[3169] 何も変わらない私

投稿:  著者:  読了時間:20分(本文:約9,800文字)


《口を出すなら責任を少しでも負え》

■わが逃走[96]
 無駄遣い八千円也の巻
 齋藤 浩

■電網悠語:HTML5時代直前Web再考編[180]
 忠告、そして自戒
 三井英樹

■私症説[33]
 何も変わらない私
 永吉克之



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■わが逃走[96]
無駄遣い八千円也の巻

齋藤 浩
< http://bn.dgcr.com/archives/20111208140300.html >
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今年は念願のライカも手に入れたことだし、物欲から遠ざかり真面目に生きようと思っていたにもかかわらず、某中古カメラ店の年末恒例赤札市を覗いてしまった。

で、ある商品に目が釘付けになったのだ。美品クラス、箱も取り説も付属品もすべて揃った素晴らしい状態のCONTAX TVSがなんと8,000円。高級コンパクトの代名詞的存在であるT2をベースにズームレンズを組み込んだコンタックスの意欲作、当時17万円もした高嶺の花的存在が8,000円。

お店の人曰く「メーカーでの修理受付が終了したため、突然安くなった」とのこと。とはいえ、そうそう壊れるようなモノでもなかろう。モノは中古という扱いではあるが、新品価格から16万2000円引きというのは好ましい。95.3%off。すなわち9割5分3厘引き。これはお買い得といえよう。

スーパーカーに例えれば、2,500万円のフェラーリが117万5,000円で買えることになる。んー、えーと、プラモデルに例えると、1/60スケールのパーフェクトグレードガンダム(1万2,000円)が564円。うお、これは安い! やはりもう、これは買うしかないか...。

てことは、これを300円のガンダムに置き換えると、一個14.1円。まあ確かに安いが、これはこれで微妙でもある。定価でも20個以上買える計算ではあるが、300円くらいポーンと出せるオレにとって、ガンダムが15円だからといって物欲は刺激されない。

では、高い『資生堂パーラー』の高いカレー2,940円が138円だったら? 大変だ! ザギンの高級な店がビンボー人で埋め尽くされてしまう!

ということは、この価格は事件である! 暴動がおきても不思議じゃない。このパニックを未然に防ぐには、もうオレが今ここでCONTAX TVSを買うしかないのだ。この間約2分。

結局購入したのだが、とはいえこのカメラが必要かといえば決して必要なものではない。必要ないものを買うことそれ即ち無駄遣いなのである。ああ、無駄遣いすると気持ちがいいなあ!

で、早速撮ってみることにした。このCONTAX TVSに搭載されているズームレンズ『カールツァイスT*バリオゾナー』は妥協の無い設計で有名だが、解放F値が3.5〜6.5と暗い。ここはやはりISO400のポジで、と思って買いに行くと、ない。ないって訳じゃないのだが、気がつくとほとんどのISO400のポジフィルムが生産中止となってしまい、あったのは二種類だけ。しかも高い!

5本で6,000円近い値段である。あと2,000円出せばこのカメラが買えるぞ! いつもISO100ばかり使っていたせいか、400のポジがここまで絶滅に近づいていたとは知らなかった。まさに驚愕したのであった。

とはいえまあ、あるだけマシってやつですね。いくらカメラがあってもフィルムが消滅したら無意味の極みです。で、結局買わずに備蓄していたISO100のポジで撮ってみた。

んでもって、やはり感じたことは「暗いレンズだー」。なのである。つまり、屋外スナップの場合、晴れの日じゃないと(とくに望遠側で)ブレるのだ。このカメラは小さくてどこにでも持って行けるのがウリなので、となるとやはり400を常用とすることが最善策でございましょう。

< http://bn.dgcr.com/archives/2011/12/08/images/01.jpg >

< http://bn.dgcr.com/archives/2011/12/08/images/02.jpg >
信号
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ビル
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落ち葉
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こうして見てみると、濃厚で趣のあるシャープな絵が得られる良いレンズと言えましょう。以上、今回も無駄遣い自慢でした。

【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
< http://tongpoographics.jp/ >

1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。

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■電網悠語:HTML5時代直前Web再考編[180]
忠告、そして自戒

三井英樹
< http://bn.dgcr.com/archives/20111208140200.html >
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親切心から声がかかる。迷ったときに、困ったときに。でも困ってない時にも声がかかる。それが精神を揺らす。助けられるときもあるけれど、メンドーな沼地に誘われる臭いがするときもある。

  手軽なことだ。災難を身に受けない者が、
  ひどい目にあっている者らにあれこれと忠告するのは
      アイスキュロス「縛られたプロメーテウス」
      岩波文庫 < http://goo.gl/CTQj7 >

子供によく話していた物語がある。イソップだったと思うが、オジイさんと孫とロバの話。遠くに出かける用事があって、ロバに孫を乗せていく。周りから「なんてひどい子供だ、老人を歩かせて」と声がする。オジイさんがロバに乗ると「なんて非道い奴だ、あんな小さなロバに乗っかるなんて」となじられる。しかたがないので、ロバの足を棒に縛り、オジイさんと孫が担いで進む話。

子供たちが、やたらアドバイスや周囲の目を気にしていると思ったとき、この話をした。何度も繰り返しているので、話し出した途端に子供達は「分かった、分かった、自分で考える」といって逃げ出すようになった。無責任なアドバイスに耳を傾ける必要はない。先ず自分で納得するまで考えることが大切だ。

それにしても、私がそのオジイさんなら、素直にロバを担ぐ前に、怒っていたと思う。無責任な攻撃よりも腹立たしい接し方はない。自らは傷を負う事も、汗を流す事もなく、高見に座って、俺の指示に従っていれば楽になれるんだと物知り顔で指を指す。そんな声が悪魔の囁きであり、結局残念な結果につながり易いことは、経験値は教えてくれている。

かけられる声が、真の救いの声か、勘違いお馬鹿さんの声かを判断するのは、その姿勢や眼差しなのだろう。状況をどこまで見つめるのか、何を悲惨な状況として避けようとしているのか。その時の犠牲をどの程度と見込んでいるのか。人の接し方は様々な情報を与えてくれる。

きっとオジイさんと孫に後ろ指をさした人々は、手を口の前に当て、自分の素顔を隠すように、半分聞こえるようにヒソヒソと非難したのだろう。ロバを担ぐ重さを考えもしないし、経験したこともない上で。残念ながら、そんな人が増えて来た。



手軽にアドバイスする風潮は強くなっている気がする。前線から安全なだけ離れ、現場の状況をよく聞きもせず、最新技術をよく知りもせずにこっちが行くべき道だと指し示す。いかにも親切で、困っている人のことだけを考えているように見えるが、何か違う。寄り添う気持ちがない。正論を言っている自分を愛おしんでいるだけの香りがする。

震災以降、この辺りの境界線を強く感じるようになってきた。語る人がどちら側にいるのか、自分事として考えているのか、それとも他人事なのか、ただ言いたいだけなのか。そんな立ち位置で判断され、語るだけならもう結構ですという所に落ち着いてき始めているように感じる、様々な場面で。

何が正しく何が間違っているのかを、絶対的な尺度で判断し実行できることはない。でも、何もしないよりは何かした方が良い。静観という選択肢は受け入れがたい雰囲気がある。間違っているかもしれないけれど、間違った時には私も一緒に対応するから、という姿勢にこそ人は惹かれる。その傾向が強まった。

特に技術の話であり、ネットの話である。今現時点で、将来に関わる事を瞬時に俯瞰し、判断し即決できるのは、神かそれとも勘違いおバカの二極だろう。現時点でのアドバイスというかディレクション支援は、ノウハウ的知識ではなく、「責任」という局面を持つものだけにシフトしているように思えている。

口を出すなら、責任を少しでも負え。そんな雰囲気で現場が進む事が、多少ギスギスしてでも良いのではないかとさえ思えている。責任を負う回数を重ねれば、そのうちに奇麗に負える様にもなるだろうから。



そう考えたら、身近なところではチームや会議のメンバも絞れる。的確なアドバイスだけくれる絶妙な人もいなくはない。しかし、例外的存在だろう。ただ会議に参加して、仕事をしているアリバイ作りに精を出す人は基本的には排除しよう。勝手に仕事をした気になる人は不要だ。共に仕事をなす人だけをメンバと呼ぶ。動く人間だけが集まったチームは多分強い。それは最小限の人数だからだと思う。

「80対20の法則」や「パレートの法則」と呼ばれるものがある。組織人材論的にかなり乱暴にまとめると、どんな組織でも働く2割とさぼる8割とに分かれるという話で、そもそも人材やスキルに依らないと言われている。4番打者ばかり集めても、打つ人と打てない人に分かれる、と言えば、体感的にも正しいように感じる。

  ▼80対20の法則 ─ @IT情報マネジメント用語事典
  < http://goo.gl/T6MJ >
  ▼パレートの法則 - Wikipedia
  < http://goo.gl/5TAn >

少人数チームというのは、この比率で計算すると主要機能担当者がゼロになりかねない状況なのだろう。つまり、企画し情報整理する人、プログラムを書く人、デザインを作り出す人、この3人ならば、さぼる8割は生まれないのである。数では多く見える「80」は、実は「20」の前に勝てないからだ。20が先に生まれる、といっても良い。つまりは、自分事として全力を尽くす方が優性遺伝子なのだ。だからこそ20が全体を引っ張っていける。



こうやって文字にすると危険な香りもしないではない。独裁的な匂いもする。でも閉塞感がものごとを縛りつけるような時代には求められる要素なのだろう。大災害を前に、最前線にやっても来ないで訳知り顔で分析だけしている御仁に人望は集まらない。そして、コトは大災害だけではない。技術革新の現場だって、通常のことだって、山場はある。優しい道などないと思った方が正しい。

そうやって少数精鋭で研ぎ澄まされた体制と経験こそが、実は「空洞化」を防ぐ手段なのだ。責任を負いつつ、退路を断ってこそ工夫が生まれる。その工夫の蓄積こそが宝であり、ポテンシャルであり、活力だ。上からの指導で成り立つ場ではない、現場が必死になって試行錯誤をする体制。指導する立場に価値があるとしたら、その神聖な聖域である「現場」の自由度を守ることであり、縛ることではない。だから高みからの無責任発言は、現場を冒涜し、無力化させる忌み嫌うべき存在なのだ。偉そうな戯言を吐く前に、現場に足を運び、共に汗を流した方が良い。

そして、日本では他国のようにいきなりデモが起こったりする否定行動は起こらないのだろうとも思わされる。静かに無視するのが流儀だ。戯言を言う上司が無視されるように、お高い位置にいた方々が続々と無視されている。天下りの御仁たちが一部の間で「クダラー」と呼ばれるのも時代の動きを感じる。今、心が折れていない現場は実は活性化している。

翻って、私はいかがが。相談事に対して、プロジェクトに対して、プロジェクトのメンバに対して、組織に対して、家庭に対して、地域に対して、震災に対して、国に対して。考えるほどに頭を上げられない。でも無責任な世迷い事を言わぬ姿勢は貫ける。できることから、責任ある行動に移っていこう。

【みつい・ひでき】@mit | mit_dgcr(a)yahoo.co.jp
・< http://www.mitmix.net/2011/12/180.html >
・期せずして、編集っぽいこととイラストを担当して、更に名前まで出していただけた本。旧約聖書のダビデの話:
▼Amazon.co.jp:ソーン・バード[新書]平野耕一(著)、三井英樹(編集、イラスト)
< http://goo.gl/mF2TF >

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■私症説[33]
何も変わらない私

永吉克之
< http://bn.dgcr.com/archives/20111208140100.html >
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こっ恥ずかしいので、かつて自分が書いたものを読み返すことはあまりないのだが、自分の文章がどのくらい変わってきているのか知りたくなって、デジクリでの連載第1回目の「天職とは」という、2001年6月27日掲載のコラムを改めて読んで慄(ぞっ)とした。基本的な発想がぜんぜん変わっていないのである。

聞きかじりの科学的根拠でムリヤリ意見を正当化する手法や、後半はフィクションになだれ込んで結論をうやむやにするという手法を、このときすでに用いている。処女作にはその作家のすべてがある、といったようなことをよく聞くが、その典型例を拙文に見たのであった。

そんなわけで、そのテキストをここに再び掲載することにした。最近の私の文章と比較していただければ幸甚である。これは、作家がその発想やスタイルを変えるのがいかに困難かを訴えることが私の義務であると考えたからである。決して、「現代日本におけるカースト制度〜格差社会に生きる」というタイトルで一旦は書いたものの、やたらと奇をてらっているだけでぜんぜん面白くないし、かといって書き直している時間がないので苦し紛れに昔のコラムでその場しのぎをしよう、というのではない。

耐えられないくらいしょうもないボケを削除するなど、数カ所に手を加えたが、基本的には10年前のままの姿を晒している。

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■デジクリトーク
天職とは

永吉克之
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正式に絵を描きはじめて、もう26〜7年になるのだが、いまだに絵を描くことが天職だという実感がない。ただ、作品が売れていなくて商売になっていないので、天「職」というのも、ドあつかましいかもしれないが、その割には、コンペで入賞することが何度かあったので「なーんだ、やっぱり天職じゃん」と思い直したりするが、やっぱり実感がない。

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言語を司っている言語野という部分が左脳にあって、ここに障害があると、当然、話ができなくなるのだが、本人がなんとか話そうと努力をするうちに、右脳に言語野の代わりをする部分が発生して話せるようになることがあるらしい。

ひょっとしたら私の天職は、柔道着専門の縫製工場の経営かもしれない。しかし「ヴィジュアルアーティストになりた〜い」という強い願望と努力によって、脳内で、縫製工場の経営の才能を司っている部分が「......あんたの勝ちや。今日からは、あんたがここの主人や。ええ仕事しなはれや」ということで協力してくれるようになったのかもしれない。だから、実感がないのだろう。そういえば、「君の作品は柔道着専門の縫製工場の経営の香りがするね」といわれたことがあるような気がする。

私が美術を教えているコンピュータの専門学校の生徒の中には、絵を描かせても文章を書かせても何をさせても、ソツなくこなしてしまう者が何人かいるが、たいていの場合、彼らはマルチな才能を発揮しているのではなく、ものまねの才能を応用して絵や文を作っているといったほうがいい。今までに、見聞きしてきたものを器用に組み合わせているのだ。だから、彼らの天職は、ものまねである。

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かつて某知識人が、「絵描きが絵を描いたって面白くない。数学者が絵を描いたら面白いものができるかもしれない」という内容のことを言っていたのを思い出した。つまり、数学者の感性で絵を描くということなのだろう。抽象的で、やや短絡的な気もするが美しい。大工が、建築的感性で、動物の調教をするとか、金物屋の感性でダンスの振り付けをする、といったようなことは、美しくはないが面白い。

絵描きの感性で小説を書いたらどうなるか。あらすじだけだが、書いてみた。これは、呪われた家系に生まれた男の物語で、本人は、人並みに生きていきたいと願っているのに、血筋には逆らえず、意に反して、つぎつぎと殺人を犯していくという青春学園ドラマだ。

小説「血に餓えた男の血」あらすじ

主人公は、岩手県内に勤務する34歳の公務員。妻と小学生の娘との3人暮らしで、幸せな生活を送っていた。ところが、あることがきっかけで、以前から彼の妻に横恋慕していた焼肉屋の店主と妻との関係を疑い始めた主人公は、嫉妬に悩んだ末、アマゾンの人喰いワニを密輸して、妻をその餌食にしてしまう。

そして、この最初の殺人が、彼の中に眠っていた呪われた血をめざめさせる。つぎに、浮気相手とにらんでいた焼肉屋の店主を「オーロラを見よう」と北極までおびきだし、睡眠薬を飲ませて氷原に放置し、凍死させる。

次に、妻の殺害を目撃したソーセージ製造会社社長の口を封じるため、この会社のソーセージからミドリガメが出てきた、というデマを流して工場閉鎖に追い込み、自殺に至らせる。

その後も呪われた血は彼を殺人に駆り立てる。手口も巧妙さが影を潜め、刺殺、射殺、爆殺など、荒っぽさがエスカレートしてゆく。殺す理由も「店員の愛想がわるい」から、「ジョークを笑ってくれない」「いっしょに遣随使になろうと誘ったのに断られた」などにいたるまで、さまざまである。

しかし、97人まで殺した頃、愛娘が属する児童劇団が上演する『欲望という名の電車』を見て彼は目覚める。そして、「もう、憎しみは捨てよう。恨みはインド洋に流そう」と、人生の再出発を決意する。その後、彼は再婚する。

娘と後妻との関係も良好で、後妻との間には息子が生まれ、主人公の心には、揺るぎない平安が訪れるのであった。そして、主人公の息子は後に、新聞配達をしながら、苦学して国王になるのだが、それは続編で描くつもりだった。

以上だが、どの辺に絵描きの感性が生かされているのか、これだけでは分かるはずがない。

【ながよしのかつゆき】thereisaship@yahoo.co.jp
無名芸人< http://blog.goo.ne.jp/nagayoshi_katz >

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■編集後記(12/08)

・我が家の飼い犬ハニー号が14歳になった。人間年齢で72歳〜83歳だそうだ。見た目はあまり変わらず元気いっぱいだが、確かに耳は遠くなった。先日の新聞に「世界一の長生き犬 天国へ」という記事があった。雄の雑種犬「プースケ」の26歳8か月がそれだ。いったい人間年齢でいくつなんだ。同じ日の人生案内に「幼児いるのに室内で犬」という問答があった。60代女性の悩みだ。30代次女夫婦がマンションで室内犬を飼い始めて、その後で孫が生まれた。犬を引き取ると申し入れたが拒否された。犬と同居の不衛生さを何度も説教したが娘は聞く耳を持たず、孫は2歳になった。犬小屋と化したマンションのことを気にもむばかりだ。次女にどう対処したらいいか、と問う。大日向雅美教授は「祖父母の役割にはおのずと限界と節度があるように思えます」「娘といえども別の人格です。伴侶を得て一家を構えているのです。『違いは認めても否定はしない』という姿勢が年長者の心得かと思います」と答える。あきらめて放置しなさいということだ。質問者の気持ちは痛いほどわかるが、それしかないだろう。わたしに長男が生まれたとき、妻の実家に預けることがよくあったが、そこには室内犬がいた。わたしが、犬を赤ん坊に近づけないで欲しいと申し入れて、一時わたしと義父母との関係がぎくしゃくしたことがあった。室内ペット問題は人間の理性を失わせる。いまハニー号には夜間と極暑極寒時のみ、室内の決まった場所を与える。もちろん毎朝念入りに清掃している。(柴田)
< http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1143840771 >
犬を家の中(室内)で飼うことは不衛生なのではないでしょうか?
(YAHOO!知恵袋)

・2,940円が138円だったら買う。2,500万円のフェラーリは、117万5,000円でも買わないかもしれない......。/外野の声に翻弄されまくりや......。/どんな先生の作品でも、テーマは同じで、昔の焼き直しっぽかったりする。/先日、選挙速報が聞きたくて、iPhoneアプリの「NHKネットラジオ らじる★らじる」を立ち上げた。NHKラジオが速報中と番組表にあったので。が、やっていたのは地域放送ではなかった。アプリ紹介詳細をよく読むと「全国向け共通番組」で、全国向け共通番組を放送していないときは、ラジオ第1は関東広域放送、FMは東京都域放送を提供します、とあった。radiko.jpでは地域限定放送なので意外に思った。/透明ガラス製マルチタッチキーボード&マウス。iPadのキーボードが微妙に使いにくいので、これはナシかなぁと思ってはいる。ホームキーポジションにポッチはついているんだろうか。ホームポジションに指を置いた状態で、他のキーを押しても誤動作しないのだろうか。ゴミが入らず、掃除がしやすいのはいいなぁ。かっこいいしなぁ。(hammer.mule)
< http://www3.nhk.or.jp/netradio/ > NHKネットラジオ らじる★らじる
< http://itunes.apple.com/jp/app/id473937342?mt=8 >
iPhone向けアプリ。Androidアプリもある
< http://fukkou.radiko.jp/ >
radiko.jp復興支援プロジェクト。アプリはAndroidのみ
< http://gigazine.net/news/20111204-multitouch-keyboard-mouse/ >
透明ガラス製キーボード&マウス
< http://gigazine.net/news/20111206-little-printer/ >
スマホから使える小さなプリンター
< http://gigazine.net/news/20110507_polaroid_iphone_case/ >
ポラロイドカメラみたい
< http://loppi.jp/lshop/user_data/111206camp_sculpd.php >
スカルプD×キン肉マン