映画と夜と音楽と...[514]「死刑台のエレベーター」とふたりの監督/十河 進

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〈死刑台のエレベーター/恋人たち/鬼火/アトランティック・シティ/ダメージ/独立少年合唱団/いつか読書する日/のんちゃんのり弁/愛と死と/休暇〉

●40年の監督生活で20数本の作品を遺したルイ・マル

その男は、日本人から見れば非常に短い姓と名を持っていた。ルイという名に、マルという姓である。最初に聞いたとき、僕はルイマルという名前で姓は別にあるのだと思っていた。ジャンヌ・モローとブリジット・バルドーが共演した「ビバ!マリア」(1965年)という映画で、初めてその名前を耳にしたのだ。

「ビバ!マリア」は、人気絶頂だったふたりのフランス女優がメキシコ革命を背景に大騒ぎする映画だった。シリアスな映画ではなかったし、といってコメディとも断言できない。ふたりの女優はコルセットとガーターベルト(そんな名前さえ中学生の僕は知らなかったけれど)姿で走りまわっているだけの印象があり、僕には楽しめなかった。

だから、ルイ・マルという名前を意識したのは、マイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」というLPを聴いたときだった。試写室に映し出されるラッシュフィルムを見ながら即興で音楽を吹き込んでいった、という伝説がもっともらしく語られていた。僕は「死刑台のエレベーター」が見たくてたまらなくなったが、創元推理文庫で出ていたノエル・カレフの「死刑台のエレベーター」を読むことで我慢した。

ルイ・マル本人についても調べてみた。フランスの大企業の経営者一族の出身だという。その大企業はプジョーだったかルノーだったか忘れたが、少なくともシトロエンではなかった。1932年に生まれ、ジャック=イヴ・クストーとの共同監督作品「沈黙の世界」(1956年)を経て、「死刑台のエレベーター」(1957年)を製作し、25歳の新進気鋭の監督として、一躍、全世界に名前が知られた。

「恋人たち」(1958年)「地下鉄のザジ」(1960年)「私生活」(1962年)「鬼火」(1964年)と続く、その後の作品歴を見ると、「死刑台のエレベーター」がフロックではなく、真に才能のある若者によって作られたことがわかる。「恋人たち」「鬼火」など、何度見ても僕はゾクゾクするし、「地下鉄のザジ」は映画史の中でも実験作として評価が高い。

後年、ルイ・マルは何作かをハリウッドで作った。アイドル的人気があったブルック・シールズを主演にした「プリティ・ベビー」(1978年)からである。ルイ・マルは女優を魅力的に撮る監督だと思われているが、次作の「アトランティック・シティ」(1980年)では、年老いた元ギャング(バート・ランカスター)の悲哀をしみじみと描き出した。ヒロインは若きスーザン・サランドンであり、彼女の代表作になった。



その頃、僕はルイ・マル夫人がキャンディス・バーゲンだと聞いて驚いたことがある。彼女はハリウッドの知性派女優で、その頃はテレビキャスターを演じているシリーズドラマが日本でもNHKで放映されていた。ルイ・マルが1995年の晩秋にガンで死んだときは、キャンディス・バーゲンが看取ったと聞いた。彼女との間には娘がひとり残った。

「アトランティック・シティ」以降、ルイ・マルはフランスに戻って「さよなら子供たち」(1987年)「五月のミル」(1989年)などを作り、イギリス・フランス資本で「ダメージ」(1992年)を監督した。ジュリエット・ビノシュとジェレミー・アイアンズ主演の官能に充ちた物語だった。「死刑台のエレベーター」「恋人たち」以来、ルイ・マルが描き出すセックスの情動、官能性は衰えてはいなかった。

ルイ・マルは、63年の人生を生きた。「死刑台のエレベーター」を作ったのは、25歳のときだった。40年にわたる監督生活で、20数本の作品を遺した。日本未公開のものもあるし、あまり評判にならなかった作品もある。しかし、僕が見た15本の作品は好き嫌いはあるけれど、どれも完成度は高かった。

●25歳の青年によって作られた完璧な作品

先日、改めて「死刑台のエレベーター」を見たが、その完成度の高さには驚くしかなかった。この物語を、これ以上の形で作ることはできない。そういう意味では、完璧な映画だ。撮影サイズ、カメラアングル、フィルム編集、ナレーション...、どれをとっても変更不能である。「死刑台のエレベーター」が25歳の青年によって作られたとは、とても信じられなかった。天才としか思えない。

25歳の頃、僕は何をしていたのか。23歳で大学を卒業し、今も勤めている出版社に入った。その年の秋、結婚し、24歳になった。配属された編集部は「小型映画ビギナーシリーズ」というムック編集部で、「8ミリトーキー入門」「8ミリタイトル集」「8ミリ映画監督入門」といった特集誌を編集していた。編集長はひとまわり年上で、36歳だった。編集部には、もうひとり一年先輩の人がいるだけだった。

入社した年、1975年5月の連休のことだ。「8ミリ専門誌の編集部に入ったのだから、8ミリ撮影くらいは経験しろ」と言われ、連休中、8ミリカメラを借りて帰った。フィルムと現像代が高いので、ケチな僕はモノクロームのフィルムにした。まだ、その頃はモノクロームフィルムが存在したのだ。

高校時代に友人たちと自主映画を撮ろうと考えたが、カメラも金もなくて諦めた。それが、機材は使い放題だというのに、そのときの僕には特に撮りたいものはなかったのだ。それでも、3分20秒のフィルムでひとつの作品を作ろうと考え、簡単なシナリオを作った。タイトルは雑誌の文字を切り抜いて撮影した。「甘えが君をダメにする」というものだった。

友人に主演をさせ、サイレント映画だったから、「雑用が多くていけねぇ」といったセリフのタイトルを間に挟んだ。モデルガンを使い、やたらに歩くシーンが多い作品だった。その頃、夢中になっていた鈴木清順監督の殺し屋映画の影響がそのまま出ていたが、エピゴーネンにもなっていない駄作だった。下宿での上映を見た主演の友人は、「おまえ、才能ないわ」と断言した。

その頃、編集の仕事が面白くなり始めた。ある日、8ミリマニアだと聞き、藤子不二雄プロの藤本弘さんに取材を依頼し快諾を得た。新宿十二社にあったプロダクションを訪ねて話を聞き、写真を撮らせてもらう段になって、藤本さんは安孫子さんを呼んだ。その頃は、どんな場合も藤子不二雄として一緒に写真に収まったのだ。藤子・F・不二雄と藤子不二雄A(○の中にA)に別れる日がくるとは、夢にも思っていなかった。

その日、帰社してテープを聴こうとすると、何も録音されていなかった。簡単な走り書きが手元にあるだけだ。僕は真っ青になり、必死の思いで原稿を仕上げた。発言をそのまま起こすのではなく、少しアレンジしたものになったが、その方が発言の意図がはっきりした。それでも、インタビュー原稿としては、インタビュアーの顔が見えすぎる文章のような気がした。

数日後、藤本さんが描いてくれると言ったカットをもらうために、藤子不二雄プロを再訪し、書き上げた原稿に目を通してもらうと、藤本さんは優しそうな表情で「よく書けてますね」と言った。ホッとした。何の自信もなく走っていた(というより劣等感の塊のようだった)僕に、少し自信が湧いてきた。文章だったらやっていけるかもしれない、と何となく思った。

その日、描いてもらった10センチ四方くらいのカットには、パーマン、オバケのQ太郎、忍者ハットリくん、ドラえもんなど、藤本さんが創り出したキャラクターと一緒に8ミリカメラを持つ藤子不二雄さんたちが描かれていた。藤本弘さんが亡くなったニュースを聞いたとき、あのカットは返却したのだろうかと不安になった。遠い記憶は、曖昧なもやに包まれていた。

その頃のことを思い出すと、「自分は社会の中で生きていけるのか」という不安と劣等感に捉えられ、脅迫観念に迫られながら、自律神経失調症に悩む痩せた青年の姿が浮かんでくる。僕は早くに結婚し、貧しかった。阿佐ヶ谷駅前の西友でパート勤めをしていた妻は休日には不在で、ひどい精神状態のときには僕は夕方まで布団に潜り込んで過ごした。

そんな己の若い頃を思い出すと、「死刑台のエレベーター」が25歳の青年によって作られたことが、やはり信じられない。もちろん、世の中には天才がいる。特にフランスには18歳で詩を棄てたにもかかわらず、未だに世界中の文学青年たちの憧れであるアルチュール・ランボウがいる。20世紀には、レイモン・ラディゲやフランソワーズ・サガンがいる。フランスは早熟な天才の宝庫なのかもしれない。

しかし、早熟である必要は何もないのだ。急ぐ必要はない。ほとんどの人は天才ではないし、世界で認められるほどの才能はない。人は少しずつ成長すればいいのだ。還暦まで数ヶ月になった僕は、そう思えるようになった。しかし、その言葉を、何とか60年生き延びてきた男に生まれた、ささやかな自信が言わせているとしたら、若い人にはイヤミに響くかもしれない。

●「死刑台のエレベーター」をリメイクするという無謀な試み

「死刑台のエレベーター」の日本でのリメイク版(2010年)が上映されると知ったとき、僕が無謀な試みだなあと思ったのは、あの物語をあのように描く以外、どんな方法もないと思っていたからだった。しかし、監督が「いつか読書する日」(2004年)の緒方明さんだったので見る気になった。あの名作をどんな風にリメイクするのか、才人監督の手腕に期待したのだった。

緒方明監督の「死刑台のエレベーター」は、思わずのめり込むほどの出来だった。成功した理由は、オリジナル版を完全に踏襲したからだ。現代の日本を舞台にするために、オリジナル版ではインドシナ戦争の英雄だった主人公の過去を変更したり、簡単に拳銃を入手できない日本なので元軍人のマスターを登場させたりという変更は加えているが、ベースはオリジナルに忠実だったために、オリジナル以上の切なさを感じさせる作品に仕上がっていた。

オリジナル版は、電話をかけるフロレンス(ジャンヌ・モロー)のアップで始まる。「もう耐えられない」と彼女は囁く。相手は愛人のジュリアン(モーリス・ロネ)だ。フロレンスは「ジュ・テーム」という言葉を何度も口にする。官能的なオープニングシーンだ。マイルス・デイヴィスがスクリーンのジャンヌ・モローに恋をしたと伝えられるのも、あながち伝説だとは思えない。ジャンヌ・モローの声が耳に残る。

リメイク版では、女(吉瀬美智子)が携帯電話で男(阿部寛)と話をしている。最初の言葉は「もう耐えられない」であり、「愛してる」というフレーズが何度もふたりの間で交わされる。日本映画にしては気取った感じがするが、スタイリッシュな(気取った)映像が美しく、そのセリフのリアリティを裏付ける。そう、作品によっては「気取り」がとても重要なのだ。この映画では英語の会話が頻出するが、そんな気取りも雰囲気を高めていた。

女が「もうそろそろ大佐が着く頃ね」と言って、電話を切る。波止場に駐車している高級スポーツカーに乗る男。一台の車が停車し、大きな黒人が降りてくる。大佐と呼ばれる男だ。黒人は「魔女からの贈りものだ」と英語で言って、身を翻す。男がリボンの着いた箱を開けると、拳銃とサイレンサー、それにメッセージカードが入っている。

男はそれを読み、火を点けて棄てる。その炎の塊が黒バックのスクリーンに流れ、奈落に落ちるようにエレベーターの壁の中を下っていくタイトルバックになる。ジャズではなく、弦楽器を生かしたサスペンスを盛り上げるテーマがワクワクさせる。期待感を抱かせる。そこから、オリジナル版と同じ物語がカラーで、ヨコハマを舞台(気取るのならヨコハマです)に展開されていく。

手都芽衣子という、悪徳実業家の若い妻を演じる吉瀬美智子がいい。ジャンヌ・モローよりずっといいと言うと反対意見も多いだろうけれど、旬の女優の輝きが素晴らしい。ルイ・マルの「死刑台のエレベーター」を同時代に見ていたら、僕もジャンヌ・モローに思い入れるかもしれない。しかし、今、僕は同時代の女優として吉瀬美智子を見ている。その輝きを感じる。本当に美しいとため息が出る。

愛人の男が約束の場所に現れない。男の車が走り去るのを目撃するが、助手席には若い女(北川景子)が乗っていた。若い女は、男が通っている美容室の美容師だ。男への愛と信頼が揺らぎ始める。だが、「そんなはずはない」と打ち消す。男が自分を愛しているのは間違いない。誰にも引き裂けない強い愛だ。男は夫を自殺に見せかけて殺し、自分を奪いにくるはずなのだ。

ヨコハマの夜に浮かび上がる、黒いドレスに赤いロングコートの女。男を捜して街を彷徨う。雨が降ってくる。ネオンが美しい。濡れた歩道が光を映し出す。女の内面の声が、その美しい夜景にかぶさる。いわくありそうなバーの扉を押す。大佐と呼ばれる黒人がマスターだ。扉のそばに立つ、赤いコートを抱きしめるようにした女。濡れた髪からしずくが垂れる。ゾクゾクする美しさだ。女は流暢な英語で黒人に話しかける。女は、愛する男に放った己の言葉を甦らせる。

──あの人を殺して、私を奪いなさい。そして、ふたりはずっと一緒。

男は女にそう囁かれ、女の夫を殺すことを決意する。腕のいい医者であり、高級スポーツカーを乗りまわすほどの高給取りが人を殺す決意をすることに説得力を持たせるには、ヒロインの美しさが際立たなければならない。オリジナル版のジャンヌ・モローが観客を魅了し、たとえ破滅してもこの女を手に入れたいと願う男の気持ちに共感したように、ヒロインの美しさがこの作品の核なのだ。僕も吉瀬美智子に囁かれたら...、と夜の街を彷徨う彼女を見ながら納得した。

●緒方監督とは30年前にすれ違っていたかもしれない

緒方監督は、学生時代から石井聰互監督作品の助監督をつとめている。当時、僕は月刊「小型映画」編集部に異動しており、まだ日大生だった石井監督が8ミリ作品「高校大パニック」や「突撃!博多愚連隊」(1978年)を持って編集部にきたときに会っている。石井監督の「狂い咲きサンダーロード」(1980年)の制作発表にも出席したし、何度か取材もした。

「爆裂都市 BURST CITY」(1982年)の制作発表では、初めてロッカーズの存在を知り、若き陣内孝則を見た。30を過ぎたばかりの僕は、石井組のスタッフである20歳を過ぎたばかりの緒方監督とすれ違っていたのかもしれない。緒方監督は8ミリ作品「東京白菜関K者」(1980年)で第4回ぴあフィルムフェスティバルに入選しており、僕はその自主映画を見ているはずだし、誌面でも紹介した。

しかし、緒方監督が劇場映画デビューしたのは、2000年のことだ。すでに40歳を超えていた。そのデビュー作「独立少年合唱団」を完成させたのは、ぴあフィルムフェスティバル入選作「東京白菜関K者」から20年後のことである。以来、10年を超える月日が流れたが、緒方監督の劇場公開作品は未だに少ない。だが、どれもすぐれた映画ばかりである。

「独立少年合唱団」を思い出すと、今でも「ポーレシュカ・ポーレ」とか「ステンカ・ラージン」など、美しいボーイソプラノが歌うロシア民謡が耳の奥で響き出す。タイトルは岡本喜八監督の「独立愚連隊」にオマージュを捧げているのだろうか、岡本監督本人が出演している。そのことも、僕があの映画を印象深く憶えている理由だ。まだ、それほど名優扱いされていなかった香川照之を、僕が認めるきっかけになった作品だった。

「いつか読書する日」(2004年)については、「平凡な人生は存在するか」(「映画がなければ生きていけない」第2巻529頁参照)で書いたけれど、田中裕子と岸部一徳のふたりが実によいのだ。「腹が立つのよ」と言う田中裕子に、パート仲間が「何に?」と問い返す。すると、「自分によ」と苛立つように答える。歯がゆそうな田中裕子の声が、表情が、今も甦る。何かあるたびに見返したくなる。

それから5年後の作品「のんちゃんのり弁」(2009年)は、ずいぶん雰囲気の違う明るい作品になった。ダメな夫を棄て、長女ののんちゃんを連れて実家に戻った小巻(小西真奈美)は特別な能力もなく、どう生きていくか途方に暮れるのだが、子供のために作った弁当が好評で、自分の得意なことが料理だったと気付き、居酒屋のオヤジ(岸部一徳)に弟子入りして腕を磨く。やがて、開店前の居酒屋を借りて弁当屋を開く...。

朝は牛乳配達、昼間はスーパーのパートで働き、読書するだけが楽しみだった「いつか読書する日」の中年女性、ダメ亭主を棄てて子持ちで独立しようとする「のんちゃんのり弁」の普通の主婦、そんなヒロインたちを描いた後、緒方監督はスタイリッシュさを突き詰めたような正反対の作品「死刑台のエレベーター」に挑戦したのである。

「鬼火」という戦慄する作品もあるが、結局は「死刑台のエレベーター」を超える作品を作れなかったルイ・マル。一方、緒方監督の作品歴から見えてくる人生は、対照的だ。40過ぎでデビューし、劇場公開された長編作品はまだ数本だが、50歳を過ぎて「のんちゃんのり弁」「死刑台のエレベーター」と幅を広げた仕事をしている。年を重ねてなおチャレンジできること、新しい世界を広げられること、それはとても幸せな人生ではないか。

そう言えば、「死刑台のエレベーター」が公開された頃、まだフランスには死刑制度があった。高校3年生のときに公開されたクロード・ルルーシュ監督(もちろん音楽はフランシス・レイ)がフランスの死刑制度を批判した作品「愛と死と」(1969年)を見て、僕は未だにギロチンが使われていることに衝撃を受けた。日本は絞首刑だが、現在も死刑は行われている。最近、小林薫が刑務官を演じた「休暇」(2007年)を見て、死刑制度について深く考えさせられたものだった。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

この原稿を書いてしばらく寝かせていたら、WOWOWのプログラムが届き、9月9日金曜日の夜(つまり今夜)、WOWOWで緒方監督版「死刑台のエレベーター」を放映するのを知ったので、原稿掲載を本日にしました。見て落胆した人がいたら、ゴメンなさいと言うしかないのですが...

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