映画と夜と音楽と...[528]見果てぬ夢が降りつもる...
── 十河 進 ──

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〈ラ・マンチャの男/Gメン75/裸の十九才/エロス+虐殺/蒲田行進曲〉

●大晦日の朝刊に写真入りで内藤陳さんの死亡記事が出た

ここ数年、毎年参加していた日本冒険小説協会の忘年会に昨年は出席しなかった。翌日の30日、兄貴分のカルロスから電話が入り、内藤陳会長が忘年会の前夜に亡くなったのを知らされた。忘年会に出た会員の人たちは、そこで会長の死を聞いたという。30日の午後になってテレビなどでも報道され、大晦日の朝刊には写真入りで陳さんの死亡記事が出た。

写真入りで記事は30行もある。大きな扱いだった。「81年からは日本冒険小説協会の会長を務め、内外の面白い小説のオススメ屋として活躍。著書に『読まずに死ねるか!』がある」と朝日の記事にはあった。「コメディアンで書評家」と報じた新聞もあったが、いつも「面白本のオススメ屋」と自称していた陳さんだから、「俺は書評家じゃねぇよ」とクールに否定しそうな気がした。

カルロスは陳さんがゴールデン街に「深夜+1」をオープンした頃からの付き合いだったというから、もう30年以上になるのだろう。僕はこの5年間の付き合いだった。「深夜+1」のトイレに入るとドアに僕の本の宣伝用DMが貼ってあり、そこには「内藤陳氏絶賛。一本筋の通った十河の美学。本書を読まずに死ねるか!」と印刷されている。それを見るたびに「ありがたや」と頭を下げていた。

文章を書く人間なんて、それなりに自惚れがあるから長々と書き連ねることができるのだろうが、実際は強がりと自信喪失をくり返しているものだ。僕は元々自分の書くものに自信はなかったが、デジクリ編集長の柴田さんにおだてられてコラムを持つことになり、書いているうちにときどき読者からメールをもらって、少しは受けているのかと安心したものだった。

しかし、ときには「こんなもの面白くないんじゃないか」と自信を喪失する。8年ほど書き続けてデジクリが500部限定の本を作ってくれ、それがきっかけで出版社からオファーがあって分厚い二巻本にまとまったときも、「こんな本、読んでもらえるのかなあ」と心配していた。しかし、献本した陳さんに絶賛され、特別賞までもらったことが、その後、僕が文章を書き続ける大きな力になったのは間違いない。




顔を合わすたび陳さんに「次はいつ出る?」と言われ続け、次の本をまとめなければならないという目標があったから、僕はこの5年間も毎週書き続けることができたのだ。もう2年前になるが、三巻目が出たときに献本したら、それもすぐに読み切り「次はいつだ?」と言われた。僕のモチベーションを高め、背中を押すためにそう言ってくれていたのだろうと思う。

さて、カルロスとは正月に会うことにして電話を切った。「そのときに会長のこと、詳しく話すよ」と言われたが、僕はネットで検索してみた。ヒットしたニュースで最も詳しかったのは、日刊スポーツに掲載されたものだった。看取ったのは、やはり「深夜+1」カウンター部のユースケくんだった。「口元をニヤリとして、笑顔のまま、スーッと天国にいかれました」と彼のコメントが紹介されていた。

●正月三日に浅草雷門の提灯下で待ち合わせた読みの甘さ

正月の3日、もうそろそろ空いているだろうと思い、カルロスと浅草で待ち合わせた。浅草寺にお参りをして、近くの老舗の酒場で呑もうという魂胆だった。内藤陳会長を追悼するという気分もあった。待ち合わせは午後1時、雷門の提灯下である。僕は早めに家を出て、東武線の駅より空いているだろうと予測し、つくばエキスプレスの浅草駅で降りた。

予想はまったく外れていた。以前、何度か降りたときには人影もまばらだったのに、驚くほど多くの人がホームに降り、エスカレーター前はいわゆる「黒山の人だかり」状態だった。最後尾についてゆっくり歩いていたら、少しずつはけてゆく。改札付近では、駅員が「浅草寺へはA2出口を出てください」とプラカードを掲げて整理をしていた。

時間もあるので少し待って人がいなくなってから改札を抜け、東洋館横に出る階段を登った。東洋館は元のフランス座。ここで渥美清もビートたけしも修行したんだなあ、と感慨深いものがある。もちろん若き日の陳さんもコメディアンの腕を磨いた場所だ。そう言えば、数年前のことになるが、東洋館でトリオ・ザ・パンチのコントをカミサンと一緒に見たことがある。

陳さんは大腸ガンの手術後で、一時的な人工肛門のまま出演した。カウンター部のユースケくん、ヒヤマくん、ヒロタカくん、キョータローくんたち若手が舞台をつとめた。もっとも、その公演のために会長から徹底的にしごかれたらしい。そのときのコントを見て「さすが陳さんねぇ」と、カミサンが感に堪えたように言った。コントの間の取り方など、陳さんには貫禄さえ漂っていた。

地上に出た途端、自分の予想が甘かったことがわかった。東洋館の隣の寄席の前が黒山の人だかりだった。寄席の前でテレビ中継をしているようだ。誰か芸人が撮影されているのだろう。ブームマイクだけが群衆の上に突き出している。僕は人の流れに押されるように伝法院通りを歩き出した。ちょうど昼どきで、有名店の前には行列ができていた。

伝法院通りと雷門からくる道が交差するところで、警察官が立ち道を封鎖していた。しばらく待つと、今度は雷門からの初詣客を止め、伝法院通りの封鎖が解除になった。浅草寺への初詣客が多く、雷門からの道以外からは入れないようにしている。雷門から続く道は一方通行である。大まわりしなければならない。雷門までたどり着くのに時間がかかるなと思って時刻を確認したが、約束まで30分以上あった。

仲見世通りに入り、東武線浅草駅をめざした。しばらくすると屋上にキント雲を載せたビルが見えてきた。大通りに出る。車が通行止めになっているので、道に人があふれていた。外国人も目立つ。古い日本の姿を求める外国人には、浅草が人気があるのだろう。それでも、原発事故の影響で外国人観光客は、例年より少ないのかもしれない。

「浅草一丁目一番地」で有名な神谷バーの前で立ち止まり、雷門の方を眺めると人の列が雷門から大通りを横切って続いていた。浅草寺に詣でるためには、その長蛇の列に並ばなければならない。ため息が出た。雷門の下で待ち合わせなんて無理である。僕は神谷バー前の歩道のフェンスに腰をかけ、携帯電話を取り出した。

カルロスは、まだ電車の中だった。「雷門前は無理ですね。神谷バーの前にいますから」と言って電話を切り、改めて周囲を見ると様々な人がいた。僕のすぐ前では、キリスト教の布教のためにスピーカーで、「悔い改めるのに遅いことはありません」などと言っている人がいる。別の信者が「神はすべての罪を赦し給う」と書いた看板を掲げていた。

浅草寺に向かう一方通行の列には、若い人が多かった。カップルが目立つ。僕は大勢の人出が予想される場所には近付かないようにしてきたので、こんなにたくさんの人を見たのは久しぶりだ。40年ほど前、年が明けたばかりの明治神宮にいき、人混みに呑み込まれて以来かもしれない。忍耐強く列に並ぶ人たちを見ていると、「みんな今年実現したい夢を抱いているんだろうなあ」という思いが浮かび、突然、「見果てぬ夢の降り積もる街」というメロディが聴こえてきた。

●「見果てぬ夢」は「心残りな見終わらない夢」である

「見果てぬ夢」という言葉を知ったのは、たぶん中学生の頃だ。当時、ビートルズのLPレコードを買うと、東芝EMIから出ている他のアルバムのカタログリストが入っていて、その中に「見果てぬ夢」というタイトルのアルバムがあった。歌手が誰だったかは憶えていない。そのアルバムは、「ラ・マンチャの男」の曲を集めたものだったと思う。

「ラ・マンチャの男」は、歌舞伎界のホープ市川染五郎(現在は松本幸四郎)が主役を演じて日本でも有名になるのだが、それはしばらく後の話。僕が「見果てぬ夢」という歌を知った頃は、ブロードウェイでミュージカル「ラ・マンチャの男」のロングランが決まった頃だった。60年代半ば、まだまだブロードウェイは遠く、情報には大きな時差があった。

「ラ・マンチャの男」は、「ドン・キホーテ」を書いたセルバンテスの話である。セルバンテスが教会を冒涜した罪で獄につながれたときに、「ドン・キホーテ」の着想を得たという話を元にミュージカルに仕立てたのだ。映画版「ラ・マンチャの男」(1972年)では、セルバンテスをピーター・オトゥールが演じた。獄中のセルバンテスの話と劇中劇で語られる「ドン・キホーテ」の物語が交錯する。

「ラ・マンチャの男」で最も有名になったミュージカル・ナンバーが「見果てぬ夢」である。しかし、原題は「The Impossible Dream」という。直訳すれば「不可能な夢」である。日本語に言い換えると「実現しない夢」、少しロマンチックに言うと「叶わぬ夢」になるのではないか。日本語の「見果てぬ夢」とは、ニュアンスが違う気がした。

もちろん、英語を習い始めたばかりの中学生の僕がそう思ったわけではない。ずっと後に調べたときに考えたことだ。「見果てぬ夢」は文字通りに解釈すれば「見終わらない夢」であり、「実現不可能なたとえ」にも使われるらしいが、「心残りなこと」というニュアンスもある。古今和歌集にこんな歌があった。

──命にもまさりて惜しくある物は 見はてぬ夢のさむるなりけり

命以上に惜しいものは、見果てぬ夢が醒めることだ...そういう意味だろうが、これは恋歌として掲載されているから、その見果てぬ夢の中身も想像できる。想い人が出ている夢である。つまり、「せっかく恋しい人に夢で逢えたのに、その夢が醒めることは、命よりずっと惜しいことだよ」という意味なのだろう。

しかし、「見果てぬ夢」とは眠りの中で見る夢ではなく、人が生涯かけて追い続ける夢だと僕はずっと思ってきた。実現した夢は夢ではなくなる。だから、次の夢を人は求める。だとすれば、すべての夢は「見果てぬ夢」なのではないだろうか。「見果てぬ夢」を失ったとき、人は生きる希望をなくすのではないか。

僕は、このコラムを書き始めたとき、「誰かが読んでくれて、面白かったと言われるだけでいい」と思った。それが数年後には「できれば本の形になればいいな」と夢を抱き、それが実現すると「もっと多くの人に読んでもらいたい」と願う。今は、長編小説を出版することが夢になった。まさに、見果てぬ夢である。どこまでいっても終わらない夢...。

●関屋警部補が殉職して36年の月日が過ぎていった

神谷バーの前でカルロスを待っている間に浮かんできたメロディは、「Gメン75」という刑事ドラマのエンディングテーマ「面影」だった。しまざき由理という人が、メランコリックかつセンチメンタルに歌った曲である。詞を書いたのは、佐藤純弥監督だ。「新幹線大爆破」(1975年)や「君よ憤怒の河を渉れ」(1976年)を監督しながら、彼はテレビで「Gメン75」を手がけ、抒情的な作詞をしていた。

「Gメン75」は、1975年5月24日から放送が始まった。その年の2月に僕は就職し、3月に大学を卒業した。5月の連休に帰省し、故郷で待たせていた今のカミサンの家へいき結婚の許可を得た。その後のことはすべて彼女にまかせ、僕は連休明けから勤めに戻った。といっても、入社早々の新人だ。今から思えば、ろくに仕事はできなかった。

その当時、深作欣二と佐藤純弥は東映の中心的な存在で、どちらの監督の作品も僕は好きだった。深作欣二は「仁義なき戦い」シリーズで人気監督になっていたし、佐藤純弥も安藤昇と組んだ一連の実録やくざシリーズで絶好調だった。そのふたりが中心になって作る「Gメン75」が放映されることを知り、僕は初回の放送を待ち望んだ。

「Gメン75」が始まり、「ハードボイルドGメン75、熱い心を強い意志で包んだ人間たち」という芥川隆行のナレーションが流れた瞬間、僕はテレビに釘付けになった。超望遠レンズで捉えた画面には陽炎が立ちのぼり、歩いてくる6人の男とひとりの女の姿をゆらゆらと揺らめかせていた。

中央でトレンチコートの襟を立て両手をズボンのポケットに入れているのは、黒木警視役の丹波哲郎である。向かって左隣が夏木陽介、右隣は黒いマキシスカート(死語?)に白いブラウス、それにつばの広い黒い帽子をかぶる藤田美保子(「鳩子の海」です)だった。その隣が関屋警部補こと原田大二郎である。他には、藤木悠、岡本富士太、倉田保昭が並んでいた。

僕は、原田大二郎がアクションドラマに出たことをひどく意外に感じた。新藤兼人監督作品「裸の十九才」(1970年)で連続射殺魔・永山則夫を演じ、観念的な吉田吉重監督の「エロス+虐殺」で強い印象を残した原田大二郎という俳優は、なぜかアクションドラマとは縁がないと思い込んでいた。ところが、「Gメン75」の第一シリーズは、ほとんど関屋警部補が主人公だったのだ。

常にダークブルーのスマートなスーツを着こなし、長めの髪を振り乱して犯人を追う関屋警部補は、それなりに人気があったと思う。しかし、香港映画で鍛えた和製ドラゴンこと倉田保昭や若手の岡本富士太に比べると、アクションでは後れを取っていた。だが、僕はどこかにインテリ臭さを残す関屋警部補が好きだった。しかし、関屋警部補は早々に殉職する。1976年1月3日のことだった。

ストーリーは忘れてしまったけれど、関屋警部補が殉職した回は36年経った今でも記憶に残っている。その回のタイトルは「関屋警部補・殉職」だったから、それだけでサスペンスが盛り上がり、僕はいつ死ぬのかハラハラしながら見ていたものだ。僕は結婚し、初めて迎えた正月だった。おそらく、僕はカミサンに関屋警部補に対する思い入れを喋りまくっていたことだろう。

関屋警部補が殉職した後、僕が記憶している原田大二郎は「蒲田行進曲」(1982年)まで飛んでしまう。銀幕スターの銀ちゃん(風間杜夫)に対抗する看板役者の役である。撮影している新選組の映画で、銀ちゃんは土方歳三を演じ、原田大二郎は坂本竜馬を演じている。しかし、「蒲田行進曲」の原田大二郎はすでに二枚目ではなく、大仰な演技で笑いを取るトリックスターになっていた。

──今日は......、関屋警部補の三十七回忌か

しまざき由理の「面影」の一節を思い出し、そのまま関屋警部補まで甦らせた僕は、そんなことをつぶやいた。若く鋭い目をしたシリアスな原田大二郎の顔と、今やバラエティにでも出そうなキャラクターになった原田大二郎のガハハハと笑う姿(髪型は変わっていない)が重なり、少しげんなりした。それと同じ変化を、僕も遂げているのかもしれない。

そのとき、カルロスが「おう」と言いながら現れた。いつものように帽子をかぶっている。白い髭をはやし、目が鋭い。どう見ても堅気ではないが、浅草には妙にマッチする。道端で寅さんのように啖呵売をしていても不思議ではない。「お参りしますか?」と僕は雷門の列を指して言った。カルロスが歩き出す。「この列に並ぶ忍耐力はないっすよ」と、僕はカルロスの背中に訴えた。

カルロスが雷門の前で立ち止まる。片手をかざして拝む姿をし、頭を下げる。僕も真似をする。列に並ぶ気など、まったくなかったのだ。カルロスが振り返り、「伝法院通りで煮込みでも喰いながら一杯やるか、兄弟」と言って笑った。「へい、兄貴」と、思わずヘンな返事をする。その日、還暦を過ぎた男ふたりは、陳さんの追悼と言い訳しながら何軒も呑み続けることになった。

──生きてるうちに......、あと...どれだけ本が読めるかな?

それが、9月の誕生パーティで聞いた陳さんの最後の言葉だった。あれほどの読書家だった陳さんも本を読み尽くすことはできなかった。陳さんに「読まずに死ねるか」と言ってもらえる本は、まだいっぱいあったはずだ。そう、陳さんも見果てぬ夢を追い続けた人だった。世界中の面白本を読み尽くそうとした。面白映画を見尽くそうとした。それを見果てぬ夢と言わずして、何という?

<関屋警部補よ永遠に>
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【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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年明け早々カラオケにいくことになり、音痴だからといつもは遠慮するのだが、居直って日活系の歌ばかり唄ってきた。石原裕次郎、赤木圭一郎、小林旭、渡哲也...である。「面影」も唄ってみたが、音程が合わなかった。同行したメンバーは明らかに辟易としていた...。

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