[3218] 背は低くてもタフガイになれる?

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《女装の道には戻る道がない》

■映画と夜と音楽と...[535]
 背は低くてもタフガイになれる?
 十河 進

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■映画と夜と音楽と...[535]
背は低くてもタフガイになれる?

十河 進
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         〈サリヴァンの旅/拳銃貸します/ガラスの鍵/青い戦慄/マルタの鷹/三つ数えろ/深夜の告白〉


●ヴェロニカ・レイクのセクシーさを強調して見せる映画

かねてより傑作と名高い「サリヴァンの旅」(1941年)をDVDで見た。真珠湾攻撃の年の作品だから、日本ではいつ頃公開になったのだろうと調べてみたら1994年になっていた。半世紀以上経っての公開である。僕の場合は、70年後に見たことになる。それでも古さはそれほど感じない。アメリカが舞台だからだろう。

うまいなあと思ったのは、映画が始まるとすぐに列車の屋根で二人の男が争っているアクションシーンだったことだ。殴り合いの編集も上出来で、格闘しもつれ合いながら列車のつなぎ目に落ちた二人がそれぞれ這い上がり、ひとりが拳銃を取り出して数発相手を撃ち、撃たれた男は執念で相手に抱きつき道連れにして鉄橋から川に落ちる。

その落ちる二人を、キャメラは俯瞰で撮っているのだ。「ダイ・ハード」でテロリストのボスが、高層ビルを落下するときのキャメラポジションと同じである。「ダイ・ハード」は明らかにCGだが、「サリヴァンの旅」はどう見ても実写だ。スクリーンプロセスのような合成には見えない。このキャメラポジションは凄いなあ、と素朴に驚いた。

未見の人のために、この後のオチは書かないが、僕は見事に引っかかった。古典的な手法だが、確かにうまい。その後、カーチェイスのシーンもあり、この撮影テクニックと編集と、車が猛スピードで突っ走る間にチラリとお色気シーン(昔はこう言った)を挟み込む職人芸にも感心した。公開当時、男性の観客は他愛ないから、充分興奮したことだろう。

主人公は、ミュージカルや喜劇を得意とする映画監督サリヴァン。売れっ子でプール付きの大邸宅に住む大金持ちである。しかし、大恐慌の時代、彼は貧しき人々を描いた社会的意義のある作品を作りたいと訴える。ところが映画会社の重役たちに苦労知らずで育ったことを指摘され、世間を経験してくると言い出し、浮浪者の姿で10セントだけを持って放浪の旅に出ようとする。

映画会社の重役たちは金を稼いでくれる秘蔵っ子だから心配し、サリヴァンを見守る何人ものスタッフを組み、トレーラーハウスのような大型車で彼の後に尾いていく。スタッフは、記録のためのカメラマンとライター、運転手、秘書、医者、料理人などである。サリヴァンは彼らを撒こうとするが、実際に困ったことがあると助けを求めてしまう。

浮浪者姿のままハリウッドに戻ったサリヴァンは、ダイナーで美女に朝食をご馳走になる。その娘はハリウッドに夢を託してやってきたが、女優の夢破れ部屋も追い出されて、ヒッチハイクで帰郷しようとしていた。彼女は、エルンスト・ルビッチを尊敬しているらしく「ルビッチ」の名をしきりに口にする。そのときのサリヴァンの顔が微妙だ。ルビッチをリスペクトしつつ嫉妬がうかがえる。

「サリヴァンの旅」の監督プレストン・スタージェスは、ルビッチより6年遅れて生まれた。最初は脚本家だったが、1940年に監督としてデビューする。サリヴァンは彼自身の投影なのだ。ドイツ人のルビッチがハリウッドに招かれたのが1923年、プレストン・スタージェスが監督になった頃には、コメディ映画の大監督として名前が通っていた。

いろいろあってサリヴァンは、少年の格好になった娘を連れて放浪の旅に再出発する。彼らは貨車に無賃乗車するのだが、慣れていないのでもたつき、ワラを敷いた家畜列車に乗り込んでも転んだり、ひっくり返ったりする。そのシーンの娘の動きを撮るキャメラアイが気になる。男性客を意識した視線だ。そのとき、この作品はヴェロニカ・レイクのセクシーさを見せる映画なのだとわかった。

●ヴェロニカ・レイクがアラン・ラッドの相手役だった理由

サリヴァンを演じるのは、ジョエル・マクリー。逞しい身体(女性観客のために彼の上半身裸のシーンもある)とハンサムな顔を持つ典型的な二枚目スターだ。女優志望の美女は、ヴェロニカ・レイク。伝説のセクシー女優である。ウェーブのかかった金髪の片側をおろし、右の目が隠れる。金髪の間から覗く上目遣いがセクシーだと騒がれた。要するに、何をやっても「セクシーだ」と言われたのだ。

そのヴェロニカ・レイクのサービスカットは、ふんだんにある。浮浪者だと思って親切にしたのに、その男が大金持ちの監督だとわかり、彼女はサリヴァンをプールに突き落とす。その後、彼女自身も着衣でプールに落ちる。次のカットでは、バスローブ姿で太股まで覗かせながら髪を梳く。その後、暴れる彼女をサリヴァンが抱え上げ、執事が両足を押さえる。美しい脚がスクリーンで跳ねまわり、三人ともプールに落ちる。

それは素足を見せるという直接的なセクシーさの強調であり、セックスを想像させる動きをさせてセクシーさをほのめかすのでわかりやすい。ところが、自慢の金髪を大きなハンチングの中に隠し、小さく美しい顔の輪郭を晒し、だぶついたズボンに男物のジャケット姿で出てきたヴェロニカ・レイクも、不思議にセクシーなのだ。そのように見せるための、緻密な映像設計や演出がされている。

前述のように走る貨車に飛び乗り、貨車の中でふたりが落ち着くまでを、延々と時間を使って見せるのも、ヴェロニカ・レイク目当てにくる男性客へのサービスである。ジョエル・マクリーが貨車に乗りかけたヴェロニカ・レイクのお尻を押し上げ、自分も乗り込むが列車の振動でふたりはもつれ合う。大きなズボンのお尻を突き出すヴェロニカ・レイクをキャメラが舐めるように写す。

僕はそういう直接的な描写にひっかかったせいか、「サリヴァンの旅」が世評ほど名作だとは思えなかった。物語的には一筋縄ではいかない(要するに予想を裏切り続ける)展開で、さすがに元シナリオライターの面目躍如なのだが、思わせぶりなカットに志の低さが見えて仕方なかった。監督自身の自己弁護(あるいは言い訳)を聞いているような気がしたのだ。

しかし、職人監督が観客を楽しませるエンターテインメントを作ろうと志し、職人仕事をしただけだ。僕はそういう作品に好意を持つ人間なのだけれど、「名作だ」と長く聞かされてきたから構えて見てしまった。艶笑シーンもあるよくできた喜劇として、肩肘張らずに見ればよかった。映画会社のふたりの重役、監督邸のふたりの執事など、喜劇ではお約束のキャラクターも冒頭から出ていたというのに...。

「サリヴァンの旅」でアレッと思ったのは、ジョエル・マクリーと少年の姿になったヴェロニカ・レイクが並んで立ったカットだった。身長が違いすぎるのだ。ヴェロニカ・レイクの頭は、ジョエル・マクリーの肩よりずっと下にある。まさに、大人と子供。だから、ジョエル・マクリーが彼女を抱え上げたりする設定が自然に見えるのである。

そのとき、ヴェロニカ・レイクがアラン・ラッド主演作で、数多く相手役をつとめた理由に気付いた。「拳銃貸します」(1942年)「ガラスの鍵」(1942年)「青い戦慄」(1946年)などでヒロインを演じている。アラン・ラッドは168センチ足らずで、身長が低いことを気にしていた。ヴェロニカ・レイクは小柄だったのだ。調べたら150センチちょっとだったらしい。

●美女はマーロウ役のボギーを見て「高くないのね」と言う

バランスがよければ背の高さは必要ない、とヴェロニカ・レイクは証明している。スクリーンでは長い脚を見せ男性客を喜ばせた。一方、ダスティン・ホフマンやアル・パチーノが主演をとれる時代とは異なり、70年前は映画スターの条件として身長の高さが求められたのだろう。アラン・ラッドは、自分より背の高い共演者と並んで写るときは踏み台を使った。

そう言えば「バンド・ワゴン」(1953年)の中で、人気が落ちてしまったミュージカルスター役のフレッド・アステアが、カムバック作品の相手役候補であるシド・チャリシィーの身長を気にするシーンがある。ちょうど階段が背景で、アステアは階段を一段昇ってみたりして笑わせる。日本もそうだったけれど、男が女より背が低いことを気にする時代だったのだ。

アラン・ラッドが主演をとったのと同じ頃、「マルタの鷹」(1941年)で初主演したハンフリー・ボガート(ボギー)も背は高くない。「三つ数えろ」(1946年)の冒頭、富豪の次女がフィリップ・マーロウ役のボギーを見て「高くないのね」と言う。ボギーはテニスウェアから伸びる女の長い足に目をやって、「努力はしたんだがね」とハードボイルドに答える。

しかし、レイモンド・チャンドラーの原作「大いなる眠り」(双葉十三郎・訳)では、フィリップ・マーロウは背の高い男なので、こうなっている。───「背が高いのね」と、彼女は言った。「僕のせいじゃない」

これは、ボギーをフィリップ・マーロウにキャスティングした結果の改変だ。それにしても、既に「カサブランカ」(1942年)を経て、大スターになっていたボギーにこのセリフを言わせたのは凄い。あるいは、ボギーがそんなことにはこだわらなかったのか。それとも、監督が大物のハワード・ホークスだったから、さすがのボギーも文句が言えなかったのか。

一方、アラン・ラッドは自分の身長に極端なコンプレックスがあった。そこには、幼少の頃に「チビ、チビ」といじめられたトラウマのような、何か深い訳があったのかもしれない。まあ、とにかく彼は、共演者の身長にこだわった。「レイモンド・チャンドラー読本」(早川書房)の中で、チャンドラーがシナリオを担当した「青い戦慄」の裏話を、ジョン・ハウスマンという人が書いている。

───スターとしてラッドも共演者の選択には口を出した。が、彼は極端に背が低かったので、共演男優を選ぶ基準はひとつしかなかった──背の高さである。共演候補者に初めて会って、彼の視線が相手の鎖骨から下へ行ったとしたら、彼は我々だけになったときにまずまちがいなくこう言うのだった。さっきの人はあまり適役じゃないね、誰が別の人を探してくれないか、と。(田口俊樹・訳)

「青い戦慄」は、戦争の英雄だった男(アラン・ラッド)が、ふたりの戦友と一緒に故郷へ帰ってくるところから物語が始まる。ひとりの戦友は頭に銃弾が残っており、ときどき錯乱することがある。戦友ふたりは昔のアパートに戻り、アラン・ラッドはひとりで妻が暮らすホテルに向かう。妻はホテルの庭に建つバンガロー(といっても何部屋もある)で、昼間からパーティを開き自堕落に暮らしていた。

その夜、夫婦は諍いをして、雨の中、アラン・ラッドは町を出ようとする。彼を車に乗せ、ひと目で好意を持つ美女がヴェロニカ・レイクである。彼女はブルー・ダリアというナイトクラブの経営者(彼はラッドの妻の不倫相手でもある)の妻で、夫から離れようと土砂降りの雨の中、車を走らせていたのだ。雨の夜のヴェロニカ・レイクは、この世の者ではないほど幻想的に美しく撮影されている。

───そういう意味では、ヴェロニカ・レイクが、彼にぴったりのサイズの女優だったのだが、自堕落な女房役というところに難点があって、彼女とまったく正反対のタイプというわけではなかったが、我々はドリス・ダウニングという、黒髪の美人女優を選んだ。彼女は優に半フィートはラッドよりも背が高かったので、ラッドは断乎として彼女を排斥しにかかったが、我々は、ふたりが一緒のシーンでは、必ず彼女を坐らせるか横たわらせるかすると言って彼を説き伏せた。(前出・同)

●感情描写や説明をせず目に見えるものだけを書く非情の文学

「青い戦慄」は人気絶頂だったアラン・ラッドが、再入隊するまでの3ヶ月で仕上げることが条件だった作品だ、とジョン・ハウスマンは書いている。そのために通常は何ヶ月もかけて練り上げるシナリオを、チャンドラーは短期間で書き上げることになった。半分ほどシナリオができあがった段階で撮影に入り、結末がわからないまま進めることになったのである。

そんな、いろいろな裏話を知ったうえで「青い戦慄」を見ると、面白い発見がある。たとえば、長距離バスで故郷の町に着いた三人は、バーに入りカウンターに坐る。別れるとき、アラン・ラッドだけが立ち上がる。他のふたりはアラン・ラッドに向かって坐ったまま「グッバイ」と言う。しかし、よく見るとアラン・ラッドと坐っているふたりの高さは頭ひとつも違わない。

妻役の女優(ドリス・ダウニング)と再会し抱き合うシーン、向かい合って話すシーンなど、妻より頭半分ほどアラン・ラッドの背が高くなっている。もちろん、ウエストショットからバストショットくらいのサイズで下半身は写っていない。たぶん踏み台に乗っていたのだろう。それに、妻が息子の死の真相を告白するシーンでは、彼女はソファに座ったままである。

もっとも、そんなことが気にならないほど「青い戦慄」はよくできた映画だ。ダシール・ハメットの小説を映画化した「マルタの鷹」「ガラスの鍵」、レイモンド・チャンドラーの小説を映画化した「三つ数えろ」、ジェームズ・M・ケインの「殺人保険」をチャンドラーとビリー・ワイルダーが脚色した「深夜の告白」(1944年)など、1940年代前半に集中してフィルムノアールの名作群が作られた。

ダシール・ハメットは、「血の収穫」(1929年)「マルタの鷹」(1930年)「ガラスの鍵」(1931年)と立て続けに長編を発表した。レイモンド・チャンドラーはハメットより年上だったが、小説を書き始めたのは45歳からで、長編「大いなる眠り」(1939年)を出したのは51歳のときだった。続けて「さらば愛しき女よ」(1940年)「高い窓」(1942年)「湖中の女」(1943年)を出版する。

小説を書き始めたのは遅かったが、チャンドラーの「さらば愛しき女よ」「湖中の女」は出版とほぼ同時に映画化が決定している。その後、ハリウッドと縁ができたからか、チャンドラーは映画会社に呼ばれて脚色をしたり、オリジナルのシナリオを書いたりする。1940年代前半、ハードボイルド系フィルムノアールが多いのは、チャンドラーの功績かもしれない。

ハメットの「マルタの鷹」はボギー版(1941年)が有名で、なぜ小説が出て10年以上も映画化されなかったのだろうと思っていたのだが、出版の翌年(1931年)に映画化されたバージョンがあるらしい。また、ジョージ・ラフト版「ガラスの鍵」(1935年)というのもある。本物のギャングだった伝説を持つ、ジョージ・ラフトの賭博師ネド・ボーモンなら見てみたい。

もっとも、アラン・ラッドとヴェロニカ・レイク版「ガラスの鍵」は、「青い戦慄」以上の面白さだ。賭博師ネド・ボーモン役としてアラン・ラッドは優男すぎる気がしたが、彼の最高の演技を見せネド・ボーモンを魅力的な人物に仕上げた。アラン・ラッドは、背が低くてもタフガイになれることを証明したのだ。もちろん、ヴェロニカ・レイクのセクシーさが花を添えている。

「ガラスの鍵」は「ハメットが自作の中で最も愛する非情の文学」とのことだが、実はハメット作品では最も読みにくい。名無しのコンチネンタル・オプが一人称で語る「血の収穫」、探偵サム・スペイドを中心に古典的な宝探しもののパターンで語られる「マルタの鷹」に比べると、主人公の言動だけを三人称で描写する「ガラスの鍵」は読者の感情移入を拒否するところがあり、何が起こっているのか理解するのもむずかしい。

「ハードボイルド小説」を「非情小説」と呼ぶが、これは感情描写や説明をしない「そこで起こっている目に見えるものだけを書く非情の文体」を指す。「ガラスの鍵」の文体は、キャメラアイのようだ。部屋の様子を描写し、人物の言葉と行動だけを書く。僕は何度か読もうとしたが、一度も読み通せなかった。映画化作品を見て面白さに感激し改めて挑戦したが挫折。こんな負け惜しみじみた思いを抱いた。

───これは、シナリオなんだ。詳細な情景描写とセリフと動きだけが書かれたシナリオだ。だから、ネド・ボーモンに血肉を与えたアラン・ラッドが魅力的に見える。彼の言葉のニュアンスや、表情や仕草がネドの内面を表す。感情を顕わにする。「ガラスの鍵」は、映像化されて初めて理解できる物語だったのだ。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951
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3月2日に発売になる香納諒一さんの「梟の拳」(徳間文庫)に解説を書かせていただきました。盲目の元ボクサーが親友の死の謎を追うハードボイルドで、一人称で語るから目の見えない世界が展開します。原発の利権を巡り暗躍する男たちが登場するのですが、単行本が出た10数年前、こんな視点で原発誘致の舞台裏を描いていたのは凄いなあ。

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「2004年版 明鏡止水編」350円+税 各年度版を順次配信
< https://hon-to.jp/asp/ShowSeriesDetail.do;jsessionid=5B74240F5672207C2DF9991748732FCC?seriesId=B-MBJ-23510-8-113528X
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■Otaku ワールドへようこそ![148]
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GrowHair
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人事異動で移ってきた新職場は、都内にあるオフィスビルの22階。竣工からまだ6年足らずでぴっかぴかだ。15年間通っていた埼玉のだだっ広い工場とは大違い。朝着くと、まず休憩室に行き、紙カップを引き抜き、飲み物サーバーにセットし、50円を入れて、コーヒーのボタンを押す。熱いブラックコーヒーをちびちびすすりつつ、外の景色を眺める。

東京タワーはやはり目立つ。分かりやすいから、とも言える。高層ビルはたくさんあって、どれが何なのか、ぜんぜん分からない。少なかったころは、池袋のサンシャインとか、新宿の京王プラザとか、住友三角ビルとか、見れば一目で分かったし、それで方向が分かったりしたものだが。

池袋や新宿の高層ビルは、今や手前のビルの陰に隠れてほとんど見えない。東京タワーの少し右に、東京スカイツリーが見える。目立たないなぁ、最初、気がつかなかったよ。遠いからということもあり、少し霞んでいる。東京タワーとほぼ同じ高さにみえる。

じりりりりりりりりんっ! はい? 天の神様からだ。専用回線を通じて脳内に直接メッセージを送ってくる。今日は謎かけだという。スフィンクスじゃあるまいし、なんでしょ?「東京タワーと東京スカイツリーが同じ高さに見える曲面を求めよ」。はい? えーと、まずここがこうで、ああなってこうなって、だいたいこんなもんかな? あれれ違う。あ、これ、意外と面白い問題かも。

●問題

(問1)地上から東京タワーと東京スカイツリーがぴったり重なって同じ高さに見える地点はどこか。その地点を作図によって求めるにはどのようにしたらよいか。
(問2)地上から東京タワーと東京スカイツリーが正反対の方向に同じ高さに見える地点はどこか。その地点を作図によって求めるにはどのようにしたらよいか。
(問3)空中も含め東京タワーと東京スカイツリーが同じ高さに見える点の集合はどのような曲面をなすか。

ただし、ここで言う「地上」とは標高ゼロメートルの平面とし、地球の丸みは考慮しなくてよいものとする。

東京タワーの高さは333メートル、東京スカイツリーは634メートルだが、これらの数値は用いず、それぞれのてっぺんの標高351メートル、637メートルを用いよ。また両者間の地上距離は8,220メートルである。

神様ってば、こんな問題を送ってきました。挑戦意欲のある方は、この先を読む前に自力で解いてみてください。

●ヒントなど

まず空中は脇に置いておいて、地上で考えましょう。東京スカイツリーの実際の高さは東京タワーよりも圧倒的に高い。にもかかわらず、同じ高さに見えるとはどういうことでしょうか。遠近法ですね。遠くにあるものは小さく、近くにあるものは大きく見えるというわけです。だから、両者が同じ高さに見えているということは、東京スカイツリーよりも東京タワーに近い地点に立ってないとならないってことですね。

両方からうんと離れると、より客観的な視点で見れるというか、どうしたって実際に高い東京スカイツリーのほうが高く見えるようになります。なので、両者が同じに見える位置というのは、両者からあんまり離れていない、東京タワーの周辺、ぐるっと一回り、みたいな感じになりますかね。

ところで、遠くのものが小さく見えるのはなぜでしょうか。目の錯覚でしょうか。いやいや、写真を撮っても遠くのものは小さく写りますよね? この見かけ上の大きい小さいって、いったい何なんでしょうか。そもそも我々は、どうやってものを見ているのでしたっけ?

ありとあらゆるものに当たった光が、ありとあらゆる方向に乱反射され、そのうち、我々の目に飛び込んで来るものを像として捉えることができます。その光を逆向きにたどれば、我々は、自分を中心に据えて、放射状にものを見ているってことになりますね。見かけの大きさって、ズバリ言って、その対象物を見込む角度のことです。

東京タワーと東京スカイツリーが同じ高さに見えているとしたら、両者のてっぺんを見上げる角度(=仰角)が等しいってことです。満月の直径を見込む角度は宵の口も真夜中も明け方も変わりません。じゃあ、なぜ地表付近の月が大きく見えるかというと、......これは目の錯覚ですね、たぶん。

さて、東京タワーのてっぺんから地表へ下ろした垂線の足を考えます。つまりは、東京タワーの足下ですね。東京タワーのてっぺん、足、自分、の3点のなす三角形を考えます。直角三角形ですね。東京スカイツリーについても同様の三角形を考えることができます。仰角が等しいということは、これらの2つの三角形は互いに相似ということになりますね。

ということは、対応する辺々の比率が等しいということでありまして。自分からそれぞれのタワーへの距離の比率は、それぞれのタワーの高さの比に等しいってことになりますね。言いかえると、この問題は、2地点からの距離の比が一定であるような点の集合はどのような曲線をなすか、ということになります。その一定の比率とは、両者の高さの比、すなわち351:637ってことです。

さて、以上は地上での話ですが、空中も考えるとどうなるでしょう。自分が地上から10メートル上昇したとしましょう。これって、自分が上昇しなくたって、2つの塔が10メートルずつ低くなったと思えば、問題の本質は一緒ですね。比率の値が変わっていくだけです。さっきは351:637だったのが、(351-10):(637-10)になりますね。

両方の塔の高さを同じずつどんどん下げていって、東京タワーが爪楊枝くらいになったとき、東京スカイツリーはまだ280メートル以上残っています。両者が同じ高さに見えるのは、爪楊枝のすぐ近くの一回りだけですね。つまり、地上の一回りが、空中を上昇するにつれ、だんだんだんだん小さくなっていき、最後は東京タワーのてっぺんに収束する、って感じですかね。......まだ起きてますか?

●解答と解説

じゃ、答え、行きますよ。問1。東京スカイツリーのてっぺんから東京タワーのてっぺんへ直線を引きましょう。それを東京タワー側に延長して、地表との交点を求めましょう。その地点からは両者がぴったり重なって見え、高さも同じに見えます。ただし、途中に障害物があって陰に隠れてたら見えませんが。

比例計算により、その地点は東京タワーから10,088メートル離れていることが分かります。田園調布駅の東南、宝来公園の一本手前の道あたりです。ただし、標高ゼロメートルという前提で計算してますので、実際にはもっと手前になるでしょう。

もし見えなかったら障害物を破壊してしまうというのもひとつの手ですが、それはちょっと過激です。さきほど引いた直線上の、東京タワーと地上の間なら、どこからでも成立します。つまり、最初に当たった建物からなら見えるってことですね。それは一箇所しかないはずです。どこなんでしょうね。どなたか、見つけて写真撮ってきませんか? もしその建物に入れなかったら、もっと東京タワー寄りのどこかで空撮してもいいわけです。

有人だと大掛かりな上に危険を伴うので、おっきな風船を用意してヘリウムガスを充填して、カメラをくくりつけて上昇させてみるとか。どっかへ飛び去っていかないように、長い紐をつけといて一端を握りしめ、そろそろと延長していけばいいのではないかと。ウエハラZENさん、いかがでしょ?

あるいはいっそのこともうひとつタワーを建てちゃって、そこからなら重なって見えるってのを売りに観光名所にしてしまうとか。石原さん、いかがでしょ?

問2。東京スカイツリーを引っこ抜きます。逆さにして、同じ地点の地面に打ち込みます。全体が埋まるまで。地中にある先端と東京タワーのてっぺんとを直線で結びます。その直線と地表との交点が求める点です。別の作図法として、それぞれのてっぺんから相手の足へと引いた2直線の交点はどうか、と言った人がいますけど、それ、不正解ざんねん。高さの比じゃなくて、高さの平方根の比になっちゃいますね。

比例計算により、その地点は東京タワーから2,920メートル離れていることが分かります。東京駅の東南、八重洲富士屋ホテルの北東の交差点あたりです。

さて、その地点からは障害物があってタワーが見えなかったらどうしましょう。問1では、引いた直線上ならどこから見てもよかったわけで、問2でも同様なんじゃないかと思いたくなります。でもそれは早とちりってやつです。今度はそうはいきません。

地表から10メートル上昇したとしましょう。自分が上昇するだけでなく、地表も丸ごと上昇させてしまいましょう。問題の本質は一緒で、数値が変わるだけですね。タワーが両方とも10メートルずつ低くなります。東京スカイツリーを逆さにして、新たな地面に打ち込むと、10メートル低くなったタワーを10メートル浅く打ち込むことになるので、先端は20メートル浅くなりますね?

先端どうしを結んだ直線は、さっきよりも傾斜が緩くなります。だから、新たな地表との交点は、元の直線との交点に比べると、東京スカイツリー側にずれます。ここがこの問題のハマりやすい落とし穴。

問3。まずは地表で考えましょう。東京タワーのまわりをぐるっと一回りする曲線だってことはすでにだいたい予想がついているのですが、どんな曲線でしょうか。その曲線上の2点はすでに分かっています。問1と問2の答えです。

では残りの曲線は? 東京タワーの足と東京スカイツリーの足という2地点からのそれぞれの距離の比が一定値になるような点の集合です。この一定値とは、それぞれの高さの比、すなわち351:637です。

それはどんな曲線をなすか、自力で考えようとするとけっこう苦労するのですが、ここは知識に頼っちゃいましょう。円になります。「アポロニウスの円」といいます。問1と問2で求めた2点を直径とする円です。両者の中点を中心として、両者の距離の半分を半径として円を描けばいいわけですね。

「2点からの距離の比が一定であるような点の集合は、内分点と外分点とを直径の両端とする円である」。このことは2,000年以上前から知られていました。人類ってひょっとしてどんどんバカになっていってる? って考えるとちょっとヘコみますけど。まあ、気にしないことにしましょう。テクノロジーのおかげで労役ばかりでなく思考まで省力化できて便利なのが現代社会ってことで。キャワイイもん見て萌え萌えしてればいいんです。

その間にも数学自体は進歩してます。高校で習う微分積分いい気分がだいたい300年ちょいばかり前の数学です。じゃあ、現代数学はどこまで行っちゃってるんでしょうか? 普通の人が「数学」という言葉からイメージするものとはだいぶんかけ離れたところへ行っちゃってるかもしれない、とだけ言っておきましょうか。道元禅なんかとちょっと似てます。『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)現成公案(げんじょうこうあん)』の読後感は現代数学の教科書と似てましたマジで。

あ、それで思い出したんですけど、余談です。『不思議の国のアリス』を読んだ人が著者のルイス・キャロルに手紙を書いたんだそうです。感動したんで、他にも著書があったら紹介してほしい、と。そしたら位相幾何学の論文が送られてきたそうです。やりますね、キャロルおじさん。7歳の女の子に求婚して母親から足蹴にされた、って話は実話なんですかね? いや、数学って摩訶不思議です。

そういうわけで、アポロニウスの円についてもっと詳しく知りたい方は、ギリシア時代の人に聞くか、ググってみるかしてくださいませ。

さて、以上は地表での話でしたが、上昇していくとどうなるでしょう。まあ、すでに言ってしまっているように、2つのタワーが低くなっていくのと同じことなわけで。アポロニウスの円がだんだん小さくなっていって、東京タワーのてっぺんへと収束します。円の中心は、地表では東京タワーとは別の地点でしたが、これがだんだん東京タワーに寄っていくわけです。

ならば、曲面全体は円錐を斜めにしたような形か、といえば、そうではありません。これも先ほど注意したとおり、内分点は一直線に沿うわけではありません。曲面を真横から見たシルエットは、片側は直線なのですが、もう片側は膨らんだ曲線になります。この曲線はどんな曲線かを知るためには、いよいよ数式を持ち出さないとならないのですが、結論だけ言うと、双曲線になります。

いや、数式を持ち出して解説しようかとも思ったのですが、デジクリ読者多しといえども数式萌えな方は3人ぐらいしかいらっしゃらないようで。過去にも数学の話題を取り上げたときはブーイングのほうが多かったですからね。自粛しときましょう。

で、代わりに図を出しておきましょう。あるんだったらもっと早く出せ、ってご意見はあるかもしれませんが。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/FigDGCR120302/FigDGCR120302.html
>
図1:問1の答えを地図上で
図2:図1の拡大図
図3:問2の答えを地図上で
図4:図3の拡大図
図5:横から見た図
図6:問3の答えを鳥瞰図で
図7:問3の答えを等高線表示
図8:問3の答えを地図に重ねて等高線表示
どう見てもおっぱいです。ほんとうにありがとうございました。

東京に横たわる巨乳。乳首は東京タワーの先端。実は、もう片一方もあります。東京タワーを逆さにして、先端と先端とを合わせて東京スカイツリーの上にくっつけます。逆も同様に。そうすると、元の地表は逆さになって、平行に向かい合わせになりますね。元のおっぱいも逆さになって、そこにできるわけで。二塔を見下ろす角度が等しくなるような点の集合です。

図8を見てると冒険心がそそられませんか? どの地点へ行って、標高何メートルまで昇ると二塔が同じ高さに見えるかが示されています。この曲面を突き抜ける建物を見つけ、しかるべき高さまで昇ればいいわけです。行って写真を撮ってきませんか>どなたか。このときあなたはおっぱいの表面のホクロです。

で、結局これは何の謎かけだったのでしょう? 神様、ひょっとして私の前途にまもなく巨乳が現れるって示唆でしょうか?
......返事がありませんね。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。

ウチの最寄駅の真ん前に女装メイドバーがあるのを、不覚にもつい最近まで知らなかった。「あゆむバー」。メイドさんがいわゆる「男の娘」であるばかりでなく、衣装と更衣室が用意されててお客さんも女装できるお店。常連さんからツイッターで教えていただいた。その方がどうやって私を発見し、アカウントにたどりついたのかは謎であるが。

2月24日(金)、仕事から帰ってからセーラー服に着替えて行ってみた。その方とは入れ違いになってしまったが、みんななぜか私のことを知っていて、初めて行った感じがしない。男の娘メイドさんが二人。お客さんも女装子さんが多く、女装して来る方もいれば、衣装を持ってきて店で着替える方もいる。バレないレベルの女装子さんもいて、けっこうチャーミングでうらやましい。お店は繁盛してて、オールナイト営業の金曜日は遠くから電車で来て朝まで過ごすお客さんもいるという。女装美少年総合専門誌「オトコノコ時代 vol.2」にも紹介されている。

女装の道に戻る道がないことには、みんな同意見。これで離婚したって話もよく聞くという。「私と女装とどっちをとるのッ!」「はい女装をとります」って感じだろうか。酒やギャンブルみたいに溺れやすく、ついには家庭の安定を顧みなくなってしまうのだろうか。お客さんの一人は、最初は宴会で戯れに女装しただけなのに、それがハマるきっかけになったと言っていた。「その戯れが恐いんです」とかつてキャンディ・ミルキィさんも言ってたっけ。

現代社会って、人々が何かと依存症に陥りやすい構造になっているように感じる。しかし、そのことを利用したマーケティング戦略っていかがなものかという疑問も感じている。ネット通販とかアイドルとか。顧客を依存症にしちまえば勝ちだ、みたいな。その戦略を仕掛けてる側も、マーケティング依存症なんじゃなかろうかと思えたりする。

人々を刺激に反応する機械のようなもの、というモデルの下に、統計でしか捉えていないだろ、みたいな。仕掛ける側は、ただの一サンプルとは一線を画する高みに立てるって錯覚の快感にハマるんだろうなぁ。広告やアンケートなどでそういう失礼さが見え隠れすることがしばしば。

その線で行くなら、女装なんて、いい儲けの種になるかもしれない。アパレルメーカーとコスメティックメーカーが手を組んで、女装体験イベントみたいなのを開く。行くと、プロのメークさんやスタイリストさんが寄ってたかって完璧な女装子さんに仕立て上げてくれる。これ、やってくれるなら、ぜひ応募したいって人、けっこういるのではなかろうか。

で、その場で女装セット一式をお買い上げいただいた方は、お試し女装代はサービス。決断がつかなかった方は、実費だけいただいて、ネットで一式注文できるサイトや実店舗などの情報をお持ち帰りいただく、と。

この戦略が当たれば、街はきれいな女装子さんだらけになり、女性向けのグッズが男性にもばんばん売れるようになる、と。そう言えば男性用ブラって意外と売れ行き好調なようで、それに乗じてかショーツやらキャミソールやらネグリジェやら、次から次へと出てきていますね。変な時代になったものです。

ところで私はまだ依存症というほどのもんではないと思う。セーラー服着て出かけたのなんて、まだ数えるほどだし(42回)。エスカレートするといってもせいぜいラーメン食いに行くとか、新幹線に乗って京都・奈良に行ってくるとかぐらいだし。さきほどの、宴会戯れ女装からエスカレートしていったという方は、その方向性がすごい。ついにはパートナーとして男性を求めるようになったという。え? その方向もあるの? 自分のこととしてはちょっと考えられないんだけど。

お店のマスターは普通のお方。ナイスなダンディー。映画がテーマの「座ライオン」というバーなのだが「あゆむバー」がときおり間借りしてこういうことになっているのだそうで。たくさんの女装者を見てきたけど、型というものがなく、一人ひとり志向や醸し出す空気がみんな違っているという。女装というものがどういうものなのか、見れば見るほど分からなくなっていくという。奥の深い、個性の光る世界、なのかな?
< http://d.hatena.ne.jp/ayumu_bar/
>

ライブ予告です。来たる3月11日(日)、田町 Quarter Note にて
『JUKE POINT vol.4』というイベントが開かれます。前回お話ししたアイドルグループが出演します。リアル女子中高生。私はセーラー服着て客席から写真撮ってます。ニセ女子高生。16:30開場、17:00開演。2,000円、ドリンク別。
< http://www.ness2000.com/event.html
>

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■編集後記(03/02)

・矢作直樹「人は死なない」を読む(バジリコ、2011)。法医学者・上野正彦の著作で「死体は生きている」という最強のタイトルがあったのを思い出す。それに匹敵するナイスなタイトルである。しかも、現役の東大医学部教授の執筆である。まことにキャッチーなシカケである。
人は死を免れないことは自明の理だが、もしかしたらこの先生は医学の現場で「人は死なない」と言えるほどの体験をしたのだろうか。いやそうではあるまい。おそらく、肉体は死んでも霊魂として生き続けるというストーリーであろうとの予測はつく。サブタイトルに「ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索」とあり、まさにそういう内容だった。
表紙に肩書きを大きく入れているのを見れば、このあざといタイトルは編集者が戦略上つけたのであろう。それにしても装丁といい組版といい、本文の構成といい、じつに素人っぽい雑な書籍である。著者の言いたいことは「人間の智恵を超えた大いなる力(摂理)と生の連続性、そしてそれを認識した上で人はいかに生きるか」について思索した第五章の30ページ弱の考察に尽きる。
そこに至るまでは、筆者の体験した気功や、死に直面した単独登山での二度の墜落、母の孤独死と降霊会での再会、治療現場での出来事などがわりと淡々と述べられる。それらはそれなりに興味深い。そして、「神は在るか」「「『霊』について研究した人々」という章がいきなりその間にはさまってくる。このふたつの章はあきらかに他の章とは違い、一部がヘタなレポートのような文章なのだ。これはたぶん、材料が足りないために挿入したものだと思う。先生の思索は真摯で好感が持てるだけに、編集者の力不足による残念な一冊。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4862381782/dgcrcom-22/
>
→アマゾンで見る(レビュー31件)

・同じ大きさに見える写真、見てみたい〜! 田園調布って駅を中心に放射線状に広がる形なんだ。へぇ。問3は問題として考えもつかないよ〜。 月は目の錯覚だという話です。重ね合わせたら同じでした。「仕事から帰ってからセーラー服に着替えて行ってみた」。更衣室があると直前に書かれてある......。「女装の道に戻る道がない」。ひぇ〜。宝塚の男役さんは職業だもんなぁ。/宝塚には「ステージスタジオ」というサービスがあって、舞台と同じ衣装(多少撮影用に変更してある)を着て写真が撮れるが、男性用の衣装は用意されていない。男性だって着てみたいだろうに。一度やってみたいのが、「舞台メイクサービス」。もちろん男役メイク。タカラジェンヌを見ていると、薄い顔、細い目の人の方がイケメン、美女になりやすい気がする。濃いめの顔だと、メイクダウンする人多数。それが宝塚メイクマジック(信じるか信じないかはあなた次第、の声調で)。/「ギャランティーク和恵」さん。ミッツ・マングローブ、メイリー・ムーと三人で「星屑スキャット」という、歌謡曲を中心としたライブを行うグループの人。なぜその名前なんだ。もっと洗練されたっぽい名前はいくらでもあるのに。親近感が湧いてしまうではないか。(hammer.mule)
< http://kageki.hankyu.co.jp/salon/stage.html
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ステージスタジオ
< http://kageki.hankyu.co.jp/salon/make.html
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舞台メイクサービス
< http://gallantica.com/
>  ギャランティーク和恵