映画と夜と音楽と...[520]怖いもの見たさの夜
── 十河 進 ──

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〈アウトレイジ/喜劇 女生きてます/月はどっちに出ている/ラブ・レター/パーマネント野ばら〉

●深夜の歌舞伎町には黒い肌をした客引きばかりが目立った

恥ずかしながら女性が隣につくような酒場には、自分の金で入ったことはない。ということは奢りでしかいっていないのだが、その場合も数えるほどしかない。20代のとき、当時の上司に連れられて伊勢丹会館にあったキャバレーに入ったのが最初だった。「ロンドン」とか「クインビー」といったキャバレーが、深夜にテレビCMを流していた頃のことである。キャバレー王こと福富太郎がタレント並にテレビに顔を出していた。

だから、数年前に昔なじみの編集プロダクションの社長に、歌舞伎町のキャバクラに連れていかれたときは勝手がわからず、10分おきに隣に座る女性が交替するのに面食らった。彼女たちは肩をむき出しにしたドレスで目のやり場に困り、肩が触れあうのを避けるように身を縮め、話題を見付けるのに苦労した。日本国籍ではない人もいた。編集プロダクションの社長はなじみの女性を指名して、ずっと話をしている。結局、一時間足らずの間に僕は5、6人の女性と会話することになった。

キャバクラを出た後、編集プロダクションの社長と歌舞伎町を歩いていると、やたらに客引きが声をかけてきたが、その人たちの多くが肌が黒いのに驚いた。別に日焼けした人がいっぱいいたわけではなく、ナイジェリアやジャマイカといった国から日本にきているらしい。そんな遠くからきて、何も歌舞伎町で客引きをやらなくても...と思ったが、最初からそのつもりできたわけではないだろう。そう言えば大沢在昌さんの「新宿鮫 狼花」は、歌舞伎町のナイジェリア人たちのトラブルから物語が始まる。

先日、ゴールデン街の「深夜+1」で「渋谷の巨匠」ことシェフのカルロス兄貴と会い、店を出て歌舞伎町を抜けているとき、日本語のうまい黒人に声をかけられた。カルロスが立ち止まり、その黒人の相手を始めた。今は渋谷でスペイン料理のレストランを出しているが、10数年前は新宿の末広亭の近くで店を持ち、それよりずっと以前はゴールデン街で数軒の酒場をやっていたというカルロスだから、歌舞伎町は庭みたいなものだ。僕は、カルロスが黒人の客引きをからかっているのだろうと思って見ていた。

──たまには、こんな店いってみるか?



カルロスが僕を振り向いて言った。えっと思ったが、カルロスと一緒ならどんなことになっても大丈夫という安心感があり、たまには冒険してみるかという気になり、「いいですよ」と返事をしていた。客引きの黒人は「二人で90分、一万円」と繰り返す。その黒人とエレベーターに乗ると、カルロスが千円札を出して渡す。チップである。そんなこともカルロスが場慣れをしているように見え、40年近く勤め人をやってきた僕とはまったく違う人生を送ってきたのだなあ、兄弟分になってよかったなあ、としみじみ思った。

その黒人に「日本語うまいね。どこからきたの?」と訊いてみた。「ジャマイカ」と答えたので、「フェアウェル・ジャマイカだね」と言って、その歌を少し口ずさんだ。相手は「もう2年もいるよ」と白い歯を見せて言う。人好きのする笑顔だった。彼が店のドアを開けたところで僕は一万円を払おうとしたが、札挟みに引っかかり札が破れた。「ダイジョブよ」とひったくるようにして黒人が一万円を受け取り、店の男に渡した。

客は、他に誰もいなかった。壁際にどこの国の人かわからない女性が、4人並んで座っていた。その向かいのテーブル席に案内され、カルロスと一緒に腰を降ろす。テーブルに水割りが置かれた。カルロスに「場末のスナックみたいですね、兄貴」と囁くと、壁際にいた女性たちがやってきた。「間に入るから、開けてください」と変なイントネーションで女性が言う。横に置いた僕のバッグを「重〜い」と言いながら持ち上げて遠くへ移す。当たり前だ、本が2冊にiPadが入っている。

●「イングロリアス・バスターズ」のメラニー・ロラン似の女性が...

カルロスの両脇に座ったのは背の高い黒人女性と、国籍不明の女性だった。僕の左手に腰を降ろしたのは白人の(本物かどうかはわからないが)金髪女性、右に座ったのはコギャル風化粧の女性だった。コギャル風の方は、見た目はビヨンセの形態模写をする太った女性タレントに似ている。「えーと、どこの出身?」と両方に訊くと、左から「フランス」という答えがあり、右からは「私は日本人よ」と少しムッとした口調が返ってきた。

僕は、日本語がたどたどしいフランス女性の方に向き、「昔、初めて習ったフランス語が『ジュ・マルシュ・ビット』だったんだよね」と言った。とりあえず、喋っておこうと思ったのだ。こういう店で沈黙すると間が悪くて、女性から「どんなお仕事ですかあ〜」などと訊かれるのがイヤだった。ところが、僕の下手なフランス語が通じたらしく、フランス女性(照明が暗かったから、ちょっと「イングロリアス・バスターズ」のメラニー・ロラン似に見えた)が笑った。

それからしばらく「ジュマペール・ソゴー」だの、フランス語はどうして男性名詞と女性名詞があるのだという、酒場の話題にはあまり似つかわしくないことを僕はまくしたててしまった。おまけに「『ル・リス・ダン・ラ・バレ』ってあるじゃない、バルザックの...。花は女性名詞なのにユリは男性名詞なんだよね」と僕が言うと、そのマドモアゼルは「ル・リ...? バルザック?」と首をひねる。僕の発音がまずかったか。あるいは、この娘はバルザックも「谷間のユリ」も知らないのか。

そんな10分足らずが過ぎ、右隣のコギャル風女性がテーブルに置いてあったメニューを取り上げた。おもむろに「お店のシステムの説明は聞きましたよね。私たちも飲み物か何か頼んでいいですか?」と言う。たぶん、警察沙汰になったとき、ちゃんと説明しましたよという言い訳を用意しておきたいのだ。おいおい、システムの説明は聞いてないし、飲み物頼まれても...と僕は思ったが、なぜか口から出た言葉は「ああ、いいよ」だった。

しかし、そのとき僕の目はメニューに書かれた飲み物の値段が、すべて5000円以上であることを確認していた。えっ、ふたりで頼んだら一万円、お代わりしたら二万円、フルーツ出てきたらウン万円...と気付き、僕は一気に酔いが醒めた。それと同時に、僕は北野武監督作品「アウトレイジ」(2010年)のワンシーンを思い出していた。ぼったくりバーで、スーツを着込んだ男が脅されているシーンだった。

中年サラリーマン風の男が盛り場を歩いていると、客引きにつかまる。口車に乗せられて、中年男は酒場に入る。次のシーンでは法外な金額の請求を受けて、泣きそうになっている中年男がいる。中年男を取り囲んだ男たちが凄む。中年男は「事務所が近くにあるから、そこで払いますよ」と気弱そうに言う。客引きの若い男が付け馬になって中年男と一緒に事務所へいき、ドアを開けると怖そうな男たちが勢揃いしている。そこは別のヤクザの組の事務所だったのだ。

「アウトレイジ」の場合は、相手の組に因縁をつけるきっかけ作りのために、サラリーマンにしか見えないヤクザがわざとぼったくりバーに引っかかるのだけれど、僕の場合はちょっとした冒険心(?)というか、「怖いもの見たさ」で窮地に陥ったのだ。「君子危うきに近寄らず」を信条にして生きてきた僕に、一度、こんな場所を経験しておくのもいいかという余裕が生まれたのは、カルロスが一緒だったからである。言い訳かもしれないが、好色な気分はなかった(と思う)。

やれやれ、ここはぼったくりバーだったんだな、と僕が思ったとき、「おい、兄弟、出るぞ」とカルロスが言った。そのとき、巨体のバーテンがすばやく反応した。何か起こるか、と警戒したが、僕はカルロスに続いて立ち上がり重い鞄を抱えた。カルロスがゆっくり店を横切る。その後ろについて、僕も店を出た。「もう、帰るの」と誰かが言ったような気がした。エレベーターに乗った後、カルロスが「あのままいたら、とんでもないことになってたな」と笑った。

●どうしょうもなくダメな人間たちが猥雑な世界で懸命に生きている

どうしょうもなくダメな人間たちが懸命に生きている。猥雑で、下世話な世界で這いずりまわるように、それでも懸命に生きている。そんな姿に好感を持つ傾向が僕にはある。昔から、生きる切なさを物語で感じさせるなら、登場する男はヤクザ、女は娼婦に設定するのがいいと思っているくらいだ。誰だって苦界でなど生きたくはない。しかし、堕ちて堕ちて、社会の底辺に巣くうヤクザや娼婦にならざるを得なかった人間たちもいる。それより他に生きる道がなかったのだ。

そんな男や女たちを共感を込めて描いたのは、森崎東監督だった。「喜劇 女生きてます」(1971年)「女生きてます 盛り場渡り鳥」(1972年)「喜劇 特出しヒモ天国」(1975年)などでは、ストリップや風俗の世界で生きるしかない女たちの姿が偏見のない目で描かれる。森崎東の視線は、彼女たちと同じ高さにある。ずるい女もいる。だらしない女もいる。ダメな男と別れられない女もいる。男を騙す女もいる。しかし、そんな人間たちはどんなエリートの世界にもいる。

その後、そうした世界で描かれる女たちは様変わりする。在日韓国人やアジアの国から日本に出稼ぎにきた人間たちを描いた、催洋一監督の「月はどっちに出ている」(1993年)でフィリピン・パブの女を演じたルビー・モレノが代表的だが、外国人女性たちが風俗街の中心になっていく。それは、現実世界の反映だったのだろう。南米やアジアの外国人たちが徘徊する歌舞伎町を舞台に描いた、馳星周の「不夜城」が出版されたのは1996年の夏のことだった。

ある意味では、風俗の世界には人種偏見がないのかもしれない。酒と女...、そこにやってくる男たちの目的はハッキリしている。それを提供できるのなら、国籍や人種はどうでもいいのだ。だから、歌舞伎町では黒い肌の男たちが客引きをし、中国、台湾、フィリピン、タイ、ブラジルといった国籍を持つ女たちが男たちの欲望を引き受けている。

森崎東監督にも、そんな世界を描いた作品があった。浅田次郎の短編を映画化した「ラブ・レター」(1998年)だ。男(中井貴一)は、歌舞伎町でビデオ屋の店長をやっている半端者である。もちろんその店では裏ビデオを扱っているし、店そのものがヤクザ系の経営である。ある日、男は兄貴分に頼まれ、金をもらって中国からきた女と偽装結婚をする。しかし、入管審査のときに一度だけ会った女のことなど男はすぐに忘れてしまう。

女は日本語もたどたどしいのに、ヤクザ組織によって地方の酒場に送り込まれ、客を取らされる日々を送る。女は故郷へ仕送りをするために、日本にやってきて身を売り続けるのだ。まるで、昭和初期の東北の農村の娘たちのようではないか。貧しさ故に、彼女たちは親に売られた。10数年前、蛇頭に大金を払ってまで、中国から日本にやってくる女性たちも同じだったのかもしれない。しかし、彼女は病で倒れ、息を引き取る。一通のラブ・レターを遺して...。

男は偽装結婚した中国人の妻が死んだため、迷惑に思いながらも亡骸を引き取りにいき荼毘にふす。遺骨を抱えて立ち寄った、妻の働いていた酒場の寒々しい屋根裏部屋の隅に置かれた遺品の中に、その手紙を見付ける。手紙を読み上げるシーンが原作のヤマ場でもあり、映画のハイライトシーンだった。映画では、死んだ中国人妻の声で読み上げられる手紙の内容が涙を誘う。たった一度しか会わなかった夫への切々たる心情が綴られる。苦界に身を沈めた女の哀れさが胸を打つ。

●怖いもの見たさと言い訳しながらバカを承知でバカなことをする

「苦界に身を沈める」なんて言葉は、もう死語なのだろう。あるいは、そういう事態を生み出す状況が、現在の日本にはなくなったのかもしれない。誰もが携帯電話を持っている、21世紀の日本である。いくら国が借金まみれだといっても、貧しさのために身を売るなんて何10年前の話だよ、ということか。今や手っ取り早く稼げるからという理由で、水商売や風俗系の仕事に就くのかもしれない。どんな風に稼いでも、金は金だ。多い方がいい。

先日、「パーマネント野ばら」(2010年)という映画を見た。西原理恵子のコミックを原作とし、三人の女性たちの友情物語であるのは「女の子ものがたり」(2009年)と共通するが、こちらの方はさらにほろ苦い物語になっている。女たちの生態が露悪的に晒されるけれど、これは男には描けない世界である。高知県の小さな漁村にある美容院「野ばら」で女たちが交わす会話はあけすけすぎて、僕などときに恥ずかしくなる。

その映画の中で、主人公(菅野美穂)の幼なじみ(小池栄子)は、フィリピンパブみたいな酒場を開いている。いかにも田舎町のパブのママ風の出で立ちで、小池栄子は店の女と男を奪い合う。たどたどしい日本語を口にする国籍不明の女たちは、あっけらかんと男たちの相手をし、夜が明けると「ママー、帰るよー」と言いながら帰っていく。きっと、現実もこんな風なんだろうなあ、と僕は思った。誰も苦界などとは思っていない。

「パーマネント野ばら」で印象的だったのは、深夜の電話ボックスにしゃがみ込んだ菅野美穂が、受話器に向かって涙を流しながら訴えるシーンだった。「どうしてこんなにさみしいが...、さみしゅうてさみしゅうてならんが...」と土佐弁で彼女は心の奥の悲しみを口にする。魂の叫びのようだった。こういう場合、土佐弁というのが効いてくる。西原さんが熟知する土佐の漁村を舞台にした、可笑しくて悲しい物語だった。

ところで、ぼったくりバーを出た僕とカルロスは、その後、焼鳥屋へ入って手羽先を食べ、「どん底」へいって柳ジョージが死んだことを知り、深夜にタイ料理屋でトムヤンクンを食しながらタイビールを飲み、渋谷の店に帰還した。翌朝、カルロスが前夜を振り返って口にした「あの店のバーテン、ごつい体格してたけど、俺たちをその筋の人間と間違ったみたいだな」という言葉で納得した。

確かに、カルロスの風貌はその筋の人に見える。体は大きいし、髪は短く刈り込んでいて、ヒゲを生やし、堅気には見えない。初めて「深夜+1」のカウンターでカルロスに会ったとき、僕にも正体はわからなかった。そのときは黒いソフト帽をかぶっていて、毒舌を吐きまくり、何かを罵倒していた。××組の幹部だと言われれば、僕は間違いなく信じただろう。凶暴オーラをまき散らし、全身から醸し出す雰囲気は、その筋の人に近い。

──そうすると、さしずめ僕は経済ヤクザだね。頭が切れる現代ヤクザ。スーツもビシッと決めてたし、フレームなし眼鏡越しの目が鋭いと言われるし。

僕はカルロスを「兄貴」と呼び、カルロスは僕のことを「兄弟(きょうでぇ)」と呼ぶ。これじゃあ、誰だってその筋の人だと思う。しかし、還暦を過ぎたスペイン料理界の重鎮シェフと、某出版社でそれなりの責任あるポジションにいる還暦間近の男の会話じゃないな、と反省しきりの二日酔いの朝だった。もっとも人間だから「さみしゅうてならん」ときもあり、怖いもの見たさと言い訳しながら、今夜もバカを承知でバカなことをしそうな気がする。懲りないなあ、まったく。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com http://twitter.com/sogo1951

チケットを二枚もらったので「夜明けの街で」をカミサンと金曜の夜に見にいった。不倫の話である。夫婦で見るには、最も適さない映画だった。別に身に憶えはないのに、つい隣に座るカミサンの反応をうかがってしまう。元来、映画はひとりで見ることにしていたくせに、大失敗。妻役の木村多江さんの美しさだけが救いだった。しかし、ラストシーンの木村さんは怖い。

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