ユーレカの日々[09]人の視点、神の視点/まつむらまきお

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「世界ふれあい街歩き」という番組がある。NHKで放映されている紀行番組だが、この番組が好きで、見たり録画したりしている。地味な番組なのであまり知られていないかと思っていたら、学生などに聞くと案外、「あ、あれ好きです」という言葉が返ってくる。

ぼくが見だしたのはここ3年ほどだが、2006年からやっていて、年末年始にまとめて再放送したり、DVD-BOXが何巻も発売されているところを見ると、なかなかの人気番組らしい。

最初のうちは「なんか、臨場感があるなぁ」とぼーっと見ていただけだが、意識して見だすと、その「臨場感」が巧妙な演出によるものだということがわかってくる。

まず、特徴的なのが映像とナレーションだ。「街歩き」ではレポーター(旅人)というキャラクターは設定されるが、それは声のみの出演で、画面には登場しない。そのかわり映像=カメラの視点はレポーターの視点(一人称)として設定される。

カメラが地元の人をとらえ、レポーターの声が「これはなんですか?」と問いかける。すると相手はこちらを見て「今朝とれた魚だよ。うまいよ」と答える。カメラが上を向けばナレーションで「わぁ、高い塔がある。どこから昇るのかな」といった具合に、カメラの視点とナレーションが画面に登場しない人物を演じるのだ。

歩く場所も観光名所ではなく、路地や市場など、あくまでも旅人視点。撮影はステディカムを使っての移動撮影で、道を歩くのはもちろん、店内に入ったり、階段を上ったり、狭い路地へ迷い込んだりという様子がすべて、一人称視点で描き出される。

また、約1時間の番組の中で流れる時間は、多くても半日程度。時間も距離もいきなり飛ぶことはなく、じっくりと「街歩き」を再現してくれる。

ナレーションも観光ガイド的な内容ではなく、街歩きの最中に見かけたことについてなので、見ていると本当に自分自身がその街を一人散策しているか、友人と一緒に歩いているような気分なのだ。ナレーションは矢崎滋、桂文珍など有名人があてているが、お気に入りは牧瀬里穂。デートしているような気分になれる(笑)。




レポーターと書いたが、実際にナレーションを行なっている人が現地に行っているわけでない。すべて友人や恋人と散策しているような気分にさせるための演出として、映像にあとからナレーションをつけている。番組だけを見ていると、ゆるく地味な番組なのだが、よく考えてみると随分と凝った作りである。

さて、この番組の最大の特徴である「主人公が出てこない一人称映像」は、特別珍しいというものではない。もともと、カメラというのはカメラマンの一人称映像だ。

しかし、世の中の映像全般を見ると案外、一人称で構成されるケースは少ない。もともと映像が一人称的なのに、映像作品になるとそれがほとんど見られない。考えてみればフシギな気がする。

もともと人称というのは小説の作法だ。主役がすべて語るのが一人称、語り手がその物語世界に登場しない、いわば神の視点で語られるのが三人称だ。

小説では全編通して「ぼく」「わたし」という一人称で書くことは珍しくない。「僕は電車に乗り込み、混雑している車内で彼女の姿を探した。」といったように、主人公の視点で出来事とその時の気持ちや知識が同時に描かれる。おかげで、読者は主人公と同化し、出来事を体験することになる。

その同化効果はかなり強烈だ。村上春樹の小説を読んでいると、普段の思考もついつい村上春樹の文体になったりする。別に言語化して考えなくてもいいのに「空が青いと僕は思った」など無駄に言語化して考えてしまう。現実世界で、他人の考えが自分の頭に流れ込んでくるなんてことは有り得ない。小説の面白さはまさに、この同化、憑依感覚だろう。

このようなコラムでもやはり人称は重要だ。「ですます」調で書くよりも、このコラムのように「である」調の方が、より筆者の思考に近い気がする。

これに対して、映画やテレビドラマでは三人称、神の視点が基本だ。主人公の行動、脇役の行動、全体で起きていること、それらが客観的に描かれていく。

時折、登場人物が見ている一人称視点の映像(クローズアップショット)が挿入され、それにより、登場人物がなにを見ているのかが説明される。次にその人物の表情が繋げられ、その人物がそれを見てどう感じたのかということが伝わる。

映画編集の基本「モンタージュ」は、このように一人称映像と三人称映像を交互につなぐわけだが、全体としては客観的な三人称映像による状況説明が主体だ。客観的な映像も、そこにいる誰が見ているのか、だれが知り得る状況なのかを常に意識して撮影されるが、それでも主役が画面に登場しないということはあり得ない。

では、映画のもうひとつの要素、音はどうだろうか。画面には登場していなかったり、登場していても映像としてはしゃべっていないのに、その人物の声でセリフをしゃべる場合がある。「モノローグ」といわれるものだ。

「世界ふれあい街歩き」は、全編このモノローグで構成されているわけだが、映画でモノローグが使われるのはかなり限定された状況だ。導入部や回想シーンで一人称的に語られる(「わたくし、山田奈緒子は超売れっ子美人マジシャン...」「姉さん、また事件です...」など)ことはあっても、ドラマ全体が一人称というのはほとんどない。

「ブレードランナー」の劇場公開バージョンでは、主人公のつぶやき「俺はブレードランナー。元警察官...」といったモノローグではじまる。これは、映画会社から「内容がわかりにくい」という指摘から、後で付け足したものらしい。

しかし、説明的な独り言は、ハードボイルド小説の雰囲気は出るものの、いささか白けてしまい、その後のディレクターズカットでははずされた。その他だと、邦画やアート系の小品にありそうな気がするが、圧倒的に少ないのは確かだろう。

小説が一人称を使って、主人公との同化効果を得ているのに、映画ではそれが使われないのはなぜだろう?

マンガやアニメはどうだろうか。マンガは基本、映画同様に客観的な視点で状況が描かれるが、映像よりも一人称度が高い。複数の人物のモノローグが入れ替わり立ち替わり使われるケースは珍しくない。

これは動かない絵による表現を補うためだ。どうしたって、生身の役者の演技と同等の表現を絵で行うには限界があるから、モノローグを使ってそれを補うのだ。

複数の登場人物の心の声がわかってしまうのは、ドラマとしては反則。もし小説で主人公以外の登場人物が勝手にモノローグで考えを表現しだしたら、読者は大混乱になるだろう。

だが、マンガだと客観的な画面があるせいか、意外と混乱せずに読める。特に少女マンガでは主人公の気持ちを表現するのにモノローグが多用される。一人考えている場面はもちろん、たとえば彼氏と出会った瞬間、心の声で「かっこいい!」という風に、いたる所でモノローグが添えられ、全体として主人公の気持ちを軸に語られる。

そのおかげで、そういった少女マンガを読むという体験は、映画というよりは小説を読むのに近い、主人公との同化感がある。

マンガ原作のアニメでも、モノローグが多用される。実写映画とは随分対照的だが、これもキャラクターに芝居をさせるのに手間暇がかかることから、積極的に取り入れられてきた手法だろう。

映像的な違いではなく、映画としてもどうしてもアニメがマンガ的に感じられるのは、モノローグや独り言といった説明的なセリフに頼らないと、表現が成立しない点にあるように思える。

ゲームはプレイヤーが操作するという意味で、徹底して一人称だ。プレイヤーのキャラクターが画面上に登場する場合が多いが、それは操作性という問題があるからだろう。自分がなにもしなければ画面上ではなにも起きない以上、ゲームはビジュアルがどうであろうと一人称的にならざるを得ない。

言うまでもなく、一人称の面白さは疑似体験だ。小説でもゲームでも、自分自身がその仮想世界にどっぷりと入り込むことができる。しかし、映像の一人称には決定的な弱点がある。それは「主人公のキャラがたてられない」ということだ。

画面に主人公が登場しないと、当然、そのキャラクターの印象は薄くなる。ゼルダやドラクエのように、画面に登場したとしても、そのキャラクターの性格や考え方はプレイヤーが行うことになるので、どういう人物なのかがはっきりしない。映画やマンガのようなキャラクターの魅力で売る手法が使えない。

「世界ふれあい街歩き」が一見、地味に見えるのも、レポーターというキャラクターがビジュアルとして登場しないからだ。牧瀬里穂がヨーロッパの街を探索していた方が、ビジュアルとしては当然映える。

これに対し、小説の場合、最初からビジュアルがないのでそのような制限がない。読者はそれぞれ、主人公になりきりながら、主人公の人柄を思い描く。小説が映像化されたとき、賛否両論になるのは、読者の数だけ主人公像があるからだろう。

ではなぜ、映画では一人称が少ないのだろうか? 映像では主人公を出さざるを得ないだろうが、モノローグという手法はもっと多用されてもいいはずだ。色々考えてみて、どうやらこれはそれを体験する「環境」の問題が大きいように思えてきた。

一人称は主人公との距離がとても近い。小説やマンガといった表現は、ものすごく個人的なものだ。大人数で同時に読む、ということはあり得ない。自分が何を読んでいるのかも、他人からはわからない。他の人といっしょに一人称小説を読む、というのは、一人で読むような没入感は得られないのではないだろうか。

もし全編、一人称で語られ、構成される映画だと、劇場で見るとなんだかとても恥ずかしいような気になってしまうのではないだろうか? いくら映画に没入したところで、まわりの観客、自分が置かれた劇場という環境を忘れることはできない。

同化している主人公の気持ちを、他の人達といっしょに感じ取るというのは、自分の考えを見透かされているようで、落ち着かないのではないだろうか?だから映画は三人称にならざるを得ないのではないか。

映画を見た後、一緒に見た人たちと今目の前で起きた「事件」に対しておしゃべりする。これは自分たちが均等に「目撃者」という立場だからできる楽しさで、一人称が強い小説だと、そうはいかないように思える。

そう考えると、この「世界ふれあい街歩き」がいかに絶妙な設定であるかに気がつく。旅というシチュエーション。テレビというシチュエーション。一人で見ても、家族で見ても、ナビゲーターと一緒に異国の街を散策している気分になれる。

ベテランナレーターによる、適度にキャラの立った、でも姿を見せない主役。モノローグも心情まで深いものではなく、友だちや恋人といっしょにおしゃべりしながら異国の街を歩く感覚。ストーリーではなく、実時間を体験するコンテンツだからこそ、成立しているのだろう。

劇場で見ると、映像はもっと迫力を増すだろうが、ナレーションによる一人称はかえって邪魔になるような気がする。テレビならではの、紀行モノというジャンルだから成り立つ、ゆるいプライベート感覚がこの手法を成立させているように思う。他のジャンルではなかなかこの企画は成立しないような気がする。

しかし現代は、映画、ドラマというコンテンツの公開方法は変わりつつある。劇場という公開形態であれば、今後も観客は「目撃者」という立場であり続けるだろう。

しかし、テレビやDVD以上にプライベートな視聴環境であるiPhone、iPad、モバイルゲーム機で見る映像コンテンツ、ドラマであれば、小説やマンガと同様の一人称というのもアリではないか?

近年、森見登美彦の小説「四畳半神話大系」がテレビアニメ化されたが、これはもう、小説そのまま、ひたすら主人公がのべつまくなしに語るという、とてもうるさいアニメだった。

おかげで、従来にない文芸感覚あふれる映像になっていた。もともとモノローグに違和感がないアニメ(動くマンガ)ということもあるだろうが、かなり面白い表現だ。

昔、「音の本棚」というFM番組があった。小説をラジオドラマ化する番組で、朗読ではなく、それなりに脚色されたドラマ版だったが、深夜に一人で聞くラジオドラマという性質上、一人称がとてもよく似合っていた。

劇場では白けてしまう説明過多のモノローグや一人称視点も、電車の中でヘッドフォンとiPhoneの画面で見るのであれば、かえって効果的ではないだろうか?マンガや小説のように、主人公に没入できるのではないだろうか?

映像を読み解かなくてはならない映画を、小さなiPhoneの画面で見る気にはなれないが、「四畳半神話大系」やラジオドラマ的に語りで構成される映画なら、小説同様、楽しめるのではないか。

映画というものは、エジソンが発明した当初はアーケード型、のぞき眼鏡タイプのプライベート体験だった。リュミエール兄弟により劇場投影タイプに移行してから100年。ようやく、エジソンタイプのプライベート体験を活かす環境が整ったわけだ。

映画が今まで避けてきたモノローグという手法。iPhone時代の現代、もう一度見なおしてみてもいいような気がする。

【まつむら まきお/まんが家、イラストレーター・成安造形大学准教授】
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