Otakuワールドへようこそ![145]未来が見える、パンツが見える/GrowHair

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過去から現在までの流れを延長することで未来が予測できるのだとしたら、今から30年ぐらい経つと、女子高生はスカート穿かずにパンツ丸出しで歩いているに違いない。まあ、実際にはたぶんそうはならないわけで。

時代の空気の変化は、ある方向性の軸に沿って、なんらかの量(たとえばスカートの丈)が連続的に変わっていくというのではなく、短い期間に雪崩のように質的な転換が訪れるもののようである。難しく言えば、カタストロフィとか、パラダイムシフトとか。だから未来予測は難しい。現在までの流れの延長という方法論は、たいてい裏切られる。

長く生きてると、時代のこの質的変化を振り返って「変わったなぁ」としみじみと感慨に耽る楽しみにあずかれる。今の若者たちは、この時代の空気をあたりまえと思ってるかもしれないけど、割と最近までは全然違う空気が支配してたんだよなぁ、へへー、知らないだろ、やぁーい、みたいな。もっとも、同じことを親の世代もその親の世代も思ったに違いないわけだけど。そのあたりの世代は、私のまったく知らない第二次世界大戦というものを経験しているわけで。今の子供たちは『戦争を知らない子供たち』を知らない子供たち。

大阪万博の開かれた1970年は、「こんにちはー、こんにちはー」と祝祭ムードで明けた。「'70年という10年区切りでこれほどまで盛り上がってるんだから、2000年になったらきっともう大変な騒ぎになるよね」と人々は口々に言った。けど、2000年は静かに明けた。大方の予想の逆のことを言ってみると、案外当たるのかもしれない。

あるいは逆に、流れを滑稽なまでに極端なところまで延長してみるとか。星新一『テレビショー』(新潮文庫『ようこそ地球さん』に収録)が書かれたのは、今から約50年前、1961のことである。人類からなぜか急速に性欲が失われつつあり、このままでは滅亡かという危機に陥っている。これを危惧した政府は、決まった時間になったら児童を帰宅させ、政府提供の教育番組を見させることを義務づける。それは、ポルノ映像。けど、効果はなく、見た子供たちになんの変化の兆候もみられない、というもの。

私がこれを読んだのは'70年代、中学生のころだったと思うが、さすがにこれは無理があると思った。いかな社会を形成し、文明を築き、文化を培ってきた人類といえども、生物としての基本的な部分は他の動物とそんなに変わるものではなく、こういう部分は時代や環境によって変化したりしないのではないかな、と。今風の技術用語で言えば、OSやアプリケーションソフトウェアは差し替えたりバージョンアップできたりしても、ハードウェアの部分はそうそう変わったりしないだろう、と。




ところがどっこい、今「草食男子」なんてもんがよく話題に上るようになっている。すごーく負けた気分。というか、星新一、スゲー! コラムニスト・編集者の深澤真紀氏が『日経ビジネス』のオンライン版の連載コラム「U35 男子マーケティング図鑑」の中で「草食男子」という言葉を提唱したのは2006年10月のことである。そのくらい最近であれば、さすがに私も「いるいる。そういうタイプのことはときおり耳にするぞ」と共感できたが、一般のオジサン世代からは、「そんなやついるのかよ」という反応が多かったようである。書かれてしばらくは、それほど世に広まらなかった。

松田聖子の『赤いスイートピー』は今から30年前、1982年1月にリリースされた歌で、その歌詞に「何故、知り合った日から半年過ぎてもあなたって手も握らない」とある。これ、草食男子の兆候か、と読みとれなくもない。そういうタイプは昔からいたのかもしれないが、例外的少数だったに違いなく、しかも、受取られ方が違う。今の草食男子は、恋愛対象としては道端の地蔵と大差ない、こんなのが増えては困る、と世の女子たちを苛立たせているようだが、あの歌詞のニュアンスは、がつがつしない、いい人と、ポジティブである。

余談だが、中学・高校を男子校に通い、駿台予備校での一年を経て、大学は理系の学部に進んだ私は、まるで架空のマシンのマニュアルでも読むかのようにこの歌詞を自分にインプットした。先々、もし自分にも番が回ってくることがあったら、半年以内には手ぐらい握っとかないと変に思われるかもしれないのだな、ふむふむ、と。ほぼ他人事。

●なんとかしよう婚活システム

「婚活」という言葉もやはり日経ビジネスオンラインから出てきている。...と思っていたが、今調べてみると、正確には、山田昌弘、白河桃子『「婚活」時代』(ディスカヴァー携書)が出版されたのが2008年2月29日で、それに関連して、3月12日に日経ビジネスオンラインに対談記事が掲載されたのであった。

晩婚化、非婚化の進む流れにあって、ただ待っていても自然にパートナーが見つかったり、誰かが紹介してくれたり、ということがだんだん期待できなくなってきている、だから、就職活動と同じように、本人が意志をもって「婚活」するのがよい、と提唱するものである。それを機会に世に登場した婚活ビジネスも、あれから約4年経って、その存在は割と知れ渡ってきているようである。

しかし、これがあんまりうまくいっていないらしい。成婚率が低調だったり、利用者がサービスにあんまり満足していなかったり。2011年5月11日の asahi.comの記事によると、30歳代の未婚男女の64%は交際相手がいないことが内閣府の調査で判明した、とある。

この傾向は、社会のシステム化が急速に進んでいることと無関係ではないと、私は睨んでいる。どういうことかというと、社会のシステム化にともなって、人々の精神のモードが「花より団子」的というか、「ロマンよりも損得勘定」のようなほうへシフトしてきているような気がするのである。

社会において何らかの問題が発生するのは、システムの不完全性に由来するのであるから、システムの運用ルールの網をきめ細かに取り決め、穴をなくしていくことで、システマティックに問題を撲滅していき、社会がスムーズに回るように整備していくべきだ、という考え方が、今は支配的である。

自動改札システムが完璧ならば、キセル乗車はしようと思ってもできなくなる。だから、教育などによってモラル意識を高める、なんて雲をつかむような方法論に頼らなくても、システムさえちゃんと機能していれば、悪いことは起きなくなる。かくて、モラルという観念は次第に重視されなくなっていく。

モラルに限らず、生きていく上で、志、心意気、根性、美学といった精神論的なものはだんだん脇に追いやられ、代わりに、損得勘定、利便性、楽さ、快適さ、娯楽性、といったプラグマティックな基準のほうがクローズアップされてきている。「それのいったいどこが問題なの?」という面々には、特に差し出がましいことを言いたいわけではないけど、ひそかに、「えっ、それでいいの? 実利や利便性を追求しつづけるだけで、生きていけちゃうの? システム化社会に過適応しちゃってないかい?」と思ったりすることが折々ある。言わないけど。

システムが正しく回っていることが最優先に置かれると、個々の人間は、部品となってシステムを回す役割をこなすだけの、従属物に地位下落してしまう。そんな位置によく過適応しちゃえるなぁ、と私なんぞは思ってしまうのだが、疑問に思わない面々には余計なお世話ですな。しかしながら、もしかすると、適応しているようにみえるのは表面上のことであって、内面の、本人にも意識できないくらいの奥深い領域では、自意識が悲鳴をあげていたりするのかもしれない。

そこを深く掘り下げるのは後回しにして、システム化社会に適応した人々は、精神のモードにおいて、損得勘定や利便性に重きを置くようになっていくとしたら、その陰に隠れて引っ込んでしまう価値基準の中には、思いやり・助け合いの精神、絆・信頼関係、親密さ、などもあるのではあるまいか。細やかな情緒よりも私利私欲。満足感・充足感よりも猜疑心・嫉妬心。こんなモードにスイッチしていては、恋愛とか婚活って、うまくいきそうな感じがまるでしない。

じゃあ、システム化傾向の流れを逆転させ、江戸時代みたいな情緒たっぷりな社会に戻せばいいかというと、きっとそれは無理な話。自動改札が人手による切符入鋏方式に戻されることはない。生活の安全性、利便性、快適性を手放してどうこうしよう、って話には、ぜったいにならない。ならば、システム化傾向の流れを変えるのではなくて、その流れがますます進んでいくという前提の下で、恋愛や結婚も、システムの一部として組み込んでいく以外になかろう。

それが婚活ビジネスだ、というわけだが、現状、それがあんまりよく機能していないのだとしたら、形を変えていくしかない。未来の婚活システムは、きっとこうなっている。

システム化と技術の進歩により、我々は、労力の軽減や時間の効率化という恩恵にあずかっているわけだが、もうひとつラクをしていることがある。思考の節約である。電車に乗る際、目的地までの切符を買う必要はなく、改札口でICカードをピッとやるだけで、料金が自動的に支払われている。定期券のカバーする範囲外で乗り降りする際にも、いちいち精算する必要はなく、ICカードをピッとやれば、乗り越し分だけが自動的に支払われている。何も考えなくていい。ラクである。

まあ、そんなめんどくさいことは考えずに済むようになってありがたいのだが、もっと一般的に、人類は考えることを次第にやめていく傾向にある、となるとちょっと怖い。法律に関する知識は、それを知らずにうっかり法を犯して捕まることのないようにという実用の動機から獲得しておこうと思うことはあっても、結局つまるところどんな社会が理想的か、法律は何のためにあるのか、個々の法律の保護法益は何であるか、といったところまで掘り下げて吟味検討しようとまでは思わない。根本原理の領域には疑問を抱いてもしょうがないのだから、考えないことにしよう、と、そこで思考を節約しちゃっている人が多いように感じる。時代の流れは、労力の軽減から、思考の鈍化へ。

また、ネット通販とか、アイドルとか、パチンコとか、成功しているビジネスをみると、共通するのは、顧客が依存症(中毒)になっていることがあるようにみえる。考えない時代。身をあずける時代。ならば、婚活システムもその手で行くしかない。

ある年齢になると、誰もが婚活システムの会員として自動的に登録されている。そして、システムの側が、各会員の年齢、容姿、趣味、学歴、年収、行動履歴などの膨大なデータに基づいて、マッチング計算を行い、最適な交際相手を見つけ出す。と謳っておいて、実は裏ではランダムマッチングしてるだけ、でもいいかもしれない。

そして、デートのセッティングもシステムがやるのである。次の日曜日、午後1時に中野駅北口で待合せて、池袋へ行き、ナンジャタウンで遊んで来なさい、と。それだけではない。詳細にわたるシナリオまで。会って名前を言ったら、「今日は暖かくてよかったですね」と言いなさい、相手は「そうですね」といいます、そしたら相手のアクセサリーを「きれいですね」とほめなさい、相手は「これ、誕生日に姉からもらったんです」といいます。1時15分以降の会話はさりげなく「です・ます調」をやめ、「〜だね」の口調に変えなさい。などなど。お互いに同じシナリオが渡されているので、互いにロールプレイイングを演じるだけでいい。

だいたいアレだ、自然な会話に任せていると、交際なんてうまくいかないのだ。話の流れで、ウチで起きた面白い話なんかしている中で、ちょっと母親のことを言ったとしよう。本人は当たり障りなく面白い話をしたつもりであっても、相手方の恋愛マニュアル的なものには、「最初のデートで母親の話を持ち出すのは、マザコンの可能性高し」とか書いてあったりして、「こいつは面倒臭そうだからやめておこう」なんてことになっちゃったりしてるのだ。つまり、もともと信頼関係という基盤のないところで話をしているもんだから、相手の言うことよりも、分析本に書いてあることのほうを頼りにしちゃうのである。

システムが用意したシナリオを守らなきゃならないという義務はないのだが、シナリオから外れると会話がぎこちなくなり、不信感を抱かれるリスクを負わなくてはならない。それよりは、きっちりとしたがっていたほうがラクなのだ。考えないに限る。依存するに限る。

こんなシナリオデートでカップルが成立したとしても、つきあっていくうちに互いの素性がバレていき、すぐに関係が壊れていくだろうと思う向きもあるかもしれない。けど、今ある夫婦が、みんなお互いを深いところまで理解しあっているだろうか。かなりアヤシイんじゃないですかな? だったら、それはそれと割り切ってしまおう。夫婦になったらなったで、その後のシナリオもすべてシステムが用意してくれるのだ。一生、自分に与えられた役をシナリオ通りに演じ続けていれば平和は保たれ、つつがなく過ごせるという仕組み。

これなら誰でもできるし、一定の成婚率が確保できそうだ。あの子が年収700万円のダンナを獲得したんだったら、ワタシは800万円じゃなければ納得いかない、みたいな余計なことを考えるから婚活がうまくいかないんではないかい?

しかし、これは本気でそうなると予測して言っているのではない。過去から現在の変化の傾向をバカバカしいくらい極端にまで延長してみると、そんなところへ行っちゃうことになるかなぁ、という線で考えてみた結果、というだけのことである。どこかの時点で人々がバカバカしさに気づいたら、こうはならず、突然の質的変化という形で別のフェーズに入っていくのかもしれない。それがどんな形になるかは、とても予測がつかないけど。

●自尊心修復ビジネスもなんとかしたい

一見、システム化社会に過適応しているようにみえる人も、内面は自尊心崩壊の危機に晒され、悲鳴をあげているのではなかろうか、と思うことがよくある。システムの部品という地位に収まろうとしても、なんか自己の根底的な部分で不全感に悩まされる結果に陥るのではなかろうか、と。マルクスの言う「人間疎外」が、予想とは違う形かもしれないけど、現れてきているんじゃないかな、などと。

どうも、自他の対称性のバランスが悪いのだ。人の言うことなんか聞きたくないけど、自分はしゃべりたい。目立つやつは気に食わないけど、自分は目立ちたい。本は読まないけど、自分の書いたものは出版したい。他人の歌はうるさいだけだけど、自分の歌は人に聞かせたい。他人には興味がないけど、自分は他人から興味をもたれたい。友人であっても心の深いところまで理解したいとは思わないけど、自分のことは全部知ってほしい。

人が集まると、自他の対称性の悪い人たちの、自己顕示欲と他者の自己顕示欲の抑え込みのぶつかり合いになって、場の支配権の奪い合いみたいな会話が展開されることがよくあって、私のようなおっとり系の人間は、その争奪戦には入っていくのは面倒くさく、輪の外で静かに別の考えごとをしてたりするのだが、眺めているだけでもたいへん疲れる。

自己顕示欲を満足させ、自尊心を修復するビジネス、なんていうのも、システムの枠組みの内部で成立させることはできないだろうか。お誕生日会みたく、主役を持ち回りで、というのもいいのだけど。ちょっと矛盾っぽいテーマだけど、自己顕示欲の不全感を、他者を巻き込むことなく、各自の脳内で解決するシステムって構築できないだろうか。

自己を顕示するのは、顕示される相手なしには成立しないようにも思える。けど、自己顕示欲という欲自体は、自己の内部のことなんだから、なんらかの形でこれが満足されたと自分に思い込ませることに成功し、あーすっきりした、という気分になればいいのであって、それは他者の介在なしにも可能なんではなかろうか、とも思える。

歌を聞いて盛大に拍手をしてくれるバーチャルな(2次元の)聴衆システムとか、身の上話を熱心にうなずきながら聞いてくれる女の子たちがカウンターの向こうにいるバーチャルなガールズバーとか。人工知能の世界ではElizaという、人間の話し相手をしてくれるコンピュータプログラムがあるけど。さすがに相手がただのソフトウェアだと分かっていては、拍手してもらってもかえって馬鹿にされてるみたいで気分悪いだけであろう。

ツイッターなんて、この対称性の悪い人たちのために用意された「誰も聞いてないかもしれないけど、聞いてると錯覚して言葉を好きなだけ発してれば自己顕示欲が満たされて気分いいでしょ」的な皮肉システムのようにみえる。だから、そこに気がついちゃえば、上記のバーチャル拍手と同じ意味合いで気分悪くなりそうなもんだが、案外機能しちゃっているようである。

スナックやキャバクラやガールズバーなどを私は以前、「もったいビジネス」と呼んでいた。私の感覚ではしゃべるのなんて元来タダではないか、と思うのだが、それがさも大層なことのようにもったいをつけてお金をとるシステム。行く回数を重ねるうちに親密さが徐々に増していき、そのうちあんなことやこんなことができるのではないかと期待させられるが、その実は、その親密さの距離性は相手にコントロールされており、喫茶店で店外デート、その次の回はカラオケボックスで、みたいにステップが進んでいく毎にお金がはぎとられていくシステム。これも、そこに気づいちゃえば、バーチャル拍手と一緒なんではないかと思うのだが、案外ハマる人が多い。

最近は「もったいビジネス」から「自尊心修復ビジネス」へと存在の意味がシフトしてきたのではないかと感じる。要するに、話を熱心に聞いてくれることによって、ぼろぼろになった自尊心を修復してくれる場。私はスナックやキャバクラの空気になじめず、行ったってちっとも楽しめない。退屈なもんだから、他のお客たちのデレっとした姿を冷徹に観察し、ここから時代の傾向のエッセンスが抽出可能なのではなかろうか、と、社会学的な思索に耽ってたりするのである。

もっとも、そういう超然としたポーズをとることにより、いっそうの高みに行ったような気分になって自尊心を満たしているのだとすれば、現れ方の形が違うだけで、結局同じことか。いっそうタチが悪いとも言える。

他者を必要とせずに自己顕示欲を満足させる方法論が確立したら、これらのリアルな自尊心修復ビジネスは要らなくなってしまうのかもしれないけど、まあ、なくたっていいよね。

●ユルユル革命

女子高生がパンツ丸出しで歩く時代は実際には来ない、と言ったが、もしかしたら来るかもしれない。スカートの丈が徐々に短くなっていくのは量的連続変化かもしれないが、もう限界でこれ以上は無理という一線を越えるのは、瞬間の質的変化を伴う。「テレビショー」と同じ意味合いで、こういう不連続変化の予測なら、当たるかもしれない。

その兆候っぽい事件が最近、2件あった。

1月8日、ニューヨークで4,000人近い人たちがズボンやスカートを脱ぎ捨て、下着のパンツを晒して地下鉄に乗った。これは"No-Pants Subway Ride 2012"というイベント。今年で11年目で、今回は世界27カ国、59都市で同時開催されたとのこと。この映像はYouTubeに多数アップされている。若い女性もいるし、子供もいる。シカゴでは、警察から電車を降りるようにと指示が来ています、とアナウンスが流れている。

年が明けてからのことのようだが、フランス・パリの観光スポット3か所で、美女モデル3人組がコートを脱ぎ、鮮やかな下着姿で歩いている。これはフランスのランジェリーメーカー「エタム」がPRとして敢行したゲリラパフォーマンス。場所はエッフェル塔とシャルル・ドゴール国際空港とオルセー美術館で、その模様もやはりYouTubeにアップされている。オルセー美術館はけっこう怒っているらしい。

社会のシステム化が進んでいくと、ものごとが効率よく回り、利便性が高まり、完璧な秩序という理想に向かって徐々に漸近していく。犯罪は減り、鉄道の運行は遅れの出るケースが減り、環境は安全で清潔になっていく。いい傾向なのだけど、皮肉なことに、人々はそれに応じて生きる喜びが増大し、幸せになっていっているようには見えない。完璧という状態に漸近していくと、その差分、つまり、まだ完璧ではない、という部分が気になってしかたがなく、かえって不平不満は増えたようにみえる。電車がたった3分遅れてもイライラするとか。

人々の規範意識が強まり「何々は常にこれこれの状態でなくてはならない」というかたくなな思い込みに自分自身が縛られていっている。下着はプライベートな領域に属するものであって、むやみやたらと公共の場所で露出すべきものではない、という規範意識はずっと以前からあった。それが、最近は、ぜったいに見えてはいけないもの、と最大限の神経を払うべきものになってきている。子供のころはパンツ丸見えで遊んでいたのに、子育てするようになると、自分の子供にはぜったいに見せてはダメ、ときつく言う親がよくいる。なんとなく、パラノイアっぽくみえる。

下の世代は上の世代をよく観察している。規範をしっかり守り、システムを完璧に回そうとする努力に対してある程度の敬意を払いつつも、その結果生じる利便性などを素直に喜ぶことができず、不平不満が多いのもやはり見ている。自己顕示欲は満たされず、自尊心はボロボロ。あれははたして、自分が将来なりたい姿だろうか、と。それはきっと否定されている。行きすぎた完全主義が揶揄され、俺たちはああならなくていいよね、と冷めた目で見られている。

おそらく、脱パラノイアの時代がやってくる。ニューヨークとパリの出来事は、それを予感させる。パンツ見せて歩いたからって、世界が終わるわけでなし。脱パラノイア化は、「平成ええじゃないか運動」のような形で現れるのではなかろうか。そう考えると、どこぞのおっさんがセーラー服を着て歩き回るのも、時代が下ってから振り返ったとき、あれは「平成ええじゃないか運動」というくくりの中の一現象だったのだ、と位置付けられるのかもしれない。

とすれば、女子高生がパンツ丸出し、なんてことも、将来の日本で起きるようになっているかもしれない。長生きすれば、それなりに楽しいことに遭遇できそうで楽しみである。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散中。

ここに書きたいネタも山ほどあるのだけれど、すでに本文がえれー長くなっちゃいました。その小ネタをかき集めて次回本文に書きましょうかね。それだけで優に一回分の分量になりそう。

あ、もうひとつだけ。明日のイベントの告知です。アイドルの卵たちの練習イベント。アニソンがテーマ。私が関わっているグループはCGM & AM6。15分間の出番で3曲歌います。私は写真撮影役。セーラー服着て撮ります。先週末、進行を把握するためにゲネプロ(本番さながらのリハーサル)を見てきましたが、完成度高くて見応えありました。12月25日(日)にあった練習ライブからわずか1か月ですが、いっそう可愛くなってるし、表情が生き生きとしてきてるし、確実に進歩してます。EQがすごーく高いコたちだと思います。

2012.01/21(Sat) Open 17:00/Start 17:30 Adv¥2000/Door ¥2000
CBUプロジェクト主催
『アニソン ドミネーション2012』
ふたりはブリキ屋/ Wurtzite Boron Nitride / I☆mas
CGM&AM6 / 何事屋ボンバー / 猫君バンド / 蒼井葵
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