映画と夜と音楽と...[521]遠い日のまなざし
── 十河 進 ──

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〈或る夜の出来事/オペラハット/我が家の楽園/スミス都へ行く/素晴らしき哉、人生!〉

●最初のコラムは映画の話だけではなかったが...

僕の分厚い三巻本「映画がなければ生きていけない」を電子書籍にしたいというオファーが版元の水曜社からあり、「いいですよ」と返事をしてからしばらく経った頃、「データをアップしたので、検証をしてほしい」という連絡があり、ネット書店「honto」のサイトへログインし、校正用のデータをダウンロードした。

ちょうどスティーブ・ジョブズのバイオグラフィが発売になったときで、サイトのトップは講談社から出たばかりの本の告知が派手に展開されていた。書籍版と電子版が同時に発売され、瞬く間に数10万部も売れたらしい。亡くなってからもベストセラーを創り出すのだから、ジョブズという人はどこまでも型破りだった。

さて、hontoでは、PC版、iPad版、Android版などが揃っていて、端末はそれぞれ選べるようになっている。僕はiPad版をダウンロードして、開いてみた。アプリを落とし、「映画がなければ生きていけない1999 天地創造篇」「映画がなければ生きていけない2000 暗中模索篇」のふたつを本棚に登録した。

電子書籍版では一年ごとのコラムをまとめ、それぞれに「××篇」というタイトルを付けることになったのだが、僕が「こんなんでどうでしょうか」と送ったタイトル候補がそのまま採用になっていたので、ちょっと慌てた。深く考えたわけではなかったのだ。思いつきである。最初が「天地創造篇」というのは大げさな気がしたが、「まあ、いいか」とそのままにした。

まったく何もなかったところから始めた連載なので「天地創造篇」にしたのだけれど、なんだかなあ...と少し後悔している。次の「暗中模索篇」は、どういう書き方をしたらいいのか、何をテーマに書いたらいいのかなど、迷いながら書いていた初期のことだから、そのタイトルにした。もっとも、意図が通じるかどうかはわからない。

年代順に出すというので1999年から2009年まで、すべて四文字熟語で適当にタイトルを付けてしまった。「温故知新篇」「明鏡止水篇」「空前絶後篇」「一進一退篇」などと付けた記憶がある。「驚天動地篇」はコラムが書籍にまとまり、日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」をもらった年のタイトルにしたと思う。

それぞれ、その年を象徴する四文字熟語にした。コラムを読み返してみると自分のそのときの気分や精神状態が、かなり顕わになっているからだ。もっとも、その文章を書いたときの気持ちは僕自身には甦ってくるが、読者に伝わるだろうか。割に心穏やかに過ごした年には「明鏡止水篇」と付けた。そのくせ、書いている内容は必ずしも穏やかではない。

1999年8月末からコラムを書き始めて、その年の暮れまでに18篇書いた。その頃は、長くても400字で10枚(4,000字)前後だった。それでも18篇を合計すると、200枚近くにはなるだろう。新書判程度の分量にはなる。必ず映画のことを書くと決めていたわけではなかったので、具体的な映画が登場しない回もあった。



たとえば「犬に噛まれる」も「ジャンヌ・エビュテルヌの黒い瞳」というコラムも、最初の文章には映画の話は出てこない。書籍にするときに編集者から「各章に具体的な映画のタイトルを載せたい」という提案があり、狂犬映画「クジョー」(1983年)やモディリアーニを描いた「モンパルナスの灯」(1958年)に触れるくだりを書き加えた。もちろん、僕もその方が統一感があると思ったからだけれど...

しかし、連載を始めたときは通しタイトルも「デジクリトーク」だったし、何を書いてもいいと言われていた。途中、通しタイトルを考えろと言われ、「映画と本と音楽と...」にしたいと言ったら「当たり前すぎる」とはねられた。「あなたと夜と音楽と...」という曲をもじったのだが、通じなかったらしい。それで、今のタイトルになった。

●勝手なことを書きたかったというのが僕の本音

初期のコラムのように映画と本と音楽について、勝手なことを書きたかったというのが僕の本音だ。本の話ならいくらでも書けるし、開高健、大江健三郎(伊丹十三作品があるけれど)、安岡章太郎、阿部昭、田久保英夫といった、映画化作品があまりない人たちについても書ける。見た映画の数より、読んだ本の数の方が多いのだ。ときには、ジャズやシャンソンやカンツォーネの話だって書きたい。

ところが、いつの間にか映画に関するコラムになってしまい、読者からもそのように期待されているフシがある。人の期待には応えたい(迎合的な人間?)方なので、ついついそういう流れになってしまった。それに、原題が伝わるようにタイトルを「映画と夜と音楽と...」にしたものだから、何となく映画が登場しない話を書きにくくなった。毎回、映画に関連づけるというシバリができたことで、不自由さを感じているのは事実だ。

「映画がなければ生きていけない」という書籍にまとめるときも同じだった。その頃にはすでに「映画コラム」として定着していたので、原稿を最初の回から時系列で並べたときに、何となく違和感を感じると編集者に指摘された。前述のように1999年のコラムには、映画とはまったく関係のないコラムがあったからだ。

そこで、書籍の「映画がなければ生きていけない1999-2002」は、2000年の第一回目のコラム「アル中はスペシャリストであらねばならない」から始まっている。そして、1999年の18篇のコラムは最後に付録のような形で掲載し、章扉に「最初はこんなコラムを書いていた」というエクスキューズを入れた。

さて、電子書籍版「映画がなければ生きていけない1999 天地創造篇」を検証するために、僕は縦組みにしてみたり横組みにしてみたり、フォントを明朝やゴシックに変えたり、字間・行間をいろいろいじってみたり、背景色をナチュラル系の紙の色(書籍の用紙に近い)にしてみたり、いろいろ試しながら読み始め、結局、すべてを熟読してしまった。

まことに手前みそではあるけれど、実に面白かったのだ。1999年の夏の終わり、「スターウォーズ・エピソードI」公開前のヨーダの話題から始まり、二回目は「ヴォーグ・ニッポン」創刊の新聞広告から書き起こしている。「ヴォーグ・ニッポン」編集長の十河洋美さんに言及し、十河という名前についてのおバカなコラムである。十河洋美さんは、現在は再び「25ans」の編集長に返り咲いているらしい。

あれから12年が過ぎた。干支はひとまわりした。1999年に僕は年男だったが、今年もまた年男になった。それだけの時間が過ぎれば、人を取り巻く環境は大きく変わる。暦が還り、もうすぐ僕はまっさらな赤ん坊と同じ状態になる。12年前、48歳だった僕は60歳の僕を想像できなかったが、60になった僕は48の僕を甦らせることはできる。

48歳の僕が書いたコラムを読むと、その当時、僕が何を思い、何を感じ、何に悩み、何を欲し、何を夢見、何を不安に思っていたか、手に取るようにわかる。それらのことが自分の中でどう変化し、どう落ち着いたか、12年の流れが僕には明確に理解できる。それが、歳を重ねることだと実感する。もちろん、満足感などはない。12年の時間の流れのほとりには、苦い悔恨ばかりが死屍累々と横たわっている。

●映画は遠い外国にいる絶望した若者の命を救う力を持っている

先日、集英社新書で出たばかりの「素晴らしき哉、フランク・キャプラ」(井上篤夫・著)を読んだ。以前にも書いたけれど、僕はフランク・キャプラの映画が大好きなのだ。未見だった「オペラハット」(1936年)も今年見たし、クリスマスが近付くと「素晴らしき哉、人生!」を思い出し、アメリカ人ほどではないがDVDで何度も見る。

フランク・キャプラは、イタリア系の貧しい移民の子だった。ハリウッドで仕事を得るまで、様々な職業を経験し苦労したことは有名だ。「素晴らしき哉、フランク・キャプラ」でもその時代のことは触れられているが、それほど詳しくはない。やはり、映画監督として仕事をスタートさせてからのことが中心になっている。

巻頭に山田洋次監督が10ページほどの談話を寄せ、宇野重吉から聞いたエピソードを披露している。昭和16年、太平洋戦争が始まる直前の暗い世相の中で、左翼演劇青年だった宇野重吉は戦地で死ぬくらいなら自分で死のうと決意して、最後の映画としてフランク・キャプラ監督の「スミス都へ行く」(1939年)を見る。見終わった宇野重吉は、もう少し生きてみようと思ったと話し、こう続けたという。

──山田くん、映画は、一人の遠い外国にいる絶望した若者の命を救う力を持っているんだ。映画を作るっていうのはすごい仕事なんだ。君、勇気を持って映画を続けなさい。

この言葉は、キャプラ映画の本質をついている。キャプラ作品は、絶望した人間を救う。「世の中、棄てたもんじゃない」と感じさせる。世界が美しく見えてくる。明日からも生きていこうと決意させる。素晴らしい映画だ、それが映画ってモンじゃないか、と僕は思う。しかし、キャプラ作品は「楽天的な楽観主義」という批判を、公開当時から受けることが多かった。

それにしても、真珠湾攻撃が近かった戦前の日本で、「スミス都へ行く」が上映されていたのは驚きだ。アメリカの民主主義の理想を描いたあの映画を見てなお、日本は真珠湾を攻撃したのかと思うのは、僕がその後の歴史を知っているからだろう。あの映画を見て心震わせたのは、僕が戦後に生まれ戦後の教育を受けているからに違いない。今や、あの映画が描いた理想は、アメリカにさえ存在しない。

ちなみに、昔、「若き日の詩人たちの肖像」という、戦前に慶応大学に入学した堀田善衛が若き日を回想した自伝小説を読んでいたら、「左翼作家の中野重治から二文字をもらって、俳優としての名前を付けた若き演劇青年」が出てきた。宇野重吉である。今や、「寺尾聡のお父さん」と言っても、若い人には通じないかもしれない。寺尾聡自身が歳を重ねて、飄々とした宇野重吉によく似てきた。

●寺田寅彦が書いた「或る夜の出来事」の映画評

先日、青空文庫のリストを見ていたとき、寺田寅彦のエッセイを見付けてダウンロードした。その中に映画についての文章が数多くあり、「或る夜の出来事」(1934年)について書いているものがあった。寺田寅彦と言えば物理学者で随筆家としても有名だが、映画評論も書いていたのだ。それは、昭和9年10月に「映画評論」に掲載された短文で、時代性が出ている貴重な証言だった。

──ゲーブルとコルベールの「或る夜の出来事」は、いかにもアメリカ映画らしい一種特別なおもしろみをもっている。この映画の中で、自分の座席の付近の観客、ことに婦人の観客がさもおもしろそうにおかしそうにまたうれしそうに笑い出した場面が二つある。一つは雨夜の仮の宿で、毛布一枚の障壁を隔てて男女の主人公が舌戦を交える場面、もう一つは結婚式の祭壇に近づきながら肝心の花嫁の父親が花嫁に眼前の結婚解消をすすめる場面である。

これを読んで、「なるほど」と僕は思った。昭和9年は1934年である。「或る夜の出来事」は、アメリカで制作された年に日本でも公開されたのだ。それに「或る夜の出来事」とは、まさに「雨夜の仮の宿で、毛布一枚の障壁を隔てて男女の主人公が舌戦を交える場面」から付けられた思わせぶりな邦題だろうし、そのシーンは性的な連想をさせるように作られている。

「艶笑」という言葉が浮かびニヤリとするシーンが、「或る夜の出来事」にはいくつかある。ただし、描き方には品がある。クラーク・ゲーブルがヒッチハイクをしても車が停まらないのに、コルベールがスカートをめくり太股を見せながら親指を立てると車が急停車する有名なシーンも、笑いに包んでさりげなくドキッとさせる。昭和初期の婦人観客たちが「うれしそうに笑い出した」のもわかる。

昭和9年に日本で公開された「或る夜の出来事」は、翌年「キネマ旬報外国語映画ベストワン」に選出された。昭和7年には5.15事件が勃発した。そういう世相だった。5.15事件のとき、来日中のチャップリンは犬養毅首相の息子と共に首相が殺された直後の官邸を見た。フランク・キャプラは、チャップリンと同時代のハリウッド人だったのだ。

チャップリンは1889年に生まれ、キャプラは1897年の生まれだ。8つ違いである。すでに売れっ子監督だったジョン・フォードは1894年生まれで、キャプラの3つ上だった。日本の映画史に名を残す監督たちは、小津安二郎が1903年生まれ、成瀬巳喜男が1905年生まれ、黒澤明が1910年生まれと、20世紀人である。

●30年間、映画を作らずに死んでいったフランク・キャプラ

フランク・キャプラは1991年9月3日、カリフォルニア州ラキンタで老衰によってこの世を去った。94歳だった。1989年、米国議会図書館が永久保存する「アメリカ国立フィルム登録簿」の第一回25作品に「スミス都へ行く」が選出され、1990年には「素晴らしき哉、人生!」が加えられた。己の業績を確認して人生を終えることができた幸せな監督だったと思う。

しかし、フランク・キャプラがそう感じていたかどうかはわからない。「素晴らしき哉、フランク・キャプラ」の中で引用される、74歳の時に刊行された自伝の文章にはどことなく悔恨が感じられるのだ。出世作「一日だけの淑女」(1933年)以来、「或る夜の出来事」「オペラハット」「我が家の楽園」(1938年)の脚本を書いた盟友ロバート・リスキンの離反と早世も、彼の心に深い傷を残したようだった。

「素晴らしき哉、人生!」の後、キャプラは赤狩りに遭遇する。以来、6本の作品しか作っておらず、7年ぶりの作品「波も涙も暖かい」(1959年)は、スターであるフランク・シナトラの映画だった。「ハリウッドのスターたちは力をつけ、映画を牛耳っていた。彼らの最後の障壁は監督だった。7年ぶりの新作だったというのに、私は私のやり方で撮影できなかった」という。

やがて、苦い失敗が訪れる。自作の模倣だ。1961年、キャプラ64歳のときの2年ぶりの新作「ポケット一杯の幸福」は、映画評論家にも「完全な失敗作だ」と否定される。それは「一日だけの淑女」の28年ぶりのリメイクだったのだ。60を過ぎた映画監督は、36歳で作ったヒット作を再映画化し、失敗したのだ。それから30年、キャプラは映画を作ることなく老衰で死んでいった。

フランク・キャプラは、自伝によると38本の劇場映画を手がけた。日本未公開作品もあるが、好きな一本を選べと言われると僕は困惑する。「スミス都へ行く」と「素晴らしき哉、人生!」のどらかに決めることなどできるわけがない。その2本には、キャプラの理想主義が奇跡のような形で描かれている。楽天的だ、楽観主義だという批判は的外れである。そこには、苦い現実がリアリティを持って描かれてもいる。

若きフランク・キャプラは、現実の苦さや厳しさや悲惨さを熟知したうえで、志や夢を抱えた理想主義者だったのだと思う。その理想主義が若き宇野重吉の命を救ったのだ。だが、栄光を極め、人々の称賛を浴び、あるいは赤狩りという辛い時期を経て、その後の長い人生を送り、ついには自己模倣をし、その愚かさを悟って悔いていたのかもしれない。

人は昔の自己を振り返り、遠い日の己のまなざしをまぶしく感じるときがあるのではないだろうか。怖れを知らず、安定を求めず、ただ夢や希望や志を抱いて邁進していた、青く、幼く、生意気で、向こうみずだった自分の姿が、無性に懐かしくなるのではあるまいか。その遠い日のまなざしが、今の己を責める。悔いを生む。

読み返してみると、昔の僕の文章には何かを書く喜びだけを感じた。それが本にまとまるかとか、誰かに読まれてどう思われるかとか、そんなことは気にせず、湧き上がることを書きたいように書いていた。そのまなざしがまぶしい。だが、自己模倣だけはするまい。遠い日のまなざしは、もう決して戻ってはこないのだ。12年の時間が蓄積したもの、その中から得たものが、今の僕の文章に顕われているのだと信じて書き続けよう。悔いても、時間は遡らない...

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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日曜に仕事で会社に出たので、珍しくこの原稿は掲載日の前日まで粘ってしまった。今日は文化の日。バタバタと日々が過ぎていく。気がかりなことが消え、別の難題が生まれる。週が明けると、とうとう千円で映画が見られるようになるが、心穏やかに暮らせる日はくるのだろうか。

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