映画と夜と音楽と...[513]「ぴあ」が存在していた39年/十河 進

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〈極私的エロス 恋歌1974/ゆきゆきて、神軍/全身小説家/夏子と、長いお別れ〉

●紀伊国屋のカウンターに積み上げられていた「ぴあ」

「ぴあ」が7月で休刊になった。「39年の歴史に幕を閉じた」と報じられていた。創刊は1972年7月だという。そう、そんな頃だったな、と紀伊国屋のカウンターに積み上げられていた創刊当時の「ぴあ」を僕は思い出した。たぶん、新宿テアトルで3本立てを見て、紀伊国屋に寄ったときだと思う。50円くらいだった記憶がある。いや、100円だったかな。

もちろん、僕はその「ぴあ」を買い、二幸裏のレストラン「カトレア」に入って、ロールキャベツを注文した。ロールキャベツが出てくるまで、僕は「ぴあ」という初めて見る情報誌をパラパラとめくり、ああ、これはパリにあると聞いた「コンサート・ガイド」の映画版だな、と思った。そして、そこに載っている名画座の上映作品の情報に驚喜した。

東京に住んで2年が過ぎていた。上京してすぐに名画座通いを始めた。食事を抜いて金を浮かし、映画を見た。予備校には、ほとんどいかなかった。最初に住んだのが赤羽線板橋駅の近くだったが、駅近くに名画座があった。その映画館には毎週通ったのに、3ヶ月で閉館になった。僕は「人生坐」という名前で記憶していたのだけれど、後に池袋文芸坐の鈴木支配人に会ったとき、その話をしたら「それは弁天坐でしょう」と言われた。

池袋は近かったので、文芸坐と文芸地下、日勝文化などはすぐに見付けて、毎週、プログラムをチェックした。東京の名画座に詳しかった友人が教えてくれたのは、銀座並木座、新宿テアトルだった。飯田橋の佳作座とギンレイホールは、どうしても見たい映画が掛かると足を運んだ。大塚名画座、ときには亀有名画座まで出かけたこともあった。



大学に入った年の秋、丸ノ内線の方南町に引っ越し、それ以来、新宿の映画館が中心になった。日活名画座は、もうなくなっていたと思う。新宿文化や蠍座は封切館で高かったから、オールナイト5本立てくらいにしかいかなかった。三越裏の昭和館と昭和館地下でヤクザ映画を見て、新宿テアトルで3本立てを見るのをメインにして、掛かる映画によって新宿ローヤルなどに入った。

大学がお茶の水だったので方南町から丸ノ内線で四谷に出て、国電の中央線快速に乗り換えていたから、ほとんど映画は新宿で見ることになった。中央線快速は飯田橋を通過するので、佳作座やギンレイホールからは足が遠のいた。その頃の新宿には二番館がいっぱいあって、ほとんどの映画が見られた。週末のオールナイト上映で、鈴木清順特集や日活ニューアクション特集を見ていた。

そんな頃、僕は紀伊国屋のカウンターに置かれた薄っぺらいパンフレットのような「ぴあ」を見付けたのである。欄外に載っていた「はみだしぴあ」はまだなかったはずだが、もしかしたら「ぴあ」を映画館の切符売り場で見せると割引料金になるサービスは始まっていたかもしれない。「ぴあ」購入費は、その割引でまかなえた。

「ぴあ」のビジネスモデルは先見性があった。創刊から間もなくして「ぴあ」は急成長し、対抗誌「シティーロード」が創刊された。情報誌に徹していた「ぴあ」に対して、「シティロード」は評論家たちに上映中の映画の星取り表を依頼したり、読み物を充実して差別化を図っていた。

●「ぴあ」は僕の大学の映研メンバーが立ち上げたと聞いた

「ぴあ」を立ち上げたのが、僕が通っていた大学の映画研究会の学生たちだと聞いたのは、いつ頃のことだっただろう。僕が2年だった頃に、おそらく彼らは4年生だった。「ぴあ」は学生たちが起業して成功した企業のハシリだったのだ。矢内さん、黒川さん、専務になった西村さんなどが起業メンバーだったのだろう。

僕が通っていた頃の中央大学は、お茶の水駅聖橋口を出て小川町交差点に向かって5分ほど歩いたところにあった。日販ビルの前を過ぎるとニコライ堂がある。さらに日本大学の校舎があり、それに隣接して中央大学文学部校舎のビルがあった。僕はそこに通っていたのだが、道を挟んで中庭を囲む形の本校舎があり、そこの正面の門がいわゆる「白門」だった。

東大の「赤門」に対しての「白門」だったのだと思う。その頃の中央大学のセールスポイントは、司法試験合格者数がトップだということだった。中央大学と言えば法学部法律学科であり、在学中から司法試験を目指す連中がいっぱいいた。「白門会」という団体があり、法曹界では名門だと聞いたことがある。そんな頃、僕は「法学部の後光で輝いている文学部」に通っていたのである。

第一回ぴあ展が開かれたのは、いつ頃のことだっただろうか。僕は就職して数年経っていたと思う。まだ月刊「小型映画」編集部に異動する前だった。僕は8ミリの特集誌を作っていた。「トーキー入門」「映画制作入門」「旅の8ミリ映画の作り方」「8ミリ映画監督入門」といったタイトルの本である。同時録音ができる8ミリカメラが発表になった頃だった。

隣が8ミリ専門誌「小型映画」編集部だった。そこにいた日比野さんは、後に「自主映画の母」と呼ばれるほど若い映画作家たちに肩入れしていた女性で、彼女のところにはまだ医大生だった大森一樹さんや日大生の森田芳光さんなどがきていた。日比野さんは「ぴあ」とも親しく、あるとき彼女から「ぴあ展」のチケットをもらった。「何ですか、これ?」と訊いた僕に、「きみ、映画が好きだから...」と日比野さんは答えた。

大泉の東映撮影所を借り切って開催された第一回ぴあ展は、大がかりな文化祭みたいだった。あちこちの撮影スタジオで、映画や演劇や音楽に関係するイベントが行われていた。僕は初めて入った撮影所に興奮し、所内を歩きまわったものだ。そのときに僕は評判になっていたけれど、なかなか見ることができなかった「極私的エロス 恋歌1974」(1974年)を見たのである。

当時、監督であり撮影も担当した原一夫さんは30前。ドキュメンタリーの秀作として「極私的エロス 恋歌1974」は評判になっていた。後に、原監督は奥崎謙三を追い続けたドキュメンタリー「ゆきゆきて、神軍」(1987年)が大評判になり、その7年後、晩年の井上光晴を5年かけて撮影した「全身小説家」(1994年)が高く評価された。

日比野さんは自主制作映画の世界で顔が広かったから、もしかしたら「極私的エロス 恋歌1974」などの上映に協力していたのかもしれない。同じ頃、彼女は「杳子」(1977年)をプロデュースした。ネットの「映画データベース」で調べると、初公開は1977年10月22日になっているから、その日、「ぴあシネマブティック」の上映作品として、科学技術館の地下ホールで上映されたのだ。当然、僕もその場にいた。

「ぴあシネマブティック」は、やがて「ぴあフィルムフェスティバル」へと発展する。現在は、「PFF」と言った方が通りがいいかもしれない。多くの映画作家たちを輩出してきたコンテストだ。「杳子」をプロデュースした日比野さんは、長崎俊一監督の作品も制作し、やがてPFFディレクターとして活躍することになるのだが、ぼくを「ぴあ」に引き込んだのは日比野さんだった。

●就職して「ぴあ」に出入りし始めた頃のこと

「ぴあ」が映像作品の募集を始めたのは、僕が「小型映画」編集部に異動した頃だった。「ぴあ」でフィルムフェスティバルを担当していたのが、菊池さんという女性と西村隆さんだった。自分の名前を「リュウ」と読ませ、「リュウ・アーチャー探偵事務所」を名乗っていたし、職場の本棚にはジョゼ・ジョバンニのポケミスが並んでいた。僕と趣味が同じだった。

西村さんは、大森一樹監督の学生時代からの自主映画仲間だった。大森監督が城戸賞を受賞した「オレンジロード急行」(1978年)で商業映画の世界にデビューした後、再び自主制作した「夏子と、長いお別れ」(1978年)に出演をしている。口ひげを生やした西村さんは、なかなか絵になる人だったのである。この作品の上映は文芸坐で行われ、僕は自主映画を商業映画館が上映する意図を当時の鈴木支配人に取材したことがある(先ほどの弁天坐の話はそのときに聞いたのだった)。

「ぴあフィルムフェスティバル」の作品募集に協力する形で、僕は水道橋からお茶の水に向かって線路沿いに歩き男坂と女坂の間にあった猿楽町の「ぴあ」に出入りを始めた。いつも日比野さんがいた記憶がある。日比野さんが「ぴあフィルムフェスティバル」の下審査に入っていたのではなかっただろうか。ということは、彼女はもうフリーになっていたのかな。

その頃から「ぴあ」は不夜城だった。だから、僕も徹夜でつきあったこともある。近くに「ヴェジタリアン」というレストランがあり(今でもある)、深夜にそこで酒を飲むこともあった。日比野さんがいつもカンパリソーダを頼むので、僕も付き合ったらけっこう気に入り、「ヴェジタリアン」というと赤いカンパリソーダが今でも浮かんでくる。

ある日、日比野さんに「この人、ぴあ本誌の副編集長」と紹介されたのが、盛田隆二さんだった。マッシュルームカットに口ひげだったから、印象に残った。ブルージーンズにアロハ風のプリント柄の派手なシャツを着ていた。盛田さんは、その後、小説家になり、先日も光文社の書籍広告で名前を見かけた。紹介された頃はまだ20代だったはずだが、盛田さんももう五十半ば。遠くまできたんだなあ、と月並みな感慨が浮かぶ。

●「ぴあ労働組合」公然化集会で連帯の挨拶を送った

「ぴあ」に組合ができると聞いたのは、1984年の春だった。出版労連に組織部という部署があり、そこで長く活動していた角川書店労組のKさんからの話だった。出版労連に「組合を作りたい」と相談があると、組織部から担当が張り付きになり、非公然で組合加盟者を増やし、もう大丈夫となったときに組合を公然化し、経営者に要求を突きつける。

公然化前に経営側に組合結成の動きを知られるのが、組織部が最も怖れることだった。それによって、公然化前に組織を切り崩された苦い経験が、組織部には数え切れないほどあったのだ。経営者に「組合結成の動きがある」とご注進に及ぶのは、社歴の長い社員や管理職に組合加入を勧誘したときである。だから、管理職へのオルグは、公然化直前に行うのがセオリーだった。

しかし、「ぴあ」の組合結成の動きは、比較的社歴の長い人や中間管理職を中心に起こったため、結成委員長は副部長といった肩書きが付いていたし、結成書記長を引き受けた盛田隆二さんは、その頃はムック編集長だったと記憶している。そういう人たちが中心メンバーだったので、彼らにとって部下である若いスタッフたちをオルグするのは簡単だったのかもしれない。後に組織部のKさんは「ぴあは公然化が早すぎた。もっとじっくり準備すべきだった」と悔やんだ。

当時、「ぴあチケットサービス」の立ち上げが進められていた。経営者としては、正念場だったのだ。チケットサービス事業を共同で立ち上げるはずだったセゾンと決裂し、セゾンが独自にチケットサービスを立ち上げていたので、「ぴあ」としては窮地だった。その状況が組合に幸いした。経営陣は組合ともめるより、呑める要求は呑んで速やかな新事業のスタートを望んだのである。

ぴあ労働組合の公然化は、3月に行われた。自社の労働組合委員長二期目だった僕は、なぜか連帯の挨拶をさせられることになった。当日、昼休みに「ぴあ」の社前(すでに麹町に移転していたが)に大勢の出版労連の組合員たちが集まった。僕の会社の組合員たちもほとんどが顔を見せていた。出版労連の宣伝カーが、その群衆の真ん中に駐められた。

その宣伝カーの屋根には手すりがあり、はしごで登れるようになっている。出版労連書記長が立って、ぴあの組合結成を宣告し、ぴあの初代委員長と書記長が登り、組合結成の宣言文を読み上げ、要求を羅列した。彼らが降りた後、僕はひとりで宣伝カーに登り、マイクを持ってぴあの社屋を見上げた。それから、僕は連帯の挨拶を力強い声で喋り始めた...。

後に日比野さんに会ったときに言われたことだが、そのとき、彼女は「ぴあ」の社屋の上階にいて僕が連帯の挨拶をするのを見下ろしていたという。「G社労働組合がイヤで会社を辞めたのに、こんなところまで追いかけてきたって...思ったわよ」と彼女は笑いながら言った。そのとき、日比野さんはPFFディレクターの肩書きを持っていた。

●「ぴあ」に一年間張り付きになって感じたこと

ぴあ労働組合が出版労連の家庭書共闘会議という組織に配置されたのは、ぴあの組合員たちには不評だった。「家庭書? 僕たちは大手総合書共闘じゃないの」と彼らは思ったことだろう。しかし、大手総合書の組合が獲得している労働条件とは大きな開きがあり、当面は家庭書共闘会議でもいいやと納得したのかもしれない。

自社の労働組合委員長を降りた僕は、家庭書共闘会議の事務局長という役を引き受けていた。そして、結成して数年しか経っていないのに組織問題が出始めていたぴあ労働組合を何とか鍛え直してほしいという出版労連組織部のKさんの要請を受けて、僕が一年間、ぴあ労働組合に張り付くことになった。

張り付くとはどういうことかと言うと、毎週水曜日の夜に行われる執行委員会に参加し、組合の集会に参加し、要求提出や団体交渉といった経営陣との交渉の場に立ち会うことである。ぴあ労働組合の執行委員と同じように行動するのだ。僕は、全体集会で挨拶し、その後、毎週水曜日に仕事を終えてから「ぴあ」に通った。

出版労連には地域協議会という地域割りの組織があり、麹町地域協議会からは副議長のUさんがやはり「ぴあ」の張り付きになり、毎週の執行委員会に参加した。出版労連で熱心な活動をしている人たちは原則的な考えを持つことが多く、Uさんはあまり労働組合的ではない「ぴあ」の執行委員たちに、「それは組合的なやりかたじゃない」とか、「それは組合原則に外れる」と忠告し...、その結果、ひどく嫌われてしまった。

その頃になると僕の組合経験も長くなったが、元来、出版労連に対して批判的な組合(反主流派)で育ったものだから、僕はUさんのような忠告めいた言葉は口にしなかった。その組合のことは、そこの組合員が納得する形で決めればいい、それが組合的な決定でなくてもいいと僕は思っていたし、教条的な考え方には反感を持っていたからだ。だから、自分の経験として「こっちの選択がいいんじゃないか」というアドバイスしかしなかった。

執行委員会が終わると、数人と飲みにいくことが多かった。そのとき、僕は労働組合の話はまったくせず、映画や音楽や小説の話をした。自分の得意分野である。その結果、当時の若い執行委員長に言われたのは、「ソゴーさん、労連の人じゃないみたいですね」だった。僕は自分が「労連の人」と思われていたのだと知り、ショックだった。しかし、彼らにとっては上部団体である労連の人だったのだ。

ぴあの団体交渉は夜の7時すぎから始まり、明け方まで続くことが多かった。一度など朝の8時過ぎまで続き、僕は一睡もせずに会社に出て、そのまま夕方まで働き、帰宅して倒れるようにベッドに入ったことがある。社長の矢内さんは団交には出ず、近くの別の場所にいて経営側団交団と電話連絡を取り合うのだと、ぴあの委員長に教えてもらった。組合側の団交責任者は僕だったので正面中央の席に座り、経営側団交責任者の西村専務と対峙した。

あれは、団交が休憩になって、エレベーターで地下の組合事務所に執行委員たちと一緒に降りようとしていたときのことだ。近くの部屋のドアが開いて、西村隆さんが出てきた。ひさしぶりだった僕の顔を見るとニヤリと笑い、「おう、上部団体の人じゃないか」と言った。西村さんは組合員ではなかったが、その冷やかしの言葉に僕は妙に暖かみを感じたものだった。

「ぴあ」休刊の話を聞いて思い出したのは、西村さんのことだった。もう四半世紀も昔のことだけれど、今でも、「おう、上部団体の人じゃないか」と言った西村さんの声が甦る。あれ以来、西村さんには会っていない。今も「リュウ・アーチャー探偵事務所」を名乗っているだろうか。名前が「隆」だったら(父と同じになるが)、僕も「リュウ・アーチャー探偵事務所」を名乗りたかった、と西村さんと最初に会ったときに思ったことを僕は懐かしく思い出した...。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

毎年、9月になると「九月になれば」という映画のタイトルだけが浮かんでくる。音楽なら単純だけど、「セプテンバー・ソング」を思い出す。日本の歌だと「誰もいない海」の最初のフレーズが甦る。いい歳をして、胸が締め付けられるような気がする。去りゆく夏...、という字面を見ただけで感傷に浸れる。便利な性格だと思う。

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