映画と夜と音楽と...[535]背は低くてもタフガイになれる?/十河 進

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〈サリヴァンの旅/拳銃貸します/ガラスの鍵/青い戦慄/マルタの鷹/三つ数えろ/深夜の告白〉


●ヴェロニカ・レイクのセクシーさを強調して見せる映画

かねてより傑作と名高い「サリヴァンの旅」(1941年)をDVDで見た。真珠湾攻撃の年の作品だから、日本ではいつ頃公開になったのだろうと調べてみたら1994年になっていた。半世紀以上経っての公開である。僕の場合は、70年後に見たことになる。それでも古さはそれほど感じない。アメリカが舞台だからだろう。

うまいなあと思ったのは、映画が始まるとすぐに列車の屋根で二人の男が争っているアクションシーンだったことだ。殴り合いの編集も上出来で、格闘しもつれ合いながら列車のつなぎ目に落ちた二人がそれぞれ這い上がり、ひとりが拳銃を取り出して数発相手を撃ち、撃たれた男は執念で相手に抱きつき道連れにして鉄橋から川に落ちる。

その落ちる二人を、キャメラは俯瞰で撮っているのだ。「ダイ・ハード」でテロリストのボスが、高層ビルを落下するときのキャメラポジションと同じである。「ダイ・ハード」は明らかにCGだが、「サリヴァンの旅」はどう見ても実写だ。スクリーンプロセスのような合成には見えない。このキャメラポジションは凄いなあ、と素朴に驚いた。

未見の人のために、この後のオチは書かないが、僕は見事に引っかかった。古典的な手法だが、確かにうまい。その後、カーチェイスのシーンもあり、この撮影テクニックと編集と、車が猛スピードで突っ走る間にチラリとお色気シーン(昔はこう言った)を挟み込む職人芸にも感心した。公開当時、男性の観客は他愛ないから、充分興奮したことだろう。

主人公は、ミュージカルや喜劇を得意とする映画監督サリヴァン。売れっ子でプール付きの大邸宅に住む大金持ちである。しかし、大恐慌の時代、彼は貧しき人々を描いた社会的意義のある作品を作りたいと訴える。ところが映画会社の重役たちに苦労知らずで育ったことを指摘され、世間を経験してくると言い出し、浮浪者の姿で10セントだけを持って放浪の旅に出ようとする。

映画会社の重役たちは金を稼いでくれる秘蔵っ子だから心配し、サリヴァンを見守る何人ものスタッフを組み、トレーラーハウスのような大型車で彼の後に尾いていく。スタッフは、記録のためのカメラマンとライター、運転手、秘書、医者、料理人などである。サリヴァンは彼らを撒こうとするが、実際に困ったことがあると助けを求めてしまう。




浮浪者姿のままハリウッドに戻ったサリヴァンは、ダイナーで美女に朝食をご馳走になる。その娘はハリウッドに夢を託してやってきたが、女優の夢破れ部屋も追い出されて、ヒッチハイクで帰郷しようとしていた。彼女は、エルンスト・ルビッチを尊敬しているらしく「ルビッチ」の名をしきりに口にする。そのときのサリヴァンの顔が微妙だ。ルビッチをリスペクトしつつ嫉妬がうかがえる。

「サリヴァンの旅」の監督プレストン・スタージェスは、ルビッチより6年遅れて生まれた。最初は脚本家だったが、1940年に監督としてデビューする。サリヴァンは彼自身の投影なのだ。ドイツ人のルビッチがハリウッドに招かれたのが1923年、プレストン・スタージェスが監督になった頃には、コメディ映画の大監督として名前が通っていた。

いろいろあってサリヴァンは、少年の格好になった娘を連れて放浪の旅に再出発する。彼らは貨車に無賃乗車するのだが、慣れていないのでもたつき、ワラを敷いた家畜列車に乗り込んでも転んだり、ひっくり返ったりする。そのシーンの娘の動きを撮るキャメラアイが気になる。男性客を意識した視線だ。そのとき、この作品はヴェロニカ・レイクのセクシーさを見せる映画なのだとわかった。

●ヴェロニカ・レイクがアラン・ラッドの相手役だった理由

サリヴァンを演じるのは、ジョエル・マクリー。逞しい身体(女性観客のために彼の上半身裸のシーンもある)とハンサムな顔を持つ典型的な二枚目スターだ。女優志望の美女は、ヴェロニカ・レイク。伝説のセクシー女優である。ウェーブのかかった金髪の片側をおろし、右の目が隠れる。金髪の間から覗く上目遣いがセクシーだと騒がれた。要するに、何をやっても「セクシーだ」と言われたのだ。

そのヴェロニカ・レイクのサービスカットは、ふんだんにある。浮浪者だと思って親切にしたのに、その男が大金持ちの監督だとわかり、彼女はサリヴァンをプールに突き落とす。その後、彼女自身も着衣でプールに落ちる。次のカットでは、バスローブ姿で太股まで覗かせながら髪を梳く。その後、暴れる彼女をサリヴァンが抱え上げ、執事が両足を押さえる。美しい脚がスクリーンで跳ねまわり、三人ともプールに落ちる。

それは素足を見せるという直接的なセクシーさの強調であり、セックスを想像させる動きをさせてセクシーさをほのめかすのでわかりやすい。ところが、自慢の金髪を大きなハンチングの中に隠し、小さく美しい顔の輪郭を晒し、だぶついたズボンに男物のジャケット姿で出てきたヴェロニカ・レイクも、不思議にセクシーなのだ。そのように見せるための、緻密な映像設計や演出がされている。

前述のように走る貨車に飛び乗り、貨車の中でふたりが落ち着くまでを、延々と時間を使って見せるのも、ヴェロニカ・レイク目当てにくる男性客へのサービスである。ジョエル・マクリーが貨車に乗りかけたヴェロニカ・レイクのお尻を押し上げ、自分も乗り込むが列車の振動でふたりはもつれ合う。大きなズボンのお尻を突き出すヴェロニカ・レイクをキャメラが舐めるように写す。

僕はそういう直接的な描写にひっかかったせいか、「サリヴァンの旅」が世評ほど名作だとは思えなかった。物語的には一筋縄ではいかない(要するに予想を裏切り続ける)展開で、さすがに元シナリオライターの面目躍如なのだが、思わせぶりなカットに志の低さが見えて仕方なかった。監督自身の自己弁護(あるいは言い訳)を聞いているような気がしたのだ。

しかし、職人監督が観客を楽しませるエンターテインメントを作ろうと志し、職人仕事をしただけだ。僕はそういう作品に好意を持つ人間なのだけれど、「名作だ」と長く聞かされてきたから構えて見てしまった。艶笑シーンもあるよくできた喜劇として、肩肘張らずに見ればよかった。映画会社のふたりの重役、監督邸のふたりの執事など、喜劇ではお約束のキャラクターも冒頭から出ていたというのに...。

「サリヴァンの旅」でアレッと思ったのは、ジョエル・マクリーと少年の姿になったヴェロニカ・レイクが並んで立ったカットだった。身長が違いすぎるのだ。ヴェロニカ・レイクの頭は、ジョエル・マクリーの肩よりずっと下にある。まさに、大人と子供。だから、ジョエル・マクリーが彼女を抱え上げたりする設定が自然に見えるのである。

そのとき、ヴェロニカ・レイクがアラン・ラッド主演作で、数多く相手役をつとめた理由に気付いた。「拳銃貸します」(1942年)「ガラスの鍵」(1942年)「青い戦慄」(1946年)などでヒロインを演じている。アラン・ラッドは168センチ足らずで、身長が低いことを気にしていた。ヴェロニカ・レイクは小柄だったのだ。調べたら150センチちょっとだったらしい。

●美女はマーロウ役のボギーを見て「高くないのね」と言う

バランスがよければ背の高さは必要ない、とヴェロニカ・レイクは証明している。スクリーンでは長い脚を見せ男性客を喜ばせた。一方、ダスティン・ホフマンやアル・パチーノが主演をとれる時代とは異なり、70年前は映画スターの条件として身長の高さが求められたのだろう。アラン・ラッドは、自分より背の高い共演者と並んで写るときは踏み台を使った。

そう言えば「バンド・ワゴン」(1953年)の中で、人気が落ちてしまったミュージカルスター役のフレッド・アステアが、カムバック作品の相手役候補であるシド・チャリシィーの身長を気にするシーンがある。ちょうど階段が背景で、アステアは階段を一段昇ってみたりして笑わせる。日本もそうだったけれど、男が女より背が低いことを気にする時代だったのだ。

アラン・ラッドが主演をとったのと同じ頃、「マルタの鷹」(1941年)で初主演したハンフリー・ボガート(ボギー)も背は高くない。「三つ数えろ」(1946年)の冒頭、富豪の次女がフィリップ・マーロウ役のボギーを見て「高くないのね」と言う。ボギーはテニスウェアから伸びる女の長い足に目をやって、「努力はしたんだがね」とハードボイルドに答える。

しかし、レイモンド・チャンドラーの原作「大いなる眠り」(双葉十三郎・訳)では、フィリップ・マーロウは背の高い男なので、こうなっている。───「背が高いのね」と、彼女は言った。「僕のせいじゃない」

これは、ボギーをフィリップ・マーロウにキャスティングした結果の改変だ。それにしても、既に「カサブランカ」(1942年)を経て、大スターになっていたボギーにこのセリフを言わせたのは凄い。あるいは、ボギーがそんなことにはこだわらなかったのか。それとも、監督が大物のハワード・ホークスだったから、さすがのボギーも文句が言えなかったのか。

一方、アラン・ラッドは自分の身長に極端なコンプレックスがあった。そこには、幼少の頃に「チビ、チビ」といじめられたトラウマのような、何か深い訳があったのかもしれない。まあ、とにかく彼は、共演者の身長にこだわった。「レイモンド・チャンドラー読本」(早川書房)の中で、チャンドラーがシナリオを担当した「青い戦慄」の裏話を、ジョン・ハウスマンという人が書いている。

───スターとしてラッドも共演者の選択には口を出した。が、彼は極端に背が低かったので、共演男優を選ぶ基準はひとつしかなかった──背の高さである。共演候補者に初めて会って、彼の視線が相手の鎖骨から下へ行ったとしたら、彼は我々だけになったときにまずまちがいなくこう言うのだった。さっきの人はあまり適役じゃないね、誰が別の人を探してくれないか、と。(田口俊樹・訳)

「青い戦慄」は、戦争の英雄だった男(アラン・ラッド)が、ふたりの戦友と一緒に故郷へ帰ってくるところから物語が始まる。ひとりの戦友は頭に銃弾が残っており、ときどき錯乱することがある。戦友ふたりは昔のアパートに戻り、アラン・ラッドはひとりで妻が暮らすホテルに向かう。妻はホテルの庭に建つバンガロー(といっても何部屋もある)で、昼間からパーティを開き自堕落に暮らしていた。

その夜、夫婦は諍いをして、雨の中、アラン・ラッドは町を出ようとする。彼を車に乗せ、ひと目で好意を持つ美女がヴェロニカ・レイクである。彼女はブルー・ダリアというナイトクラブの経営者(彼はラッドの妻の不倫相手でもある)の妻で、夫から離れようと土砂降りの雨の中、車を走らせていたのだ。雨の夜のヴェロニカ・レイクは、この世の者ではないほど幻想的に美しく撮影されている。

───そういう意味では、ヴェロニカ・レイクが、彼にぴったりのサイズの女優だったのだが、自堕落な女房役というところに難点があって、彼女とまったく正反対のタイプというわけではなかったが、我々はドリス・ダウニングという、黒髪の美人女優を選んだ。彼女は優に半フィートはラッドよりも背が高かったので、ラッドは断乎として彼女を排斥しにかかったが、我々は、ふたりが一緒のシーンでは、必ず彼女を坐らせるか横たわらせるかすると言って彼を説き伏せた。(前出・同)

●感情描写や説明をせず目に見えるものだけを書く非情の文学

「青い戦慄」は人気絶頂だったアラン・ラッドが、再入隊するまでの3ヶ月で仕上げることが条件だった作品だ、とジョン・ハウスマンは書いている。そのために通常は何ヶ月もかけて練り上げるシナリオを、チャンドラーは短期間で書き上げることになった。半分ほどシナリオができあがった段階で撮影に入り、結末がわからないまま進めることになったのである。

そんな、いろいろな裏話を知ったうえで「青い戦慄」を見ると、面白い発見がある。たとえば、長距離バスで故郷の町に着いた三人は、バーに入りカウンターに坐る。別れるとき、アラン・ラッドだけが立ち上がる。他のふたりはアラン・ラッドに向かって坐ったまま「グッバイ」と言う。しかし、よく見るとアラン・ラッドと坐っているふたりの高さは頭ひとつも違わない。

妻役の女優(ドリス・ダウニング)と再会し抱き合うシーン、向かい合って話すシーンなど、妻より頭半分ほどアラン・ラッドの背が高くなっている。もちろん、ウエストショットからバストショットくらいのサイズで下半身は写っていない。たぶん踏み台に乗っていたのだろう。それに、妻が息子の死の真相を告白するシーンでは、彼女はソファに座ったままである。

もっとも、そんなことが気にならないほど「青い戦慄」はよくできた映画だ。ダシール・ハメットの小説を映画化した「マルタの鷹」「ガラスの鍵」、レイモンド・チャンドラーの小説を映画化した「三つ数えろ」、ジェームズ・M・ケインの「殺人保険」をチャンドラーとビリー・ワイルダーが脚色した「深夜の告白」(1944年)など、1940年代前半に集中してフィルムノアールの名作群が作られた。

ダシール・ハメットは、「血の収穫」(1929年)「マルタの鷹」(1930年)「ガラスの鍵」(1931年)と立て続けに長編を発表した。レイモンド・チャンドラーはハメットより年上だったが、小説を書き始めたのは45歳からで、長編「大いなる眠り」(1939年)を出したのは51歳のときだった。続けて「さらば愛しき女よ」(1940年)「高い窓」(1942年)「湖中の女」(1943年)を出版する。

小説を書き始めたのは遅かったが、チャンドラーの「さらば愛しき女よ」「湖中の女」は出版とほぼ同時に映画化が決定している。その後、ハリウッドと縁ができたからか、チャンドラーは映画会社に呼ばれて脚色をしたり、オリジナルのシナリオを書いたりする。1940年代前半、ハードボイルド系フィルムノアールが多いのは、チャンドラーの功績かもしれない。

ハメットの「マルタの鷹」はボギー版(1941年)が有名で、なぜ小説が出て10年以上も映画化されなかったのだろうと思っていたのだが、出版の翌年(1931年)に映画化されたバージョンがあるらしい。また、ジョージ・ラフト版「ガラスの鍵」(1935年)というのもある。本物のギャングだった伝説を持つ、ジョージ・ラフトの賭博師ネド・ボーモンなら見てみたい。

もっとも、アラン・ラッドとヴェロニカ・レイク版「ガラスの鍵」は、「青い戦慄」以上の面白さだ。賭博師ネド・ボーモン役としてアラン・ラッドは優男すぎる気がしたが、彼の最高の演技を見せネド・ボーモンを魅力的な人物に仕上げた。アラン・ラッドは、背が低くてもタフガイになれることを証明したのだ。もちろん、ヴェロニカ・レイクのセクシーさが花を添えている。

「ガラスの鍵」は「ハメットが自作の中で最も愛する非情の文学」とのことだが、実はハメット作品では最も読みにくい。名無しのコンチネンタル・オプが一人称で語る「血の収穫」、探偵サム・スペイドを中心に古典的な宝探しもののパターンで語られる「マルタの鷹」に比べると、主人公の言動だけを三人称で描写する「ガラスの鍵」は読者の感情移入を拒否するところがあり、何が起こっているのか理解するのもむずかしい。

「ハードボイルド小説」を「非情小説」と呼ぶが、これは感情描写や説明をしない「そこで起こっている目に見えるものだけを書く非情の文体」を指す。「ガラスの鍵」の文体は、キャメラアイのようだ。部屋の様子を描写し、人物の言葉と行動だけを書く。僕は何度か読もうとしたが、一度も読み通せなかった。映画化作品を見て面白さに感激し改めて挑戦したが挫折。こんな負け惜しみじみた思いを抱いた。

───これは、シナリオなんだ。詳細な情景描写とセリフと動きだけが書かれたシナリオだ。だから、ネド・ボーモンに血肉を与えたアラン・ラッドが魅力的に見える。彼の言葉のニュアンスや、表情や仕草がネドの内面を表す。感情を顕わにする。「ガラスの鍵」は、映像化されて初めて理解できる物語だったのだ。

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