[3228] 無傷なこころがどこにある?

投稿:  著者:  読了時間:37分(本文:約18,300文字)


《情報流通の壁は破壊したほうがよいのではないか》

■映画と夜と音楽と...[537]
 無傷なこころがどこにある?
 十河 進

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■映画と夜と音楽と...[537]
無傷なこころがどこにある?

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20120316140200.html >
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〈殺人者はバッヂをつけていた/激突/ブルース・ブラザース/殺人者たち/狼は天使の匂い/血槍富士/冬の華/地平線がぎらぎらっ〉

●無傷な心など昔からどこにもなかったのだ

O saisons, o chateaux
Quelle ame est sans defauts

季節よ 城よ
無傷なこころがどこにある
──鈴村和成訳「ランボー全集 個人新訳」(みすず書房)より

140年も昔、ランボーはそう唱った。無傷な心など、昔からどこにもなかったのだ。言い換えれば、昔からどんな心も何らかの傷を負っているのである。何も近代になって、自我や苦悩や心の傷が生まれたわけではない。心とは傷つく存在そのものを指すのではないか、そんなことを考えてしまう。傷つかない心などどこにもないし、生きていくことは心が傷つくことなのだ。

昨年の秋、鈴村和成さんが訳した「ランボー全集 個人新訳」を時間をかけて読んでいる(あるいは、なかなか読めなかった)間、香納諒一さんの新作「心に雹の降りしきる」(双葉社)を読んだので、ランボーのこの詩が心に残った。「季節よ 城よ」というフレーズは有名だが、それに続く新訳を改めて噛みしめた。「心に雹の降りしきる」は、登場人物全員が何らかの心の傷を持ち、それと折り合いを付けるように生きている物語だった。

香納諒一さんの小説が好きで、10年ほど前から読んでいた。最初に読んだのは、日本推理作家協会賞を受賞した「幻の女」である。ウィリアム・アイリッシュや五木寛之さんにも同じタイトルの小説があるけれど、香納諒一さんの「幻の女」もそれらに負けないハードボイルドの名作である。弁護士が、ひさしぶりに再会した昔の恋人の失踪の謎を追う物語だ。正統派ハードボイルドだから、もちろん一人称で語られる。

6年前、文藝春秋から出た「贄の夜会」が評判になり、ここ数年は上梓される香納作品も増え新作を楽しみにしていたところ、昨年9月17日に行われた「日本冒険小説協会30周年記念&内藤陳会長聖誕祭」で香納さんにお会いする機会があり、僕は「いつも愛読させていただいています」と挨拶した。そうしたら、「新作がすぐ出ますからお送りしましょう」と言われたのである。

一週間ほど後、「心に雹の降りしきる」が送られてきた。すぐに読んだ。最近、香納さんは警察小説に手を染めているからか、この小説の主人公も警察官だ。しかし、「血の冠」では青森県警の所轄署に勤務する経理課の警察官を主人公に据え、青森弁で物語を展開するという一筋縄ではいかない(もしかしたら、へそ曲がりかもしれない)香納諒一さんである。「警察小説ね」と思っていると、アレアレと意外な展開に驚く。

プロローグで登場する「おれ」は、「歩行者信号が点滅を始めているのに横断歩道を渡ろうとする老婆にクラクションを鳴らして睨みつけ」るのだが、その語り手が、やがて警察官だとわかる。その警察官は「若葉マークの車の前に強引に割り込み、走り出」すのである。その露悪的な一人称は、どこかいびつな心を感じさせる。苛立ち、鬱屈...、そんなものを抱え込んだ「おれ」を想像させた。

●最近の日本の悪徳警官ものは組織的な悪を描き出す

ミステリには、「悪徳警官もの」というジャンルがある。昔の翻訳ミステリなら、ウィリアム・P・マッギヴァーンが悪徳警官ものを得意としていた。「殺人のためのバッジ」「悪徳警官」などがある。トマス・ウォルシュにも「深夜の張り込み」という悪徳警官ものがある。日本の作家では結城昌治さんが早くから手を着けていて、「夜の終わる時」「裏切りの明日(「穽」を改題)」などが有名だ。

「深夜の張り込み」は、「殺人者はバッヂをつけていた」(1954年)として映画化された。デビューして間がないキム・ノヴァクがギャングの情婦役で、大金を奪ったギャングが情婦のところに立ち寄ると予想して三人の刑事が張り込む。その中のひとり(フレッド・マクマレイ)は、ギャングを射殺して大金を横取りしようとする。警察の手の内を知り尽くしているから、彼は裏をかき犯罪は成功しそうになる。

もっとも、最近の日本の悪徳警官ものは、かなり様子が違う。黒川博行さんの「悪果」の主人公の暴力団担当刑事など、警察官なのか暴力団員なのか判別できないほど、どっぷりその世界に浸かっている。賄賂やたかりに後ろめたさを感じてなどいない。暴力をふるい、汚い言葉を口にする。彼自身が犯罪者と同じ心理なのかもしれない。もっとも、そこまで徹底して描かれるとクライム・ノヴェル的に面白いのだが、現実の警察内部の腐敗を想像してしまう。

「心に雹の降りしきる」も、そんな悪徳警官を想像させるような導入部である。「おれ」は、金持ちの飲食店チェーン経営者である井狩宅を3年ぶりに訪れる。井狩の幼い娘は7年前に行方不明になり、未だに見付かっていない。「おれ」はとっくに殺されていると思っているが、井狩は諦めきれず何か手がかりがあると「おれ」に連絡してくる。「おれ」だけが警察の中で話を親身になって聞いてやるからだ。

井狩が「おれ」を呼んだのは、娘のものらしい古着がフリーマーケットで売られていたという情報を、私立探偵の梅崎が持ち込んだからだった。その探偵は井狩が出す報奨金目当てだと思った「おれ」は彼を連れ出し、人気のない場所で話を付けようとする。そこで探偵によって明らかにされるのは、一昨年、有力情報を井狩に提供して100万をせしめたヤツがいたことだ。私立探偵は小悪党らしい言動だが、対する「おれ」も完全に悪徳警官の言動である。

──「残念ながら、その男と理絵ちゃんとは、結局、繋がりませんでしたが、
有力な情報であったことにはちがいない。井狩さんは提供主に報奨金を支払っ
た。どうですか、今度は私と分配しませんか」
 おれは体を捻りざま、梅崎の頬を狙って拳を突き出した。そっぽをむいて話
を聞きながら、間合いだけは測っていたのだ。(「心に雹の降りしきる」より)

ほら、なかなかハードボイルドなシーンでしょう。読み始めて10ページ目で、このどんでん返し。さらに、ここで語られたことが、後半の伏線になっている。また、ここまでに登場した「おれ」「井狩」「梅崎」の三人も、どこか精神的ないびつさを感じさせる。「おれ」は妙に露悪的だし、「井狩」は精神的に病んでいるようにさえ見える。梅崎も汚い探偵商売に倦んでいるように、どこかなげやりだ。

「心に雹の降りしきる」を読み進めるうちに、僕はある読み方をするようになった。語り手は「おれ」だが、僕は彼が言ったこと、行ったことだけを客観的に想像しようとした。そうすると、「おれ」自身が読み手に持たせようとするイメージとは、別の姿が立ち上がってきた。そこにいるのは、かつて行方不明の少女を捜しきれなかったことを悔い、現在、事件に巻き込まれた可能性のある女性を救うために奔走する警察官だった。

彼は、自分自身を嫌っている。だから、語りが露悪的になる。しかし、彼は夫のDVから逃れているらしい母と娘に出逢い、警察官としての義務感からではなく、ただその母子が心配で親身になる。その後、彼自身は自分の行為を「一刻も早く、あの母子の前から消えてしまいたかった。惨めったらしい男には虫酸が走る。それが自分だとなれば、なおさらだ」と強がる。悪党ぶるのだ。

心に深い傷を持つ「おれ」の過去が明かされていくのと同時進行的に、彼が追う現在の殺人事件が解決に向かう。そして、彼自身を責め続けてきた未解決の失踪事件も真相が明らかになる。心の闇を抱えた「おれ」は、犯人を含めたすべての登場人物の心の闇を照射する存在である。深い心の闇を抱える人間だから、同じものを抱えている存在を映し出す鏡になれるのだ。

人はホンの些細なことで、あるいは他者のたったひと言で心が傷つく。誰が、どんな心の闇を抱えているのか、外から見たのではわからない。まさに心に雹が降りしきる中、「無傷なこころがどこにある」と嘆きたくなる。ちなみに、香納諒一さんの「心に雹の降りしきる」は、昨年末に発表になった「このミステリーがすごい」では9位に入っている。

●香納諒一作品の全点踏破をめざしたのだけれど...

「心に雹の降りしきる」を読み終えた段階で、僕は香納諒一さんの作品を10数冊ほど読んでいたのだが、ご本人にお会いしたこともあり、すべて読んでみようと思い立った。デビューして20年になる香納諒一さんだが、初期は寡作だったので長編が24作品ほど、短編集・連作集が10作品ほどである。旧作も文庫本でかなり入手できる。僕は、図書館も活用した。

ネットで検索した作品リストをプリントし、読み終えたものをマーカーで塗りつぶしていった。現在、未読作品は初期の長編一作と、いくつかの短編だけになった。そして、集中して香納作品を読む中で僕が気付いたのは、香納さんが相当な映画好きだということである。これは間違いない。もしかしたら、学生時代、映画制作に携わろうとしたか、携わったのではないか。そんな気がする。

これは僕の勝手な連想だが、処女長編「時よ夜の海に瞑れ」(「夜の海に瞑れ」に改題)の冒頭、主人公たち四人が乗る車が、尾行してきた車に踏切に押し出されかける場面で、スピルバーグの「激突」(1971年)を思い出した。一作目に登場した魅力的なヒットマン安本兄弟が主役の二作目「石の狩人」(「さらば狩人」に改題)では、表紙のイラストを見て二本の映画を思い浮かべた。

一本は、おふざけ映画の極北とでも言いたい「ブルース・ブラザース」(1980年)だ。ヒットマン(殺し屋)の安本兄弟は、兄が冷静で頭が切れクールであり、弟は大男の力持ちというキャラクター分担になっている。「石の狩人」では、弟がプロらしくない純情なところを見せて可愛い。ブルース・ブラザースとはちょっと違うが、僕は彼らを浮かべながら読んだ。

ただし、安本兄弟のプロフェッショナルぶりは、僕が連想したもう一本のドン・シーゲル監督版「殺人者たち」(1964年)の殺し屋に近い。背の高いリー・マーヴィンとやや小柄なクルー・ギャラガーの殺し屋コンビは、本当にキマっている。ブラックスーツにサングラス、消音器を付けた拳銃が確実に標的を射抜く。彼らのコンビネーションは素晴らしく、流れるような連携を見せる。

ちなみに「殺人者たち」は、後に大統領になるロナルド・レーガン最後の出演作ではなかったか。彼が演じたのは卑劣な男で、手下を捨て駒としか見ないボスである。レーガンの情婦なのにレーサー(ジョン・カサベテス)を誘惑し、強奪計画で運転手をやらせたうえ裏切るファム・ファタール役は、100万ドルの脚線美の「女刑事ペパー」ことアンジー・ディッキンソンだった。

●映画が嫌いな小説家はいないと思うが...

小説家は、みんな映画好きだと思う。ジョゼ・ジョバンニみたいに映画監督になった作家もいる。マイケル・クライトンは一時期自作の映画化作品を監督し、好評だったのに後には小説に徹した。村上龍さんは「だいじょうぶマイ・フレンド」(1983年)の評判がイマイチだったが、その後も何本か監督した。矢作俊彦さんは、元々は映画監督になるはずだった(監督作もある)。

好きな映画にオマージュを捧げるように、自作の中に映画のシーンを引用する作家もいる。僕はメモを取らないので記憶で書くしかないのだが、原りょう(注:療からヤマイダレをとった字)さんの私立探偵・沢崎シリーズ(直木賞受賞作「私が殺した少女」だと思う)に、沢崎がある人物を尾行して映画館に入る場面がある。その映画館は早稲田松竹だと思うのだけれど、もちろん作中に劇場名は出ない。

沢崎は尾行対象を見張りながら、スクリーンを描写する。そのスクリーンの描写を読み、ある映画のワンシーンが浮かんできて僕はニヤリとした。それは、通好みの知る人ぞ知る作品だったが、今では有名になった「狼は天使の匂い」(1972年)である。監督はルネ・クレマン。ジャン=ルイ・トランティニアンとロバート・ライアンが共演した。作者は、間違いなくあの映画が好きだったのだ。

香納諒一さんの作品では具体的な映画のタイトルが出てきたり、映画のワンシーンが描写されたりといったことはあまりない。渋いところでは、何作かに内田吐夢監督の「血槍富士」(1955年)のタイトルが出てきた。片岡千恵蔵主演の不条理時代劇(?)である。満州映画協会に渡り、終戦時に甘粕所長の服毒自殺に立ち会った内田吐夢監督は、戦後も長く中国に留まった。「血槍富士」は帰国第一作だ。

香納諒一さんの作品に、映画制作の現場にいて今は故郷に帰っている青年を主人公にした短編がある。そこに友人が、映画に出資しないかとやってくる。主人公は、まだ映画の夢が忘れられない。ところが、その友人は借金まみれで、悪い筋に追われている。主人公も巻き込まれ、友人を取り立ての連中に引き渡すか、借金を肩代わりするかというところに追い込まれる。

その短編で、友人を見付けた主人公に友人が「なんとかならねぇか」と言ったと思う。その短編を読んだとき、僕は「冬の華」(1978年)を思い浮かべた。「なんとかならねぇか」というセリフは、「冬の華」のプロローグとラスト近くで使われる。冒頭、組を裏切った男(池部良)は高倉健にそのセリフを言い、健さんは無言で刺す。刑務所に入った健さんは、男の娘に10数年間、金を送り続ける。

ラスト近く、健さんの若衆のひとり(寺田農)が組によかれと思って裏切り、それが明らかになって仲間たちに取り囲まれる。彼は「なんとか...ならねぇか」とつぶやく。「冬の華」を見ると、その言葉が長く残る。僕は香納さんの短編を読み、勝手に「冬の華」を連想しただけだが、それほど的外れではないのではないか、と思っている。

頬がほころんだのは、「夜空のむこう」という編集プロダクションや出版業界を舞台にした連作長編を読んだときだ。こんな文章が出てきた。
──このところ篠原は、新東宝の映画のはちゃめちゃさにはまり、片っ端からビデオで観ていた。『地平線がぎらぎらっ』『海女の化物屋敷』『女体桟橋』『憲兵と幽霊』『東京河童まつり』など、お伽の国のワンダーランドだ。

これは、たぶん香納さんのストレートな感想だと思う。ジェリー藤尾主演の「地平線がぎらぎらっ」(1961年)は、僕も見ていて凄く面白い映画だと思う。しかし、その他の映画は見たことがない。新東宝作品は子供の頃にけっこう見ていたけれど、タイトルに記憶がない。この文章を読んで、見たくなった。それにしても、新東宝のタイトルって凄いですよね。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

いつまでも寒いなあ、と思っていたら、3月半ば過ぎから少し暖かくなるらしい。しかし、そうなると花粉が増えそうだし、困ったモンです。僕は花粉が目にくるので、ひどくなると目が開けられない。ヘンな花粉防止メガネを掛けていると笑われるし...、困ったモンです。

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「2003年版 青息吐息編」350円+税
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「2005年版 暗雲低迷編」350円+税
「2006年版 臥薪嘗胆編」350円+税 各年度版を順次配信
< https://hon-to.jp/asp/ShowSeriesDetail.do;jsessionid=5B74240F5672207C2DF9991748732FCC?seriesId=B-MBJ-23510-8-113528X >

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■Otaku ワールドへようこそ![149]
ルネサンスの予感

GrowHair
< http://bn.dgcr.com/archives/20120316140100.html >
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定価2,200円の本を8,400円で買った。オンラインの書店で検索をかけるとどこもかしこも売り切れで、唯一あったのがアマゾンの中古。で、この値段。さすがに約4倍はひどい。迷ったけど、どうしても読みたかったので購入した。

その本とは、フランス・ヨハンソン(著)幾島幸子(翻訳)『メディチ・インパクト(Harvard business school press)』ランダムハウス講談社 (2005/11/26)。副題に「世界を変える発明・創造性イノベーションは、ここから生まれる!」とある。

転売で価格高騰と言えば、3月16日(金)をもって廃止になる特急日本海の特急券+寝台券などはさぞかしと思い、ヤフオクをのぞいてみると...。定価の2倍程度でやっと入札があるくらいで、それ以上高いのは誰も入札していない。大したことないではないか。もしかすると高騰のピークを過ぎてたのかもしれないけど。

●転売で商売するのは迷惑か

ぬをー、こんにゃろー、やりあがったなー、という思いは確かにある。けどそれは、うまい商売しやがってー、という「してやられた感」であって、なんか迷惑をこうむったという感覚ではない。その値段が法外だと思うなら、買わないことにするという選択肢はこっち側にあるわけだし。誰も買わなければ商売は不成功なわけだし。

実際、別のケースで買わなかったこともある。ボークスから個数限定でローゼンメイデンの真紅のスーパードルフィーが出たとき、非常に欲しかったけど、抽選で外れて入手できなかった。定価は10万円程度だったと思う。ヤフオクへ行って見てみると、24万円になっていた。さすがに手が出ない。けど、その値段でも買うって人はいたのかもしれない。いただろうなぁ。

はたして転売は悪なのか。東京都の「迷惑防止条例」にはそれを禁ずる条項が確かにある。けど、法律で禁じられてるから悪なのではなく、悪だからそれを禁じる法律を作るのであって、いま聞いているのは、その根拠である。法律があるから、では論理が逆で、答えになっていない。読む限り、迷惑っぽいのは、うろついたり人につきまとったりする点にあるみたいだけど、それは転売行為に付随する現象であって、転売行為そのものが悪であるということではないしなぁ。結局答えは法律には書いていない。

話はちょっとズレるけど、法律のことになったついでに言うと、軽犯罪法と迷惑防止条例は、意図を変えずに文章を書き直したほうがいいのではないかと思う。強盗や殺人みたいに悪であるのが言わなくても明らかなのはいいとして、建造物侵入罪みたいなやつは、保護法益まで条文に書いておくべきだ。

つまり、この手の法律は「かくかくしかじかの行為をしてはならない」と言うだけではなく「誰々が何々の被害を被らないよう保護する目的であって」と断り書きをつけておいてほしいのだ。そうでないと、実際に被害を被った者がいなくても、その行為をしたことをもって逮捕されかねない。何も悪いことをしていなくても、法律を文言通りに適用するだけで恣意的にほいほい逮捕できちゃうというのはまずい気がする。別件逮捕と疑わしいケースが実際あるし。

それと、文章がひどい。いかにも悪いことっぽく聞こえる言葉を選択しているけど、ニュートラルなニュアンスの言葉との意味の違いが分からない。たとえば「ひそんでいた」というのは単に「いた」のとどう違うのか。堂々といればいいのか。「うろついた」とは「往来した」とどう違うのか。結局被害が何であるのか、分からないのだ。「こじき」もちゃんと定義した上で、保護法益を明らかにしてほしいなぁ。ネットで乞食ができる「金くれ」というサイト、なかなかいいと思うぞぉ。

まあそれは置いといて。転売行為はなぜいけないのだろう。被害者はもともとの売り手だろうか。本来は売り手の懐に入るべき利益を転売者が横取りしたからいけない、とか。需要と供給のバランスするポイントで価格が決まるという自由競争の原理に立てば、もともとの売り手が価格設定をもっと高めても売れていた、ってことである。けど、列車の切符やコンサートの入場料は需要に応じてむやみに値段を上げるわけにもいかないだろう。

先ほどの本の例のように、べらぼうに値段が高くても買うって人がごく少数しかいないとしたら、最初っから価格設定を高めておいては売れ行きがひどいことになり、かえって損するであろう。だから、そのごく少数の層を狙った転売屋はうまくやったと言える。けど、もともとの売り手がそれをもって損をするわけではないので、被害と言いうるかどうか。

転売屋から買った側はどうかというと、買わないという選択肢があるという状況下において納得ずくで買うのであるから、被害にあったとは言えないような気がする。買いたいけど高くて買えなかった人だろうか。けど、それは需要と供給の均衡点で値段が決まった結果高くなったのだとしたら、あきらめるより仕方がないように思う。

買占めにより、値段がつり上がった場合はどうだろう。本来よりも高く買わざるをえなかったことをもって被害とするか。それなら、悪いのは転売ではなくて、買占めだよなぁ。ダフ屋は別に買占めてはいないしなぁ。

何の価値も付加していないのに差額で儲けるってとこが商業道徳にもとるとか。それなら土地だって絵画だって、投機目的のものはみんなそうだしなぁ。価値を付加しなくても、未来を予測したことをもって、外れた場合に失うリスクと引き換えに、当たった場合は収入を得る、それ自体はアリだよなぁ。寝かしとく時間が短いとダメなのかなぁ。

私が買った本に関してはどうかというと、転売者に対して多少複雑な気持ちを抱くものの、迷惑をこうむったという認識はまったくない。まぁ、本の転売に関しては誰も悪だとは言ってないか。

それよりも、この本、なんでそんなに欲しくなったんだっけ。

●読む前から面白いと確信があった

常々私が抱いている疑問と関係があるのだ。今の日本社会の特徴として、「システム化」と「情報流通のセグメンテーション化」があると思う。今までに何回か述べてきたので、定義等はこのへんを参照していただくことにして。
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この流れ自体は悪いとは言えず、むしろ、社会を円滑に効率よく運営し、問題の生起を低減する指向にしたがって改善を重ねていけば、そうなっていくのは必然であろう。情報をハンドリングするテクノロジーが社会の安定的運営にうまく活用されている。

だから、この流れを逆転させ、昔に回帰しようと提言したいわけではない。昔はよかったと年寄りっぽいノスタルジーに浸りたいわけではないのだ。何かを得れば何かを失うのは必然。惜しいにしても、相対的には重要度が低いとみられて捨てられるなら、それはそれでいい。

社会のありかたとしては、便利で安全なほうがいいに決まっている。テクノロジーが役立つなら大いに活用すればいい。けど、人間のありかたとしは、どうだったらいいのだろう。そこがあんまり問われないまま、社会システムがどんどん高度化していっている、そこがちょっと不安なのである。

人間はどうあるべきか。これはむずかしい。科学がどんなに発達して、宇宙の謎がひとつひとつ解けていったとしても、根源的な問いに対しては、答えのだいぶん手前までしかたどり着けないような気がする。われわれがなぜ存在するか、という問いに確たる答えが得られれば、そこからの論理的帰結として、どうあるべきかの答えに至るような気もするが。その問いはいっそう根源的だ。

山に登って、しかる後に降りてくるのであれば、それは無駄であり、最初っから登らなければよかったのではないか、というのは理屈としてはいちおう筋が通っている。それをつきつめれば、われわれは生まれて、生きて、しかる後に死ぬのであるから、それ全体は無駄かいな、ってことに。存在という概念を認識する主体がいなくなったら、存在という概念そのものもなくなってしまうのか。そもそも宇宙がハナっから存在していなければ、悩まなくて済む。「宇宙が存在する」とはただの認識にすぎないのであって、実際には存在しないのかもしれない。

19世紀のイギリスの哲学者・経済学者であるジョン・スチュアート・ミルは著書『功利主義』で「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い」と述べている。感じとしては、その通りかな、とも思うが、本当にそうかどうか、解き明かされてはいないのだ。

で、なんとなく、人のありかたとしては、幸せになることを目指せばいいんじゃね? みたいなところが、当たり障りのない共通認識っぽくなってる感じがするけど、それってミルの言葉と反対なんじゃないの? とか思うわけだ。

21世紀の人類さんよ、痩せた豚とか、不満足な愚者とか、そういったもんになってないかい?

社会がシステム化していくという方向性そのものは、まあいいと思う。社会があれば事件や事故は起きる。それほどひどいものではなくても、混乱、不便、非効率、無駄、不快、混雑、困窮、不公平、けんか、いさかい、ののしりあいなど、よく起きる。

起きたら、それに応じて個別に解決を図らなきゃならないのは、まあ仕方ないにしても、それだけで終わってしまっては進歩がなく、同じ問題が同じ頻度で起き続ける。その点、システマティックに解決しようという方向性はすばらしい。問題の根本的なところに対処を施し、起きないか、せめて起きづらくなるような仕組みを考え、それを実現して、運用し、社会全体に浸透させよう、と。問題の生起そのものを根本的になんとかできる。

ただ、システムがあまりにすばらしすぎて、結果として、人間がシステムの下位に位置づけられるようになっていくとなると、どうだろう。人とはシステムに従属する交換可能な部品であり、仕事とはマニュアルにしたがってシステムを回していくだけのルーチンワークである、ってなことになっては、ちょっと、と思う。

なんとなく、そんなふうになってきてないかい? システムが一番偉いなら、機械みたいなやつがその次に偉い。システムに従属することを嬉々として受け入れ、きちっとマニュアルにしたがってルーチンワークをこなし、ミスが少なく、仕事の効率がよい。なんか適応しちゃってて、創造性を発揮する場がどこにもなくても、あんまり苦になってなかったりして。

そういう社会のあり方にうまく適応できなくて、創造意欲満々な人とか、自分探しに彷徨してる人とか、下の下ってことになっちゃいますわな。その中間に、疑問に感じつつもしぶしぶルーチンワークをこなして日々をやり過ごしている大多数のしょぼい人々がいる、ってことになるのかな?

それプラス、例外的に、創造的な営みが、ちゃんと仕事になっている人。システムを構築する人は、システムよりも上位であって、神様みたいに偉い。で、神様とシステムと適応者まではいいとして、それ以下の衆生な人々は煮え切らない思いにくすぶってたりするわけで。ぷすぷすぷすぷす。

だいたいアレだ、細部まで目が届いてものごとをきちっとこなしてる人間がゆるゆるな人間を馬鹿にしてるけどよぉ、機械みたく生きてることがそんなに偉いんかいっ。創造的に生きようなんてちょっとでも考えると、まるで悪いことした罰みたく、自分の位置が下がっていくんだよなぁ。創造的な指向が商業主義と結びついて成功してるやつはいいけどよぉ、商売にならないアートやってたりすると、ただシステム回してるだけの下っ端メンタリティのやつらからでさえ、さらに下にみられるんだよなぁ。「使えないやつ」みたいな烙印を押された日にゃ、いつリストラの憂き目にあうかもしれないから、結局疑問をみずから打ち消して、デキる人のお芝居を演じ続けなくてはならんのだなぁ。ぷすぷすぷすぷす。

システムカースト。上位から、1.システムを構築する神様 2.システムそれ自体 3.システムを回して嬉々としている適応者 4.そのフリをしている不満足な大多数 5.アーティストあるいは社会脱落者。もう革命っきゃないんじゃないかと。

別にシステムを破壊してしまえというんではなく、それはそれとして回していくのはいい。ただ、人間が下位に置かれなくたっていいんじゃないかと。機械っぽく生きるのではなく人間っぽく生きることがもうちょっと肯定されるような意識の転換があってもいいかな、と。人間は人間らしく、文化や芸術を愛し、形而上的な思索に耽り、あるいは自然を愛(め)で、祭りに興じ、生きる喜びをもっと謳歌すればいいんじゃないかと。で、ルネサンスなんではないかと。人間回復。

そんな思いがあって、いま、オレ的には、ルネサンスがどういうふうにして起きたのかに興味がわいてきている。そんなこと言ってるけど、高校時代、世界史は万年赤点だった。かくかくしかじかの時代でした、なんてここで講釈を述べたら、ぜーったいにボロが出るに決まっている。

今は、基礎の基礎から知識を獲得し、とりあえずは高校生レベルぐらいには追いつきたいかな、と。で、分かりやすそうなものをぼちぼち読み始めているわけで。阪急コミュニケーションズの雑誌『pen』のNo.305で「ルネサンスとは何か」の特集が組まれていて、大いに勉強になった。

この手のものを探していて、行きあたったのが件の『メディチ・インパクト』というわけである。ハーバード大学ビジネススクールの教科書ってとこが、また、いい。ぜーったいに面白いに決まっている。

以前に会社の研修でビジネス英語の講座を受けたとき、この本ではないが、ハーバードビジネススクールの教科書を使った。起業家が実際に直面した困難な状況の事例集という形式で、読む分量が多くて大変ではあった。それを通じて英語が上達したかどうかは、どっちでもいいことで、起業家精神というものを学ぶことができたのが大きな収穫だった。ビジネスというとドライなイメージがあったけど、意外とクリエイティブで面白いじゃん。独創的なアイデアが、困難を切り抜ける鍵となる。

『メディチ・インパクト』にも類似の香りを感じ、ぜひ読まなきゃと思ったわけである。

●独創的なアイデアは異質な文化の交差点から生まれる

この本には、ルネサンスがなぜ起きたかについては、実は何も書いてなかった。そのことは、本の始めのほうで断っている。あれれ? 考えてみりゃ歴史書じゃなくてビジネス書だもんね。だが、ルネサンスのエッセンスが書いてあった。

銀行の経営で財をなしたメディチ家は、幅広い分野の文化人や芸術家を保護した。おかげで、フィレンツェには彫刻家や画家、詩人、哲学者、科学者、金融業者、建築家など、多種多様な人々が集結した。彼らは互いを隔てる文化や学問の障壁を取り払って交流し、互いに学びあった。そこから斬新なアイデアが次々に生まれ、ルネサンスを花開かせた。

ルネサンスについて書いているのは、およそこのくらい。著者の考えの中核をなす概念を「メディチ効果」と名付けた由来がそこにあるという。異なる分野や学問、文化が交差する場では、既存の概念をさまざまに組み合わせて新しい非凡なアイデアを数多く生み出すことができる。この本では、ルネサンスにたとえうる成功事例をさまざまな方面から挙げて、メディチ効果の引き出し方を説いている。

「異なる分野の交差点ではアイデアが爆発的に生まれる」。多くの事例から、その通りだと検証できるだけではなく、実践的な教訓がたくさん得られる。政治や経営にも創造性は必要であり、固定観念を打破する斬新なアイデアが困難から救い出し、成功をもたらす。

今までの進歩の方向性に沿った改良・改善は方向的イノベーションといい、誰もが予測しうる。今までなかった斬新な領域の開拓は交差的イノベーションといい、他の追随を許さない独壇場をもたらしてくれる。交差的イノベーションを起こすようなアイデアを得るにはどうしたらいいか。その方法論にまで落とし込んでいる。

アイデアの出し方にとどまらず、形にする方法論まで教えてくれている。分野の交差点において、アイデアはたくさん湧いてくる。アイデア出しの段階では質より量が大事。だけど、それを実行に移すとき、アイデアが多い分、失敗が多いのも必然。失敗をどう捉えるか。多くのヒットを生み出した人をみると、実は空振りも多かったりする。失敗しないための方法論が成功へと導いたわけではないことがよく分かる。

この本は、いかなる分野であれ、革新的なアイデアを得て、それを実現することで成功を収めたいと思う人に向けて書かれたものであり、その論の骨子は、「画期的なアイデアは異なる分野や文化が出会う交差点で生まれる」というものである。それはなぜかを説明し、どうすればよいかを指南する。科学、建築、音楽など、広い分野から成功事例を引き、共通点を抽出することで、非常に面白い数々の教訓が得られる。その本筋の論をもって、本書は良書であると絶賛して終わってもよいのだが、実は私が一番衝撃を受けたのは、その手前のところである。

現代社会の特徴として、交差点が増加しているというのである。ルネサンス以降は学問が細分化し、世界はより小さく特殊な区画に分断されていったという。ところが、今日、進むところまで進んだ分断化は反対方向に転じつつあり、その影響はあらゆる分野にみてとれる、というのである。異分野間の結びつきが増大している世界的傾向の裏付けとして、別の文献を引用し、「今日では、政治、文化、科学技術、金融、国家安全保障、エコロジーといった分野を隔てていた従来の境界がかつてないほど消えつつある」と述べている。

これは、私の感覚と真っ向から対立する。私は、情報のセグメンテーション化がますます進む傾向にあり、あらゆるジャンルがどんどん蛸ツボ化しているように感じていた。けど、それって日本での話。もしかして、これもガラパゴス化? ケータイの仕様が日本だけで独自の進化を遂げ、世界の向いてるほうとは別のほうへ行っちゃった、それくらいなら別にいい。けど、世界の意識が、革新的なアイデアを生み出しやすい方向へ向いているのに、日本だけ、ますます内にこもり、異質な考え方が接触しあうのを嫌い、区画化による平穏を指向しているのだとしたら......。

まあ、船全体が沈んでいきますわな。日本、沈没。そういえば、日本は世界から「新興衰退国」とか揶揄されておりますな。

先ほど、人間回復のためには、システムを破壊までする必要はないと述べた。けど、情報流通のセグメンテーション化のほうは、なんとかすべきなのではないか。情報流通の壁は破壊したほうがよいのではないか。

この壁は、誰か権力者が強制力をもって立てたものではなく、人々の知恵から自然にできてきたものであるから、むやみやたらと壊しては不都合や危険が生じる恐れはある。韓国が好きな人と嫌いな人とで議論を戦わせてもポジティブな成果を生み出しそうな感じは微塵もせず、エネルギーの浪費と不快な後味に終わるであろう。それよりも、同じ考えの者どうしだけでコミュニケーションをとり、自分の側が常識と優越の側、相手の側が非常識と劣等の側というラベル付けをお互いにやっていれば、平和でよい。

京都の洛外に魑魅魍魎が跋扈していたように、壁の外には魔物やら変態やらがうじゃうじゃいるかもしれない。やたら出て行くのは危険である。えてしてその考えは妄想に近く、実際ありがちなのはその逆である。壁の外へ出てみたら、能力が優れた人や考えが卓抜な人がいっぱいいて、がーんと打ちのめされ、自分が今までいかに井の中の蛙であったを思い知らされる。ダメじゃん、オレ。よく知らない外の世界をテキトーに嘲笑してたころのほうが、楽だったなぁ。

そういう痛みは、確かにある。けど、全体が沈むよりはマシだと思えば、壊す方向性を目指してみるのがいいのではないかなぁ、なんて思うわけである。それに、優れた者と出会ってがーんと打ちのめされるのって、慣れてくるとけっこう快感になったりするもんですよ。

そういうわけで、『メディチ・インパクト』はたくさんのことを学ぶことができ、たくさんのことを想起させてくれる本であった。読み終わった後でも買った値段を後悔しない。得たものの大きさ、受けた衝撃、自分の内部への浸透波及を考えれば、そうとう得した気さえする。超オススメと言いたいところだけど、入手困難です。私の読み古しでよければ、どなたか33,600円で買いません?

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。

去年の3月、ドイツからメールが来た。今から日本に行くからね、と。典型的な観光地はどうでもいいから、アングラでダークなとこ、教えて、と。こういう英文を書いてよこす人は、きっと刺青してるに違いないと思えば案の定。オリヴィア。新大久保の韓国料理屋でサンナクチ(蛸の踊り食い)を一緒に食べた。東京に滞在中の金曜日、地震に遭い、予定を一日早めて土曜にそそくさと帰っていった。一年ぶりにメールすると返事が来て、元気だった。東京、なつかしい、また行きたい、と。

イタリアのビアンカは夏コミに時期を合わせて毎年日本にやってくる。去年は、私がセーラー服を着て、あちこちご案内した。そしたら最近メールが来て、今年の夏用に学ランを注文したからね、と。何かにつけ、対抗意識を燃やしたがる人なんである。今年の夏はセーラー服着たおっさんと学ラン着たイタリア人女性が連れ立って東京を歩くことになるのか。去年でさえ、2ちゃんでスレが立ち、小田急線で見ただの新宿で見ただの書かれてたというのに。楽しみだ。

3月11日(日)は、アイドルの卵たちによる練習ライブが三田であった。3回目ともなると、余裕が感じられる。危なげなく見ていられる。余計な緊張が取れてきたのは慣れのおかげもあるけど、厳しい練習をくぐり抜けて実力をつけてきたという自信の裏打ちもあるようで。私は例によってセーラー服姿で激写。1,800枚撮った。

それまでも一か月以上にわたって、毎週日曜に下北沢の音楽スタジオへ行って彼女らを撮っていた。で、実にいいのが撮れている。権利関係うんぬんがあって、公開できないのがもどかしい。もし出版したら木村伊兵衛写真賞ぐらい取れちゃうんじゃないかしら。過去の例に負けず劣らず面白く撮れてると思うんだけどなぁ。

裏切って、勝手に出版しちゃおっかなぁ。「0 + 0 i。複素平面において実軸と虚軸の交差する点。リアル女子中高生をニセ女子高生が撮る」みたいな感じで。斬新じゃないかな? って、冗談ですよん。

次回ライブは4月1日(日)、西川口Heartsにて。時間は未定。
ここをチェックしていただけると。
< http://www.ness2000.com/event.html >

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編集後記(03/16)

●息苦しいのはいやだ。身動きが不自由な狭さはいやだ。暗いのはいやだ。わたしにとってのワースト3が総動員されてここにある(途中で4番目のワーストも)。映画「リミット」で描かれるのは、気も狂わんばかりの極限状態である。主人公は地中に埋められた木の棺の中に閉じ込められているのだ。あー、いやだいやだ、なんでそんな設定の映画を見なければならないのか。あー、考えだけで呼吸困難になりそうだ。だが、こわいもの見たさに負けた。パニック陥りそうだから、主人公に感情移入しないことにした(そんな心配不要だったけど)。なぜ彼がこんな状態に置かれたのか、その理由は唯一外界とつながる携帯電話の交信から次第に判明してくる。徹底的なワンシチェーション。電話の会話だけで状況説明する。回想という手段さえとらない。じつに潔い。果たして彼はここから脱出できるのか。退屈するひまのない、しかし意外にハラハラドキドキ感の薄い約90分だった。この物語を成立させるために、携帯電話、ライター、懐中電灯、鉛筆、酒、ナイフ、ケミカルライトなどのアイテムも棺に入れておくという制作側の配慮も分かるけど、やっぱりご都合主義だ(わざわざ蛇まで登場させる。これもものすごくいやな状態だったが)。身代金を得るためにここまで手の込んだ無駄なしかけをする必要があるのか、普通の監禁でいいのではないか、そもそもこの設定は無理筋ではないか。見終わってからそう思う。オチを知ると、あー、見なければよかった......。(柴田)
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●昨夜、確定申告の書類を送付した。区の郵便局が閉まるのは21時半。駆け込んだのは21時すぎ。消印をくっきりはっきり押してもらうように頼む。ああ疲れた。毎年、この時期になるとe-Taxでの確定申告に切り替えようと考え、しばらくすると、一年に一度のために電子証明書を発行してもらったり、ICカードリードライタを買って置いておくのもなぁ、いざという時に壊れたら困るしなぁ、早めに書類作ったらいいだけじゃないかと思い直す。経費伝票と通帳を毎月入力しておけば、あとは経理ソフトが損益計算書や貸借対照表、月別売上仕入集計表を出してくれるので、転記するだけなのだ。e-Taxでの申告用書類作成は、去年やおととしのデータから住所類を吸い上げてくれるし、計算もしてくれるので、とても楽ちんなのだ。だから余裕を持って取り組めばいいのだ、そうなのだ。11月ぐらいにいったん集計しておくように去年と今年の自分に言っておこう。ケチケチして、欲しい設備に投資しなかった自分を叱っているよ、今日の私は。せこいもんだから、iTunesカードでさえセールで買って経費節減。そろそろ早いMacに買い替えたいなぁなんて思いつつ、ぎりぎりまで買い替えない。で、考えていた以上に納税。こんなことなら設備投資しておけば良かった。資料ももっと買っておけば良かった。そしてきっと、また新しいMacやソフトウェアのバージョンアップに躊躇するのよね......。(hammer.mule)
< http://www.yodobashi.com/iTunes-Card-3%2C000%E5%86%86%E5%88%86%C3%972%E6%9E%9A-%E3%81%8A%E8%B2%B7%E3%81%84%E5%BE%97%E3%82%BB%E3%83%83%E3%83%88/pd/200000000100030388/ >
通販で買ったことはないけど。
< http://alfalfalfa.com/archives/5303170.html >
子どものころに読んだ衝撃的で印象深い本って?
< http://gahalog.2chblog.jp/archives/52081244.html >
この帯考えた人天才
< http://alfalfalfa.com/archives/5303349.html >
フィフィ......
< http://katuru2ch.blog12.fc2.com/blog-entry-2727.html >
ご当地お菓子最強決定戦。半分ぐらいしか食べたことない
< http://blog.livedoor.jp/himasoku123/archives/51703688.html >
きのこたけのこの里和解!!