映画と夜と音楽と...[526]ハードボイルドだど!!/十河 進

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〈麻雀放浪記/下落合焼きとりムービー/ケンタッキー・フライド・ムービー/アニマル・ハウス/ブルース・ブラザース〉

●「MIDNIGHT PLUS ONE」というコンピレーションアルバム

秋が深くなった頃、不思議なCDが発売になった。ジャケット写真は若き内藤陳さんである。黒々とした髪をきっちりと横分けにして、タバコをくわえ、鋭い目で何かを見つめている。ダークスーツに三角ゾーンのコントラストを強調する薄い色のシャツ、幅広のネクタイのデザインはアート作品のようだ。写真全体はセピア調である。その写真は、新宿ゴールデン街にある日本冒険小説協会公認酒場「深夜+1」の壁に何10年も掲げられていたものだった。

ジャケットの裏も同じトーンの写真だが、そこに写っているのは夜の灯りがともった新宿ゴールデン街の路地を撮影した俯瞰ショットだ。二つ折りのジャケットを開くと、さらに引いた俯瞰ショットが見開きで印刷されている。ゴールデン街の酒場群の小さな屋根が連なり、狭い路地が何本も走っている。ぼんやりした灯りが路地を照らし出し、真夜中(MIDNIGHT)というより夜明けが近いのか、青い光が写真全体を覆っている。

CDのタイトルは「MIDNIGHT PLUS ONE」である。新宿という街と「深夜+1」へのオマージュにあふれ、陳さんを励ますCDだ。それをプレイヤーにかけると、リズミカルなイントロを背景に「ハードボイルドだど!!」と叫ぶ陳さんの声が聞こえる。続いて「そこには華やかなネオンも、きらめくガラス窓も、体をすっぽりとうめられるソファもない」と早口で語る柄本明の声が流れる。それは大沢在昌さんが作詞した「深夜+1」という曲だった。

どういういきさつで大沢さんがその詞を書いたのかは知らないが、「永久初版作家」と自ら口にする売れなかった頃の大沢在昌さんを支持し続けた、日本冒険小説協会会長の陳さんへの感謝の気持ちかなと僕は思った。数年前、光文社の鮫番(「新宿鮫」を書かせた)と言われる編集者のWさんが、「なぜだか会長は、昔から大沢さんにはずっとやさしいんですよ」とつぶやいたことがある。

同じ頃、「深夜+1」で陳さんは僕に「大沢は筆が荒れない。あれだけ売れると書きとばした作品を出す作家もいるが、大沢はレベルを保っている」と言い、大沢さんから献本された「影絵の騎士」を掲げた。「それ、まだ読んでないんです」と僕は答えた。次に「深夜+1」にいったとき、カウンターの祐介くんから「これ、会長から」と「影絵の騎士」を渡された。だから、僕は大沢さんから陳さんに送られた「影絵の騎士」を今も持っている。

今年の9月17日、日本冒険小説協会30周年と内藤陳会長の誕生日を祝うパーティーで、大沢在昌さんと北方謙三さんは元々痩せていたのにさらに痩せてしまった陳さんの両脇を固め、ずっと気遣っていた。陳さんは70過ぎ、北方さんとは10歳も違わないかもしれない。大沢さんとは15、6歳の違いだろうか。それでもその二人は、まるで父親をいたわる息子たちのようだった。その様子を見ながら、大沢さんと北方さんが陳さんへ寄せる想いを僕は想像したものだ。

内藤陳さんが「読まずに死ねるか!」というコラムを月刊プレイボーイに連載し、ハードボイルドや冒険小説を紹介し始めたのは、もう30年以上前のことだ。「コメディアンが本を読むのか!!」と驚かれながら、陳さんはギャビン・ライアル、デズモンド・バグリィ、ジャック・ヒギンズらの冒険小説を紹介し続けた。「最も危険なゲーム」「深夜プラスワン」「高い砦」「鷲は舞い降りた」...、それは冒険小説の黄金時代だった。

「読まずに死ねるか!」を連載している頃、陳さんは読者に向けて「日本冒険小説協会」旗揚げの檄を飛ばした。それに呼応する全国の冒険小説ファンたちによって協会は創設され、陳さんは永世会長になった。大沢さんのデビューは1978年。しばらくは売れない新人作家だったが、大沢さんに最初に賞を与えたのは日本冒険小説協会である。北方さんも「眠りなき夜」で第一回大賞を受賞した。以来、30年の月日が流れた。




●「トリオ・ザ・パンチ」をテレビで初めて見た頃

「トリオ・ザ・パンチ」のコントをテレビで初めて見たのは、いつだったろう。40数年前だろうか。僕は小学生だったかもしれない。顎がしゃくれた細長い顔のヒョロヒョロに痩せた男が、銃身の長いリボルバーをクルクルとまわし、腰につけたホルスターにかっこよく銃を収めるはずが、外して銃が舞台に落ちる。観客から笑いが起きる。見事なガンプレイを見せた後、最後にずっこけるのである。その後、その男はキッと観客を睨み、こう言った。

──ハードボイルドだど!!

当時、僕はアメリカン・ハードボイルドの洗礼を浴びたばかりだった。「エラリィ・クィーンズ・ミステリマガジン」(通称EQMM)を読み、そこに連載されていたミステリ・エッセイに出てきた小説のタイトルをすべて記録した。ニューヨーク・タイムズの書評家アンソニー・バウチャーが言ったという「ハメット・チャンドラー・マクドナルド・スクール」とは何か、と興味を抱いた。

僕は読書ノートを作った。頁ごとに作家の名前を書き、読むべき小説のタイトルをメモした。ダシール・ハメットの「血の収穫」「ガラスの鍵」「デイン家の呪い」、レイモンド・チャンドラーの「大いなる眠り」「湖中の女」「さらば愛しき女よ」「かわいい女」「長いお別れ」「プレイバック」、ロス・マクドナルドの「人の死にゆく道」「ギャルトン事件」「ウィチャリー家の女」「縞模様の霊柩車」といった作品だった。

英語を習い始めたばかりの中学生の身で、「ハードボイルド」という言葉の意味を調べた。「固ゆで卵」と辞書には出ていたが、その出典は明かではなかった。しかし、セックスとヴァイオレンスに彩られた探偵マイク・ハマーを創り出した、ミッキー・スピレインの亜流のような大藪春彦が日本の代表的ハードボイルド作家と言われていることに納得がいかなかった。日本を代表するハードボイルド作家は結城昌治なのだ、と固く信じていた。

そんな頃、テレビで「トリオ・ザ・パンチ」という三人のコメディアンがガンベルトを付け、ときには西部劇のようなスタイルで登場し、ガンさばきも鮮やかに繰り広げるコントを見て笑った。リーダーの内藤陳という奇妙な名前を持つコメディアンは見た目のインパクトがあり、曲芸のようにクルクルと拳銃をまわした。最後には、「ハードボイルドだど!!」と決めゼリフを言った。それがギャグになる不思議なコントだった。

僕が初めて陳さんと会ったのは、それから数10年後のこと。映像作家かわなかのぶひろさんに連れていってもらった「深夜+1」のカウンターだった。かわなかさんは、陳さんが浅草で榎本健一(エノケン)の弟子として修行していた頃からの知り合いであり、日本冒険小説協会の会員だった。僕は子供の頃に見たコメディアンの陳さんに会ったというより、「読まずに死ねるか!」の筆者に会った感激に浸った。「今、オススメ本は何ですか?」と、僕は緊張して訊ねた。

●「麻雀放浪記」に出演した内藤陳さんは印象的な役だった

陳さんが出演した映画作品で最も印象的なのは、和田誠監督の「麻雀放浪記」(1984年)である。阿佐田哲也(「朝だ、徹夜」の意味ですね)原作の「麻雀放浪記」は面白いギャンブル小説だが、その主人公「坊や哲」を若き真田広之が演じた。時代は戦後すぐ。無頼な賭博師たちの世界が展開され、そんな男に惚れる女の悲劇も描かれた。一種のビルドゥングス・ロマンで、「坊や」と呼ばれる主人公が非情な大人の世界を学んでいく物語だった。

その映画の冒頭近く、上野あたりに巣くう男娼として陳さんは登場する。役名は「おりん」と言った。女ものの着物をだらしなく着て、男にしなだれかかるようにしながら、甘えたオカマ言葉でセリフを言う。しゃくれた顎、痩せてキュウリのような長い顔...、男娼としては客がつかないのではないかと思うのだが、和田誠さんの意表をついたキャスティングが当たった。登場シーンは少ないが、陳さんは場をさらう。ご本人も気に入っている役らしい。

「麻雀放浪記」で印象に残るのは、鹿賀丈史が演じた「ドサ健」である。彼が主役とも言えるだろう。根っからの賭博師であり、非情な精神を持っている。ある事件で「坊や哲」は「ドサ健」に裏切られた思いを抱くが、「ドサ健」は裏切ったなんて思っちゃいない。簡単に人を信じる間抜けな「坊や哲」が甘いのだ。ドサ健は賭けの途中で死んだ老賭博師(高品格)の身ぐるみを剥ぐし、自分に惚れている女(大竹しのぶ)を博打の元手のために売り飛ばす。

「ドサ健」は、ハードボイルドな精神を身に付けた男なのである。その非情に徹した生き方が気持ちよかった。同情心や憐れみなど、かけらもない。身ひとつで生きていく覚悟ができている。誰にも頼らないし、誰の世話もしない。僕が座右の銘にしている「甘ったれるな、手前の牙は手前で磨け」を実践し、手前の牙だけで生きている男だった。もしかしたら、彼は人肉を喰らうような地獄の戦場から帰ってきたのかもしれない、と僕は推察した。

陳さんの映画出演はそれほど多くはないのだが、個性的な作品ばかりに出ているなあ、という印象がある。数年前、陳さんと話していて思い出したのは、「下落合焼きとりムービー」(1979年)である。企画と脚本は赤塚不二夫と高平哲郎、監督は山本晋也だ。所ジョージ、タモリ、たこ八郎などと一緒に陳さんが出演し、若手演劇人だった佐藤B作や柄本明も出た。内容は、ハチャメチャなギャグ映画である。それ以外に形容のしようがない映画だった。

前年、「ケンタッキー・フライド・ムービー」(1977年)なるギャグ映画が公開され、一部ファンに大受けに受けた。その映画に注目し、ジョン・ランディスという若手監督に期待した人は多かった。彼は「アニマル・ハウス」(1978年)「ブルース・ブラザース」(1980年)と立て続けにヒットさせるが、日本で「下落合焼きとりムービー」を作らせてしまうほど、そのギャグセンスは素晴らしかったのである。

ちなみに僕はジョン・ランディスの初期三本はどれも大好きだが、「アニマル・ハウス」は特別に好きで、当時はまだ高かったレーザーディスクを購入し、笑いたくなるとくりかえし見た。同じところで笑うし、新しい発見をして笑う。ほとんど喋らない怪優ジョン・ベルーシの表情と動き、ほんの小さな仕草だけで爆笑する。文字通り、腹を抱えて笑う。ジョン・ベルーシは麻薬で早死にしてしまったが、惜しいコメディアンだった。

●自分の本を「読まずに死ねるか!」と言われた感激が...

僕のコラムが「映画がなければ生きていけない」という二巻本にまとまったのは、2006年の暮れのことだった。解説をお願いしたかわなかさんに「陳さんにも献本したら」と言われ、僕は版元の水曜社の担当のKさんに送ってもらうように依頼した。陳さんとは、かわなかさんの紹介で一度会っただけである。それから10数年が過ぎていた。僕を憶えているはずはなかったが、解説をかわなかさんが書いているので本が送られてきた理由はわかるだろうと思った。

2007年の年明け、「深夜+1」が店を開いた週の金曜日だった。僕はかわなかさんと水曜社のKさんとデザイナーのSさんの四人で打上げを行い、かわなかさんに連れられて「深夜+1」にいった。10数年ぶりの再訪である。先に入ったかわなかさんが僕を呼んだ。客でいっぱいの狭い店に入ると、「あの本の筆者ですか」と陳さんに言われ、それから後は何を話したか記憶にない。ひどく盛り上がっていた、と後でKさんに言われた。

ゴールデン街の酒場は、ひとりでは入りにくい。常連客が一緒でないと、扉さえ開けられない。陳さんと盛り上がったといっても、ひとりでいくのは勇気がいった。Kさんが陳さんに僕の本の推薦文を依頼し、陳さんから「本書を読まずに死ねるか!」というキャッチコピーをもらったというメールが入り、僕はお礼を口実に「深夜+1」にいこうと思った。そこで、30年保存していたギャビン・ライアルが出たダーバンの新聞広告を土産に「深夜+1」の扉を開いた。

まだ時間が早く、カウンターの中に青年がいるだけだった。「ボトルは?」と聞かれ、「○に十の字を描いているんだけど...」と言うとマークの由来を問われた。「名前に十が入ってるから」と答えると、「名前に十が入ってるって、十兵衛しか思い浮かばないですね」と青年は言い、あっという顔になって「もしかして、十河さん?」と問いかけられた。それが祐介くんだった。

その夜、陳さんは店にはこなかった。祐介くんによると、陳さんは僕の分厚い二巻本を一気読みしたのだという。以来、「深夜+1」の客に毎夜のように薦めてくれているらしい。その後、何度か「深夜+1」にいくと、陳さんにいろんな人を紹介され、「この本凄いから」と陳さんは僕の本を薦めてくれた。そして、3月のある日、水曜社に「日本冒険小説協会特別賞『最優秀映画コラム賞』受賞」の連絡が入った。賞に値するのか自信はなかったが、そのとき陳さんの顔が浮かんだ。

日本冒険小説協会の全国大会は毎年、春に熱海の旅館を借りて開催され、そこで日本軍大賞と外国軍大賞が発表される。特別賞受賞者ということで初めての大会参加だったし、知った人もおらず、おまけに大沢在昌さんや今野敏さんといったベストセラー作家の顔が見え、僕は緊張して宴会場の片隅で小さくなっていた。開会挨拶で陳さんが壇上に立った。片手をジーンズのポケットにかけ、片手でマイクを持ち、陳さんは口を開いた。その言葉に、僕は息を呑んだ。

──ガンに生きて、ガンでおまんま喰ってきた人間が、癌になっちまった。

●「MIDNIGHT PLUS ONE」のジャケット見開きを棚に飾った

陳さんが最初の癌の手術をしてから、もう5年近くになる。その間、陳さんは大腸癌の手術のせいで一時的に人工肛門のまま浅草東洋館で「トリオ・ザ・パンチ2008」の公演もこなした。「ガンベルトが当たって痛かったぜ」と陳さんは人ごとのように言った。歌手の渚ようこさんが取り壊しが決まった新宿コマ劇場を借り切って開催した歌謡ショーにも、若手を率いて「トリオ・ザ・パンチ」として出演した。そのガンプレイに衰えはなかった。

渚ようこさんは、ゴールデン街で「汀」という酒場を開いている。若松孝二監督や写真家の森山大道さんなどが常連らしい。壁に「俺が死ぬときはカラスだけが鳴く」という惹句が書かれた、大きな「仁義の墓場」のポスターが貼ってある。かわなかさんも「汀」の常連で、僕が本を出したときに連れていってもらった。「店に置いといて」とかわなかさんは僕の本をカウンターに置いたが、渚さんも少しずつ読んでくれたそうだ。

CD「MIDNIGHT PLUS ONE」のトリは、渚ようこさんの「実録・スケバン小唄」だった。渚さんが阿久悠作品ばかりを歌ったCDなどもよいが、「実録・スケバン小唄」を聴いていると、「あの時代」が甦りひどく懐かしくなった。渚さんの声には透明感があるし、物語のある歌だと持ち味が発揮され、映画を見ているような気分になる。池玲子、杉本美樹といった名前が浮かぶ。「あの時代」の映画のシーンが甦る。

渚ようこさんとも、9月の日本冒険小説協会30周年+内藤陳会長聖誕祭で久しぶりにお会いした。幅広の帽子をかぶった美女に「お久しぶりですね」と声をかけられ、「お店にほとんど顔を出さないで、すいません」と謝った。渚さんは陳さんのために「ハッピー・バースディ・ツゥー・ユー」を歌った。それは、マリリン・モンローがケネディのために歌った「ハッピー・バースディ・ツゥー・ユー」より、僕にはずっと価値あるものになった。

僕の部屋の本棚には「MIDNIGHT PLUS ONE」のCDジャケットを、中頁の見開きが見える形で立ててある。僕は、そこに書かれた文章を励みにしているのだ。それを見れば、もっといいものを書きたい、昔はもっと素直に書けたんじゃないか、と己を叱咤し振り返ることができる。陳さんは、僕にとっても恩人だ。下手なものを書くと、目の前で本を破られそうな怖さがある今、僕の目の前のCDジャケットには、黄金色の文字でこう書かれている。

──友 十河進へ
たのむ 会長が生きているうちに"次作"を たのむ!

会長は僕の顔を見るたびに「次作はいつ出る?」と訊く。三巻目の「映画がなければ生きていけない2007-2009」が出たのは3年後だった。次作が出るとしたら、早くても2013年明けだ。僕も出版社に勤めているからわかるが、現在出ている三巻の売れ行きが芳しくなければ、次作が出るかどうか心許ない。だから、会長、まだまだ生きていてもらわなければ困ります。癌なんかに負けるはずはありません。ハードボイルドなんですから...。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >
「映画がなければ生きていけない」電子書籍版がhontoのサイトにアップされました。年内には、小説三本がAppストアのグリフォン書店にアップされる予定です。畏れ多いことですが、志茂田景樹さんや胡桃沢耕史さんの小説と並ぶことになりそうです。先日、グリフォン書店で胡桃沢耕史さんの直木賞作品「黒パン俘虜記」をダウンロードして読みました。名作です。

●第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」受賞!! 
既刊三巻発売中
「映画がなければ生きていけない1999-2002」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2003-2006」2,000円+税(水曜社)
「映画がなければ生きていけない2007-2009」2,000円+税(水曜社)

●朝日新聞書評欄で紹介されました。
< http://book.asahi.com/book/search.html?format=all&in_search_mode=title&Keywords=%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%91%E3%82%8C%E3%81%B0%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84&x=20&y=18 >

●「映画がなければ生きていけない」電子書籍版を発売開始
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1999年版 100円+税/2000年版 350円+税