映画と夜と音楽と...[512]虐殺の歴史は途絶えたことがない
── 十河 進 ──

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〈日本のいちばん長い日/悲情城市/レニングラード 九百日の大包囲戦/カティンの森/スローターハウス5〉

●レニングラードはドイツ軍に包囲され飢餓地獄になった

日本の夏は「終戦の夏」である。今年もテレビや新聞で「昭和20年8月15日」のことが語られた。毎年、戦争秘話がドキュメンタリーやドラマとして放映されるが、今年も日米の兵士に別れて戦うことになった実在の日本人兄弟の話がドラマ化され放映されていた。マスコミの終戦特集は年に一度のことだが、戦争は悲惨さしかもたらさないことを再認識するのはよいことだと僕は思う。

日本の8月はヒロシマ・ナガサキの悲劇で始まり、15日の終戦記念日(敗戦記念日と言うべきだと主張する人もいるけれど)でヤマ場を迎える。僕は池上彰さんのポツダム宣言受諾から玉音放送までの出来事を解説するテレビ番組を見たが、「ああ、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(1967年)は、こういうことだったのね」と改めて理解した。

8月15日は日本では終戦記念日だが、台湾や韓国では「日本の支配から解放された記念日」である。昔、台湾映画「悲情城市」(1989年)を見たとき、ファーストシーンで玉音放送が流れ虚を突かれた記憶がある。フランス、イタリア、ドイツなどの映画を見ていると、やはりその国なりの戦争の記憶があり、様々な違いがあることがわかる。共通するのは、戦争は悲劇しか生まないことである。




先日、日本未公開だった「レニングラード 900日の大包囲戦」(2009年)をWOWOWの放映で見た。主演が僕の好きなミラ・ソルヴィーノだったからだ。少し老けたけれど、相変わらず知性の輝きがある。ガブリエル・バーンも久しぶりに見た。名優アーミン・ミューラー=スタールがドイツの将軍役で出ていた。気に入ったのはソ連の女性警官を演じた少年のような女優(オルガ・ストローヴァ)である。主なスタッフはロシア人であり、制作はロシアとイギリスになっている。

デイヴィッド・ベニオフについては、以前に「99999(ナインズ)」(新潮文庫)という短編集が気に入ったことを書いたけれど、昨年、早川ポケットミステリから出た「卵をめぐる祖父の戦争」も評判になった。僕もすぐに読んだのだが、ドイツ軍に包囲され食料がなくなったレニングラードで卵を探す話が、不条理劇を見ているようで印象に残った。

「卵をめぐる祖父の戦争」ではデイヴィッド・ベニオフ自身が冒頭に登場し、自分の祖父から聞いた話だとして語り始める。デイヴィッド・ベニオフの祖父は飢餓地獄に陥ったレニングラードで卵を探す羽目になるのだが、そのとき人を殺したことを孫に漏らす。作家になった孫が、その祖父の冒険を調べるという構成になっているのだ。

1941年9月から1944年1月まで、ドイツ軍はレニングラードを包囲して物流を止めた。その結果、食料は枯渇し、多くの人が飢餓に苦しみ死んでいった。そのことは知識として知ってはいたが、死者の数が百万人を超えているとなると、ヒロシマ・ナガサキ以上だと改めて驚いた。

戦争によってもたらされる死はすべて残酷だが、スロー・デスとも言える飢餓の果ての死は、悲惨さを極める。「卵をめぐる祖父の戦争」では文章で読み想像したレニングラードの惨状が、「レニングラード 900日の大包囲戦」では映像として再現されていた。

●飢餓の中でヒロインたちは最後まで愛する人たちに尽くす

モスクワに各国のジャーナリストたちが集まっている。イギリス人ジャーナリストのケイト(ミラ・ソルヴィーノ)は上司のパーカー(ガブリエル・バーン)と恋愛中だが、危険なレニングラードには派遣できないと言われて反発する。仕方なく、パーカーはケイトと一緒にレニングラードの最前線の取材に赴く。

しかし、ケイトは取材中に爆撃に遭い行方不明になり、ソ連の警察官は死亡と報告する。パーカーは後ろ髪を引かれる思いで、ソ連政府が用意した飛行機でレニングラードを脱出する。その頃、ケイトは男勝りの女性警官ニーナに救われるが、ニーナの上司は「死亡と報告した私が罰せられる」と官僚主義的に言い始め、ケイトが殺されると思ったニーナは彼女を自宅に匿うことにする。

ニーナの住む家は有名なオペラ歌手の屋敷であり、ニーナの母親は長く家政婦をやっている。また、オペラ歌手にピアノを教えたり、伴奏したりするピアノ教師も住み込んでいて、彼女の子供たちであるユーラとシーマがいる。ケイトの世話をニーナに頼まれたというユーラはチェスの天才少年だが、栄養不足で立ち上がることができなくなっていた。

パーカーはイギリスのケイトの実家を訪ね、彼女が死んだことを伝えるが、そこでケイトの父親がロシア革命のときの白軍の将軍だったことを知る。ケイトがあれほどロシアにこだわった理由を知ったパーカーは、ケイトの死を記事にまとめる。しかし、その記事をソ連共産党の高官が読み、ケイトがスパイとしてレニングラードに潜入したのではないかと疑う。

警察官でありながら党本部に逆らって西側ジャーナリストを匿ううちニーナはケイトに強い友情を感じ始め、ケイトも屋敷に住む人間たちに家族のような愛情を抱き始める。ある日、ケイトはユーラとシーマの母親が、自分とユーラへ配給された食料を、すべてシーマに与えていることに気付き、母親を責める。しかし、母親は「ユーラと私はどうせ死ぬわ。シーマの生命力に賭けてるの」と、淡々と答える。飢餓が、母親にどちらの子を生かすか選ばせるまで追い込んだのだ。その母親も、ある朝、冷たくなっていた。

レニングラード背後の湖が凍結し、党の幹部から氷上ルートで食料を運び込む案が出され、党は氷上ルートの探索チームを結成する。そのチームにニーナが指名され、多くの犠牲者を出しながらも運搬ルートを確保したため、報奨としてチームの人間の家族たちが優先してレニングラードを脱出できることになる。

ケイトたちもニーナの家族としてレニングラードを脱出できることにはなったが、そのためには自力で湖までいかなければならない。栄養不足で朦朧とした意識を奮い立たせ、階段さえ昇れなくなった体を引きずりながら、ケイトはユーラとシーマを連れて湖へ向かおうとする。だが、ユーラは歩けず、ケイトも彼を背負うことはできない。「ふたりだけでいって」と言うユーラ。「私も残る」とシーマが言う。

飢えて幻覚まで見るようになったケイトが少しも痩せていないじゃないか、などと突っ込む野暮は言わないでほしいが、レニングラードの飢餓地獄を描いた映画を見たのは初めてだった。土を湯で溶かしてスープにする。人の死骸を食うために切り刻む男がいる。死にかけた馬車馬に人が群がる。市場で売られている肉が人肉ではないか、とケイトが疑うシーンもある。飢えは、人から尊厳を奪う。

悲惨なこの映画が気に入ったのは、飢餓地獄の中で人を愛し続けたヒロインたち(ケイトとニーナ)に感情移入してしまったからだ。脱出する人たちを対岸に送り届け、食料を満載したトラックでニーナは再びレニングラードに向かう。迎えにきたパーカーに幼いシーマを託し、ユーラの元へ食料を届けるためにケイトもそのトラックに便乗する。彼女たちは愛する人たちを最後まで愛し、自らの死を厭わない。

映画はラストに「レニングラード包囲戦は882日間続いた。その間、およそ150万人が命を落とした。1944年1月27日、レニングラードは解放された」とクレジットタイトルが出る。レニングラード包囲戦は、ロシア人にとってのヒロシマ・ナガサキであり、東京大空襲なのかもしれない。

●ラストシーンで戦慄したアンジェイ・ワイダの「カティンの森」

ナチス・ドイツはアウシュビッツなどの強制収容所でユダヤ人を大量虐殺したうえ、レニングラードでは都市そのものを兵糧攻めにしてロシア人を飢餓地獄に陥れ、多くの人を死に追いやった。しかし、ソ連軍も無数の人を殺している。日本人にとっては、終戦直前に日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州に攻め込んできたソ連軍がトラウマになっているし、シベリア抑留で死んだ日本人は数え切れない。戦争では殺す側と殺される側しかいないし、死んだ人間と生き残った者が存在するだけだ。

それでも「灰とダイヤモンド」(1957年)で世界的評価を受けたポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダが久しぶりに監督した「カティンの森」(2007年)のラストシーンを見て、僕は戦慄した。ソ連軍は次々にポーランド軍捕虜たちを後ろ手にして跪かせ、後頭部を撃ち抜く。ソ連兵の役割は決まっていて、流れ作業である。一定の間隔を置いて響き渡る銃声。そのたびに僕は身を震わせた。

捕虜たちを押さえていた両側のソ連兵が、死んだ捕虜を大きな穴の中に放り込み、ブルドーザーが土をかぶせていく。死屍累々。死体の山。処刑工場のラインのような、その流れ作業を映画は克明に延々と映し出す。そのシーンから受ける衝撃は激しく、記憶に刻み込まれる。フェードアウトの後、スクリーンに鎮魂の歌が流れる。鎮魂歌が身体の隅々まで染み渡っていく。それがなければ、映画館の椅子から立ち上がれなかっただろう。

ナチス・ドイツに侵攻されたポーランドは、反対側からはソ連軍に侵略される。戦勝国となったソ連は、戦後、「灰とダイヤモンド」で描かれたようにポーランドを支配する。ポーランドは共産主義国家となり、ソ連の強い指導の元に戦後の歴史をスタートさせる。ソ連が崩壊し、東欧諸国が解放された結果、ようやく「カティンの森」のような映画を作ることができたのだ。

1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、人々が避難をするシーンから「カティンの森」は始まる。だが、人々が逃げる反対側からも多くの人が逃げてきて、「ソ連軍がきたのよ」と言う。そんな中、アンナは娘を連れてポーランド軍の将校である夫に会いにいこうとしている。

しかし、夫はソ連軍の捕虜になっていた。アンナは娘と捕虜として連行される夫を見送る。夫の友人の将校が、「大丈夫だ」と言うようにうなずく。アンナは、ソ連軍の占領地区に留まる。しかし、ソ連軍はポーランド軍関係者の家族の逮捕を始める。ソ連軍将校の好意で逮捕を免れたアンナは娘と共にクラクフに戻り、夫の母親と同居する。そこは、ナチス・ドイツの占領下である。

ナチスがカティンの森で数え切れない死体が埋められているのを発見し、ソ連軍の暴挙だと告発する。ナチスは、いい宣伝材料だと考えたのだ。それに対して、ソ連軍は虐殺はナチスの仕業だと反論する。アンナは、消息の消えた夫の安否に一喜一憂する日々を過ごしている。やがて戦後、ソ連の影響下にある共産党支配のポーランドでは、「カティン」という言葉さえタブーになっている。

一万数千人が手を縛られ後頭部を撃ち抜かれて殺されたカティンの森の虐殺で、アンジェイ・ワイダの父親も死んでいるという。アンジェイ・ワイダは1926年生まれ。第二次大戦が終わったときは、まだ20歳前だった。絵画を学びながら、国立映画大学に通い、「世代」(1654年)で監督デビューし、三作目の「灰とダイヤモンド」が世界に衝撃を与えた。

「カティンの森」に登場するアンナの甥は、アンジェイ・ワイダが自らの姿を投影した人物なのかもしれない。青年は戦争中は地下組織で高等教育を受け、戦後、美術大学への進学を希望するが、カティンの森事件をソ連軍の仕業と主張したため、校長から「カティン問題は人民共和国への忠誠の尺度」と指摘される。ソ連が虐殺などするはずがないと教育することを校長は担当教師に命じる。

カティンの大虐殺は、ソ連崩壊間際になってゴルバチョフがソ連軍がやったことと認め、数年前にプーチン大統領が「あれは犯罪だった」と発言した。もしかしたら、ロシアとポーランドにとっての「カティンの森事件」は、日本と中国との認識に大きな齟齬がある「南京大虐殺」なのかもしれない。

●ドイツ軍捕虜としてドレスデン大空襲を地上で体験した作家

僕はカート・ヴォネガット・ジュニア(後にジュニアがなくなる)の「屠殺場5号」という古い本を持っている。もしかしたら、今は「屠殺場」という言葉は使えないのだろうか。この小説も今では「スローターハウス5」のタイトルで出ている。おそらく映画版「スローターハウス5」(1972年)が公開された1975年以降、今のタイトルに変更されたのだろう。

僕が読んでいた頃、カート・ヴォネガット・ジュニアはカルトなSF作家の位置付けだった。若者たちには人気があったけれど、メインストリームではなく、サブカルチャー系の作家だった。同じようなSF作家にフィリップ・K・ディックがいた。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」が「ブレードランナー」(1982年)になり、フィリップ・K・ディックが有名になったように、カート・ヴォネガットもアメリカを代表する文学者となった。

村上春樹さんの「風の歌を聴け」が「群像」新人賞を受賞したとき、カート・ヴォネガット・ジュニア(その他、フィッツジェラルドやブローディガン)の影響を指摘されたのは、「そういうものだ」というフレーズが多用されていたからかもしれない。「スローターハウス5」には、「そういうものだ(So it goes)」が多用される。こんな具合だ。

──懐中電灯を持ったドイツ兵がひとり闇のなかにおりてゆき、長いあいだとどまっていた。やがて出てくると、穴のふちで待つ上官に、数十の死体があると告げた。死体はみんなベンチにすわっていた。どれも無傷であった。そういうものだ。上官は、穴をひろげて、死体を運び出せるように梯子をおろせと指示した。こうしてドレスデン最初の死体抗の発掘が始まった。(伊藤典夫・訳)

「スローターハウス5」を監督したのは、絶頂期のジョージ・ロイ・ヒルだ。「明日に向かって撃て」(1969年)と「スティング」(1973年)の間に制作した。日本公開が遅れたのは、あまり受けないだろうと判断されたからだ。アートシアター系での劇場公開だった。当時、知られていたのは監督の名前だけだった。僕はロイ・ヒルが「屠殺場5号」をどう映画化したか、確認したくて見にいった。

不思議な映画だった。時空を超越し、主人公は様々な時代や様々な場所に存在する。核になるのは、1945年2月13日から14日の朝にかけて行われたドレスデンの大空襲である。その夜、10数万人が死んだと言われているが、正確な数字は把握できていない。カート・ヴォネガット・ジュニアはドイツ軍の捕虜として、ドレスデン大空襲を地上で経験した。その地獄のような経験が「スローターハウス5」になり、ジョージ・ロイ・ヒルが映像化した。

東京大空襲は、ドレスデン大空襲からひと月ほど経った1945年3月10日のことだ。この日、東京の下町を中心に10万人近くの人が亡くなった。宗左近の詩集「燃える母」や山田風太郎の戦中日記、あるいは都築道夫の自伝エッセイ「推理作家の出来るまで」など体験者による文章で僕は多くを知ったが、アメリカ軍は軍事施設への爆撃ではなく、焼夷弾で街を焼き尽くすのを目的にした。なぜ、非戦闘員をこれほど殺す必要があったのか。

レニングラード、カティン、アウシュビッツ、ドレスデン、東京、ヒロシマ、ナガサキ...、僕が生まれるほんの6、7年前に起こった虐殺である。その後、カンボジア、ボスニア・ヘルツェコビナ、ウガンダ...と虐殺の歴史が途絶えたことはない。それでも、僕はひとりの少年の命を救うために、再び飢餓の地獄へ帰るケイトとニーナの姿に希望を感じる人間でありたいと思う。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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それまでデジクリには単発で何度か書いたけれど、1999年8月28日からこの連載が始まり、ずっと続いている。その日は土曜日だった。最初の頃、デジクリは週休一日だったのだ。週末担当はそれ以来変わらないけれど、時代は変わったし、僕の周囲も変わった。おそらく僕もかなり変わったのだろう。来週から連載が13年目に入る。継続は力になったのだろうか?