[3146] 遠い日のまなざし

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《このおっさん、自己陶酔に浸りきってる》

■映画と夜と音楽と...[521]
 遠い日のまなざし
 十河 進

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■映画と夜と音楽と...[521]
遠い日のまなざし

十河 進
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〈或る夜の出来事/オペラハット/我が家の楽園/スミス都へ行く/素晴らしき哉、人生!〉

●最初のコラムは映画の話だけではなかったが...

僕の分厚い三巻本「映画がなければ生きていけない」を電子書籍にしたいというオファーが版元の水曜社からあり、「いいですよ」と返事をしてからしばらく経った頃、「データをアップしたので、検証をしてほしい」という連絡があり、ネット書店「honto」のサイトへログインし、校正用のデータをダウンロードした。

ちょうどスティーブ・ジョブズのバイオグラフィが発売になったときで、サイトのトップは講談社から出たばかりの本の告知が派手に展開されていた。書籍版と電子版が同時に発売され、瞬く間に数10万部も売れたらしい。亡くなってからもベストセラーを創り出すのだから、ジョブズという人はどこまでも型破りだった。

さて、hontoでは、PC版、iPad版、Android版などが揃っていて、端末はそれぞれ選べるようになっている。僕はiPad版をダウンロードして、開いてみた。アプリを落とし、「映画がなければ生きていけない1999 天地創造篇」「映画がなければ生きていけない2000 暗中模索篇」のふたつを本棚に登録した。

電子書籍版では一年ごとのコラムをまとめ、それぞれに「××篇」というタイトルを付けることになったのだが、僕が「こんなんでどうでしょうか」と送ったタイトル候補がそのまま採用になっていたので、ちょっと慌てた。深く考えたわけではなかったのだ。思いつきである。最初が「天地創造篇」というのは大げさな気がしたが、「まあ、いいか」とそのままにした。

まったく何もなかったところから始めた連載なので「天地創造篇」にしたのだけれど、なんだかなあ...と少し後悔している。次の「暗中模索篇」は、どういう書き方をしたらいいのか、何をテーマに書いたらいいのかなど、迷いながら書いていた初期のことだから、そのタイトルにした。もっとも、意図が通じるかどうかはわからない。

年代順に出すというので1999年から2009年まで、すべて四文字熟語で適当にタイトルを付けてしまった。「温故知新篇」「明鏡止水篇」「空前絶後篇」「一進一退篇」などと付けた記憶がある。「驚天動地篇」はコラムが書籍にまとまり、日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」をもらった年のタイトルにしたと思う。

それぞれ、その年を象徴する四文字熟語にした。コラムを読み返してみると自分のそのときの気分や精神状態が、かなり顕わになっているからだ。もっとも、その文章を書いたときの気持ちは僕自身には甦ってくるが、読者に伝わるだろうか。割に心穏やかに過ごした年には「明鏡止水篇」と付けた。そのくせ、書いている内容は必ずしも穏やかではない。

1999年8月末からコラムを書き始めて、その年の暮れまでに18篇書いた。その頃は、長くても400字で10枚(4,000字)前後だった。それでも18篇を合計すると、200枚近くにはなるだろう。新書判程度の分量にはなる。必ず映画のことを書くと決めていたわけではなかったので、具体的な映画が登場しない回もあった。

たとえば「犬に噛まれる」も「ジャンヌ・エビュテルヌの黒い瞳」というコラムも、最初の文章には映画の話は出てこない。書籍にするときに編集者から「各章に具体的な映画のタイトルを載せたい」という提案があり、狂犬映画「クジョー」(1983年)やモディリアーニを描いた「モンパルナスの灯」(1958年)に触れるくだりを書き加えた。もちろん、僕もその方が統一感があると思ったからだけれど...

しかし、連載を始めたときは通しタイトルも「デジクリトーク」だったし、何を書いてもいいと言われていた。途中、通しタイトルを考えろと言われ、「映画と本と音楽と...」にしたいと言ったら「当たり前すぎる」とはねられた。「あなたと夜と音楽と...」という曲をもじったのだが、通じなかったらしい。それで、今のタイトルになった。

●勝手なことを書きたかったというのが僕の本音

初期のコラムのように映画と本と音楽について、勝手なことを書きたかったというのが僕の本音だ。本の話ならいくらでも書けるし、開高健、大江健三郎(伊丹十三作品があるけれど)、安岡章太郎、阿部昭、田久保英夫といった、映画化作品があまりない人たちについても書ける。見た映画の数より、読んだ本の数の方が多いのだ。ときには、ジャズやシャンソンやカンツォーネの話だって書きたい。

ところが、いつの間にか映画に関するコラムになってしまい、読者からもそのように期待されているフシがある。人の期待には応えたい(迎合的な人間?)方なので、ついついそういう流れになってしまった。それに、原題が伝わるようにタイトルを「映画と夜と音楽と...」にしたものだから、何となく映画が登場しない話を書きにくくなった。毎回、映画に関連づけるというシバリができたことで、不自由さを感じているのは事実だ。

「映画がなければ生きていけない」という書籍にまとめるときも同じだった。その頃にはすでに「映画コラム」として定着していたので、原稿を最初の回から時系列で並べたときに、何となく違和感を感じると編集者に指摘された。前述のように1999年のコラムには、映画とはまったく関係のないコラムがあったからだ。

そこで、書籍の「映画がなければ生きていけない1999-2002」は、2000年の第一回目のコラム「アル中はスペシャリストであらねばならない」から始まっている。そして、1999年の18篇のコラムは最後に付録のような形で掲載し、章扉に「最初はこんなコラムを書いていた」というエクスキューズを入れた。

さて、電子書籍版「映画がなければ生きていけない1999 天地創造篇」を検証するために、僕は縦組みにしてみたり横組みにしてみたり、フォントを明朝やゴシックに変えたり、字間・行間をいろいろいじってみたり、背景色をナチュラル系の紙の色(書籍の用紙に近い)にしてみたり、いろいろ試しながら読み始め、結局、すべてを熟読してしまった。

まことに手前みそではあるけれど、実に面白かったのだ。1999年の夏の終わり、「スターウォーズ・エピソードI」公開前のヨーダの話題から始まり、二回目は「ヴォーグ・ニッポン」創刊の新聞広告から書き起こしている。「ヴォーグ・ニッポン」編集長の十河洋美さんに言及し、十河という名前についてのおバカなコラムである。十河洋美さんは、現在は再び「25ans」の編集長に返り咲いているらしい。

あれから12年が過ぎた。干支はひとまわりした。1999年に僕は年男だったが、今年もまた年男になった。それだけの時間が過ぎれば、人を取り巻く環境は大きく変わる。暦が還り、もうすぐ僕はまっさらな赤ん坊と同じ状態になる。12年前、48歳だった僕は60歳の僕を想像できなかったが、60になった僕は48の僕を甦らせることはできる。

48歳の僕が書いたコラムを読むと、その当時、僕が何を思い、何を感じ、何に悩み、何を欲し、何を夢見、何を不安に思っていたか、手に取るようにわかる。それらのことが自分の中でどう変化し、どう落ち着いたか、12年の流れが僕には明確に理解できる。それが、歳を重ねることだと実感する。もちろん、満足感などはない。12年の時間の流れのほとりには、苦い悔恨ばかりが死屍累々と横たわっている。

●映画は遠い外国にいる絶望した若者の命を救う力を持っている

先日、集英社新書で出たばかりの「素晴らしき哉、フランク・キャプラ」(井上篤夫・著)を読んだ。以前にも書いたけれど、僕はフランク・キャプラの映画が大好きなのだ。未見だった「オペラハット」(1936年)も今年見たし、クリスマスが近付くと「素晴らしき哉、人生!」を思い出し、アメリカ人ほどではないがDVDで何度も見る。

フランク・キャプラは、イタリア系の貧しい移民の子だった。ハリウッドで仕事を得るまで、様々な職業を経験し苦労したことは有名だ。「素晴らしき哉、フランク・キャプラ」でもその時代のことは触れられているが、それほど詳しくはない。やはり、映画監督として仕事をスタートさせてからのことが中心になっている。

巻頭に山田洋次監督が10ページほどの談話を寄せ、宇野重吉から聞いたエピソードを披露している。昭和16年、太平洋戦争が始まる直前の暗い世相の中で、左翼演劇青年だった宇野重吉は戦地で死ぬくらいなら自分で死のうと決意して、最後の映画としてフランク・キャプラ監督の「スミス都へ行く」(1939年)を見る。見終わった宇野重吉は、もう少し生きてみようと思ったと話し、こう続けたという。

──山田くん、映画は、一人の遠い外国にいる絶望した若者の命を救う力を持っているんだ。映画を作るっていうのはすごい仕事なんだ。君、勇気を持って映画を続けなさい。

この言葉は、キャプラ映画の本質をついている。キャプラ作品は、絶望した人間を救う。「世の中、棄てたもんじゃない」と感じさせる。世界が美しく見えてくる。明日からも生きていこうと決意させる。素晴らしい映画だ、それが映画ってモンじゃないか、と僕は思う。しかし、キャプラ作品は「楽天的な楽観主義」という批判を、公開当時から受けることが多かった。

それにしても、真珠湾攻撃が近かった戦前の日本で、「スミス都へ行く」が上映されていたのは驚きだ。アメリカの民主主義の理想を描いたあの映画を見てなお、日本は真珠湾を攻撃したのかと思うのは、僕がその後の歴史を知っているからだろう。あの映画を見て心震わせたのは、僕が戦後に生まれ戦後の教育を受けているからに違いない。今や、あの映画が描いた理想は、アメリカにさえ存在しない。

ちなみに、昔、「若き日の詩人たちの肖像」という、戦前に慶応大学に入学した堀田善衛が若き日を回想した自伝小説を読んでいたら、「左翼作家の中野重治から二文字をもらって、俳優としての名前を付けた若き演劇青年」が出てきた。宇野重吉である。今や、「寺尾聡のお父さん」と言っても、若い人には通じないかもしれない。寺尾聡自身が歳を重ねて、飄々とした宇野重吉によく似てきた。

●寺田寅彦が書いた「或る夜の出来事」の映画評

先日、青空文庫のリストを見ていたとき、寺田寅彦のエッセイを見付けてダウンロードした。その中に映画についての文章が数多くあり、「或る夜の出来事」(1934年)について書いているものがあった。寺田寅彦と言えば物理学者で随筆家としても有名だが、映画評論も書いていたのだ。それは、昭和9年10月に「映画評論」に掲載された短文で、時代性が出ている貴重な証言だった。

──ゲーブルとコルベールの「或る夜の出来事」は、いかにもアメリカ映画らしい一種特別なおもしろみをもっている。この映画の中で、自分の座席の付近の観客、ことに婦人の観客がさもおもしろそうにおかしそうにまたうれしそうに笑い出した場面が二つある。一つは雨夜の仮の宿で、毛布一枚の障壁を隔てて男女の主人公が舌戦を交える場面、もう一つは結婚式の祭壇に近づきながら肝心の花嫁の父親が花嫁に眼前の結婚解消をすすめる場面である。

これを読んで、「なるほど」と僕は思った。昭和9年は1934年である。「或る夜の出来事」は、アメリカで制作された年に日本でも公開されたのだ。それに「或る夜の出来事」とは、まさに「雨夜の仮の宿で、毛布一枚の障壁を隔てて男女の主人公が舌戦を交える場面」から付けられた思わせぶりな邦題だろうし、そのシーンは性的な連想をさせるように作られている。

「艶笑」という言葉が浮かびニヤリとするシーンが、「或る夜の出来事」にはいくつかある。ただし、描き方には品がある。クラーク・ゲーブルがヒッチハイクをしても車が停まらないのに、コルベールがスカートをめくり太股を見せながら親指を立てると車が急停車する有名なシーンも、笑いに包んでさりげなくドキッとさせる。昭和初期の婦人観客たちが「うれしそうに笑い出した」のもわかる。

昭和9年に日本で公開された「或る夜の出来事」は、翌年「キネマ旬報外国語映画ベストワン」に選出された。昭和7年には5.15事件が勃発した。そういう世相だった。5.15事件のとき、来日中のチャップリンは犬養毅首相の息子と共に首相が殺された直後の官邸を見た。フランク・キャプラは、チャップリンと同時代のハリウッド人だったのだ。

チャップリンは1889年に生まれ、キャプラは1897年の生まれだ。8つ違いである。すでに売れっ子監督だったジョン・フォードは1894年生まれで、キャプラの3つ上だった。日本の映画史に名を残す監督たちは、小津安二郎が1903年生まれ、成瀬巳喜男が1905年生まれ、黒澤明が1910年生まれと、20世紀人である。

●30年間、映画を作らずに死んでいったフランク・キャプラ

フランク・キャプラは1991年9月3日、カリフォルニア州ラキンタで老衰によってこの世を去った。94歳だった。1989年、米国議会図書館が永久保存する「アメリカ国立フィルム登録簿」の第一回25作品に「スミス都へ行く」が選出され、1990年には「素晴らしき哉、人生!」が加えられた。己の業績を確認して人生を終えることができた幸せな監督だったと思う。

しかし、フランク・キャプラがそう感じていたかどうかはわからない。「素晴らしき哉、フランク・キャプラ」の中で引用される、74歳の時に刊行された自伝の文章にはどことなく悔恨が感じられるのだ。出世作「一日だけの淑女」(1933年)以来、「或る夜の出来事」「オペラハット」「我が家の楽園」(1938年)の脚本を書いた盟友ロバート・リスキンの離反と早世も、彼の心に深い傷を残したようだった。

「素晴らしき哉、人生!」の後、キャプラは赤狩りに遭遇する。以来、6本の作品しか作っておらず、7年ぶりの作品「波も涙も暖かい」(1959年)は、スターであるフランク・シナトラの映画だった。「ハリウッドのスターたちは力をつけ、映画を牛耳っていた。彼らの最後の障壁は監督だった。7年ぶりの新作だったというのに、私は私のやり方で撮影できなかった」という。

やがて、苦い失敗が訪れる。自作の模倣だ。1961年、キャプラ64歳のときの2年ぶりの新作「ポケット一杯の幸福」は、映画評論家にも「完全な失敗作だ」と否定される。それは「一日だけの淑女」の28年ぶりのリメイクだったのだ。60を過ぎた映画監督は、36歳で作ったヒット作を再映画化し、失敗したのだ。それから30年、キャプラは映画を作ることなく老衰で死んでいった。

フランク・キャプラは、自伝によると38本の劇場映画を手がけた。日本未公開作品もあるが、好きな一本を選べと言われると僕は困惑する。「スミス都へ行く」と「素晴らしき哉、人生!」のどらかに決めることなどできるわけがない。その2本には、キャプラの理想主義が奇跡のような形で描かれている。楽天的だ、楽観主義だという批判は的外れである。そこには、苦い現実がリアリティを持って描かれてもいる。

若きフランク・キャプラは、現実の苦さや厳しさや悲惨さを熟知したうえで、志や夢を抱えた理想主義者だったのだと思う。その理想主義が若き宇野重吉の命を救ったのだ。だが、栄光を極め、人々の称賛を浴び、あるいは赤狩りという辛い時期を経て、その後の長い人生を送り、ついには自己模倣をし、その愚かさを悟って悔いていたのかもしれない。

人は昔の自己を振り返り、遠い日の己のまなざしをまぶしく感じるときがあるのではないだろうか。怖れを知らず、安定を求めず、ただ夢や希望や志を抱いて邁進していた、青く、幼く、生意気で、向こうみずだった自分の姿が、無性に懐かしくなるのではあるまいか。その遠い日のまなざしが、今の己を責める。悔いを生む。

読み返してみると、昔の僕の文章には何かを書く喜びだけを感じた。それが本にまとまるかとか、誰かに読まれてどう思われるかとか、そんなことは気にせず、湧き上がることを書きたいように書いていた。そのまなざしがまぶしい。だが、自己模倣だけはするまい。遠い日のまなざしは、もう決して戻ってはこないのだ。12年の時間が蓄積したもの、その中から得たものが、今の僕の文章に顕われているのだと信じて書き続けよう。悔いても、時間は遡らない...

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
>

日曜に仕事で会社に出たので、珍しくこの原稿は掲載日の前日まで粘ってしまった。今日は文化の日。バタバタと日々が過ぎていく。気がかりなことが消え、別の難題が生まれる。週が明けると、とうとう千円で映画が見られるようになるが、心穏やかに暮らせる日はくるのだろうか。

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■Otaku ワールドへようこそ![141]
凱旋! アイドルの卵たちが輝いたライブイベント

GrowHair
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会場から「かわいい!」と声援が飛んで、心の中で「よしっ!」とガッツポーズ。10月22日(土)に渋谷でアイドルのライブイベントが催された。ほとんどの出演者がリアル女子中学生・高校生。ワタシもありがたく混ぜてもらい、セーラー服を着てステージに立ち、歌を披露してきた。役割はほぼピエロなのだが、それはそれで気楽にこなせるものではなく、歌詞や振りを間違えないようにとかなり緊張したし、小さなハプニングを危なっかしく乗り切ってヒヤッとした場面もあったが、とにもかくにも役をこなすことができた。

●意気込みが空回りして焦る

練習期間は6週間と2日。意気込みは120%レベルを持続していた。何しろオリジナル曲である。歌詞にGrowHairが入っているのである。本人が一番上手く歌えなくてどうする。

音楽活動に生きることを真剣に志していたって、オリジナル曲がもらえてステージで披露できるようになるまでの道のりは、相当なはずである。こっちはただ、歌えるメイドバーやコスプレキャバクラやカラオケスナックで、みっともなくない程度に、できればちょっとカッコよく歌えればいいかな、ぐらいのスケベゴコロ丸出しの動機でヴォイストレーニングを習いに行っているだけである。まったくの初心者レベルから始めて、1年半。

まだまだちっとも上手くはない。練習で録音してもらった自分の歌を聞いて、まあ、聞けなくもないレベルだけど、やっぱりどっか素人くさいなぁ、と自分で思ったぐらいで。ところどころリズムやら音程やら、はずしてたりする。そんなワタシにオリジナル曲である。将来いつかは、とすら思ってもいなかったことで、びっくり。

「アイドルのイベントを催すので、セーラー服着て一緒にどうですか?」と、音楽教室のオーナーである奥井氏からのお誘い。ほいほい乗ってるワタシ。ラッキーすぎる。フザケている。真面目で地道な下積みというものをナメている。こんな分不相応の晴れがましい機会が向こうからやってきたというのに、もしいい加減に流したりしたら、天罰が下る。頭上に人工衛星のカケラぐらい落ちてきそうである。

できると信じていた。いや、信じてなかったけど、信じていた。事の大変さをあまり顧みることなく、「はい、やりますやります」。人生、YesかNoかの選択肢にさしかかったら、よほど無謀な選択でない限り、とりあえずYesと言ってみる。この軽薄さ。それがワタシ。おかげで人生よく曲がる。

奥井氏は人を見通す不思議な目をもった人で、本人でさえまったく気づいていない才能を超能力で見つけ出して開花させてしまう。以前、舞台で神父役を仰せつかったときも、仕掛け人は奥井氏である。役者なんて目指したことすらないし、一朝一夕にほいほいなれるものではないと認識していたので、一旦は「無理です」とお断りしたのだが、真顔で「いや、できます」と断言され、そう言われるとなんだかできるような気がしてきて、結局引き受けていた。

あのときは、大した分量でもない台詞がなっかなか覚えられなくてノイローゼになりそうだったが、最終的には台詞をトチることもなく、ご期待に沿える演技ができたようで、「どの回の練習よりも本番が一番よかった」と言っていただけた。今回も似たような流れなのだが、前回のことがあるので、ちょっと無理っぽいんじゃないかなぁ、という自分の直感よりも、奥井氏の確信に満ちた言葉のほうが当たってるような気がした。

意気込みという上へのベクトルがいくら強くても、現実には時間的制約とか、体力の限界とか、あると思ってたら実はなかった才能とか、下向きのベクトルが作用して、均衡したところに現実の姿がある。

歌の練習用CDをもらったのが9月7日(水)。通勤の空いた電車でずっとかけっぱなしにして繰り返し聞いたり、カラオケボックスで練習したり。「パセラ」は池袋のお店をよく利用するのだが、外部音源として、音のCDや映像のDVDが使えるようになっている。自分で持ち込んだカラオケCDをかけながら、マイクを使って歌の練習、ということができるのである。すばらしい! オリジナル曲の練習にカラオケボックスを利用したいって需要がけっこうあるのだろうか? 「ビッグエコー」にも、CD音源が利用できるマシンが備わった部屋があり、受付で希望すると、案内してもらえる。

10月2日(日)の練習では、ほぼ間違えることなく歌えるようになっていた。本番20日前。順調な仕上がりのようだが、実はここからが大変だった。この日に振りの模範演技の収録されたDVDを初めて渡される。これが予想のはるか上を行っていて。ちょっと手をひらひらさせるとかではなく、全身使って動く動く。48年生きてるけど、そんな動きしたことありましぇーん。しかも前奏・間奏・後奏に至るまで間断なく動きが続き、途中で一息入れて次を思い出すという間がほとんどない。えー、無理ですー、敷居高すぎますー。

しかも練習時間があまり取れず、10月9日(日)の時点では、ボロボロだった。DVDを見ながら1〜2回真似てみただけ、まったく頭に入っていなかった。はい、これからがんばって巻き返します。月から金までパセラパセラパセラパセラパセラ。ここまで常連化すると、ヒトカラでも10人部屋に通してもらえたりして、がらんとした広さは若干さびしくなくもないが、テーブルを寄せればけっこう広いスペースが確保できて、振りの練習には好都合。

おかげで、10月15日(土)の練習では、けっこういい線いくようになった。本番のちょうど一週間前なので、この時点である程度の完成度に来てなければかなり不安になる。ぎりぎり進行。女子高生に扮して歌う歌は全部裏声でいくわけだが、休憩のときに冗談で1オクターブ低く地声で歌ったらウケちゃって、本番のときも2番のサビだけそれで行きましょうか、という話に。この時点で変更って、覚えてられるかどうか不安だけど、やってみまっす。

まあ、得意技ではある。石野真子「狼なんか怖くない」の「あなたも狼に変わり〜まぁす〜かぁ〜」の「狼」のところだけ2オクターブ下げるとか。河合奈保子「17才」の「あーあー、17才のワタシ」の「17才の」を「しじゅうなな才の」に変えて1オクターブ下げるとか。「ワタシ」のところは元の裏声に戻って可愛くやるのがコツ。かなり恥ずかしいギャグだが、ウケることはカラオケスナックで実証済み。

10月19日(水)、最後の合わせ練習。本番3日前。ワタシの両脇を固めてバックダンサーを務めてくれるのは、アラレと愛菜(まな)。二人でCGMというユニットを組んでいる。リアル女子高生とリアル女子中学生。愛菜は、NHKの紅白歌合戦でバックダンサーとしてステージに立ったこともある。二人とも、アイドルとしてのデビューを目指してがんばっている。もちろんGrowHairのバックダンサーにはもったいなさすぎるのであるが、これも同じ音楽教室で歌を習う仲間のよしみ、超ラッキーである。

この時点では、まだ時折ミスが出るし、動きを端折ったりもしていて、完璧ではなかったが、奥井氏は、安心したようである。ワタシとしては、本番まで、最後の追い込みに賭けなくては。

●スカートが危険なことに

当日朝。11:00am開場の予定で、関係者が会場入りするのは9:00amの予定。出かける時間が迫っていたが、もう一回だけ通しで練習したら行こうと思い、セーラー服を着て、音をかけずに歌と振り。右足をエイヤッと振り上げた瞬間、ブチッという感触がして、スカートのウエストのホックが外れた。腹圧に耐えられなかったようで。や、やばいっ。

ファスナーを上げた上にホックで留まっているのだが、このホックはウエスト回りを調整できるよう、スライドする方式になっている。モノレールの車両がレールにまたがるような格好。小さな金属のレバーを倒すとガチッと留まり、スライドしなくなる。このレバーが起き上がらずに倒れた状態のまま、本来スライドしないはずのものが、ガガガガッと動いて完全に外れてしまったのだ。

セーラー服のスカートは2着持っている。最初に揃えたのは冬服で、スカート丈はひざ上だが、それなりに長い。今年になって夏服を揃えたとき、スカートを思い切って短くしようと思い、けっこう短めのにした。ウエストサイズのちょうどいいのがなく、一番ゆるくしたぎりぎりのところで留めてやっと穿ける。生地は冬服のほうが若干厚いが、見た目はほとんど差がない。この日は、10月なので、上は冬服にして、スカートは短いほうがかわいいだろうと思い、夏用のを合わせることにしていた。

急遽、長いほうに変更。こっちはウエストに余裕があるので、万が一スライドしてしまっても、すぐには完全に外れるところまで行かないであろう。着たセーラー服をいったん脱いでスクールバッグに押し込め、普段着になって出かける。出番の直前に着替えて驚かすという作戦だ。

イベントは、前半が一期生たちによるソロで、後半が二期生候補たちのオーディション。書類による一次審査と面接による二次審査を通過した応募者たちの三次審査。ステージに上がった経験などない者がほとんどで、ここ数週間を相当なプレッシャーの下で過ごし、当日はものすごーく緊張していた模様。その緊張をほぐすのが私の役目。オーディションのトップバッター、エントリーナンバー00番として出ることになっている。

まあつまりは道化役なんであるが、そうは言っても、前々からの在校生としては、示しをつけなきゃならんわけで、歌詞をトチったり振りを忘れたりしては駄目なのだ。こっちだって緊張する。前半、CGMの二人とヒカリがそれぞれソロでがんばってくれた。特に、アラレが、お客さんたちに立ってもらって振りの一部を一緒に踊ってもらったり、みずから客席に降りていったりと、大胆な演出で、いい感じに盛り上げてくれた。うん、いい度胸だ。

後半、出番が来て、CGMの二人とともにステージに登場する。「エントリーナンバー00番、GrowHairでぇ〜す♪」(裏声)。うん、ウケてるウケてる。間違えないようにとガチガチになって歌ったのでは、この盛り上がりが冷めてしまう。間違ってもいいから、思いっきりのびのびやったほうがいい。そういう役だ。この時点で覚悟が座った。

全身を動かす大きな振りに会場からウォーッと驚きの声があがったりして、気分がよくなってきた。そのとき、事件は起きた。ブチッ。え? ウエストのスライドがずれる感触。やばいっ。もし完全に外れてたら、りんごが木から落ちるごとく、万有引力にしたがって落下するわけで。それはまずい。といって、歌と振りは続いているわけで、うつむいて確認したり、なおしたりしてるわけにもいかない。幸い、まだ落下はしていない。けど、ちょっと下がったっぽい。

このとき、軽くパニックった。ファスナーは左側にあり、左手にはマイクを持っているのだが、その左手で、ウエストをつかんで引き上げる。当然、そのとき歌っていた声は、マイクには拾われない。まずい。会場、ウケまくってる。ウケたのはよかったけど、企図してなかっただけに、かなり恥ずかしい。2〜3段ずれただけで、完全には外れていない模様。ならいいやと続行。これ、なんとか乗り切ったと言えるのだろうか。まあ、いっか。後で聞くと、これも演出のうちだと思ってくれてたようで。まあ、いっか。

続く9人の応募者たち、みんなすごーくがんばってくれた。後で聞くと、前の晩、緊張しすぎてなかなか眠れなかったとか、出番の前、ひざがガクガクするぐらい足が震えたとか。けど、ひとたびステージに上がったら、みんなすばらしい度胸だった。一人ぐらい頭が真っ白白になって立ち往生してしまう人が出るのではないかと心配したが、ぜんぜんそんなことはなく、みんな堂々として、のびのびと持ち味を発揮してくれた。

相当な応募数の中から一次、二次と通過してきただけあって、みんなかわいいし、パフォーマンスのレベル、高い。オーディションじゃなかったとしても、それぞれの個性でお客さんに楽しんでいただくことのできる、いい仕事をしてくれたと言える。青春のパワーを丸ごとこの一回きりのステージにぶつけてきて輝いた感じで、高校野球の甲子園大会をみるような感動があった。がんばりは貴く、きらめきは神々しくさえある。お客さんたちからの評判もよく、イベントは大成功。

●この子たちのためにがんばろう

終了後、道へ出て記念撮影。若くてかわいいアイドルの卵たちが、一期生3人プラス二期生候補9人。なのに、通行人の目は撮ってる私のほうへ集中。うーん、そうなるか。なんだかアブナい光景みたく映ったようで、後でツィッターをチェックすると「変な奴に出くわした。セーラー服着てヒゲを三つ編みにしてピンクのリボンで結んでるのに見事に禿げ上がってるおっさん。もうキモいのなんのwwww カメラマンみたいだったけどモデルが小中高生の女の子で犯罪臭はんぱねえwwwww」とか。

渋谷のイタリアンな喫茶店「セガフレード・ザネッティ」で打ち上げ。ライブの間、撮っていただいたつとむさんに写真を見せてもらう。いや〜、すごい。けっこう必死でがんばってるつもりだったのに、写真をみると、このおっさん、自己陶酔に浸りきってる。こりゃ笑えるわー。

< https://picasaweb.google.com/107971446412217280378/Live111022
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ライブでノリノリなGrowHairの写真

サーカスにおけるピエロとは、笑われるために存在する。しかもその笑いは、ほぼ嘲笑である。どんな演技でも、超絶上手い人は、一見、余裕をもって楽々こなせているように見えるもんだから、見ていたら自分にも簡単にできるんじゃないかとうっかり錯覚して、ちょっと僕にもやらせてみてよ、としゃしゃり出る。で、やってみると、当然のことながら簡単どころではなく、失態を演じる。おまえ、しゃしゃり出てきといてそれかよ、と笑われる。そういう役。

でも、下手っぽく演じるって、実は上手くないとできないね。ピエロはほんとは悲しい存在なんだ、ってよく言われる。しかし、私の場合はぜんぜんそんなことはなく。一人になったとたん、急激に恥ずかしさが襲ってきてわーっと絶叫したりとか、抑えていた悲しみがどっとあふれてきてめそめそ泣いたりとか、そういうことは一切なく。

セーラー服だって、見たいという需要がなくたって、着たくて着て歩いてるわけで。こういうステージにお呼びがかかるなんて、めちゃめちゃラッキー、ってなもんである。こういう場合、天然自然の生まれついてのピエロ適役というべきか、まだまだ道化の心の機微が分かってないというべきか。

うん、何が言いたいのか、自分でもよく分からなくなってきたけど。こういう機会がもしまたあれば、喜んでやります。というか、オリジナル曲なんで、またご披露できるチャンスを待ってます。それはそれとして。

前回も書いたけど、学生のころから、もしなれるもんならなれたらいいなぁ、と、自分がなりたい姿としてあこがれてきたアイドルではある。けど、実際、それっぽいことをしてみると、当然のことながらそんなに甘い道ではなく、ちゃんと演じきるには、自分の能力をはるかに超えていることに気づかされる。1曲覚えるだけでひーひー言ってたし、あれではまだまだ練習不足なんだけど、ピエロであるがゆえ、細かいアラは大目にみてもらっている。

一方、本当のアイドル候補生たちは、同じ期間で7曲ほど覚えたし、細かいところまでチェックされ、もっともっと厳しく指導されている。うん、ワタシにゃ、無理だ。前々から、テレビに出ているアイドルたちをリスペクトしてきてはいたけど、本当にすごいんだな、といまさらながらに思い知らされた感じ。

今の候補生たち、夢をつかめるよう、いっそう精進して、ゆくゆくはスターダムを駆け上がってほしいなぁ。というわけで、自分がアイドルになるよりも、こんなにがんばっているこの子たちのために、できる手助けを何でもしたい、と思えてきた。さしあたって、12月25日(日)には次のライブがあるとのことなので、そこで英語の歌を1〜2曲混ぜられるよう、英語の指導役を申し出た。

10月30日(日)は、初回の授業。一期生3人と、今回の合格者のうち4人が生徒として参加してくれた。なぜ先生がセーラー服を着てるか、もちろん着たかったからです、ってのは置いといて。まずは、英語学習に向きあうための心構えの話から。以前、このコラムに「決定版! ミもフタもない英語学習法」と題して書いたのと同内容の話もしたけど、その続きとして書こうと思いつつまだ書いてない話もした。みんなすご〜く熱心に聞いてくれた。その授業のことは次回にでも。
< https://bn.dgcr.com/archives/20090717140100.html
>
決定版! ミもフタもない英語学習法

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jpセーラー服仙人カメコ & アイドル。どこまで拡散するアイデンティティー。

10月10日(月・祝)は新宿の「パセラ」で練習した。終電を逃してタクシー帰り。不夜城新宿と言えども、翌日が平日の深夜ともなると、さすがに人通りが少なくなる。区役所通りを職安通りに向かって歩いていると、外国人の客引きにつかまる。英語で話せるバーだとか。"Do you speak English?" とか。

酒とは不思議な液体で、これを飲むと英語力が3段階ぐらいレベルアップする。よーし、いっちょ俺の英語を見せつけてやって、ブイブイ言わしたるか、ってスケベゴコロが頭をもたげる。うん、上手いくすぐり方だ。

ところが、このとき酒は一滴も入っておらず、直感が、英語できないフリしろ、と自分に指図してくる。黙って手をひらひら。それでも "Nice to meet you!"とか言って、強引に握手を求めてくる。その手をグイとつかんで放さない。危険危険。振りほどいて、逃げるように立ち去ってきた。

酒が入っていたら、行ってたかもしれない。もし行ってたら、どんな光景が待っていたのだろうか、とちょいと気にはなっていた。10月28日(金) の十河さんのコラムに答えが書いてあって、納得。
< https://bn.dgcr.com/archives/20111028140300.html
>

デザフェス、出ます。今回は「妖怪横丁」ではなく「関東アンダーグラウンド集会」というグループの一員として。
< http://bit.ly/uxjWEM
> デザフェスサイトの告知ページです

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■編集後記(11/04)

・あの「新潮文庫の100冊」CD-ROMが白いiBOOK(G3 Dual USB)で読めるようになった。当初、10.4.11までアップしたiBOOKを元の9.1にダウングレードしようと奮闘したが失敗。だったら、OSXのクラシック環境で見られるかもと思ったが、これはNGというネット情報もある。旧世代Macを探すしかないかと思っていたところ、坂野博行さんからいろいろアドバイスをいただき、USBメモリーにOS9.1をインストールし、件のiBOOKを起動することに成功した。この方法についても、文系・昆虫系頭脳のわたしでもできるよう、坂野さんが微細なマニュアルを作ってくださった。さて「新潮文庫の100冊」CD-ROMのインストールと起動にとりかかると、添付のマニュアルとCD-ROMを開いたときの「必ずお読みください」の記述が違う。じっくり読んでトライするが、いずれにしろその通りにならない。なぜか「ガイドブック」のエイリアスが無効なので、思い切って名前を書き換えたら「新潮文庫の100冊」が開いた。おお、夢に見た美しい縦組み秀英太明朝の本文が、とても快適に読めるではないか。16年前の電子書籍はとっても優れものだった。エキスパンドブックのテキスト化ツールなども出ているが、それではこの組版が楽しめない。「新潮文庫の絶版100冊」CD-ROMも持っているが、たぶん同様に見られるはずだ。ベッドに持ち込んで読むのが楽しみだ。しかし白いiBOOKはずっしりと重い。(柴田)

・iPhone 4S。液晶が黄みがかっていると噂には聞いていたが、本当だった。紙の色っぽい。目に優しいといえば優しい気はする。電話の声が聞こえにくい。ボリュームボタンを操作しても同じ。スピーカーにするとよく聞こえるのに。設定画面には受話音量項目はなし。なんじゃこりゃー! 同時に機種変更した家人も同じ。iPhoneをまじまじと観察。ここから音が聞こえ......まさか? 留守番電話にかけつつ、耳部分の表面保護シートを少しめくってみる。あ! 初期不良ではありませんでした......。機種変更時に必要なものは、身分証明書と予約票。3GS本体は不要。プランの説明を受け、「今から3GSでは通話ができなくなります」と言われた後、3GSが圏外に。4Sにアンテナは立つが、中身はまっさら。電話帳や今までのMMS類はないから、3GSに届いていたものへの返信がしづらい。かかってきた電話をとったらFaceTimeになり、自分の顔が大写しに......。帰宅後、iTunesのバージョンが最新か確認後、左ペイン中頃「デバイス」のiPhoneを右クリックして「バックアップ」。右ペイン「概要」のバックアップが現在時刻のものであるのを確認した後、3GSをはずして4Sを接続。右ペインに登録云々が出るが、「後で登録」、iPhoneアイコンから右クリックして「バックアップから復元」、さきほどのバックアップを選択。時間がかかりそうなので放置して寝た。起きたら、当たり前なんだけど、いままでとまったく同じアイコンの並び、MMS類、データになっていて、なんだかつまんない。アラームや鳩時計が二台から聞こえてくるのがうるさかったよ(笑)。/右ペイン登録画面。姓は「ふりがな」名は「フリガナ」だった......。(hammer.mule)
< http://itunes.apple.com/jp/app/cuckoo/id414022497?mt=8
>
Cuckoo(鳩時計)
< https://bn.dgcr.com/archives/20111101140100.html
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プレゼント受付中。イベントは11/12東京、12/11大阪。