映画と夜と音楽と...[540]聖なる酒場へのレクイエム/十河 進

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〈現金(げんなま)に手を出すな/穴/勝負(かた)をつけろ/いぬ/ギャング/サムライ/仁義/影の軍隊/リスボン特急/ラ・スクムーン/冒険者たち/ボルサリーノ/殺(や)られる〉


●チェルノブイリ原発事故から数カ月たった1986年の夏

1986年の夏は、ひどく暑かった。僕は、クーラーのない自分の部屋に帰るよりは、涼しい酒場にいた方がマシという言い訳に、自分でも素直に納得した。その頃の僕には、どんなことでも飲む理由になったのだ。僕は、毎日、自己弁護をしながら槇原の店に居座っていた。ある作家が書いているように、酒飲みはどんな理由をつけてでも酒を飲むのである。

槇原の店は新宿の十二社通りにあり、明け方まで開いていた。夏の早い夜明けがやってきていくらか涼しくなった頃、僕は誰もいない道をフラフラと歩いた。その頃の僕は、自己憐憫にとらわれていたのかもしれない。そんな風に酔っぱらって、ときどき自分でも意識しないまま「ちくしょう、ちくしょう」と何かを罵っていた。たまに出会う新聞配達の少年に、気味悪そうな視線を向けられたこともあった。

自室にたどり着き、ベッドに倒れ込むようにして眠り、気が付くと窓からの熱気にあぶられていた。びっしりと肌に浮き上がった汗が体からアルコールを抜くのか、ひどい状態で目覚めた記憶はあまりない。あの頃は、まだ充分に若かったのだ。しかし、起きあがった後、また一日を生きていかねばならないのか、とため息をつく。そんな毎日だった。

僕がその頃、毎日のように通っていた槇原の店の名前は、「マルセイユ」といった。「あの港町は、ギャングたちの天下だったんだ。抗争が続いてね、ろくでもない奴らがいっぱい死んでいる...。フレンチ・コネクションと言われる、麻薬の中継地だったしね」と、槇原は名前の由来を訊ねた僕に答えるともなくつぶやいた。




「日本でいえば、神戸みたいなものかい」と、そのとき僕は答えた。意外なことに、槇原はじっと悲しそうな目で僕を見た。その頃、神戸の大きなヤクザ組織がふたつに割れ、まさに血で血を洗う抗争が起こっていた。あの時ほど、ヤクザの組長たちが堂々とテレビに出たことはなかっただろう。どちらも自分たちの方に理があるのだ、とテレビのワイドショーで喋っていた。

槇原の店の壁には、フランスのフィルム・ノアールのスチル写真やポスターが、きちんと額に入れられてかかっていた。ドアにかかっていたのは、大きな「ラ・スクムーン」のポスターだった。ジャン=ポール・ベルモンドが椅子に座っているシーンだ。この後、彼は座ったままの抜き撃ちでボスを倒し、マルセイユ一のギャングにのし上がる。

その他には、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の「いぬ」「ギャング」「サムライ」「仁義」「影の軍隊」「リスボン特急」、ジャック・ベッケル監督の「現金(げんなま)に手を出すな」「穴」、それにジャン・ベッケル監督の「勝負(かた)をつけろ」などのスチルがあり、マルセイユの暗黒街を舞台にした「ボルサリーノ」のポスターが正面の壁を飾っていた。

50年代の作品もあったが、中心は60年代の映画だった。したがって、ジャン・ポール・ベルモンド、アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ、ミッシェル・コンスタンタン、イブ・モンタン、フランソワ・ペリエ、セルジュ・レジアーニといった連中に見つめられながら、僕は酔っぱらうことになった。

僕が槇原の店に通うようになったのは、ある夜、新宿で飲んでフラフラと十二社通りを自宅のある中野坂上に向かって歩き始めた時、ふと覗き込んだ路地にあった「マルセイユ」というクラシックなネオンが目に飛び込んできたからだった。昔風のショットバーで、無骨なドアが気に入った。ドアの上のネオン以外は何の飾りもなかった。古い洋風の二階屋で、一階を改造してバーにしていた。後に知ったのだが、槇原はひとりでその二階に住んでいた。

僕は、ドアの横の壁にあった船窓のような丸い小窓から中を覗いてみた。タングステンライトの赤い光が、ほどよい明るさで店内を充たしていた。大きな一枚板のカウンターがあり、詰めれば10人は座れそうだったが、そんな風に客が座ることがかつてあったとは思えなかった。フロアには4人掛けの椅子とテーブルがあり、奥には5、6人座れるボックスシートがあった。カウンターの中に、初老と呼ぶにはまだ早そうな男がいた。

男は白いシャツに英国風のチェックのベストを身に着け、黒いズボンを穿いていた。タイはしていなかったし、白いシャツも両袖をまくり上げていた。白いものが混じる長めの髪をオールバックにし、口ひげとあごひげを蓄えていた。その手はせっせと、休みなくグラスを洗っていた。僕は、イギリス映画で見たスコットランドの田舎町にある、古いパブの主のようなバーテンダーを思い出した。

客は、もう誰もいなかった。僕は店内を見渡し、壁のリノ・ヴァンチュラと目が合った。アラン・ドロンと共演した「冒険者たち」のヴァンチュラだった。飲み足りなかった僕は、ドアを開けて顔を覗かせ「まだやっているかい」と訊いた。カウンターの男が振り向いて、無愛想な声で「やってます」と答えた。僕は酔っぱらい特有のフラフラとした足取りで、ドアからふたつめのカウンター席に腰を下ろした。一見の客にとっては、無難な位置である。

気が付くと、小さな音でジャズ・ナンバーが流れていた。アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが演奏する「殺(や)られる」(1959年)のテーマだった。当時、ジャズ・メッセンジャーズのメンバーだったテナー奏者のベニー・ゴルソンがスコアを書いた曲だ。モノクロームの夜のシーンが記憶の底から浮かび上がってきた。アート・ブレイキーのドラムがリズムを刻み、その音楽は酒場の雰囲気をある色に染めていた。

男が「何にしますか」と訊いた。僕は男の後ろの棚に整然と並べられている酒を、端から端まで見渡した。その当時、洋酒がそれだけ揃っているバーは珍しかった。シングルモルト、バーボン、ライといったウィスキーから各種のスピリッツ、カクテル用の甘い酒も揃っている。ブランデーもグラッパまで並んでいた。レモンハートやアブサンといった強い酒があったのは、当時、そんなタイトルのマンガが流行っていたからかもしれない。

しばらく観察した後、僕は「ワイルド・ターキー」と答え、男は8年もののボトルを取り出した。僕は何も言わなかった。その頃の僕には、8年ものさえ身に過ぎた酒だった。男は黙って僕の前にコースターを置き、「飲み方は?」とほとんど口を開かずに言った。「ストレート・ノーチェイサー」と、僕は答えた。男が、ジロリと睨んだ。

「もう、こんな時間です。それに、かなり過ごされているようだ。これから帰って寝るのなら、そんな飲み方はやめておいた方がいいですよ。起きてから後悔します。セロニアス・モンクの曲名を言うのなら別ですが、酒場の注文にそんな気取った言い方はやめた方がよいと思います。通ぶっている素人、と見られます」と、男は諭すような口調で言った。

「後悔なら、毎日、している。それに、他でこんな注文をしたことはない。一度言ってみたかったんだけど、言う機会がなくてね。ここなら何となく聞いてもらえそうな気がしたんだ。まさか、いきなり説教されるとは思わなかった」僕は、反発したのかもしれない。自分でも、少しムキになった口調だなと感じていた。

「説教と取るか、忠告と受け取るかは、本人次第ですね」と、男が答えた。よく見ると、男は50過ぎ、やせぎすで、頬の落ちた顔はあごがとがって見えた。そのとがったあごを隠すために、ひげを蓄えているのかもしれない。逆三角形の輪郭の顔に、太い眉と鋭い目と筋の通った鼻、薄い唇が配置されている。顔のしわの多さが目立った。

僕が、じっと長く見つめたせいか、しばらくして男はニヤリと笑った。その瞬間、気むずかしそうな顔が消滅し、好々爺と言ってもいいような愛嬌のある笑顔が現れた。瞳にも暖かさがあふれた。その落差に、僕は驚いた。

「おそらく、あなたは今日最後の客です。ちょっとお節介を焼いてみたくなったんですよ」と、男はストレートグラスをコースターの上に置き、ワイルド・ターキーを注いだ。それから、もうひとつコースターを出し、そこにチェイサーを置いた。背の高い細いグラスだった。よく冷えた水なのだろう、グラスに細かい水滴が付いた。僕は笑った。ストレートグラスを持ってワイルド・ターキーを呷り、チェイサーのグラスを取り上げ、水を口に含んだ。男も笑った。

「さっき、その窓から覗いていましたね」
「ええ」
「何が気に入って、この店で飲もうと思ったのですか?」
「壁のリノ・ヴァンチュラと、目が合ったものだから」
「どのヴァンチュラですか?」
「『冒険者たち』の...」
「ああ、あれですか。私は『ギャング』のヴァンチュラが好きです」

男があごで示した方を見た。そこには「ギャング」の中で、車からオートマチックの拳銃を突き出すリノ・ヴァンチュラがいた。口ひげを生やし、トレンチコートを着ている。死を賭して汚名を晴らす、老ギャングのギュを演じた。あれも、パリとマルセイユが舞台の映画だった。

「ギュは、なぜあんな馬鹿な死に方をしたのだろうか」
「本当に......、馬鹿な死に方だと思いますか?」
「馬鹿という言葉には、いろんなニュアンスがある。あの馬鹿が...と愛情を込めて言う場合だってある」

「ギュは、自分が密告者だと疑われることに耐えられなかった。そのために、死を賭して汚名を雪ごうとした。確かに馬鹿な生き方ですが、馬鹿な死に方ではない」
「しかし、ブロ警視がわざと記者たちの前に手帖を落とさなければ、彼の汚名は晴れないままだったかもしれない」

男は、ニッと擬音が入るような笑みを浮かべた。それから、「なかなか、お詳しいようですね」と言いながら僕のグラスに再びワイルド・ターキーを注いだ。「これは、店のおごりです。ギュやブロ警視という名前が出たのは、久しぶりですから...。みんな『冒険者たち』のローランやマヌーやレティシアの話ばかりする。ヴァンチュラは『ギャング』の老ギャング役がとてもいいのですが...」

「でも、これで明日の朝、後悔することになりそうだ」
「後悔しない酔っぱらいは、ただの飲んべえです。あやまちを犯し、後悔することで、人は生きていけるし、成長するのです。あやまちを犯さない酒飲み、後悔しない酔っぱらいというものは、存在しません。それは......概念矛盾です」

僕たちは、同時に笑った。男は槇原隆一と名乗り、僕も名乗った。その夜以来、僕は「マルセイユ」に通うことになった......

●震災と原発事故によって中断してしまった「赤い死が降る日」

ここ5年の間に、長編ミステリを三編書いた。いや、2007年から2009年にかけて3作書き、その後、いろいろ手直しをしていたというのが正しい。三人称で書いたものを、一人称に変えてリライトしたものもある。手直ししたデータを昔なじみの編集プロダクション社長のNさんに預けていたところ、紆余曲折があって2月中旬からアップストアの「グリフォン書店」でダウンロードできるようになった。

グリフォン書店では、胡桃沢耕史さんの直木賞受賞作「黒パン俘虜記」と並んでいるのは光栄だけど、何だか申し訳ないような、おこがましいような気持ちもある。他に志茂田景樹さんの作品もずいぶん並んでいる。「極道の妻たち」で有名な家田荘子さんの旧作もある。僕の小説は「電子書籍オリジナル」ということで紙版は出ていないが、本の形で出せればそれに越したことはない。

その3作は、乱歩賞に応募し三次選考まで残ったものを書き直した。今年の2月初めに大沢在昌さんにお会いしたとき、そんな経過をお話したら「乱歩賞の選考委員は推理作家協会の理事長と連動しているので...、降りちゃったからなあ」と言われた。3年ほど前からは東野圭吾さんが理事長になり、乱歩賞の選考委員もつとめている。だから3年連続で乱歩賞に応募した後、ここ2年は何も出していない。

もっとも、暇を見付けては少しずつ新しいものを書いていた。「黄色い玩具の鳥」という3年目に応募した作品の主人公をシリーズにしたくなって、「赤い死が降る日」というタイトルで次作を書き始めた。昔からタイトルに色を入れるのが好きなのだ。「黄色い玩具の鳥」は1985年の話で、「赤い死が降る日」は一年後の1986年の夏を回想する物語である。1986年の春、最も衝撃的だったのはチェルノブイリ原発事故だった。

チェルノブイリ原発事故は4月26日に起こるが、当時のソ連政府はほとんど情報を出さなかった。日本では4月29日に天皇在位60年が祝われ、5月4日から6日までは東京サミットが開催された。サッチャー、レーガン、ミッテラン、中曽根たちはソ連非難を控え、ゴルバチョフに原発事故の情報公開を強く求めた。もっとも、日本国民は5月8日に来日したチャールズ皇太子とダイアナ王妃に熱狂し、チェルノブイリへの関心は薄れた。

そんな時代を背景にして、僕は「赤い死が降る日」という小説を書き始めたのだけれど、その冒頭に「『赤死病』が国じゅうを荒らすのも、すでに久しいこととなった。これほど助かるすべもない、おそろしい疫病もこれまでにはないことだった」というエドガー・アラン・ポーの「赤死病の仮面」の冒頭の一文を引用した。それは放射能汚染の隠喩のつもりだったし、「赤い死」という言葉に「共産主義国家がもたらす死」の意味を込めた(別に反共主義者ではないけれど)。

その小説は昨年の3月11日段階で、400字詰原稿用紙にして350枚まで進んでいたのだが、震災後に福島原発事故が起こり、その後、誰もが放射能汚染に詳しくなったので書き進められなくなった。僕が住む地域が関東のホットスポットとして有名になり、近所の公園の芝生から高濃度放射能値が計測されたことも、フィクションの世界で放射能汚染を題材にする気を失わせた。

小説を書くために僕はチェルノブイリ原発事故と放射能汚染について、かなり詳しく調べた。チェルノブイリ事故がどのように起こったのか何冊もの本を読んだし、放射能物質の飛散状況やセシウムなどの物質についても様々な資料に当たった。当時の厚生省が事故の半年後にようやく、ヨーロッパ全域から輸入される食肉やチーズなど16品目を対象に検疫所で放射能検査を始めたことも調べた。

だが、僕が調べて書いたことなど、今や誰もが知る常識になってしまったのだ。それに福島原発事故の後で、そんなテーマの小説を書く気にはなれなかった。現実が僕の想像を遙かに超えてしまったのだ。あるいは、震災後の雰囲気に僕も感染したのかもしれない。元々、日本的無常観は僕を強く捉えていたけれど、「どうせ死ぬんだ」という気分に深く沈み込むことになった。

「赤い死が降る日」は書き続けられることなく一年が過ぎた。先日、読み返してみたが、チェルノブイリ原発事故の影響を隠蔽しようとする日本政府や農林水産省、厚生省の策謀という内容が陳腐になったのを実感した。食物汚染は26年前も重視されなかったけれど、サハリンの天然ガス採掘権の見返りとしてウクライナの穀物を輸入しようとする日本の商社と官僚たちの癒着、そこにソ連末期の権力闘争が絡むのもステレオタイプ過ぎて書かなくてよかったかもしれない。

しかし、僕は「赤い死が降る日」の冒頭を思いを込めて書いたのだ。主人公が、酒場「マルセイユ」の常連になるエピソードである。その酒場のモデルがあるのかと訊かれると、僕はムニャムニャと返事を濁す。どちらにしろ、僕の空想の中の酒場は葬るしかない。だから、「聖なる酒場へのレクイエム」として、冒頭部分をアレンジしてみた。60年代フレンチ・フィルムノアールに囲まれて酒を飲みたい、というのが僕の切なる願いなのだ。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com < http://twitter.com/sogo1951 >

田中光二さんが一族の墓前で自殺を図ったという記事が出て驚愕した。「オリンポスの果実」を書いた父親の田中英光は、師匠である太宰治の墓前で自殺した。「我が赴くは蒼き大地」「大いなる逃亡」「異星の人」「南十字戦線」など、田中光二さんの新刊を待ちかねて読んだ頃を思い出した。

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< https://hon-to.jp/asp/ShowSeriesDetail.do;jsessionid=5B74240F5672207C2DF9991748732FCC?seriesId=B-MBJ-23510-8-113528X >