ユーレカの日々[10]ぼくらの超能力/まつむらまきお

投稿:  著者:  読了時間:8分(本文:約3,700文字)


iPhoneやiPadを使っていると、ふと、魔法のようだ、と思うことがある。一枚の板がカメラになり、本になり、通信機になり、メモになる。遠くにいる知人の動向を知り、明日の天気を予報する。CMじゃないが、まるで魔法か、SFの世界のようだ。

SFと言えば子どものころ、超能力というのに憧れた。ぼくが子どもの頃見ていたマンガといえば手塚治虫や石ノ森章太郎、そして藤子不二雄。

人の考えが読めたり、口に出さず会話ができるテレパシー。そのものに触れずに物を動かすサイコキネシス。瞬間移動テレポート。予知能力プレコグニション。透視能力クレヤボヤンス。どれも超能力のオンパレードだ。

マンガの中だけではない。テレビではユリ・ゲラーという超能力者がスプーンを曲げ、日本中の小学生がマネをして親に叱られた。考えてみればあの時代は魔法と現実がずっと混沌とした時代だった。

最近はSFよりもファンタジーの方が流行りだが、そこで描かれていることに大差はない。普通の人間の限界を超える能力の数々。

限界を超える能力といっても、スポーツモノのヒーローに対しては憧れは感じなかった。白土三平の忍者モノや、タイガーマスク、巨人の星といったスポーツモノでは、厳しい訓練が付き物だ。しかも、そうやって訓練してヒーロー的に強くなって相手に勝っても、とても辛そうで、痛そう。そういうのは嫌だ。

超能力っていうのは、「楽」というのが基本にある。身体を動かさず、モノを動かしたり、自分が移動したり。相手の行動や言葉に惑わされず考えがわかったり、壁を壊したりしなくても向こうが見える。どれも、他の手段でそれをするよりずーっと楽そう。怠け者であるぼくにとって、超能力というのは理想の能力だ。

昔のマンガはおおらかで、超能力というのはある日突然目覚めたり、誰かによって目覚めさせられたり、与えられたりするものだった。子どもたちはみんな、自分にその日が訪れるのを心待ちにしていた。

でも、そういうビッグサプライズなんていうものが訪れることはない、ということを、成長するにつれ、だんだんと理解していく。

そうしてなんとか大人になっても、夢想癖は治らず、SFや超能力や魔法のことを考え続けていた。そして、ある日、ふと、気がついた。

超能力者が居るのだ。身の回りに居るのだ。いや、自分もいつのまにか、超能力を身につけているのに気がついてしまったのだ。

それは、未来を予知する能力だ。




この仕事は失敗する、と直感する瞬間がある。この仕事はうまくいく、と確信する瞬間がある。なぜそう思えるのかはわからない。ある瞬間に、ボーダーを超えた、ということがわかるのだ。

そういえば、先生たち、先輩たちはよく、そういうことを言っていた。そこまでいけば大丈夫。そのままじゃ失敗するぞ。自分も歳をとるにつれ、そういうことがわかるようになってきているのに気がついたのだ。

なぜ、そんな実感があるのだろう?いつ、そんな事を感じるんだろう??

よくよく考えてみると、自分は日常的に、もっとその予知能力を使っていることに気がつく。

たとえば、水の入ったグラスを手放せば、どういうことが起きるのか、ぼくは知っている。石鹸で濡れた手でそのグラスを持っているのであれば、かなりの確率でグラスは落ち、床は水浸しになる。それはまだ起きていないことだ。起きていないことなのに、どうなるのかを知っている。

旅行の計画をたて、飛行機を予約する。その時期なら旅行に行けると思うから、そうする。まだ完成していないマンションを、一生かけて払わなければならないような金額で購入する。35年間の分割なら、自分の収入で払えると思うから、購入をする。

無謀なことは計画しない。できることを計画し、そのほとんどは、その通りになる。

もちろん、この予知能力は完璧ではない。だから予知ではなく、予想、予測と言われる。しかし、実際の未来と相当な近似値で当たるのだ。突発的で予想できなかったことが目立つから、未来は予知できないような気がしているが、実際は我々は毎日毎日、相当高い確率で明日や来週や、来年のことを予知し、トラブルを回避し、行動している。

予知能力が高い人がいる。低い人がいる。たとえば子どもは、その行動の結果がまったく予知できないから、怪我をしたり、失敗をする。大人はかなりの確率で正確に予知できるから、あまり怪我や失敗をしない。

また、大人の中でも、先を読むのが得意で有利に行動できる人と、目先のことしか見えず、不利な行動しかできない人がいる。

この差はどこから生まれるのだろう?

子どもの頃、学生の頃、なぜ勉強をしなくてはいけないのか、ずーっとそれが疑問だった。元素記号や数学の公式、歴史の年号をなぜ覚えなければならないのか、学生の頃はその意味がわからなかった。

勉強の過程で、それぞれ自分の専門分野を見つけ、専門家になれば、その学習は無駄ではない。しかし、専門にしなかった勉強は無駄ではないのか? 元素記号や微積分を社会に出てから一度も使っていない。これらの勉強は無駄だったのか?

ぼくが子供の頃は「勉強しないと偉い人になれない」なんて言われてきた。そんな面倒な人になりたいとは思わなかったけど、なんとなく、そうするものだと思って勉強をしてきた。でも、大人になって、ようやくその理由がわかった。

勉強をする目的は、予知能力、超能力を身につけるためなのだ。

公式や年号を覚えていることにはほとんど意味はない。今やクラウドやGoogleが脳の記憶領域の一部として、憶えていないことの不利さを補ってくれる。覚えることが目的ではない。覚えることで、脳を鍛え、予知能力を身につけることが目的なのだ。

一つの行動がどんな波紋をよぶのか、社会システムや科学が人をどう変えるのか、人間はどう行動する動物なのかを歴史から知る。手を離せばグラスは100%落ちる、ということを知る。偶然に見える現象に理由があることを知る。数学や物理から、自然というものを理解し、それに対処できることを知る。

世界というものは偶然ではなく、あらゆる事象には理由がある。因果関係が存在する。小学校から大学卒業まで、16年かけて学ぶことは、一言でいえばそう言うことだ。無駄に思える暗記や数学は、その情報が役に立つかどうかではなく、論理的な思考に基づく未来予知ができるようになるためのトレーニングなのだ。

言うまでもなく、予知能力が高まれば、生きるのが楽になる。安全になる。楽しくなる。現代の社会は人類の予知の積み重ねの結果、できあがっている。当然個人でも、予知能力が強い人は、より有利に人生を送ることができる。なんだ、大人たち、ちゃんとそう説明してくれれば、もっと真面目に勉強したのに!!

そう気がついて、勉強したがらないうちの子どもたちに、この話をしてみた。最初はなるほどと聞いていたようだが、最近は「その話、もう何度も聞いたし〜」とあまり相手にしてくれない。なんということだ、彼女たちは超能力が欲しくないのだろうか?

まぁ、考えてみれば自分もそうだった。そもそも若い頃は、予知能力が未熟だ。「勉強しないと予知能力が身につかないぞ」と大人から言われても、自分の間違った未来予知に従ってギターをかき鳴らしたり、夜中にバイクで走ったりしてしまう。まぁそれでも、イヤイヤながらやった勉強のおかげで、この歳まで無事生き延びる程度の予知能力は身につけることが出来た。

じゃあ、大人のいう事をちゃんと聞いて勉学に勤しんだ人の超能力はどうかというと、必ずしも勉強の出来と、生き方の上手さは一致しないようだ。筋トレの達人であっても、実戦経験がなければその筋肉を使いこなすことができないように、勉強だけで予知能力が使いこなせるわけではない、ということだろう。

はたして、こんな理屈が本当に成り立つのかどうかわからないが、あらゆる経験や勉強はその内容にかかわらず、自分の予知能力を育む。そう考えれば、過去勉強したけど役に立っていないように思えることや、あまりしたくない経験すら、超能力のための訓練だと思うことで、自分が成長した実感にできる。

そんなことを考えながらこのテキストを書いている。ぼくの予知能力によれば、明日の水曜日には、一万人の人のところにこのコラムが届けられ、そのうちの何人かは実際に読んでくれる。ぼくの思考がテレパシーとして、何人かの人に届けられる。これもまた、超能力だ。

それが誰かの役に立つのか、おもしろがってくれるのか。残念ながらぼくにはまだ、そこまでの予知能力はないようだ。

【まつむら まきお/まんが家、イラストレーター・成安造形大学准教授】
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iMacが壊れたので、急遽買い換えるはめに。強制的にLIONに移行。予想以上に快適だが、古い事務系アプリがことごとく動かず、思わぬ出費がかさむかさむ。とほほ。