秘めた想いの発露は「瞳」の中に表れる。

──いい小説になるわ。でも私には読めない。あなたは過去を振り返りたくても、私にはできない。私は常に前を向いて生きてきた。過去は管轄外よ。

──二十五年間、自問自答してきた。「忘れろ、すべては過去だ」...だが、できない。過去じゃない。今も輝いている。この空虚さをどう生きればいい。

有力者の一族に生まれ、優秀な検事としてエリートコースを歩んできたイレーヌと、ある想いを抱いて生きてきたエスポシトの言葉はすれ違う。彼は過去に囚われているのか。いや、過去の輝きを心の底に抱き続けてきたから、過去や現在という区別がなくなっているのだ。それは過ぎ去った時間かもしれないが、過去にはなっていない。過去こそが彼を生かしている。現在は空虚でしかない。

エスポシトは被害者の夫を捜し出し、25年ぶりに会いにいく。エスポシトの小説を読んだ被害者の夫は、「過去は忘れるべきだ。25年もたったのだ」と言う。だが、エスポシトは棚に飾られた殺された妻の写真に気付く。彼女が殺された部屋に飾られていた写真だ。美しい笑顔。「忘れるべきだ」と言う夫も、思い出の中だけで生きてきたのではないのか。エスポシトは問いかける。

──どう考えてもわからないことがある。彼女の不在にどう耐えた?
──忘れるんだ。忘れるべきだ。考えてもムダだ。妻は死んだ。パブロも死んだ。過去に囚われ、未来を失う。忘れた方がいい。思い出に惑わされるな。

夫の言葉は、子細らしく説教するような虚しさがある。過去に囚われてはいけない。前を向いて進むべきだ。そんな言葉を言われて、輝いていた過去を精神の核にして生きてきた男が納得するわけがない。はい、そうですか、と未来に向かうはずがない。美しいのは過去だ。夫だって、失った妻の写真を飾り、毎日、それと向かい合って生きてきた。過去を忘れられるはずがないのだ。

かつて久世光彦は「早く昔になればいい」と書いた。過ぎてしまった時間は美しい。小説にしろ映画にしろ、多くの物語は過去を振り返る構造になっている。「おもいでの夏」(1970年)のように青春を描いた物語はすべて、過去への郷愁に充ちている。年を重ねた男たちは、「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989年)の主人公のように過ぎ去った時間を回想し、過去の輝きを取り戻そうとする。それが年を重ねた男の特権だからだ。

僕も、もっと過去に囚われたい。どんな過去でもいい。己の人生を改めて鮮明に甦らせたい。どんな些細なことでもいい。たとえば通勤電車の窓からぼんやりと遠くの灯りを眺めているとき、不意に甦る思い出がある。それは、幼い頃に脳裏に焼き付いたほんの些細なことであったり、十代で経験した苦い失恋の記憶だったりする。あるいは、就職してすぐに受けた屈辱の記憶かもしれない。

だが、時間という距離を置いて眺めるとき、それは自分という人間が現在いる時空に存在するための、必然的な何かだったのだと強く感じる。すべては偶然ではなく、必然だったのだと...。人はひとつの時間しか生きることはできないし、それは自分だけの貴重な過去なのである。過去に囚われないで、あるいは反芻しないで、一体どうすればいい? 

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三連休あると、真ん中の日はしみじみとゆっくりできて幸せな気分になる。余裕は大切なのだと実感する。勤めて以来、ずっと週休二日だから人からは羨まれてきたが、人は慣れる。慣れれば、それが当たり前だと思ってしまう。とりあえず人並みの暮らしができる今を、感謝する気持ちで生きていたいと、宗教じみた心境になった日曜日であった。

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