ショート・ストーリーのKUNI[114]今夜はカレーよ
── ヤマシタクニコ ──

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今日のママはカメレオンだった。

ぼくたちのママは料理があまり得意じゃない。だけど、カレーだけは、とびっきりおいしい。

「今夜はカレーよ」
ママがそう言うとぼくたちーーぼくと双子の弟、サトルーーはとびあがって喜ぶ。早く食べたくて、わくわくして、できあがるまで待っていられない。タイムマシンでカレーのできあがった瞬間にジャンプしたいくらいだ。

でも、ママはいつも言う。
「これからカレーを作るから、その間、絶対のぞかないでね」
そして、キッチンのドアをぴったり閉めてしまう。真夏だろうといつだろうと。そう言われたら、だれだって、かえって見たくなるものだ。いや、ちがう。そうじゃない。

ぼくたちはドアのすき間から漂ってくるにおいに誘われ、いつのまにか、自分でも気づかないうちにキッチンの前にいる。そして、すきまからそっとのぞかずにはいられないのだ。

「見える?」
「見えるよ、ほら」
「ああ・・・ほんとだ」

ママはぼくたちが見ているとも知らず、調理台に向かい、すり鉢になにかを入れてごりごりとつぶしていた。ママは、最初、悲しそうだった。眉根にしわを寄せ、口元はかたく結び、目を見開いて。ごりごり、ごりごり。その手にどんどん力が加わるようだ。




「いつもと同じだ」
「ママが変身し始めた!」

ママの目はどんどん大きくふくれあがり、飛び出してくる。背は盛り上がり、顔つきがけわしくなり、息づかいが荒くなり、結んでいた口元はいつのまにかだらんとたれさがる。

その口からちろちろと舌の先がのぞく。と思うと、その舌がひゅっ! とのびて、1メートルほども離れたところにあったスプーンを一瞬でつかんだ。ぼくたちはおどろき、声をあげないようにするのがひと苦労だった。

「今日のママは......」
「カメレオン?!」

そのとき、緑色の皮膚に包まれた片目をこちらに向け、もう片方の目はすり鉢に向けたまま、ママがにたりと笑った、ような気がした。ぼくたちはぎゃーっと叫びーーそれでも必死で声を殺すことは忘れなかったーードアの前から転がるように走り去った。

それから数時間後、できあがったカレーはものすごくおいしかった。スプーンで口に運ぶひとさじひとさじがおいしさのかたまりだった。ぼくたちふたりは顔を見合わせ、うなずきあった。

「ママのカレーは最高だな!」
「カメレオンのママでもな!」
もちろん、そんなことは口には出さなかったけど。

最初にママのカレー作りをのぞいたときのことを、今でも覚えている。ぼくたちは今より小さかった。だから、ママは「ぜったいに、ぜったいに、このドアをあけては、だめよ」と、何度もくりかえし言った。

もちろんぼくたちは約束した。
そして、約束を破った。
「サトル」
「なんだい、マモル」
「見たいなあ」
「うん、見たい」

そっとドアに近づき、すき間からのぞくと、ママは今日と同じように、調理台の上でスパイスと格闘していた。ぼくたちはただ、大好きなママがカレーを作っているところが見たかっただけだった。ママは、ごりごりと音をさせながら、もともと眉が下がり気味で、そのせいで悲しげに見える顔をいっそう悲しげに見せていた。

そのうち、ママはどんどん、われを忘れてカレー作りに没入していった。目は焦点を結ばず、体は硬直し始めた。大量の汗をかいているようだ。ぼくたちは、ママの具合が悪くなったのだと思った。

キッチンに入っていって、ママ、どうしたの?! と言おうとして、でも、決してのぞいてはいけないと言われたことを思い出し、ものすごく困って、困って、どうしていいかわからなくなった。

ぼくもサトルも、ドアの前でへたりこんでしくしくと涙を流し始めたとき、ママの背中がめきめきと盛り上がって翼がはえ、口がとがって、体中が羽根でおおわれはじめた。すり鉢の前にいるママはみるみる大きな一羽の鳥となり、背中の翼はいまにも飛んでいきそうにはばたきを始め、キッチンの空気を揺らせた。本当なんだ。

だって、そのとき起こった風で天井のライトがゆうらゆうら揺れていたし、いまでも、その様子が思い浮かぶのだから! もうぼくたちはただ口をぽかんと開け、見ているだけだった。

そして、その大きな鳥がつくったカレーは、とてもおいしかった。

それが最初。そして、それから何度も、ぼくとサトルはキッチンの前で、あのどきどきするものを見てきた。声を殺し、身を硬くして、ほんの数ミリのドアのすき間から、見えるものを見てきた。

あるときはママは巨大なハンミョウになった。別のあるときはカブトガニだった。うそじゃない。ほんとうなんだ。ママは硬い外骨格に包まれたからだでのたうつようにスパイスを挽き、スープを煮立て、フライパンを揺すり、ぼくたちは恐怖と期待でふるえあがり、ドアの前に釘付けになったまま微動だにできずそれを見ていた。

そして数時間後、なにごともなかったかのようにドアが開き、ママが疲れ果てた顔で言うのだ。
「さあ、カレーができたわ」
ぼくたちは歓声をあげる。すばらしい時間のはじまり。

ある日、サトルが言った。
「ママには、こいびとがいるんだ」
「こいびと?」
サトルはうなずいた。
「このあいだ、ママがそのひとと一緒にいるところを見たんだ」
「どうして、こいびととわかるんだ」
「そんなの、わかるよ。だれにだって」
「ふうん」

サトルによると、そのひとはママと同じスーパーに勤めている。野菜の仕入れ担当でベジタさんと呼ばれている。背はあまり高くないが、がっしりしていて声が大きい。

「別に......こいびとがいたっていいんじゃないか?」
「もちろんいいんだけど、ママはベジタさんといるときは、なんだか違う顔なんだ」
「違う顔?」
「うん」
サトルは何を言いたいのだろうと思った。

また別の日、サトルが言った。
「今日、ママがベジタさんと並んで歩いてるところを見た」
「で?」
「ママはとても楽しそうだった」
「楽しそうならいいじゃないか」

そういって、ぼくははっとした。おととい、ママのカレーを食べたとき、なんだか少しちがうような気がしたのだ。なんといえばいいのか、そう、パンチが足りない、ていうか。

さらにぼくは思い出した。あるときママに聞いたことがあった。
「どうしてママのカレーはおいしいの?」
「さあ? 気持ちが入っているからじゃないのかしら」

気持ち。
そうか。気持ち、なんだ。

ママはカレーをつくらなくなった。キッチンにこもり、決してのぞかないでと言うこともなくなった。悪い予感があたったと思った。ベジタさんのせいだ。そうとしか考えられない。

「ママがベジタさんのバイクに乗ってた。二人乗りしてたんだ」
ベジタさんは仕事に行くときもどこに行くのでもバイクに乗る。バイク好きなのだ。
「ママはベジタさんにしがみついて、とても楽しそうだった。笑ってた」
サトルが言うのをぼくは黙って聞いているだけだ。ぼくたち子どもにわかるわけがない。

そう。ぼくたちにはわからない。ぼくたちがもっと小さかったころ。パパが生きていたころ。パパが突然死んで、ママがぼくたちと残されたとき、ママがどんな思いをしてきたか。知っているのはママがいつも悲しげな顔をしていたこと。パパがいたころはあまり作らなかったカレーを、なぜか時々つくるようになったこと。そして、少しずつカレー作りの腕をあげてきたこと。

「ママのカレーが食べたいなあ」
「ぼくも」
「しばらく食べてないし」
ぼくたちはたまりかねて、頼んでみた。
「そう? そんなに言うならつくってみようか」

ママはほほえんで言った。そういえば最近のママはおだやかにほほえんでいる日が多い。

できあがったカレーはおそろしくまずいものだった。それは食べてみるまでもなくわかっていた。ぼくたちはドアのすきまからいつものように見ていたが、ママはついに、鳥にもカメレオンにもハンミョウにも変身しなかったから。ママは、ただのおばさんにみえた。

ぼくたちはママが好きだった。でも、それ以上にママの作ったカレーが大好きだった。ママのカレーはおいしいなんてものじゃなかった。わくわく、ぞくぞくして、やがて食べ終わるときがくると思うと悲しくなるほどだった。どんな詩人だってママのカレーの味を表現しつくすことはできないだろう。

ある日突然たくさんの人がやってきて、ママのカレーがノーベル賞に決まったと言っても、ぼくたちはおどろかなかっただろう。ママのカレーは、誰が何と言おうと、最高だった。だけど、ママは、ただのママなのだ。ああ、なんだか涙が出る。

そんなに深く考えていたわけじゃない。だけど、ぼくたちふたりの結論は同じところにいきついた。ぼくとサトルはある晩、ロープを持って外に出た。そして、ベジタさんがいつも早朝にバイクで通る道にそれを張っておいた。

ぼくたちは現場を見たわけではない。だれも見ていなかった。なのに、バイクに乗ったベジタさんがロープにひっかかり、空にまいあがり、それがきれいな弧を描きながらスローモーションフィルムみたいに落ちてきて、路面にたたきつけられる場面を何人もの人が見てきたように話した。

打ちどころが悪くてベジタさんはまもなく死んだ。そのことをぼくたちが知ったのはママの口からだったか、それともテレビのニュースだったのか。
「警察では何者かが故意にロープを張ったとみて捜査を進めています」

ママはぼくたちの前では泣かなかった。ただ、なにかがこわれたみたいで、あまりものを言わなくなった。ぼくたちはしんぼう強く待った。

ふた月が過ぎたある日、ママが言った。
「今夜はカレーよ」
ぼくたちはうなずき、待ちに待った日がきたと思った。
「作ってるところは絶対に見ないでね」

いつもと同じだ! ぼくたちの期待がいやがうえにも高まる。だから、いつものように、ぼくとサトルは約束を破ってドアの前のすきまからママを見守った。

ママは調理台に何種類ものスパイスを入れたすり鉢を置き、ごりごりとすり始めた。以前と同じく、下がり気味の眉のせいで悲しげに見える以外、ほとんど無表情で。でも、その手が少しずつ早くなり、ママのたましいは次第に別の世界に向かい始める。

息づかいが荒くなり、腕から肩にかけての筋肉が硬くなっているのがTシャツの上からでもわかる。そうだ、ママ、その調子だ。ぼくたちが目をこらして見ていると、がくっ! とママの首が揺れて肩から何かが盛り上がり、天井に向かって成長していった。

みるみるそれが雄大な翼へと変わっていくかに思えたとき、ママがふとわれに返ったように目をまたたかせた。その目から涙がはらはらとこぼれ、腕の動きが止まり、すると翼はしぼみかけた。ママ! だめだ。がんばるんだ! ぼくたちは声に出さず、祈り続けた。それが通じたか、ママはまた手を動かし始め、翼は張りを取り戻した。

そして、ママの体は分厚い皮膚でおおわれ、唇は鋭い歯をあわせもつくちばしになり、いつのまにかキッチンには一匹の翼竜がいた。その翼竜は丸い大きな目から静かに涙を流しながら、いつまでもスパイスを挽いていた。

何時間か後、髪を乱し、やつれたママがキッチンから出てきた。
「カレーができたわ」

ママのカレーはやはり最高だった。以前と比べると少し味が変わったようにも思うが、そのうちママも勘を取り戻すだろう。ぼくたちはママのカレーが大好きだ。ママのカレーのためなら、ぼくたちは何だってするのだ。

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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「スターウォーズ」のアナキン役で出ていたジェイク・ロイドの現在の写真を見てちょっとびっくり。先頃亡くなったデイビー・ジョーンズの晩年の写真もかなりびっくりしたけど。ジュリーも太るし、人間は変わるんだなあ。ひとごとじゃないぞと言われそうだけど。