電網悠語:HTML5時代直前Web再考編[184]識と指揮と志気
── 三井英樹 ──

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「坂の上の雲」を見ながら、リーダーシップを想う。大らかで楽天的な時代だったという。司馬遼太郎がそう書いたのなら、尚の事そう思ってしまう。明治という響きは、この字を書いてみて更に、新たな門出にふさわしい語感を感じる。そんな時代の中に、何人ものリーダー達が登場する。束縛や閉塞感、そして欧米への危機感が渦巻く中に立ち上がった人達、立ち上がらざるを得なかった人達。リーダー不在と嘆かれる現在、幾つもの言葉が光る。

   「無識の指揮官は殺人犯なり」
    秋山真之(本木雅弘):「坂の上の雲」司馬遼太郎
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この言葉は元々台本にも原作にもない言葉で、本木雅弘が秋山真之の著作から見つけた言葉とのこと。西洋から溢れ込んだ膨大な知識に対して、畏怖の念とともに、それを習得し越してみせなければ指導者にはなれないとも響く。指揮官としてのプライドと責任の重さの自覚がにじみ出る。

同時に、国の成り立ちや発展という場面には、戦争という負の局面が嫌が応にも絡み付いてくる様子も垣間見える。作中で秋山も悩んだが、多くの命が失われていく。しかも目の前で。それと単なる殺人犯との違いを、説明しなければ自分が壊れてしまうという切迫感を感じる。

目の前で散る命の重さを知るがゆえの苦悶。下請け労働者や被害者のことも考えられない人種とは、明確に心の置き所が異なる人種ゆえの自戒。知識なく指導者になるべからず。知識なくその地位に就いたならば多くの命が無駄に無意味に消えていく。だから自分には多大なる義務がある、と戒める。




知識に対する貪欲さ。その力が国を押し上げて行ったようにも見える。皆の知識が増せば、それだけ幸せになれるという雰囲気さえ感じる。知識しか拠り所とできない想いもあったのかもしれない。それが、知識さえあれば、この難局を切り抜けられる、と高じる。それが司馬遼太郎の感じる楽天的なものを支えていたのではないかと思ったりした。

Web屋で考える。HTML/JavaScript/ブラウザ/スマートフォン/各種デバイス/プロトタイプ/マークアップ効率化/各種ライブラリー活用/各種フレームワーク/膨大なツール/RIA/CMS/インフラ/セキュリティ/クラウド活用/SEO施策/マーケティング施策/アクセシビリティ/ユーザビリティ/プログレッシブ・エンハンスメント等の制作トレンド/SubVersion等のヴァージョン管理/進捗管理/クライアント・マネージメント/外注管理/テスト計画から品質管理/運用手法/ログ・アナライズ/ソーシャル施策/そもそもの企業戦略......

知るべき知識は膨大にある。あり過ぎる。もはやプロジェクトの大きさに依らず、これらを無視しては進めない。でも今や、知識だけでは未来が拓けない。制御/コントロールが必要だ。



先の言葉に戻る。テレビでこのこの言葉を聞いたとき、「無識」は「無指揮」だと想った。開発の現場ではデスマーチ、同時に震災の諸々の場面にも重ね合わせる。指揮官が指揮をとらぬ場面は、そこら中に蔓延している気さえする。

「無指揮の指揮官は殺人犯なり」

優柔不断や、口先だけのリーダー像。良いときだけ顔を出し、肝心の場面での責任を全うしない姿。砲弾の中をどちらに進めべきかを指揮できないのなら、無駄に人が壊れていくプロジェクトを担う指揮官であるならば、それを「殺人犯」と呼ぶにふさわしい。

指揮する能力は、諸々のお膳立てと先見性と進捗管理が絡み合っているものだと思っている。やるべき事の把握と更にその先を見渡せる力、そして現在地の認識力。計画と現状の差分を考慮して次の一手を動かす。どれも簡単ではない。

Web開発のプロジェクト・マネージャ(PM)が、エンジニア系のPM知識を初期の頃から取り入れたのは正解だったと思える。エンジニア系PM知識体系が完成しているからではない、いまなお活発に成長し続けているからだ(もしかしたら、私がアクセスし易いだけかもしれない)。

そして指揮能力は、いまや開発サイドだけでなく、クライアント側にも要求されている。個人としてやりたいこと、グループとしてやりたいこと、部署としてやりたいこと、会社としてやりたいこと、様々な観点からの要求を「要件」の形にまとめないと先に進みづらい。まとめるお膳立てはシェルパでもある開発者が誘導するにしても、決断は自分でやらないと高い山には登れない。

高みに行きたければ、担当組織を率いる術と技術は必須だ。指揮能力も指揮権も掌握しないでエベレストに向かうのは集団自殺だ。



「識」はとにかく学べば身につくかもしれない、「指揮」はPMの勉強と場数で、何とかなるかもしれない。けれど、実際のプロジェクトを進めるにあたっては、もう一つ大切なものがある。パソコンで文字変換をしていて、「指揮」は「志気」か、とも気付かされた。

「無志気の指揮官は殺人犯なり」

人を殺すには刃はいらぬ。「命」とは生命だけでなく、人間らしい暮らしも意味する。かの国の劣悪労働環境と比べては贅沢すぎるかもしれないが、豊かな情報交流の場を作る者が、様々な意味で貧しくては、やはりどこかでいつか破綻する。

やりがいや、使命感。心の中で何かのスイッチを入れること、アクセルを踏み込もうとする気概を操作できると強みが増す。それは率いる人の志気に依るところが大きいように思う。リーダーが責任を持った上でワクワクしているプロジェクトに間違いは少ない。そして、そのワクワクは伝染する。

役所が何故この言葉を払拭しようと努力しないのか理解ができないが、「役所仕事」的に指揮される仕事のつまらなさは、業種業界を問わず既に知られているだろう。やる気のないものは去れ。無志気なリーダーは更に百害あって一利なし。

Web屋として業界に根ざすには、様々なものが要求されてきた。識と指揮に関しては、ままクリアしてきたように思う。でも、この有志気のリーダーに関しては学ぶ術が難しいように思ってきている。

責任あるやる気、とでも言い換えられると思っているのだが、その正体が巧く書けない。この国は「想定外でした」とさえ言えば、今まで頑張ってきたと過去を正当化できるような状況にある。どこまで想定するか、できるかが指揮者の品質であるにも関わらず。

そして、ことはIT的なことに留まらない。チームを率いるという人格的な部分にまで及んでいる。個人のレベルで技術を昇華してきたWeb屋にとって、これは難しい問題だし、個をできるだけ匂わせないように大人数で突き進んできたシステムインテグレータ(SIer)にも不得意な部分だろう。独りよがりでもダメ、かと言って練習を積む場も少ない。道は遠い。



再度原文に戻る。秋山は「殺人者」と言わずに、「殺人犯」と言う。これは犯罪なのだと明言している。間違った指揮者は最大級の犯罪者である。シンプルかつ明確である。リーダーにならんと思うなら肝に銘じるべき事柄だ。しかし、無理だとも言っていない。打つ手はある。

   「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

最後にもうひとつ秋山の言葉を。日露戦争の勝敗を決した日本海海戦に於ける開戦に際しての打電文。視界はよく修練を尽くした我々に利があることを告げている。やるべきことが分かっていて、やるべきことを積み上げていれば、行く手は開ける。

【みつい・ひでき】@mit | mit_dgcr(a)yahoo.co.jp
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